ドイツの旅(2005年5月)   


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平成17年5月に久しぶりにドイツ、ベルギー、イギリスを駆け足で回って来た。
今回の訪独はベルリンを中心にその周辺だけであったが、私にとってベルリンは37年前に初めて訪問して以来2度目であったが、かの地は昭和43年の夏に初めて海外に旅立つ機会があって訪ねた印象深い地であった。

当時の日本は千里万博の開催前々年で、好景気に沸いており海外渡航が自由化された当初の頃で、為替レートは1ドル360円時代で、ドルの持ち出しは1人500ドル(18万円)と制限されていた時代であった。

私がドイツに出かけたのは、財団法人・世界青少年交流協会が日本全国から参加者を募り選抜して日独友好親善青少年代表団として派遣していたが、その代表団の引率役員として参加したのであった。参加者は特待生であった高校生一人と大学生及び25歳までの青年男女であった。団員全員が胸のポケットに日の丸をつけた制服姿で羽田空港からチャーター便でドイツに旅立ち、フランクフルトで乗り継ぎ初めて外国の地を踏んだのがベルリンであった。この派遣団の目的の一つには緊迫する国境の実物を青年達に見せることにあったようだ。

当時のドイツは東西に分割されていた時代で、その中で、かつてのドイツの首都ベルリンは、小さな市域を1961年8月に突然築かれた「ベルリンの壁」で仕切られ、周囲のすべてが東ドイツの国境に接する陸の孤島であった。
ベルリンの壁は粗末なコンクリート製の塀のようなもので仕切られ、壁の近くに東独側が展望できるデッキが設置されていたが、そこから覗くと4〜500メートルの無人地帯が帯状に設けられており、機関銃を持った兵士が監視する見張り台が等間隔に設けられており緊迫した「国境」が直ぐ目の前にあった。
国境を実際に見たことのない私にとって、緊迫感に満ちた実に「異様なもの」に感じられ、感無量の思いでであったことを今でも鮮明に覚えている。
西ベルリン側の塀のあちらこちらに十字架があり、花が手向けられている箇所があったが、いずれも東側から越境しようとして東側の国境警備兵に射殺された人のメモリアルであった。

ベルリンの壁は高さ3メールくらいの塀によって仕切られているだけだから、そんない高くないデッキに登るだけで東側を見ることができた。歴史的建造物はほとんど東ベルリンにあり、その反動もあったのだろうか、西から東に向けて派手なネオンサインや大変モダンな建造物を壁際に並べて、古い建物しかない東ベルリンに見せびらかすような、幼い感じの宣伝をしていた。西ベルリンは当時の西側のショーウインドウであったのである。

私が訪ねた時は壁が出来てから7年目であったが、外国人旅行者は厳しい制限付きながら東ベルリンに入ることが許されていた。旅行者はバスで国境線にある検問所でバスの中は勿論、バスの床下まで覗ける鏡を使ってかなり厳しいチェックを受けた後に入国するのだが、完全武装をした兵隊に囲まれると経験したことのない緊張感でからだが固くなったのを覚えている。

当時は、厳しい思想的対立が続く中で西欧諸国間は緊迫しており、私たちがベルリンを出てフランクフルト・アム・マイン滞在中に隣国のチェコ・スロバキアにソ連軍が戦車で侵攻し、一日でチェコを制圧した事件が勃発した。
当時のチェコは、ドブチェックが「人間の顔をもった社会主義」を標榜し、ソ連と一線を画した民主化路線を国民の圧倒的な支持の下に進めていたが、この民主化の流れに危機感を持ったソ連がこれを阻止すべく突然チェコに戦車で侵攻し、一日で占拠した歴史的な日に出くわしたのである。実物の国境を知らない日本人にとって、陸続きの国なるが故に起きた隣国による侵攻事件は、そのすぐ近くに身を置いていることを含め当時の私にとっては大変な強烈な印象に残る事件であった。
当時のドイツ人は、仕事をしようともせずソ連軍戦車の侵攻をテレビの生放送を必死の面持ちで見ていたことを覚えている。これが世に言われる「プラハの春」が力で抑え込まれた事件である。

冷戦がこのような厳しい思想的対立と占領政策の思惑のもとに、壁を境に向き合っていた東西ドイツが東欧諸国の社会主義政権凋落によって遂に1989年11月9日の夜、東ドイツ側が旅行自由化の発表をした際に、実施日時が決まっていたのを発表しなかったために、報道を聞いた東西ドイツ市民が手に手にハンマーなどを持ち壁際に集る騒ぎとなり、一挙に崩壊することになったのである。

歓喜に包まれた東西ドイツ人が、ハンマーでブランデンブルグ門周辺の壁を打ち砕く劇的な情景をテレビはリアルタイムで全世界に向け放映していた。
この流れを受けて1989年12月3日に先代のブッシュ大統領と・ソ連のゴルバチョフ氏がマルタで会談を行い冷戦終結宣言がなされたのであるが、この「マルタ会談」を受けて1990年10月3日に東西ドイツが正式に統一されたのであった。
今回の訪独のささやかな目的は、その後の東側がどのようになっているのか直接自分の目で視てみたいとの思いであった。

私のベルリン再訪を強く勧めてくださったのは以前から大変懇意にさせていただいていたMBSベルリン支局長の岸本文利氏であるが、彼のご好意で彼自身がハンドルを握ってくださりブランデンブルグ州の奥深くポーランド国境近くまで視察することができたのは私にとって貴重な機会であった。

まず、ベルリン市内の旧東ドイツ側も同じようなものであったが、少しベルリン市内を離れ郊外に行くとアウトバーン沿いの施設や民家が廃屋となり荒れ放題のまま放置されているのが目についた。市内ではブランデンブルグ門の直ぐ近くの旧東ドイツ国会の建物が、アスベストを多用しているので解体が難しいとの理由で放置され廃屋になっていたのも異様な感じであった。
狭い土地にひしめき合っている日本人からみれば「もったいない」と感じたが、この辺りにも東西ドイツ統合の後遺症が残っているのを感じた。話を聞いてみると東側と西側とではインフラ整備に歴然たる差があり、誰も手をつけないとのことであった。
さすがに歴史的建造物は保存のための工事を至るところで進められているが、目抜き通りのウンター・デン・リンデンを通り過ぎると、急に田舎に来た感じがしたことは驚きであった。

訪独に際して、それなりにドイツの国情をリサーチしてみたが、シュレーダー首相率いる社会民主党(SPD)は支持率の低下に歯止めがかからず、昨年2月にシュレスウィヒ・ホルシュタイン州における州議会選挙で敗北を喫した。元来、同州はSPDの牙城であったのだが、この地区での敗北を機にSPDの党首を辞任している。本年5月22日に行われた西部最大の州、ノルトライン・ウエストファーレン州における選挙でも敗北を喫し起死回生のため来年9月に施行される連邦議会選挙を今秋に前倒し実施することを画策中だそうだ。
こんな流れのなかで、税収不足からくる財政赤字と緊縮財政の中で、12,6%に達する異常な失業率が象徴するように、ドイツの国内情勢は厳しさを加えているようだ。失業者が520万人を超えているようだが、その内訳を調べてみると旧西側は10,4%、東側が20,5%で失業者の数も東西の格差は歴然である。経済成長率も2003年度はマイナス0,2%を記録しているなど、国内情勢は波乱含みといえそうだ。
シュレーダー氏はSPDで2期目であるが、それまでのドイツはキリスト教民主同盟(CDU)が長年にわたり政権を担当してきた歴史があり、今秋の連邦議会選挙の結果がどうでるのか、興味が尽きない。
特に西欧諸国は「EU」として、従来にはなかった新しい国家形態として歩み始めているが、フランス及びオランダがEU憲法草案の批准を問う国民投票の結果、かなりの差で否決されたニュースが日本でも大きく報道されていたが、ドイツは議会での批准だったために簡単に可決しているが、シュレーダー首相は失業率の増加などの内政のつまずきを、シラク大統領との連携による外交政策での成果を売り物にしていただけに政権継続はかなり難しいのではないかとの見方が広まっている。

そんなドイツを駆け足で巡ったが、道路網の整備状況は抜群で、高速道路はすべて無料で、対抗6車線の素晴らしいアウトバーンは速度制限解除の部分が長く続き、両脇に連綿と続く森を突き進むドライブは快適であった。
日本との比較をすれば国土面積は94%位でやや小さいが、人口は8、250万人で、山のない国だけに可住面積が多く、素晴らしい緑が居住空間を取り巻いており、環境としては大変住みやすいのではないだろうか。
緑が多く、インフレ率が低いドイツは旅行者にとっても快適な国だと感じた。

元々、ベルリン周辺は余り観光客が訪れる地域ではなさそうだが、今回の訪問では主として「負の遺産」とも言うべき第2次世界大戦時代のナチスドイツのユダヤ人抹殺の痕跡や追悼施設を主に視て回った。

ユダヤ人を対象とした強制収用所跡を視察したが、建物はほとんど撤去され、きれいに整備されていたが、その面積の広大さには驚いた。
ここではアウシュビッツのような大量殺戮は行われなかったそうだが、従来の施設の一部はそのまま残されていた。その中で目を見張ったのは生体解剖に使われた白タイル造りの2台のベッドがそのまま残されていたことで、その地下は死体の収納場所で、それを搬出するための手押し車がそのまま残されていた。
一方、ベルリンのブランデンブルグ門のすぐ横には、ごく最近完成したホロコーストメモリアルが広い場所を用いて造られていた。
この場所はベルリンの中心地の目抜き通りに面する場所で、その施設の地下には資料館が設けられていた。
 きれいに整備された強制収容所跡

考えてみると戦後60年になる今日でも、こんな形で過去の忌まわしい歴史に目を閉ざさず、真摯に取り組んでいる姿には考えさせられるものがあった。

 (ベルリンのホロコーストメモリアル)


日本の終戦に至る経過のなかで、日本人にとって忘れることができない「ポツダム宣言」があるが、今回の旅でポツダムを訪れ、ポツダム会談が行われた部屋を見てきた。
建物はベルリン郊外にある最後のドイツ帝国の皇太子の館である「チェチェリエーンホフ宮殿」の1階にあり、棟続きの建物は現在ホテルとして使われていた。

今回の訪独を機に「ポツダム宣言」を少し調べてみてが、日本にとって無条件降伏を受け入れることになった宣言は実に不明確な経緯で発せられたことを知った。
ドイツはポツダム宣言が発せられる前の45年4月30日に、ヒットラーがベルリンの地下壕で自殺をしており5月8日に無条件降伏したが、この時期は連合軍側でもいろんな出来事があった。
ポツダム宣言が起草された宮殿)

45年4月12日にアメリカのルーズベルト大統領が急死し、トルーマンが大統領職を引き継ぎ、トルーマンとチャーチルとスターリンが半月余り掛けて会談をしたようだが、「宣言」はトルーマンとチャーチルと蒋介石の三者の名で発せられている。
現地にはトルーマンとチャーチルとスターリンの写真が何枚も掲示されていたが、蒋介石は署名の際には同席しておらず、トルーマンが無線電話で後から了解を取ったそうで、署名もトルーマンが「中華民国総統」と代筆したものがアメリカに残っているそうである。
スターリンは会談に参加していたが、日ソ不可侵条約がある関係から署名に加わっておらず、北海道の分割を主張していただけに宣言内容の詳細を後から知って激怒したと歴史書には記載されている。

ともあれ日本の命運を決した「ポツダム宣言」が1945年7月26日に発せられたが、日本は7月28日にこれを黙殺することを決定した。
そこで連合軍は8月6日に広島、9日には長崎に原爆を投下したのである。
新型爆弾の凄まじさを体験した日本は、8月14日の御前会議でポツダム宣言受託、すなわち無条件降伏を決定し、翌8月15日に終戦の詔勅を発し、正午の玉音放送となったのである。

チェチェリエーンホフ宮殿の裏庭)

現在は保養地となっているポツダムの静かな森の中にある宮殿の庭に立ち、今から丁度60年前にこの地で日本の将来が決められたことを改めて思い知らされたが、国民学校3年生であった当時の私には、その意味は理解できなかったが、疎開先で聞いた雑音交じりの玉音放送を思い出していた。

負の遺産に対するドイツの姿勢を感じながらの旅や、日本の今日を引き出すことになったポツダムを視察しながら、わが国の負の遺産に対する取り組みや、靖国神社の問題などが走馬灯のように脳裏を掠めた。
帰国後に、改めて靖国神社問題を原点に立ち返り考えてみようと思った。
今回の訪独は、改めて大戦の終結を顧みる良い機会であり、大変興味深い旅であった。




== ドイツ編終わり ==