時分の花   秋に kaze


もう一つの林住期

世阿弥の花伝書の中に 時分の の言葉があります。

10代は10代のが咲き
20代は20代の
が咲き
30代は最後の
が咲きそして散る・・・・。
ここまでは時の勢いで誰もが咲く花です。

の色はうつりにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに 小野小町     

ここからが新たなる旅立ちです。
もう自然には
が咲かないのですから
老いが始まります・
40才からは時分の
は枯れてるので
それこそ自分の
を咲かせて
行かなくてはいけません。
それが出来る人と
醜く老いていくだけの人との境目になります。

今までの時の勢いとは違い
自分の意思や哲学が問われます。
いかに自分で種をまいて
大切に育てて
を咲かすか
そして美しい真の
咲かすか。

これを
誠の花といいます。

私も 今 のたうちまわって種を蒔いてる途上です。
このホームーページ作りもその初めです・・・・。  

                                                  そして綺麗なを咲かせたい・・・

                                                  

  





              

 

風姿花伝書       世阿弥

抜粋

20歳台

このころ、一期の芸能のさだまる初めなり。さるほどに、稽古のさかひなり。声もすでになほり、体もさだまる時分なり。されば、この道に二つの果報あり。声と身形なり。これ二つは、この時分に定まるなり。歳盛りに向かふ芸能の生ずるところなり。さるほどに、よそめにも、すは上手いで来たりとて、人も目に立つるなり。もと名人などなれども、当座の花にめづらしくして、立会勝負にも、一旦勝つときは、人も思ひあげ、主も上手と思ひ初むるなり。これ、かへすがへす主のため仇なり。これも真の花にはあらず。年の盛りと、みる人の、一旦の心の珍しき花なり。真の目利きは見分くべし。このころの花こそ、初心と申すところなるを、極めたる様に主の思いて、はや申楽にそばみたる輪説とし、いたりたる風体をすること、あさましきことなり。たとひ、人もほめ、名人などに勝つとも、これは、一旦めづらしき花なりと思ひさとりて、いよいよものまねをも直ぐにしさだめ、名を得たらん人に、ことこまかに問ひて、稽古をいやましにすべし。
 されば、時分の花を、真の花と知る心が、真実の花に、なほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花におきて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは、このころのことなり。一公案して思ふべし。わが位のほどほどよくよく心得ぬれば、そのほどの花は、一期失せず。位より上の上手と思へば、もとありつる位の花も失するなり。よくよく心得べし。


30歳台

このころの能、盛りの極めなり。ここにて、この条々を究めさとりて、堪能になれば、さだめて天下に許され、名望を得べし。もし、この時分に、天下の許されも不足に、名望も思ふほどなくば、いかなる上手なりとも、いまだ真の花を究めぬしてと知るべし。もし究めずば、四十より能は下るべし。これ後の証拠となるべし。さるほどに、上るは三十四五までのころ、下るは四十以来なり。かへすがへす、このころ天下の許されを得ずば、能を究めたるとは思ふべからず。ここにてなほつつしむべし。このころは、過ぎし方をもおぼえ、また、行く先のてだてをもおぼゆる時分なり。このころ究めずば、こののち天下の許されを得んこと、かへすがへすかたかるべし。


誠の花へ

40歳台


このころよりは、能のてだて、おほかた変わるべし。たとひ、天下に許され、能に徳法したりとも、それにつきても、よきわきのしてを持つべし。能は下がらねども、力なく、やうやう年たけゆけば、身の花も、よそめの花も、失するなり。まづ、すぐれたらん美男は知らず、よきほどの人も、直面の申楽は、年寄りてはみられぬものなり。さるほどに、このひとむきは欠けたり。このころよりは、さのみに、こまかなるものまねをばすまじきなり。おほかた似合たる風体を、やすやすと、骨を折らで、わきにしてに花を持たせて、あひしらひの様に、すくなすくなとすべし。たとひわきのしてなからんにしても、いよいよこまかにみをくだく能をばすまじきなり。なにとしても、よそめ花なし。もし、このころまで失せざらん花こそ、真の花にてはあるべけれ。それは、五十近くまで失せざらむ花を持ちたるしてならば、四十以前に天下の名望を得つべし。たとひ天下の許されを得たるしてなりとも、さ様の上手は、ことにわが身を知るべければ、なほなほわきのしてを嗜み、さのみに身をくだきて、難のみゆべき能をばすまじきなり。か様にわが身を知る心、得たる人の心なるべし



50歳台


このころよりは、おほかた、せぬならでは、てだてあるまじ。麒麟も老いては土馬に劣ると申すことあり。さりながら、真に得たらん能者ならば、物数はみなみな失せて、善悪見所はすくなしとも、花は残るべし。

 亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日、駿河の国、浅間の御前にて法楽つかまつり、その日の申楽、ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。およそそのころ、ものかずをばはや初心にゆづりて、安きところをすくなすくなと、色へてせしかども、花はいやましにみえしなり。これ真に得たりし花なるがゆゑに、能は、枝葉もすくなく、老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ、眼のあたり、老骨に残りし花の証拠なり。





                                                                  


口伝

この口伝に、花を知ること。まづ仮令、花の咲くを見て、万に花とたとへ始めしことわりをわきまふべし。そもそも、花といふに、万木千草において、四季をりふしに咲くものなれば、その時を得て珍しきゆゑにもてあそぶなり。申楽も、人の心にめづらしきと知るところ、すなはち、おもしろき心なり。花と、おもしろきと、めづらしきと、これ三つは同じ心なり。いづれの花か散らで残るべき。散るゆゑによりて、咲くころあればめづらしきなり。能も住するところなきを、まづ花と知るべし。住せずして、余の風体に移れば、めづらしきなり。
 ただし、様あり。めづらしきといへばとて、世になき風体をしいだすにてはあるべからず。花伝にいだすところの条々を、ことごとく稽古し終わりて、さて、申楽をせん時に、その物数を、用々に従ひてとりいだすべし。花と申すも、万の草木において、いづれか四季をりふしの、時の花のほかに、めづらしき花のあるべき。そのごとくに、習ひおぼえつる品々をきはめぬれば、時をりふしの当世を心得て、時の人の好みの品によりて、その風体をとりいだす。これ時の花の咲くを見んがごとし。花と申すも、去年咲きし種なり。能ももと見し風体なれども、物数をきはめぬれば、その数をつくすほど久し。久しくて見れば、まためづらしきなり。その上、人の好みも色々にして、音曲・ふるまひ・ものまね、所々に変りてとりどりなれば、いづれの風体をも残してはかなふまじきなり。しかれば物数をきはめつくしたらんしては、初春の梅より秋の菊の花の咲きはつるまで、一年中の花の種を持ちたらんがごとし。いづれの花なりとも、人の望み、時によりて、とりいだすべし。物数を究めずば、時によりて花を失うことあるべし。たとへば、春の花のころ過ぎて、夏草の花を賞翫せんずる時分に、春の花の風体ばかりを得たらんしてが、夏草の花はなくて、過ぎし春の花を、また持ちていでたらんは、時の花に合ふべしや。
 これにて知るべし。ただ、花伝の花の段に、「物数を究めて、工夫をつくして後、花の失せぬところをば知るべし。」とあるは、この口伝なり。されば、花とて別にはなきものなり。物数をつくして、工夫を得て、めづらしき感を心得るが花なり。「花は心、種は態。」と書けるもこれなり。ものまねの鬼の段に、「鬼ばかりをよくせん者は、鬼のおもしろきところをも知るまじき。」とも申したるなり。物数をつくして、まためづらしくしいだしたらんは、めづらしきところ、花なるべきほどに、おもしろかるべし。余の風体はなくて、鬼ばかりをする上手と思はば、よくしたりとはみゆるとも、めづらしき心あるまじければ、見どころに花はあるべからず。「巌に花の咲かんがごとし。」と、申したるも、鬼をば、強く恐ろしく、肝を消す様にするならでは、およその風体なし。これ巌なり。花といふは、余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と、人の、思ひなれたるところに、思ひのほかに鬼をすれば、めづらしく見ゆるところ、これ花なり。しかれば、鬼許りをせんずるしては、巌ばかりにて、花はあるべかず。


                                           

         



                                               2002・09・23 masashi