過去からの唄〈Page.1〉




「とうとう降り出したな」
 風花の街にある宿の一室でオスカーは忌々しげに呟いた。
 アンジェリーク=コレット率いるオスカー達一行が、三つの至宝の一つ《金の宝玉》の鍵である《セキレン》の謎を解くためにこの街へとやって来たのはつい先ほどのことだ。
 だが、どんよりとした重い雪雲が空一面に広がっていたため、今日のところは一端捜索を打ち切り、早めに宿を取ることに決定したのだった。
 神鳥宇宙の女王陛下とその補佐官が謎の敵に捕らわれてからかなりの時間が経過している。一刻を争うこの事態で、もしこの雪が吹雪に変わるようなことがあれば二、三日の足止めは覚悟しなくてはならないだろう。
 思わぬ邪魔が入ったことにオスカーは苛立ちを隠せないでいた。しかし、イライラの原因は雪だけではない。それがよく分かっているからこそ、尚更よけいに雪へと怒りをぶつけてしまうのだ。
 そうこうしているうちにも雪はどんどんと降り積もり、街は真っ白な銀世界へ変貌しようとしていた。
 オスカーは軽く舌打ちし、少々乱暴にカーテンを引く。
 その時、もう一つのイライラの原因である銀髪の男が部屋へと入ってきた。

「そうとう降ってきたぜ」
 そう言ってアリオスは、頭や肩に降り積もった雪を部屋の中で払い落とした。白い結晶が、古いがよく磨き上げられた床へと舞い散り、すぐに透明な液体へと変化する。
 その様子を目にしたオスカーは、
「床が濡れるじゃないか! そんなことは玄関の外でやってこい」
 と抗議の声を上げた。
 しかしアリオスは別に気にする風もなくバタバタと雪を払い続けている。
「おい、聞いてるのかアリオス?」
「いちいちうるせぇな。ちゃんと聞こえてるぜ。すぐに乾くんだから、かまやしねぇだろ」
「そういう問題じゃない。それがエチケットだと言っているんだ。同室になった以上ルールは守ってもらわなくては……」
「はいはい、今度から気をつけます!」
 アリオスは強い口調でオスカーの言葉を遮り、嫌みなほどバカ丁寧にオスカーに向かって頭を下げると、そのままバスルームへと消えていった。
 その後ろ姿を見遣りながらオスカーは、今日、アリオスと相部屋になった自分のくじ運の悪さを激しく呪うのだった。
 初めて顔を合わせた時から、なんとなく二人の間にはピリピリとした棘のある空気が流れていた。
 互角とも言える剣の腕が二人をライバル視させているのか、それとも性格自体が合わないのかは謎だったが、日常はさることながら戦闘中でも二人が会話することなどほとんどなかった。
 周りのみんながアリオスと打ち解け、信頼関係を築いていっているのに、自分だけがいつまでも警戒心を解こうとせず、つい胡散臭げな視線を送ってしまうことをオスカー自身も自覚している。
 それでも己の中に埋め込まれた本能が警告を発する。

 あいつは――危険――なのだと……。



 ◇  ◇  ◇



「お前、顔色が悪いぜ」
 シャワーを浴び終え、缶ビール片手にベッドの上でくつろいでいるアリオスがふいに声を掛けた。
 声を掛けられたオスカーは、不機嫌そうに相手を睨みながら「お前の気のせいだ」と一蹴しようとしたが、思い掛けないアリオスの行動によってそれを阻まれた。
 アリオスが隣のベッドで寝ころんでいるオスカーの側までやってきて、彼の額に手を当てたのだ。
「熱があるんじゃねぇのか? 体温計を借りてきてやるから、とりあえず計っとけよ」
 言って、アリオスは部屋を早足に出ていった。
 予想外のアリオスの行動に驚き、一瞬呆気にとられたオスカーだったが、さして仲が良くもない自分のために彼がわざわざ動いてくれているのだから、そうとう顔色が悪いのだろうと思い直し、改めて自分の体調を省みた。
 確かにこの街に入ってからずっと悪寒はしていた。
 けれどそれはこの寒さと雪のせいだと思っていた。だが、十分に暖房の利いた部屋の中でも止まらないのだから、やはりこれは熱のせいだと考えるべきだろう。
 なかなか順調に進まない旅への焦りと苛立ちが、己の体調の変化に鈍感にならせてしまったのかもしれない。
 オスカーは軽く自嘲しつつ、自分の額に手を当ててみた。そこは確かに熱を放っていた。
「熱を出したのなんていつ以来だ?」
 あつい熱を手のひらに感じながら、オスカーは薄れゆく記憶を手繰り寄せる。
 子供の頃から身体は丈夫で、めったに風邪など引かなかったはずだ。
 守護聖になってからは、女王のサクリアに守られ、外界から隔離された聖地で病気とは無縁の生活を送ってきた。
 しかし、微かに思い出される朧げな光景。

 ベッドまで運ばれた温かなスープの匂い。
 ひんやりとした氷嚢の感触。
 夜通し感じた優しい人の気配。

 チクリとオスカーの胸に痛みが走った。
 確かに経験したはずの現実を、まるで昨日の夢のことのようにボンヤリとしか思い出せないことが無性に苦しかった。
「熱のせいで、ずいぶんと弱気になったものだな」
 そう呟いて、オスカーは自分の思考を停止させた。
 考えてはいけない。
 過去の出来事をはっきりと思い出せたとしても、あの温かな家庭はどこにも存在しない。かえって虚しくなるだけだ。
 その反対に、思い出せなかったとしても、大切なものを忘れてしまったことへの罪悪感が己の心を苛み続けるだろう。すでに家族の声さえも記憶の縁から滑り落ちているのだから……。
 オスカーは小さく被りを振って壁に立て掛けた家宝の剣に視線を移した。
 おそらく父はこれら全てを承知した上で、聖地へと召される自分にこの代々伝わる剣を託したのだろう。本来なら家を継ぐべき立場になった弟へと渡されるべきだったであろうこの剣を。
 この剣だけが、唯一息子と家族とを繋ぐ確かな証となることが分かっていた。だからこそ、先祖代々守られてきた家訓を破ってまでオスカーに家宝の剣を持たせたのだ。
 あの時は何も考えず、ただただ憧れの剣を手にした喜びでいっぱいだったが、今ならば理解できる。父の気持ちも、この剣に込められた家族の願いも……何もかも。
 記憶など必要ない。この剣さえあれば、託された《想い》は形となって自分の側で存在し続けるのだ。
 オスカーは腕を伸ばし、剣の鞘に触れ、愛おしそうに指を滑らせた

 しばらくすると、アリオスが体温計を片手に部屋へと戻ってきた。
「計ってみろ」
 言って、強引に体温計をオスカーの口へと突っ込むと、アリオスはオスカーが寝ているベッドの脇へと腰を下ろした。
 ぶっきらぼうな態度に見え隠れする不器用な優しさ。オスカーはアリオスの顔を覗き見る。するとそこには、澄んだ碧玉の瞳が心配の色に揺れていた。
 迷いのない真っ直ぐな剣先と、戦闘時の計算され尽くした無駄のない動きを考えれば、この男が実は誠実で真面目な性格であることは容易に想像がつく。かなり屈折したものではある……が。
 そしてその誠実さがこうして自分個人に向けられると、抱いている印象はガラリと変化する。
 オスカーは自分の中に燻っているアリオスに対するわだかまりが、ほんの少しだが薄まったような気がした。自然と口元にも笑みが零れる。
 計測終了までの沈黙の1分は、二人の間を穏やかに流れていった。

「ピッピッ」電子音が鳴った。
 アリオスはオスカーより一瞬早く体温計を口から抜き取ると、その数字を見てますます眉間のシワを深くさせた。
「悪寒は?」
「少しするが……」
「38度1分だ」
「まだ微熱の範疇だな」
「ああ。でもこれからもっと上がってくるぜ。とりあえず水分を取って、とっとと寝ろ」
 アリオスは部屋に備え付けてある冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出し、プルトップを開けてオスカーへと差し出した。オスカーはそれを黙って受け取ると、一気に胃へと流し込む。すかさずアリオスが空になった缶を取り上げて、横になるオスカーの身体にブランケットを掛けようとした。
 その流れるような一連の動作が可笑しくて、オスカーは思わず吹き出してしまった。
「なんだよ!」
 アリオスから抗議の声があがる。
「いいや、別になんでもない」
 オスカーは慌てて首を左右に振るが、笑いはなかなか収まってくれない。
 アリオスはムッとしたようにオスカーを一瞥すると、少々乱暴にスイッチを押して部屋の電気をオフにした。
 暗闇が静かに部屋を覆うと、ようやくオスカーの笑いも収まったようで、
「悪かったな。それに今夜は世話になった。礼を言うぜ。アリオス」
 と、これ以上ないほどの柔らかな低音をアリオスに向けて発した。
 すると、アリオスはバサリと大きく寝返りを打って二人のベッドの間にあるサイドランプに手を伸ばし、小さな明かりを灯した。

 銀髪のすき間から見える肌の色は、オレンジの色よりもやや赤味を帯びているようにオスカーには感じられた。