さ く ら【起】

 

 <うるさい>
 
 
当麻は夢の中で文句を呟く。
 
 それでも、夜の静けさを破るけたたましい音はいっかな止んではくれなかった。
 
 ついに根負けしてベッドから起きあがる。
 
 ホントは取るつもりなどなかった。

 
 
電話に出なければ諦めて切るだろうと思ったのだが、非常識にも夜中の3時に電話をかけてきた相手は当麻の予想を上回るほどしつこかったのだ。

 ええい!くそっ!こんな夜中に電話なんぞかけてくるなんて、いったいどこのどいつだ!

 むかっ腹たてて受話器をつかんだ当麻の耳に飛び込んできたのはとんでもなく明るい女の声であった。

 『こんばんわあ。当麻くん、元気かなあ?』

 
 
「・・・・・」

 もともと陽気な性格の女性であるが、今夜は酒が入っているのか、とてつもなくハイになっているようだった。

 『アハハハ・・ねえ、聞こえてるう?あのねえ、当麻くんに、ちょっと聞きたいことがあるのお』

 「なんだよ?早く言ってくれ」

 『当麻くんねえ。もう、ファーストキスしちゃったかなあ?』

 二度目の絶句。

 「母さん!そんなくだらないことを聞くために、息子の安眠を邪魔したのか!」


 『あら、やだ〜当麻くん、もう寝てたのう?』

 「今何時だと思ってんだよ?夜中の3時だぜ!いいかげんにしてくれよな!」

 『だーって、土曜の夜はいつもパソコンいじりで朝まで起きてたじゃない』

 「今夜は別なの!明日(もう今日か)の朝早くに出かけるから早めに寝たんだよ」


 
『あら、そうなの?』

 「当分家には帰らないからな」

 『そう。気をつけて行ってらっしゃいね』

  一人息子が家を開けると言ってるのに、どこへ行くのか、何をするのかということを全く訊こうとはしない母親に、当麻はいつものことながら呆れる。

 母親としての自覚が足りないんじゃないかとも思えるが、彼女にしてみれば、息子を完璧に信じているということになるらしい。

 
「母さん。大分飲んでるみたいだな。早く家に帰れよ」

 『帰るわよ。今日はねえ(あ、もう昨日か)学生時代の友達の結婚式だったのよ。で、その後みんなで飲みに出たんだけどねえ。そこでファーストキスの話が出たから、ウチの当麻くんはどうかなあ、て。そう思っちゃったわけよ』

 思って、早速電話をかけてきたわけかい?相変わらずいい性格してんな、母さん」

 『そんなに怒らないの。ねえ、当麻くん。ファーストキスの意味覚えてる?』


「お呪いいだろ?いつかまた出会うための」

 『ハイ!よくできました。頑張ってねえ!』

 そうして電話は一方的にきれる。言いたい事だけ言ってくれてーー
 
 それでも当麻はさほど腹は立たなかった。慣れもあるが。

 今更母親のすっ飛んだ行動を怒ってみても仕方ないし、まあ、あれはあれで可愛い所もあるのだと思うしかない。

 当麻はそう溜息をつきながら受話器を置く。

 ファーストキス・・か。

 思いがけなくも母親の口から出た言葉が、当麻にある幼い日の記憶を思いおこさせた。

 あれは、確か6才の頃だから、もう8年も前になる。

 あれからいろいろあって、あまり思い出すことはなかったが、それでも記憶のどこかに残っていた。

 
それだけ当麻にとって、あの記憶は印象的で、大切な思い出だったのだ。

 
あれは、母親が仕事で2〜3日家を留守にすることになり、当麻が駅まで見送った時だった。

 当麻は改札口まで母親と手を繋いで歩き、そこで別れた。

 父親は大学での研究に忙しく、当分帰ってくる様子はない。

 幼いながら、当麻は既に一人暮らしに慣れてしまっていた。


 
まあ、通いの家政婦が来てくれているので、食事には困らないし別に不便とも寂しいとも感じなかった。

 母親と別れた当麻は、少し暗くなりかけた道を歩いていた。

 来た道を戻れば家まで5分とかからないのだが、帰っても待つ者のない家に早く戻ることもないかと当麻は思い、いつも行ってる書店に寄り道を決める。

 顔見知りの書店の主人が、入ってきた当麻に気づいて声をかけてきた。


 
「新刊が入ってるよ」

 それを聞いて当麻はコクンとうなずき、目的のコーナーに向かう。

 そこは、やっと6才の子供が興味を持つような棚ではなかった。

 だが、当麻は迷いもせずに平台に積んであるブルーバックスの新刊を手に取った。

 今月の新刊は当麻の好きな天文学の本だ。

 店にいた客達は、難解な本を取って真剣に活字を追っている子供に、目を丸くする。


 
どう見ても絵本が相当の幼い子供が、専門書を読んでいるのだから驚くのも当たり前だ。

 母親がそういうことに興味がないために数値は出ていないが、赤ん坊の頃から、既に知能指数が200を越えているのではないかと言われていた当麻である。


 
当麻は持っていた本をレジに出す。

 
「今日はこれだけでいいのかい?」

 店の主人が尋ねると、当麻はウンと小さくうなずいた。

 代金を払い、本を受け取った当麻が書店を出ると、外はもう暗くなっており、街灯の明かりが歩道を照らしていた。

 帰ったら母が用意した夕食を食べ、後は早めにベッドに潜り込んで買った本を読もうと当麻は思う。

 テレビはあまり好きではないので、ニュース番組以外は殆ど見ることはない。

 
書店から家までは裏通りなので、人の通りは少なかった。

 時間によっては全くない時もある。

 現に当麻の前も後ろも人は歩いていない。

 それでも当麻は平気で別に怖いとは思わなかった。

 
公園付近まで来た時、ふと当麻の顔に何かが貼り付いた

 風にとばされてきたものらしいが、手に取ってみて当麻はちょっとびっくりする。それは薄紅色の桜の花びらだった。

 確かに公園には桜の木があるが、とうに満開となり先週に降った雨でほとんど散ってしまった筈だ。

 まだ、咲いていた木があったんだろうか?

 つい好奇心がわいた当麻は、人気のない公園に足を踏み入れた。そして、信じられないものを見て呆然となってしまう。

 なんと、当麻の目前に満開の桜が立っていたのだ。

 
しかも、こんなに大きくて見事な花をつける桜の木は見た記憶がなかった。

 当麻は夢を見ているような気分になった。


 「誰?」

 ぼ〜と見取れていた当麻は、突然声をかけられて、ギョッとなる。

 まさか、自分以外に誰かがいるとは思ってもいなかったのだ。

 声の主は、その満開の桜の木の根もとに膝を抱いた格好で座っていた。

 
子供だ。多分、当麻と同じくらいだろう小さな少年・・・

 ふぞろいにやや長めに伸ばされた漆黒の髪の子供が、僅かに首を傾げるようにして当麻を見つめている。

 いや、見つめているとはいえないかもしれない。

 なぜなら、子供の瞳は堅く閉ざされており、当麻の顔を見てはいなかったのだから。


 
「おまえ、こんな所で何してんだよ?」

 
声で自分と同じ子供だとわかって安心したのか、ホッと表情がゆるみ笑みが浮かぶ。

 思わず引き込まれてしまいそうな、不思議な笑みだった。

 
「人を待ってるんだ」

 「ふ〜ん。そっち行ってもいいか?」

 うん、と少年が頷いたので、当麻はすぐ隣に座った。

 真下から見上げる桜は本当に圧倒されるものがあった。


 「もうここの桜は終わったと思ってた。それに、こんな大きな桜ってあったかなあ?」

 「ここの桜は、いつも今頃が満開だよ」

 「そうかあ?」


 
当麻はまだ納得がいかない。

 「おまえん家、この近く?」

 「うん。あるいて40分くらいかな」

 「
ええ!ちっとも近くじゃないじゃないかあ!おまえ一人か?」

 「俺はいつも一人だよ。俺、ここの桜が好きなんだ。この桜は、もう千年もこの場所に立っていて世界を見続けているんだって、ある人が言ってた。それと、この桜は俺のことが好きだから、俺の願い事を聞いてくれるって」

 千年?あれ?確かこの公園ができたのは20年くらい前だったんじゃ?


 
「ふ〜ん?桜がおまえのことが好きだって?」

 「うん」

 変な奴、と言いかけた当麻は少年の笑顔を見て言葉を飲み込んだ。

 そのまま、また桜を見上げる。

 「おまえさあ、なんで目をあけないんだ?ひょっとして、目が悪いのか?」


 
「ううん。ただ、ここにいる間、絶対目を開けちゃだめだといわれたから。誰も、何も見ちゃいけないって。でないと、会うことはできないって」

 ああ・・そういえば、人を待ってるって言ってたな。

 「いったい誰を待ってんだ?」

 「大事な人・・俺にとって、多分誰よりも大事な人だと思う」

 
「ふ〜ん。じゃあさ、俺もつきあってやるよ。どうせ、家に帰ったって誰もいないしさ」

 それに、おまえ一人残して帰るのは心配だから、とこれは心の中で言う。

 さすがに声に出していうのは恥ずかしかったから。

 何か妙な感じだった。

 考えてみれば、自分と同年代の子供とこうして話をするのは初めてかもしれない。なのに、会ったばかりで名前も知らない少年を違和感なく受け入れている。

 当麻は、月明かりに浮かんだ少年の横顔をそっと盗み見る。

 顔立ちは結構可愛らしかった。

 女の子みたいではないが、ふっくらとした頬が柔らかそうでふれてみたくなる。

 わりと日に焼けているのをみると、当麻と違って外で駆け回ることが好きな子供なのだろう。

 いつのまにか、桜より少年の方に見取れている自分に気付いた当麻は気恥ずかしくなって、上着のポケットに手を入れた。

 ポケットの中には、家を出る時に母にもらったキャンデイが2コ入っていた。

 当麻はそれを取り出すと、少年の手を取ってキャンデイを1コのせる。

  「何?」

 「
アメだよ。嫌いか?」

 「ううん。大好き。ありがとう」

 二人の子供は一緒にキャンデイを口に入れた。


 それはオレンジの味がした。


 
月明かりに照らされた満開の桜。

 その木の下に座っている自分が、まるで現実ではないような気がした。

 いつのまにか少年は当麻の方に身体を寄せていた。

 暖かな温もりがふれあっている肩から伝わってくる。

 春とはいえ、陽が落ちるとさすがに寒い。

 実際、外気の冷たさに思わず震えが走ったが、少年の体温を感じた途端、何故か震えが止まった。

 
同時に心地よい暖かさが当麻の身体を満たしていった。

 そういえば少年は当麻より薄着であるのに、少しも寒さを感じていないようだ。

 当麻は肩の上にのっている少年の顔を眺めた。

 おい、と当麻が呼ぶと、何?と少年は聞く。


 「おまえさあ。名前、なんていうんだ?」

 少年は頭を起こすと、やはり目を閉じたまま当麻を見つめた。

 「・・・・言えないんだ。ゴメン。ここにいる間、誰とも名乗りあっては駄目だと言われてるから」

 それを聞いて当麻は溜息をついた。


 
いったい、どこのどいつが、こいつにそんなことを言ったのだろう。
 
 
誰の顔も見ては駄目で、名乗りあってもいけないなどと。

 「じゃあさ、俺の名前教えてやるよ」

 「えっ?でも・・・」

 当麻は困ったような顔になった少年の手のひらに指で名前を書いた。

 「な・・何?」

 「漢字で書いた俺の名前」

 「へえー、漢字が書けるんだあ」


 
少年は感心した。なんたって、自分はまだひらがなしか知らないのだから。

 「ねえ。もう一度書いてみてくれる?」

 そう言って差し出された手に当麻はもう一度名前を書く。

 少年は名前が書かれた自分の手のひらを、さも大事だというように胸に押し当てる。


 「ありがとう。大事にするよ」

 それは輝くような微笑みというのだろうか。

 当麻はこれまで見たことのない笑顔を向けられ、胸が熱くなった。

 そして、少年の言った“大事にする”という言葉が当麻を嬉しくさせる。

 
「また会いたいな」

 だが少年は俯いたままそれにこたえない。

 彼自身にもわからないのか。それとも、やはり答えられない理由があるのか。

 このとき、ふと当麻は前に母親が自分に言っていたことを思い出した。

 まだ4才だったので、父親がこんな子供に教えることじゃないと怒っていたが。

 「おまえさ。ファーストキスって知ってるか?」

 少年は首を横に振る。

 「
初めてするキスのことなんだけどさ。いつかまた出会うためのお呪いでもあるって俺の母さんが言ってたんだ。一生に一度だけのお呪いだけど、おまえしたことある?」

 まだ6才だが、キスは知っていたので少年はすぐに首をふる。

 「じゃ、完璧だな。俺はもう一度会いたいけど、おまえは?」

 「俺も・・・」

 「よし。じゃ、俺がするからさ。じっとしてろよな」

 少年は言われた通り当麻の方に顔を向けたままじっとしていた。


 
当麻はゆっくり少年にキスをする。

 ふれた唇は柔らかくて、当麻は幸福感に酔った。

 「また会えるね」

 「ああ。きっと会えるさ!なんたって一生に一度しかできないお呪いだからな!
だから、今度会った時はおまえの名、教えろよ」


 
「うん」

 少年が小さくうなずくのを見たのが、その夜の当麻の最後の記憶であった。

 あれは現実だったのか。それとも夢だったのか、今だに当麻には判断できない。なぜなら、気がついたら自分は部屋のベッドに寝ていたのだから。

 いつ家に戻ったのか当麻には全く覚えがなかった。

 わけがわからず、もう一度少年と会った公園に行ってみたが、そこには満開の桜は一本もなかった。

 だいたい千年の時を経た桜など、この公園にある筈はないのだ。


 
そうなると、あの出会いは夢だったのかと思うしかない。

 もしあれが夢なら、この公園に足を踏み入れた時から夢を見ていたのかもしれなかった。

 それにしても、家に帰るまでの記憶がないのは、いったいどういうことだろう?

 寝ぼけたまま家に戻り、自分のベッドで寝てしまったというのか?

 確かに当麻はパジャマに着替えないまま寝ていたが。

 
まるで、狐に化かされたような感じだった。

 ただ、おかしなことは、あの日買った筈の本がどこにもなかったことだ。

 帰る途中でどこかに落としてしまったのか。

 なんにしても、あれが俺にとってのファーストキスだったな、と当麻は思う。

 相手が女の子でなかったことを残念に感じないのは、あの名前も聞けなかった少年に自分が惹かれたためかもしれない。

 これから戦場に向かおうとしている時に思い出した甘やかな思い出に、当麻は苦笑をもらす。


 
死ぬつもりはないが、しかし・・・生きて再びこの大阪の地を踏んだ時、自分はもう今の自分ではなくなっているだろう。

 だからこそ、今はまだ、この想い出を抱いたまましばし夢に浸っていようと、当麻は東へ向かう新幹線の中で思った。

                                
  

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