トン・・と不安定な状態から安定した場所へと足を降ろした時、新一は心底ホッとした。

「はあぁぁ〜〜死ぬかと思ったぜぇ・・・・」

 超高層ホテルの窓から、近いとはいえ隣のビルの屋上まで渡したロープ一本を支えに滑りおりるなど生まれて初めての経験だったのだから、その感想は当然ともいえるものだった。

 あの野郎は、いつもこんなことやってんのかよ。

 くそ度胸だけは確かに認めてやってもいいが、しかし泥棒はやっぱり泥棒だ。

 探偵としての自分が黙認していいことではない。

(とはいえ、今回はオレも片棒かついじまったんだよな・・・)

 けど仕方なく・・だ、と新一は自分を納得させる。

 自分から言い出したことで、しかも快斗の反対を押し切ってということは既に棚上げが決定している。

 風邪でぶっ倒れたあいつが悪い!

 何がオレのことが心配だよ!

 心配ばかりさせてんのはテメーの方だろが!

 ハァ〜、と疲れたような溜息が唇から漏れる。

 さて、と膝をついていた新一はゆっくりと立ち上がった。

 暢気に休んでいられるほどお気楽ではないから、さっさとここから離れるに限る。

 快斗のように警察と追いかけっこをする趣味もないし、したくもないという新一だ。

 宝石はとっくに返しているのだし、もうするべきことがないのだから余計な面倒を起こさずに戻った方が無難だ。

 まあ、今回のキッドはいつもよりおとなしかったと言われるだろうが、だから偽物だと言う者もないだろう。

 それより、気になるのは・・・

(見られたかな・・?)

 一瞬振り返った新一を驚きの瞳で見つめていた白馬のことが思い出される。

 できるだけキッドの雰囲気を真似たつもりだが・・・しかし、もし白馬が驚くことがあるとすれば、それは・・・・・

(オレの瞳・・・・・・)

 やっぱ、マズかったか。

 しかし、彼の特殊な瞳は普通の色つきコンタクトでごまかせるものではなかった。

 博士に特別に作ってもらった、月の光を取り入れないレンズでなければ。

 とにかく、早く戻ろう・・と新一が踵を返したその時だった。

「オレに挨拶もしないで帰るつもりか、キッド?」

 突然耳に入ってきた低い声に、新一はギクリとして身体を凍りつかせた。

 人の気配は全く感じなかった。

 だからこそ、気を緩め、それほどまわりを確認しなかったのだ。

 だが、誰もいないと思ったこの屋上に新一以外の人間がいた。

 それも、最凶最悪の人物が。

 新一は建物の陰から現れた長身の男の顔を見た途端、身体が震えるのを覚えた。

 肩から下げた、明らかに狙撃用と思われるライフル。

 しかも、ついさっき仕事を終えたような雰囲気が感じられ新一は息を呑んだ。

「よくよく、おまえとは仕事がかち合うようにできてるらしいな」

 薄い唇をニヤリと引き上げたその男アッシュに、新一はただ黙って見つめることしかできなかった。

 キッドがアッシュと何度も面識があったことは彼も知っている。

 一度はアッシュに撃たれてもいるのだ。

 だが、新一がこの殺し屋と向き合ったのはこれが初めてだった。

 できれば、会いたくなどなかった人物。

 新一が追っている、あの同じ殺し屋であるジンとは違うタイプの犯罪者。

 組織の中にいて動くジンと、組織などに入らず一人で動く超スナイパーであるアッシュ。

(仕事がかちあったって・・・まさか、ここで、誰かを狙撃したってえのかよ!)

 いったい誰を?

 アッシュは1キロ先にいる標的をも一撃でしとめるという凄腕のスナイパーだ。

 それも、ビル街特有の風をものともせずに正確に仕事をこなす。

 誰かいたか?

 この1キロ四方に、アッシュの標的になりそうな人物が!

 瞳を揺らす新一に、アッシュはツ・・と眉をしかめる。

「おまえ・・キッドじゃないな?」

 身体つきや顔立ちは似ているが、これまで会っていたキッドとは印象が少し異なることにアッシュは気づく。

 偽物か?それとも・・・

「怪盗キッドは二人いたのか?」

「・・・・・・・・」

 マズイ!ばれちまったか!

(やっぱり、レプリカはレプリカでしかねえってことか)

 ・・・・・どうする・・どうすれば?

 一番いいのはこのまま逃げることだが。

(逃げられるか?この世界最高といわれる男から!)

 犯罪者を前にして逃げるのは不本意だが、相手が相手だ。

 まともに相手をするには、この男は危険すぎる。

 使うつもりはなかったが、キッドの18番ハンググライダーでここから飛ぶしかないだろう。

 自分から視線を外さずに静かに後ずさる、キッドの姿をした新一にアッシュがふいに何か気づいたように目を瞬かせた。

 ハッとして新一はかぶっていたシルクハットの前部分を引く。

 月はまだ天空にあった。

「まさか・・・・おまえ、ミステリアスブルーか?」

「・・・・・・・・・!」

 突然、にらみ合う二人の間に音もなく割って入ってきた黒い影が、白い怪盗の姿の新一を小脇に抱えるとそのままビルの屋上からとび降りた。

 その一瞬の間にアッシュの灰色の目は、不敵な笑みを浮かべた白い顔を捕らえていた。

 二人の姿が屋上から消えると、アッシュは不快げに眉をしかめたが、すぐに薄い唇を楽しげに歪めた。

「キツネめ。この俺から逃げられるつもりか」

 屋上から伸びているロープを確かめたアッシュはニッと笑うと、くわえた煙草に火をつけライフルを持ったまま歩き出した。

 そして、新一を抱え別のビルの窓から中へ飛び込んだフォックスは一息つく。

「大丈夫ですか、ミスティ?」

「だ・・大丈夫じゃねえ!いきなり飛び降りやがって!心臓が止まるかと思ったぜ!」

「非常事態でしたからね。まさか、あの男と鉢合わせするとは思いませんでしたよ」

「知ってるのか?」

 勿論、と黒のタートルネックにカーキ色のベストをつけたフォックスがうなずく。

 茶色の短い髪をしたフォックスは、どこから見ても男だ。

 これが、先ほど中森警部たちを見とれさせた金髪美女だとは誰も思わないだろう。

「世界屈指のスナイパーですからね、彼は。闇に生きる者でアッシュの名を知らない者はいないですよ」

 そうか、と新一は溜息をつく。

 そんな男の標的に一度はなっていたのだ、あのクロバカは。

 そして、いつまた標的になるかわからない。

「これで奴から逃げられたと思うか?」

 そうですねえ?とフォックスは首を傾げながら微笑むと新一の首筋に右手を伸ばしてきた。

 フォックス?

 なんだ?と瞳を見開いた新一は、首筋に微かな痛みを覚えた途端意識が遠のいた。

 力をなくして崩れる新一の身体をフォックスが腕の中に抱き留める。

「あの男から逃げるのはこれからですよ、ミスティ」

 まさか、あの男まで〈ミステリアスブルー〉のことを知っているとは。

 しかも、どうやらアッシュは〈ミステリアスブルー〉に関心を持っているようだ。

 逃げ切るには相当な覚悟がいるだろう。

「さすがに手段を選んでる余裕はないので」

 目をつぶってて下さい、ミスティ。

 フォックスは眠っている新一の滑らかな額にそっと唇を押し当てた。

「幸運を下さいね、ミスティv」

 フォックスは優しい笑みを浮かべて新一を見た後、着ていたベストのボタンを外した。

 ベストの内側には、ナイフと手榴弾といった武器が仕込まれていた。

 あの男が近くに来ているという情報は不確かなものであったが、それでも万一を考えて用意はしていた。

 互いに面識のある相手であったから。それも良好とは言い難い相手。

 使わずにすめば良かったんですけどね、とフォックスは仕方ないというように短く息を吐き出した。


 トントン、とノックに続いて部屋へ入ってきた少女の姿に快斗は瞳を丸くした。

「青子?なんでここにいんだよ?」

「白馬くんが教えてくれたんだよ。快斗がここに入院してるって」

「入院?んな大袈裟なもんじゃねえって。ただ看病するもんがいないから泊めてくれただけだぜ」

「看病なら青子がするよ?どうして連絡してくれないのよ、快斗!青子、すっごく心配したんだからね!」

「だって、おまえのオヤジさん、今夜仕事で家にいねえじゃん。そんな時におふくろが出かけていないオレん家に来たりしたら問題だろ?」

「だって、快斗は病人じゃない!」

「重病人じゃねえって。ただの風邪だよ風邪!心配するようなもんじゃねえんだからさ」

「風邪でも、こじらせたら命にかかわるんだって先生が言ってたよ。快斗は暢気すぎるんだから!」

 暢気だあ?おまえに言われたくねえよな。

 快斗はハ・・と息をつく。

「あ〜っ!快斗、キッドのニュース見てたんだ!」

 サイドテーブルの上にのったテレビを覗き込んだ青子が不満そうな声を上げた。

「悪ぃかよ」

「悪いわよ!」

「またキッドに宝石盗まれたから?」

「盗まれてないもん!白馬くんが、宝石は無事だって言ってたんだから!」

「白馬がねぇ・・・・」

 ふうん、と快斗は瞳を眇めた。

 あの野郎、現場から青子に電話したのかよ?

 結構しつこいよな、あいつ。

「そんじゃ、今夜の仕事は終わったわけだからオヤジさん、家に帰ってくるんじゃねえの?」

「お父さんにはちゃんと置き手紙してるから平気だもん」

 置き手紙・・・・男のとこに行くってか?

 中森警部、泣くんじゃねえの?

 一度は怪盗キッドじゃないかと警部に疑われた快斗だ。

 すぐにその疑いははらしたが。

(ま、本物のキッドなんだけどね、オレは)

「あれ?ねえ、快斗。なんかあったみたいだよ?」

 ついさっきまでキッドが現れたというホテルの前でレポーターが喋っていたのだが、急に慌ただしく人が動き出したかと思うと画面が別の場所に切り替わった。

 テレビ画面を見つめていた二人は、映し出されたとんでもない光景に瞳を瞠る。

 ビルのあちこちから火と煙が出ているのだ。

 それだけ見ると火事かと思えるのだが、明らかに爆発音のような音が二人の耳に入る。

「何あれ?爆発?」

「・・・・・・・・」

 テレビカメラは、突然フロントガラスが割れてスリップした車を捕らえた。

 小石くらいで割れるようなガラスではない。

 しかし、車の前のガラスはコナゴナになっていた。

 まるで銃撃を受けたような・・・・

(銃撃・・・?マジかよ)

 姿は見えないが、あそこで何かが起こっているのだ。

 ちょ・・ちょっと待てよ!おい・・って!

 快斗の顔から血の気が引いていく。

(ハハ・・まさかな。新一がこれに関わってるなんてことは・・・・・)

 新一は銃を撃てる。

 それも、どこで覚えたんだか腕はいい。

 おかげで彼との最初の出会いの時、怪盗キッドはヒドイ目にあったのだ。

「ねえねえ、快斗!なんなの、コレ?」

 んなの、オレが知りたいって・・・・・

 二人が息を詰めて見つめているテレビ画面には、スリップした車が対向車と接触し何台か巻き込まれて玉突き衝突する光景が映っていた。

 怪盗キッドの予告でTV局のカメラが集まっていたおかげか、その不可解な事故?はスクープとしていち早く放送された。

 だが、何が起こっているのかは画面を見るだけではさっぱりわからない。

 ようやく警察が動き出したのか、消防車や救急車のサイレンに混じってパトカーのサイレンがテレビから聞こえてきた。

 

(違うよな・・?これって、たまたま起こった別の事件だよな?な?)

「きゃあ、快斗!あのビルの窓ガラス割れちゃったよ!なんでえ〜??」

「・・・・・・・・・・」

 次々とテレビに映し出される奇妙で過激な破壊の様子に、青子は興奮したように声を上げ続ける。

 そして快斗はというと・・・・最悪な結論を出してしまい、表情を歪め押し黙って画面を見つめていた。

 

 

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