風邪だな、と診察を終えた倉多医師が言った。 「軽い肺炎をおこしかけているから、点滴をしておくが、今日一日は絶対安静だ」 今日一日・・ですか?と白馬が眉根を寄せて尋ねる。 「風邪というのは油断できない病気だからね。軽く考えてムリをすれば、途端に悪化する。そうだな、明日も一日学校は休ませた方がいいだろう。彼の保護者は?」 「あ、お母さんがおられるんですが、今日は旅行だとかで彼は一人なんです」 白馬がそう答えると倉多医師は、うむ・・と顎に手をやった。 「家に帰っても彼を看る人はいないということだね?仕方ない、彼の保護者に連絡がつくまでこちらで面倒をみよう」 「いいんですか、ドクター?」 彼等を連れてきた青年が訊く。 「うちは診療所だから入院設備はないが、空き部屋はあるからね。1日か2日なら面倒はみられる」 「そうですか。それじゃ、よろしくお願いします。学校には、僕が連絡しておきますので」 白馬はそう言って、倉多医師に向けて丁寧に頭を下げた。 診察台に横たわり点滴を受けている快斗は、少し気分がよくなったのか、静かに瞳を閉じていた。 眠っているのかもしれないので白馬は彼に声をかけず、もう一度頭を下げると診察室を出ていった。 青年がその後を追うように外に出る。 「学校に戻るなら、車で送ってあげますよ」 「すみません、すっかりお世話になってしまって」 「いいえ。当然のことをしただけですよ」 「何かご用事があったのではないのですか?」 いえ、と青年は首を振った。 「買い物をして家に帰る所だったので、気にすることはないですよ。あ、自己紹介がまだでしたね。わたしは、ロジャー・エヴァンズと言います」 「僕は白馬探です。今日は本当にありがとうございました」 白馬はエヴァンズと名乗った上品な青年と握手をかわした。 柔らかで綺麗な手だった。 いったい、何をしている人なのか? だが、そこまで詮索するのは礼儀に反するので諦める。 青年は、白馬を学校の門の前まで送って別れると携帯電話を手に取った。 その口元には、薄く笑みが浮かべられている。 「ああ、ミスティ?あなたの予想通りマジックはダウンしましたよ・・・ええ、それほど心配することはないでしょうが、キイチは絶対安静を言い渡しました・・・そう。おとなしく言うことを聞くようなマジックじゃないですからね。学校はもう終わりですか?これから迎えに行きますから待ってて下さい」 フォックスは携帯を切ると、帝丹高校に向けて車を走らせた。
意識が浮上してくると、耳にぼそぼそという話し声が入ってきた。 何を話しているのかわからないが、聞き覚えのある声だ。 まだ眠くて瞳を開ける気にならなかったが、しかし、会話に加わったもう一人の声が聞こえた途端しっかり覚醒したのは、まさに条件反射といえるかもしれない。 「よお、瞳が醒めたか」 横になっているベッドから一番近くにいた少年が、目を開けた快斗に気が付いて寄ってきた。 「・・・・・あ・れ?新一?」 新一は帝丹の制服を着たままだった。 つまり、学校から直接ここへ来たってか?なんで? 「わたしが彼を迎えにいったんですよ」 そうニッコリ笑う美青年(にしか見えない)を見て快斗は顔をしかめる。 こんな情けない姿を、わざわざ見せることねえだろが、と。 快斗は気に入らない。しかし、口止めしたわけじゃないから文句は言えないが。 だが、なんでここにフォックスがいるんだ? 「不思議ですか、マジック?」 「当たり前じゃん。まるで、オレがこうなることがわかってたようにタイミングよく現れやがって・・・!」 わかってたんですよ、とフォックスは即答した。 え?と快斗はなんで?というように瞳を瞬かせる。 「あなたの体調不良に気が付いたのはミスティです」 快斗は瞳を瞠って新一の顔を見上げた。 「おまえ、ゆうべ雨に濡れたままオレん家の居間で寝てただろ。気が付かなかったオレもわりぃんだけどさ。朝降りたら居間のソファは湿ってるし、朝飯の用意もしてあったから、おまえが来たってわかったんだ」 「悪い・・・小振りになるまで雨宿りさせてもらおうと思って寄ったんだけど、つい寝ちまって・・・・・」 「それじゃ風邪を引くのは当たり前でしょう。仕事の前日は特に万全の体調が要求されるのに」 油断ですね、と怪盗としては先輩になるフォックスにそう言われては、快斗も反論しようがない。 「今夜予告日だったよな、快斗」 ああ・・と快斗は溜息を漏らす。 「二時間前には出なくっちゃな」 「あいにくだが快斗。今夜は外出禁止だ」 ええーッ! 快斗は実の叔父である倉多に猛然と抗議する。 いや、そう言われるだろうとは予想していたが。 「冗談!」 「冗談と言いたいのはこっちの方だ。おまえは今の自分の状態がわかっているのか?主治医として言う。少なくても明日一杯は絶対安静だ」 「んなことできるわけねえじゃんか!オレ、今夜仕事があんだぜ!」 「絶対安静の意味がわからないんだったら、広辞苑を持ってきてやるぞ、快斗」 「・・・・・・・・」 診察の時だけかけている倉多の銀縁眼鏡が冷たく光る。 こういう時の叔父に逆らうのは自殺行為だということを、身をもって知っている快斗であるから、すぐには答えを返せない。 「今夜のおまえの獲物は“魅惑のマーメイド”だったか?」 確か、米花ホテルで特別展示されているビッグジュエルだ。 あまり詳しいことは知らないが、展示は今日までだったか? 最近の暗号は解読しやすいようになっているので、警察から新一に声がかかることはないし、おまけにロンドンからまた白馬が戻ってきたので、キッドから予告状がくるとまず彼が出てくる。 白馬も中森警部から煙たがられる存在であるが、殺人事件専門と思われている新一よりはマシと思われているようだ。 それに、新一自身が泥棒は専門外だと言ってるので、相手がキッドだからといって出しゃばるわけにはいかないという事情もある。 (キッドとやりあうのは面白いんだけどな) キッドがビッグジュエルを狙う理由を知っている新一だが、やはり探偵として頭脳戦を繰り広げるのは楽しくて仕方ないという気持ちがある。 「白馬におまえの不調を知られたのはまずかったな・・・キッドが今夜姿を見せなかったら、ますます白馬はおまえを疑うというわけだ」 「そう!そうなんだよな、新一!だから・・・・」 「しょうがねえ。オレが代わりに確かめてきてやる」 はい?今なんとおっしゃいました? 「オレが怪盗キッドになるって言ってんだよ」 なっにぃー! 「冗談言うなよ!おまえがキッドに?探偵のおまえが?」 嘘だろう!? 「パンドラかどうか確かめたらすぐに返すさ」 「反対!絶対に反対!オレは認めないからな!」 新一がキッドに?そんな危険なこと、させてたまるもんか! 「心配はいらないですよ、マジック。わたしも一緒に行ってミスティのフォローをしますから」 快斗は瞳を瞬かせて、いつものえらそうな新一と、ニコニコ笑っているフォックスの顔を見つめた。 そして、面白くなさそうに眉をしかめた。 「・・・・・おまえら、最初からとっくに相談済みかよ」 新一は快斗に向けてニッと笑う。 「予告当日に風邪でぶっ倒れた奴には、何も言う権利はないんだぜ?快斗」 むぅ・・と快斗は渋い顔になった。 確かにそれを言われると一言もない。 だが、それとこれとは話が別だ。 「おまえ、マジックが出来ねえじゃん。どうすんだよ?」 「いつも派手にやるわけじゃないだろう?それとも、今夜は白馬がいるから趣向をこらしたかったのか?」 「んなわけあるか」 あ、でも、白馬がいるといつもよりスリルがあるのは確かだ。 警官だけでは味わえない攻防が楽しめる。 新一が現場に来ないとなると、楽しめる相手は白馬かもしくは西の探偵である服部しかいない。 フェイントが容易に通じない敵はめったにいないからこそ貴重な相手。 「納得できたら、おまえはゆっくり寝てろ」 納得してねえって、とまだしかめっ面をしている快斗の鼻の頭に新一はキスを落とす。 快斗はびっくりしたように瞳を見開いた。 「心配するな。伊達におまえを見てきたわけじゃない」 オレを見てた? 「怪盗キッドは、オレにとっても好敵手なんだぜ」 今もな、と新一は言った。
日が暮れて明かりがついた倉多診療所に白馬探から電話がかかってきた。 『夜分にすみません。黒羽くんの様子が気になったもんで』 「彼なら今薬がきいてぐっすり眠っているよ。まだ少し熱があるが、明日の朝には下がるだろう」 『彼、ちゃんといますか?』 「どういうことかな?」 『あ、すみません、変なことを・・・黒羽くんは病気でも、おとなしく寝ている人じゃないので』 「ほおう、それは気になるな。だが心配はない。なにしろ彼は、わたしが今いる部屋で寝ているのだからね」 『先生の目の前に?』 ああ、と倉多が答えると、白馬は複雑そうな口調で、そうですかと答えた。 『明日、学校の帰りにそちらへ伺いますので』 「君は友達思いだね」 電話の向こうで、苦笑している少年の顔が思い浮かぶ。 確かに彼の病状が気にはなっているのだろう。 たとえ、他の思惑があって電話したのだとしても。 白馬は一通り倉多に挨拶をすると電話を切った。
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