島の上を吹く風は
時折、子供の泣き声のような音をたてた。

初めて風の音を聞いた者は皆一様に身を震わせる。
だが、この島の伝承を知る者は
風に揺れる木々を見上げながらこう呟くのだ。

ああ、木霊が泣いている・・・・・

 


 最初に下りてきたのは、真上正人だった。

 彼は、テーブルの上に用意された朝食を見た途端目を丸くした。

「あ、お早うございま〜すv」

 明るく元気に挨拶をしながら、快斗が慣れた様子で食器を並べていく。

 あら、と正人に続いてダイニングに入ってきた潮と美貴が、真っ白なテーブルクロスの上に綺麗に並べられた、絵に描いたような朝食に目を見張った。

 籠に盛られている、ふんわりと柔らかそうなロールパンとクロワッサン、白い大きな皿に盛られたスクランブルエッグにカリカリのベーコン。木の器には彩りよく綺麗に盛り付けられた生野菜。

 そして、湯気をたてているポテトのポタージュ。

「ちょっとコレ・・・カイくんが作ったの?」

 ああ、その通りだよとコーヒーの入ったポットを手に持ってキッチンから出てきた芳人がムッツリ顔で答える。

 実際、自分がやったのは野菜を洗ったのとコーヒーを沸かしただけだ。

「スゴイじゃない!このパン、手作りよね?」

「うん。小麦粉あったし」

 快斗が頷くと、女性陣はキャアキャアと瞳を輝かせ歓声を上げた。

「果物もあったからジュースにしてみたんだけど、コーヒーの方がいい?」

 生ジュース?

「ナイスだわ、カイくん!あなたサイコーよ!」

 潮と美貴はご機嫌な顔で自分の席についた。

 快斗はまず正人の前にあるカップにコーヒーを入れ、彼女たちには絞りたてのフルーツジュースをガラスのコップに注ぎ入れた。

 甲斐甲斐しくたち働く快斗を、芳人は苦々しい顔で見つめる。

 とにかく、どこから見ても人当たりがよくて明るくて可愛い少年だ。

(こいつが、怪盗キッドだと?)

 香港でのことや、自分の正体を知っていて、しかも己れの蹴りをあっさりかわした彼を見ていなければとても信じられることではなかった。

 何故、この男がここに・・・・・何が狙いだ?

 眉間をしかめる芳人の目に、遅れて現れた少年の顔が映る。

 少し顔色が悪く見える少年に芳人は声をかけた。

「大丈夫か?熱出したんだって?」

 はっとしたように瞳を上げた少年に、芳人は意外なことに気がついた。

 昨日は気がつかなかったが、少年の瞳は純粋な黒ではなく青みを帯びていたのだ。

 まるで宝石のように綺麗な瞳に、芳人は一瞬見惚れてしまう。

「シン!」

 快斗が芳人をおしのけるようにして彼の前に立つ。

「気分はどう?」

「ああ・・平気だ。心配すんな」

「ムリするなよ、シン。パン焼いたんだ。食べるだろ?」

「・・・コーヒーだけでいい」

 おまえな〜〜と快斗は困ったように肩をすくめた。

「駄目だぜ。なんか食べなきゃさ」

 快斗は新一の手をとるとテーブルの方へつれていった。

 仲がよさそうな、本当に瓜二つの少年たち。

 微笑ましささえ感じられるほどだが、一方が怪盗キッドなら双子というのは怪しいものだ。

 あのシンという少年が本当に真上麻人の子であるなら、キッドは双子の弟に変装しているということになるのだが。

 明るい光の中、間近でその顔を見ても人工の皮をかぶっているようには見えなかった。

 いくら変装の名人とは言っても、あれだけナチュラルに化けられるものだろうか?

 もし、あれがキッドの素顔なら・・・・

 ふとそう考えた芳人は、ハ・・と息を吐く。

(まさか・・な。あの怪盗キッドの正体が十代のガキだなんてことは)

 あるわけないか・・・・・

 その怪盗キッドである男は、パンを食べなきゃ生ジュースを飲めとばかりに少年の前にジュースを入れたガラスの器をドンと置いた。

 一気に機嫌を悪くした少年だが、こういうやり取りは初めてではないのか、仕方ないというようにパンを皿に取る様子を見て芳人は目を細める。

「・・・・・・・」

 少なくとも、2人はつきあいが短い関係ではなさそうだ。

 それとも気づいていないのか?

 賑やかな食事が始まる。

 とりあえず、この時に昨夜のことを口にする者はなかった。

 明るい朝の光が差し込む爽やかな時間の中では、楽しく穏やかに朝食をとろうと誰もが思ったのだろう。

 実際の所、話題は終始、快斗が焼いたパンや料理の話で盛り上がった。

 若い女性二人がいたこともあるのだろうが、快斗がさりげなく話題をすり替え誘導していたことに気づいたのは、新一と、そしておそらく芳人の2人だけだったろう。

 食事を終えると、昼の食事は潮たちに頼むということで後片付けも快斗と芳人がやることになった。

 のんびりとリビングでくつろぐ正人や潮たち、そして新一の様子を見てから、快斗は汚れた食器をキッチンへ運んだ。

 そこでは、先に入っていた芳人が既に洗い物を始めていた。

「へえ〜手つきいいじゃん」

「放浪中に皿洗いとかやってたからな」

 成る程、と快斗はニンマリ笑う。

 十代の頃に修行と称して世界中を放浪していたという話をミスター李から聞いていた。

 世情不安な国を訪れてテロに巻き込まれ行方不明になったこともあるという話だが。

(まあ、考えてみたらこいつも波乱万丈な人生を送りそうだよなァ)

「おまえの方こそ、料理の腕は素人らしくねえな。コックでもやってたか?」

 まさかあ〜、と快斗は声を上げて笑う。

「オレ、高校生だぜvんなの、やってるわけねえじゃん」

 芳人は片手に皿、反対にスポンジを持ったままジロリと快斗を睨む。

「ふざけんじゃない!おまえが高校生であるわけないだろうが!」

 最初にキッドが現れたのは20年近く前のこと。

 しかし、香港で会ったときのキッドは、かなり若い印象だった。

 夜景を見るため明かりをつけず、外の灯りだけの暗い部屋にいたために顔立ちもわからなかったが、ぼんやりと浮かぶ純白のシルクハットの下の白い顔は、40を超えた男には見えなかった。

 ふうん、と快斗は鼻を鳴らす・

「んじゃさあ、あんたはいくつだと思うわけ?」

「おまえが本物のキッドなら、とうに40は超えてるだろうな」

 だが、顔は変装で変えられるとしても、手の印象までは変えられない。

 目の前にいる男は若い。

 指が長く繊細でそして張りのある滑らかな肌は、40代の男が持つものではなかった。

 だが、30代でもない。

 芳人は自分と同じ20代半ばくらいだと考えている。

 10代の少年だと思うには、香港であったときの印象があまりにも狡猾で裏社会にも通じているところに不自然さ感じてしまうからだ。

 本当に高校生なら、まさに末恐ろしい存在と言うべきだろう。

「へえ?オレが本物のキッドじゃないって?」

 いや、と芳人は首を小さく振った。

「本物なんだろうな。空白の10年の間に代替わりしたという噂もあったし」

 単なる噂だと思っていたが。

 へえ〜と快斗は瞳を瞬かせる。

(ふん・・そんな噂が流れてんのかよ)

 だが、キッドを狙う組織の人間には半信半疑というところだろう。

 奴らとはキッドの姿でしか対峙してねえからな。

 ま、邪魔なのはおんなじなんだろうけどさ。

 一つだけ確認したいんだが、と芳人が聞く。

「何?」

「あのシンとかいう奴も偽者なのか」

 ふっと快斗は笑って頭をかいた。

「ホントに親戚づきあいしてないんだよな。実の叔父だってのに、甥の名前も知らないんだからさ」

 ま、そのおかげでオレたちは疑われずにやってこれたんだけど。

「やっぱり別人なんだな。おまえの仲間か?」

 見かけ通りなら、まだ子供だ。

 快斗はスッと持っていたフォークの先を芳人の首の前に突きつけた。

「言ったろ?あいつには構うなってさ」

 あいつの正体を知る必要はねえよ。下手に関わると死ぬよ?

(・・・・なにっ!?)

 ふふっと快斗は笑う。

 そう脅しはしたが、有名人である新一のことなんて隠し事にはならないのだが。

 ちょっと調べれば、個人情報などすぐに手に入る。

 つい最近まで、プライバシーなどないに等しいマスコミの寵児であったのだから。

 とはいえ、わかるのはうわっつらの情報だけなのだが。

 

 

 

 美貴は、向かいのソファに座っている新一をぼんやりと見つめていた。

 色白で、整った美しい顔立ち。

 美貴が通う高校にも、ハンサムでもてている男子生徒はいるが、彼のような独特な雰囲気を持つ者はいない。

 なんというか、目立つが芸能人が持つ華やかさとは違う、一種カリスマ的な吸引力のある華やかさがあるのだ。

 新一は、ここへ来る前に買ってバッグの中に突っ込んでいた文庫本を開いていた。

 駅構内のコンビニで買ったものだが、時間潰しになる程度の小説である。

 まあ、つまらなくて放り出したくなるような作品じゃなかったのはめっけものだった。

「何読んでるの?」

 潮が背後から新一の手元を覗き込み本のページ上部にあるタイトルを読む。

 誰の作品かは知らないが、〜殺人事件とあるから、推理小説の類なのだろう。

「シンくんはこういう本が好きなの?」

「ええ、まあ・・本当はペーパーバッグの方が好みなんだけど、コンビニに売ってなくて」

「そりゃあ、置いてても売れないものね」

 潮は首をすくめて笑った。

「そうか。洋書が読めるんだ」

 アメリカの学校にいってるんだから当然か。

「美貴ちゃんも本が好きだって言ってたよね」

 潮が聞くと美貴は、コクンと頷いた。

「推理小説も好きだけど、今はちょっと児童文学に興味があって」

 ああ、と潮は笑った。

「それって、あれでしょ?今、世界的ブームになってる魔法使いの話」

 あれ、面白いよねえ。わたしも読んでて、この前新作の原書を買ったわと潮が言うと、美貴は羨ましそうな顔をした。

「潮さんもシンくんもいいなあ。英語が読めるから」

 わたしも我慢できなくて原書を買ったんだけど、まだ10ページも読めてないのだと美貴は残念そうに言った。

「う〜ん・・内容を教えてあげてもいいけど、でも・・楽しみがなくなっちゃうもんね」

 うん、と美貴は笑みを浮かべ首を傾けた。

「来年出版されるのを待つことにする。それまで、できるだけ頑張って読んでみるけど」

 そうね、と潮が答えると美貴が、何か言いたそうな表情をしてから俯いた。

「どうしたの?」

「あの・・・昨夜の部屋、行ってみていいかな・・・・」

 はっとしたように正人が顔を上げる。

「昨夜のって、美貴ちゃんのお母さんの肖像画があった?」

 コクンと美貴は頷く。

「鍵あけたままだったから入れるよね。行ってみようか」

「ああ、ちょっと待って。君たちだけでいくのは危険だ」

 まだ、昨夜の侵入者のことがはっきりしていないから、家の中だといっても安心ができない。

「ボクが一緒に行きますよ。カイが来たらそう伝えて下さい」

 新一はそう言って立ち上がると文庫本を閉じテーブルの上に置いた。

 正人は何かあった時は自分よりも、若い彼の方が頼りになるだろうと思い頼むことにした。

 どうせ、もうしばらくしたら片付けを終えた二人がリビングに戻ってくるだろうし、その時一緒に後を追えばいいと正人は考えた。

 実は正人も、もう一度あの肖像画を見たいと思っていたのだ。

 美しかった美登利さんをそのまま写したあの絵・・・

(そういえば、あの絵を描いたのは誰なんだろう?)

 確か、署名があった筈だが。

 

 

 リビングを出た三人は、玄関ホールを横切って昨夜の部屋へと向かった。

 そういえば、あの部屋は他の部屋から切り離されているような感じで、今歩いている廊下は通路のような感じだった。

 多分そうなんだろうな、と新一は思う。

 あの部屋は特別なのかもしれない。

 だからこそ、新一は気になっていた。

 自分にそっくりな顔をした女性の肖像画。

 偶然ではない。何かある筈だ。

 くそ親父は知っている。知ってて、自分をここへ寄越したのだ。

 もしかして、快斗も何か関係があるのか?

 昨夜は僅かの灯りでここまできたのでわからなかったが、この部屋の扉だけが他とは違う造りをしていた。

 木の葉のレリーフが真ん中に彫られている。

 新一はドアノブを握ると、ゆっくりと扉を押し開けた。

 開けた途端、部屋の中を流れていた風が顔に触れた。

(え・・?)

 新一は思いがけないことに瞳を瞠った。

 何故、密閉されている筈の部屋の空気が動いているんだ?

「カーテンが・・!」

 潮が揺れているカーテンを指差し声を上げる。

 正面のガラス戸を覆っていたカーテンが、外からの風に押されて静かに揺れていた。

 そんな筈はない。

 昨夜は戸に鍵がかかって閉じられているのを確認しているのだ。

 まさか、自分たちが入る前に誰かがこの部屋に入ったのか?!

「シンくん・・!」

 新一が揺れているガラス戸の方へと歩み寄っていくのを潮が止める。

「危ないわ!誰か外にいるかも・・・!」

「大丈夫。人の気配はしないから」

 でも・・・と彼女たちは心配そうに顔を引きつらせる。

 新一が厚みのあるカーテンの端を掴み、そっと右側へ引いたその時だった。

 押さえられていた風がどっとばかりに入り込んだ。

 それと同時に、ヒーともヒューともつかない声がして、潮と美貴はキャアッ!と悲鳴を上げた。

 

 

 新一たちが肖像画のある部屋へ入る少し前に、片付けを終えた快斗と芳人がリビングに戻ってきた。

「アレ?他のみんなは?」

 リビングに正人の姿しかなく、新一もいないので快斗は眉をひそめた。

「ああ。美貴ちゃんが昨夜のあの部屋をもう一度見たいというんで一緒に行ったよ」

「肖像画のあった部屋?」

 成る程。

 そういえば、あれが初めて見た母親の顔だったんだよな。

 母親が亡くなったのは物心つく前で、写真の一枚も残ってなくて顔を知らなかったというのだから。

 考えてみれば、変な話だ。

 何故、写真を残さなかったんだ?

「わたしもこれから行ってみようと思うが、君たちはどうするね?」

「あ、オレも行きます」

 快斗が答えると、芳人も俺も行くと頷いた。

 じゃあ、と三人がゆっくりとリビングを出てまもなく潮と美貴の悲鳴が聞こえ、彼らは驚いて廊下を駆け出した。

「どうしたんだ!」

 真っ先に部屋に飛び込んだのは快斗で、そのすぐ後に芳人が、そして、やや遅れて正人が息を切らせて入った。

 ドアのすぐそばで、潮と美貴が抱き合って震えていた。

 新一の姿はない。

シン!

 快斗が部屋の中にいない新一を呼ぶと、ここだと新一がカーテンの後ろから姿を現した。

「何やってんだ、シン?」

 快斗が問うと、新一の背後から海からの風が入ってきた。

「なんだ、この音は?」

 まるで子供の泣き声のような音が部屋の中に反響し、潮と美貴はさらに身を固くした。

「これって風の音か?」

 ・・にしては、奇妙な音だな。

「これは”木霊”だよ」

 正人が言った。

「木霊?」

「ああ。この島特有の風の音でね。誰が言い出したのかは知らないがこの風の音を聞くと”木霊が泣いている”と言うんだ。この島は昔一人の巫女が住んでいて護ってきたという言い伝えがあって、多分そういう所から出てきたんだろうが」

 木霊が泣いている・・・・?

「嫌だ、叔父さん!なんか、気味が悪いわ!」

「この時期特有もので、ずっと聞こえるわけではないよ」

「昨日は聞こえなかったよな」

 風は吹いていたのに。

 風向きが関係してるのか?

 快斗はベランダに立っている新一の方へ歩み寄った。

 幅1メートルほどのベランダからは青い海と空が広がっていた。

 ここに立つと、本当に海と陸の境目にこの建物があるのだと実感できる。

 

 木霊が泣く声は、まだ聞こえていた。

 

 

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