エレベーターの外へ出た三人が見たのは、赤い炎の色と煙だった。

「ここは四十階か?」

 どうやら火元はこのフロアらしい。

 西側の部屋付近が激しく燃えている。

「階段は今の所無事みたいだから、君たちはすぐに下へおりたまえ!」

「白鳥警部はどうするんです?」

「上にまだ人がいるだろうから行ってみる。それに・・・気になることがあるんでね」

「気になることって、いったい・・・・」

 なんです?と問いかけた新一だが、そばにいる蘭のことを思いすぐに口を閉じた。

 今それを聞いて自分も行くと言えば、おそらく蘭も一緒についてくるだろう。

 一人で逃げろと言っても、新一のことを気遣う蘭がその通りにするはずはなかった。

 とにかく彼女をここに誘った自分には責任がある。

「新一・・・・」

 心配そうに新一を見る蘭を見て、彼は心を決める。

 彼女を無事にここから脱出させることが先決だ。

 自分はその後で行動できれば動けばいい。

「じゃあ、行きます。気をつけて下さい、警部」

「ああ、君たちもな」

 階段に煙が入らないよう防火扉を閉じ白鳥警部は上へ、そして新一と蘭の二人は下へと階段をおりていった。

 だが三十七階まで降りた時、彼らは下からのぼってくる男女と鉢合わせた。

 ホテルの客らしい5人の男女は、降りてきた新一たちに向かってすぐ上へ戻るように言った。

「三十階まで降りたんだが、そこはもうフロア全部が火と煙に包まれてて駄目だ!」

「三十階でも火災がおきてるんですか!?」

 新一と蘭は驚いて顔を見合わせた。

 単なる火災ではないのか?

「防火扉はどうなっています?火災が起きているのが客室側なら防火扉を閉じれば階段をおりられる筈ですが」

「煙がすごくてよくわからなかった。どっちみち、あの火勢じゃ防火扉に触れないよ」

 新一は背広姿の男の言葉に眉間を寄せる。

 防火扉を閉じる暇もないくらい一気に燃え上がったというのか。

 新一たちの乗っていたエレベーターが受けたあの衝撃・・・・

 過失による火災であるなら、あの揺れは異常だ。

(爆発物による火災か・・・?)

 だとすれば、白鳥警部が危惧していた何かが原因である可能性がある。

「しょうがない。上に戻ろう、蘭」

 うん、と蘭は頷くと向きをかえ新一と一緒に階段を上っていった。

 とにかく最上階へ非難しよう、と先ほどの男が言う。

 確かに下におりられないとなれば空からの救助を待つしかない。

 となれば、屋上にもっとも近い四十八階の展望レストランにいるのが一番良かった。

 階段を上っていた新一はふと四十二階で足を止めた。

 そこは白鳥警部がエレベーターに乗ってきた階だ。

 ここに何かあるのか?

「蘭、先に上がっててくれ。オレは後から行くから」

「待ってよ、新一!わたしも行くわ!」

 蘭は客室の方に向かって歩きだした新一の後を追った。

 火も煙もまだここまで届いていないせいか、静かだ。

 火元である四十階の防火扉を閉じたのが良かったのだろうが、しかし三十階も燃えているというなら遅かれ早かれ煙が昇ってくる。

 とにかく火元より上にいる客全員を最上階に避難させてから防火扉を閉じるのが賢明だ。

 静かなフロアを新一と蘭の二人が歩いていく。

 開けっ放しのドアから客室を覗いてみたが人の気配はなかった。

 階段をおりてくる泊り客とは出会わなかったから、多分従業員が上の階へ誘導したのだろう。

 早い時間帯だったことが功を奏した。

 もしこれが夜中であれば、逃げ遅れた客も大勢いたはずだ。

「白鳥警部!」

 背後でドアが開く音を耳にした二人がハッとして振り向くと、そこには長身の警視庁警部が姿を現した。

「どうしたんだ、君たち!下へおりたんじゃなかったのか!」

「降りられなかったんです。途中であがってくる人たちと会って、三十階は火と煙で一杯だったって」

「なんだって!」

 白鳥警部は目を瞠り驚きの声を上げた。

「三十階も火災を起こしてるっていうのか!?」

「みんな最上階に避難してるみたいです」

 ところで、と新一は眉を僅かにひそめて白鳥警部を見る。

「何かあったんですか?」

「あ、ああ・・・」

 白鳥警部は少し迷ったが、高校生探偵として殺人事件に何度もかかわってきている少年と、父親が探偵であるためやはり多くの事件にかかわってきている少女だということもあり彼は真実を告げることにした。

 新一は背後のドアに顔を向ける白鳥警部が、歩み寄っても何も言わないのでそのままドアを開けて中へ入った。

 ただし、やはり蘭が入ることは止める。

 新一は一人で部屋に入り、そしてそこで血に染まってソファの上と床の上で死んでいる二人の男を見つけ瞳を眇めた。

 新一は彼らの方へゆっくりと近づくと、まずソファの男を見、そして膝を折って床の上で仰向けに死んでいる男を確かめた。

 二人とも心臓を正確に銃で撃ちぬかれている。

 並みの腕ではない。プロだ。

 そして、死んでる男たちも・・・・

 二人とも背広を着ていてビジネスマン風ではあるが、明らかに鍛えられた身体つきとその手の特徴的なタコは警察官や軍人にみられるものだった。

 部屋に争った形跡がない所を見ると、襲撃は唐突でしかも僅かな時間で犯行が行われたということだ。

 この殺人とホテルの火災は関係があるのか?

 ふと新一はソファで死んでいる男の足元に何かが落ちていることに気づいた。

 なんだ?と新一はポケットから出したハンカチで手にとってみる。

(口紅?)

 意外な落し物に首を傾げた時、持っていた携帯電話がバイブで着信を知らせた。

 新一は口紅をハンカチでくるんで上着のポケットに突っ込むと、内ポケットから携帯を取り出した。

 電話は快斗からだった。

 もう気づいたのか?

 早いな、と新一は瞳を瞬かせながら電話に出る。

 だが、快斗の第一声でそうではないことがわかった。

『オレだけど、今どこにいる?彼女んとこ?』

 バーロ。オレが蘭とこに行ってるわけねえだろが。

 しかし、毛利小五郎が不在だと知らない快斗なのだからそう思っても仕方ないのだが。

 適当にごまかしてやろうかとも一瞬思うが、これからどういう状況になるのかわからない以上快斗の協力は必要かと新一は思い直して真実を言ったのにあいつは・・・・

『んなとこでメシ食ってんじゃないよ!』

 米花プリンスホテルの火災のことは既に知っていたらしい快斗は、驚いたのと苛立ちでついそう叫んでしまったのだろうが、新一の方は当然ムッとした。

 そんなとこでと言われても、まさかこんな状況に遭遇するなんて神様じゃないんだから予測できるはずないじゃないか。

 だいたい蘭と一緒に夕飯食べろと言ったのは快斗の方なのだ。

 あいつがそんなことを言い出さなければ、今夜自分が蘭とホテルで食事しようなんて考えなかった。

 ああ、そうかよ!

 悪いのはオレの方かよ!と新一はムカつき、快斗との通話を切ろうとしたがさすがに新一のことをよくわかっている快斗は大慌てで止めにかかってきた。

 焦った快斗の声が耳に響く。

 新一が今四十二階にいると答えると、快斗はわかったと答えた。

 すぐに通話が切れるが、快斗は即座に動いてくるだろう。

 何かと迷惑かけてんのはやっぱりオレの方か、と新一は溜息をつく。

 オレは足枷になっているのか?と聞いた新一に対し快斗は違うと答えた。

 おまえは、オレの希望なんだと。

 オレが生きていくには、お前が必要なんだと快斗は言った。

 だったら、オレは絶対にこんなとこでは死ねないということだな、と新一は思い立ち上がる。

 目の前には射殺死体が二つ。

 このことは快斗には言わなかったが。

 これは、あいつの管轄じゃないしな、と新一は思うが後できっと快斗は怒るだろうということは予想がついた。

(ま、いいか)

 新一は肩をすくめると部屋を出た。

 白鳥警部と蘭は、廊下で新一が出てくるのを待っていた。

「説明してもらえますか、警部?」

 当然の問いに白鳥警部は息を吐くようにああ・・と頷くと口を開いた。

「彼らは、ある人物の身辺を警護するために雇われた男たちだ」

 身辺警護・・・・・

 ソファで死んでいた男は佳山といって、大学の一年後輩だったと白鳥警部はそう話し出した。

 新一が普通の高校生であるなら話はしなかったが、一応彼の探偵としての能力をその目で見てきている白鳥警部は最初から隠さずに話すつもりだったようだ。

 あのまま新一たちが脱出していれば話すことはなかったが、殺人者がいるだろうこのホテルで孤立することがわかった以上、新一の能力は彼には貴重だった。

「彼は二年で大学をやめて自衛隊に入り特殊部隊に所属していた。しかし去年自衛隊をやめて民間企業に就職したと聞いていたんだが。それが一昨日突然、ある犯罪者の情報を教えて欲しいという電話を受けてね。本来は情報の持ち出しはできないんだが、その犯罪者に狙われている人物がいるというんで今夜事情を聞きにきたんだ」

「狙われているというのは、彼らが身辺を警護していた人物ですか」

 そうだ、と白鳥警部は頷く。

「そして、その人物を狙っているのは殺しのプロ・・・そうですね?」

「佳山の話ではそうだ。彼は何故そんな人物が彼女を狙うのかわからないと言っていたが」

 彼女・・・・それじゃあの口紅は・・・・・・・

「その殺し屋はいったい誰ですか?」

「超大物だよ。インターポールの犯罪者リストでもトップになっている殺し屋だ」

 新一は白鳥警部の言葉で思い浮かんだある男の顔に眉をひそめた。

 まさか・・・・

「アッシュだ。アッシュ・コクトー。最悪の相手だよ」

 

 

 

 火災をおこしているホテル近辺は既に侵入規制が行われていて、一般車は通ることはできなかったが快斗のバイクは裏道を通って近くまでくることができた。

 しかし、さすがにホテル前は消防車やパトカーで埋められ入ることはできない。

 快斗はバイクを近くの雑居ビルの裏手に止めるとヘルメットを抱えて火災をおこしているホテル前まで歩いた。

 ホテルの前は野次馬とホテル内に身内や知り合いがいるため心配して集まった人々でごったがえしていた。

 快斗が見上げたホテルは三十階のあたりから黒い煙が立ち昇り上の階を覆い隠している。

 熱で窓が割れ地上に降り注ぐので、警察は集まった人々を安全な位置まで必死に押し戻していた。

「大変なことになりましたね」

 背後に殆ど気配を感じさせずに立った人物が快斗に話しかける。

 その声の主が誰なのかを知っている快斗は振り向きもせずに燃えているホテルを見上げ続けた。

 快斗から連絡を受けたフォックスは車で移動中だったため、そのまま現場に車を飛ばしてきたのだが。

「ミスティはどこに?」

「電話した時には四十二階にいるといってたが、蘭ちゃんも一緒にいるし多分最上階だろう」

「下へ下りられないとなると、屋上からの救助待ちですね。この火災が起こった状況はもうわかってます?」

「消防署や警察無線から集めたくらいだがな。なんか、相当混乱してんだか要領を得なくってさ」

 最初の火災は四十階の西側の客室が原因不明の爆発を起こし燃え上がったという目撃情報があるというが、その後すぐに三十階フロアが凄い速さで燃え上がったというのだ。

 廊下を舐めるように赤い火が走りぬけるのを丁度泊り客を案内していたボーイが目撃し、すぐさま火災報知器を鳴らして三十階に入った客たちを下に避難させたという。

 そのおかげで三十階から下にいた客たちは、逃げるときに軽傷を負った者が何人かいたものの全員脱出できたらしい。

 問題は三十一階から最上階までにいた客や従業員たちだった。

 四十階の火災は客室の一つから起こったもので急激に火が回らなかったことと、スプリンクラーが働いたので殆ど最上階へ避難できたと予想されていた。

「スプリンクラーでも火が消えなかったんですか」

「一気に燃え上がったってことは可燃性のもの・・・たとえばガソリンとかまかれたってんならそう簡単には消えないぜ」

「放火・・ですか」

 ヤバイよなあ。

 単なる過失による火事ってんならいいが、事件性があるってんならあの新一がおとなしくしてるわけはない。

 しかも人の命がかかってるってんなら、さすがに蘭ちゃんも新一の行動の枷にはなんねえし・・・

「ミスティとは携帯が繋がるんですね?」

「今んとこはな・・・そう何度もかけられねえけど」

 かけるタイミングを間違えると出てくれないどころか、電源を切られちまう。

 新一はそういう性格だ。

 ところで、と美青年の姿をしたフォックスが快斗の方に顔を向けた。

「何故今夜ミスティはあのホテルにいたんです?」

「・・・・・・」

 快斗はフォックスの問いにすぐには答えられず、がっくりとうなだれ深い溜息をついた。

 

 

 階段の方を見ると、白くぼやけて見え出したことに彼らは顔をしかめた。

「下から煙が上がってきたな・・・ここにいては危ないから我々も最上階へ!」

 白鳥警部に言われ新一と蘭が階段に向かおうとしたその時、蘭がふと足を止めた。

「蘭?」

 蘭は首をかしげながら後ろに顔を向けた。

「ねえ、何か聞こえない?」

 え?と新一と白鳥警部は瞳を瞬かせる。

「泣き声よ。子供の・・・・」

「いえ・・・私には何も聞こえませんが」

 新一も耳をすませたが蘭の言う子供の泣き声は聞こえなかった。

「気のせいじゃねえか?」

「そうかなあ・・・でもさっき・・・・・・」

 納得いかないように首を捻る蘭を見て新一は白鳥警部を振り返る。

「先に行っててくれますか?ちょっと調べてみます」

 実は彼らが小学校に通っていた頃の話だが、一緒に遊んでいた友達が急にいなくなったことがあった。

 日が暮れてもその友達は見つからず、多分もう帰ったんだということになったのだが、蘭が声が聞こえると言い出した。

 だが新一にも、一緒にいた友達にもその声は聞こえなかった。

 それでも気になって探そうとする蘭に新一たちも仕方なく加わった。

 すると、消えたその友達は体育館の裏手にある溝に落ち込んで出られなくなっていたのだ。

 何度も助けを求める声を上げたのだが、誰もその声を聞くことができなかった。

 ただ一人、蘭を除いては・・・・

 そのことを思い出した新一はただの空耳だと片付ける気にならなかったのだ。

「よし。じゃ私も一緒に調べよう」

 もし逃げ遅れている者がいたとしたら大変だ。

 誰もいなければ、それはそれでいい。

 彼らは階段から上ってきた白い煙が客室フロアに流れてくるのを見ながら、手分けして調べ始めた。

 鍵があいてる客室はドアを開けて声をかける。

 しかし、鍵がしまっている部屋ではドアを叩き、中の気配をさぐるように耳をすませるしかない。

 と、蘭が「ここよ!」と大声で新一たちを呼んだ。

 新一と白鳥警部が急いで駆けつける。

「ここから泣き声が聞こえるわ!」

 蘭の言葉に二人がドアに耳を近づけると、確かに子供の泣く声が聞こえた。

「くそ!ドアに鍵がかかってる!」

 合鍵はフロントにしかない。

「仕方ない、ぶち破るか!」

 ええ、と新一も頷き白鳥警部と二人同時にドアに向けて体当たりした。

 二度目でドアがきしんだ悲鳴をあげるように大きく音をたてて内側へと開く。

 子供はドアのすぐ近く、ライトグリーンの敷物の上にしゃがみこんでいた。

 二〜三才の小さな女の子だ。

 金色のくるくる巻き毛。

 そして、突然入ってきた新一たちをキョトンと見つめる大きな瞳は、綺麗なブルーアイズだった。

「この子だけか?」

 親は?と新一と白鳥警部は部屋の中を探すが誰もいなかった。

 こんな小さな子供を一人部屋に残していったというのか。

「もしかして、ちょっとの間だからと部屋を出たら火事が起こり戻れなくなったんじゃないかしら」

 怯える子供を落ち着かせるよう優しく抱き上げた蘭が言った。

 その可能性はある。

 しかし、日本人ならともかく、アメリカやヨーロッパの親は小さな子供を部屋に一人で残すようなことはあまりしないものなのだが。

「そのことは後で調べるとして早く避難しよう」

「そうですね」

 部屋の外に出ると、煙がさっきよりも濃くなってきている。

 これ以上長く留まれば煙にまかれ階段をのぼれなくなる危険があった。

「蘭、代わろうか?」

 新一が蘭が抱いている子供を代わりに抱き取ろうとしたが、彼女は首を振った。

「大丈夫よ。この子を抱いて上までのぼれるから」

 体力は十分あるんだから、蘭は言って微笑む。

「そうか」

 まあ、赤ん坊のような小さな子供だし心配ないか、と新一は蘭にまかせることにした。

 子供の方も、蘭が気に入ったみたいで怯えた様子がなくなりニコニコ笑っている。

「他の階にも人が残っていないか確認する必要があるんじゃないですか?」

 新一が言うと白鳥警部は考え込むように眉をひそめた。

「確かにそうした方がいいんだが、煙がもうここまで上がってきているからね。避難している最上階まで危険にさらすわけにはいかないから、時間をかけて調べることは無理だ」

「ええ、わかってます」

「それじゃ、各フロアに声をかけるだけにして回ってみよう。確認する時間は五分だ」

 わかりました、と新一は頷くと、今度こそ蘭に先に最上階へあがるように言った。

 今度は子供がいるので蘭はすぐに承知する。

「では私は次のフロアを回るから、君は一つ上の階を確かめてくれないか」

「はい」

 三人はそれぞれの役目を果たすべく、煙で視界が悪くなりかけた階段を駆けのぼっていった。

 

 

 

 東都駅近くにあるマンションの一室でジョシュア・ベネットはある人物と会っていた。

 ジョシュアより半年早く日本に来たイギリス人で、かつての傭兵時代同じ部隊で戦ってきた戦友であった。

 あの頃は本名で名乗りあうことはなく、ジョシュアは”レッド”、彼のことは”エビル”と呼び合っていた。

 契約が切れてエビルが除隊し国へ戻ったのは、ジョシュアがパリに戻る一年前だった。

 ジョシュアがまだフランス軍に所属していた頃、唐突に彼が訪ねてきて、これから日本へ行くんだと言った。

 殺伐とした世界にずっと生きてきたから、戦争など無縁な生活を送っている日本で息抜きしてくると話していたが、実際のところはやはり仕事だったようだ。

 なんの仕事だかは言わないが、表の仕事でないことは間違いなかった。

 別にジョシュアは彼の仕事の内容を詮索するつもりはない。

 だが、彼が持つ情報はかなり役にたつものが多いのは確かだった。

 ダークブラウンのストレートの髪に緑の瞳をした男。

 年齢は三十代になったところだというが、見掛けはもっと上に見えるくらい落ち着いている。

 火薬の専門家で、傭兵時代は主に爆弾を作っていたが、現在は解体専門らしい。

 警視庁でバッタリ会った時は驚いた。

 最近爆弾によるテロ行為が多くなってきたこともあり、専門家として時々講義しに来ているのだという。

 傭兵時代にジョシュアから習った日本語が大いに役立っていると彼は笑って言った。

「アッシュ・コクトー・・ね。とんでもない奴を追ってんだな」

 リビングにあるカウンターバーでカクテルを作っていたエビルがそう肩をすくめた。

「オレでも奴だけには手を出したいとは思わないな」

 世界最高といわれる狙撃者アッシュの腕は、もう人間離れしていてまさに化け物だ。

「オレはまだ出くわしたことはないが、噂はいろいろ聞いてるぜ」

 しかしまさか、この日本に来てるとは思わなかったな。

 エビルはシェイクした酒を二つのグラスに注ぎ、両手に持ったままカウンターから出た。

「俺だって、あんなことがなきゃ奴とはかかわりたくなかったさ」

 だが、あの野郎は・・・・・

「相変わらずだな。その優しさは命取りになりそうだってのに、おまえがずっと生き延びてこられたのは持って生まれた運ってやつか」

 今度もその運がきく相手だったらいいが、なんと言っても相手は悪魔のような腕を持った男だ。

「ま、天使でも味方につけてれば、なんとかなるかもしれないけどな」

 エビルはクスッとそう言って笑いながらウィンクし、ジョシュアにカクテルの入ったグラスを手渡した。

 天使なら二人も知っているがな、とジョシュアも苦笑を浮かべる。

 しかも彼らの傍らにはゴージャスな女神までいるのだ。

(もっとも、自分はその天使を護らなきゃならない役目を持っていて利用などもっての他なんだが)

 本当は今あいつを・・・・アッシュを追うべきではないのかもしれない。

 ジョシュアはそう思いながらグラスに口をつける。

 と、サイレンを鳴らした消防車がマンションの下を走り抜けていくのにジョシュアは首をかしげた。

「なんかあったのか?さっきから消防車が何台も走ってるようだけど」

「ああ、コレだろ」

 エビルはリモコンを取るとテレビをつけた。

 32型の大型テレビが映し出したのは、どこかのビルの火災現場だった。

「燃えてるのは米花プリンスホテルだ。短時間であれだけ燃えるってのは明らかに放火だな」

 現場近くにいるレポーターが、少なくともまだ百人近くの人間がホテル内に残されていると告げていた。

「今んとこ怪我人だけで死者は出てないみたいだが、救助が遅れたら相当出るぜ」

「米花プリンスホテルは四十八階だったか・・・・」

「梯子は到底無理。ヘリも、時間がたてば上空を飛べなくなるよな」

 なんにしても高層ビルの火災はやっかいだぜ。

「・・・・!」

 突然テレビ画面を見つめていたジョシュアの瞳が驚きに見開かれた。

(あれは、まさか・・・・!)

 ほんの一瞬、現場を映していたカメラが集まっていた人々の姿を映したのだが、その中にジョシュアがよく知る人物の姿を見つけたのだ。

 本当にコンマ数秒にも満たない僅かな時間に映像が流れただけであったが、ジョジュアの瞳はあの二人の姿を捉えていた。

 怪盗キッドとシルバーフォックスの姿を。

 

 

 

 米花プリンスホテルの最上階にある展望レストラン。

 そこには火災が起きた時に食事をしていた不運な客とホテルの従業員、そして下へ下りられずに上へ避難してきた泊り客を合わせると約百人近い人間が救助を待っていた。

 子供を抱っこして蘭が上がってきた時はまだ自分たちが置かれている状況がハッキリしていないせいか、それほどパニックには陥っていなかった。

 それでも、レストランの窓ガラスの向こう側は灰色の煙が視界を塞いでいる。

 救助が遅れれば騒ぎ出す客も増えてくるだろう。

 一人が騒ぎ出すと連鎖反応でパニックが引き起こる。

 こういう事態で必要なのは、しっかりした判断を下し人々を安心させることのできる人間の存在である。

 幸い、ホテルの従業員も多く、たまたまこのホテルにきていた警視庁の刑事もいる。

 蘭が探すまでもなく、高木刑事と食事に来ていた佐藤刑事がホテルの従業員と手分けして客たちの対応にあたっているのが見えた。

「あ・・あれ?蘭さんじゃないですか」

 最初に蘭に気づいたのは高木刑事だった。

 彼はびっくりした顔で蘭の方に歩み寄った。

「どうしてここに?」

「新一とここで食事してたんです」

 で、帰る途中火災が起こり乗ってたエレベーターが止まってしまったのだと蘭が説明すると、高木刑事はへえ〜と目を見開いた。

「じゃあ工藤くんもここに・・・・」

「はい。新一は他の階にまだ残ってる人がいない調べてから来ます」

 白鳥警部も一緒に・・と言いかけた蘭は突然硬直したような表情になった高木刑事に首をかしげた。

「ほお〜、今夜はデートだったのか。それは気の毒だったな」

 レストランに上がってきた白鳥警部は、従業員と話をしている佐藤刑事と蘭の前で固まっている高木刑事を交互に見ながら言った。

 後ろめたさ一杯の高木には、ニコヤカに笑っている白鳥警部の顔がまさしく悪魔のように見える。

「なかなかデートも巧妙になってきたものだな(我々の目をかいくぐってデートとは)君もだんだん優秀になってきたということかな」

「・・・・・・・・」

 犯罪が思わぬことでバレた(?)高木刑事は、まさに蛇に睨まれたカエルのように、だらだらと冷や汗を流した。

「あら、白鳥くん。あなたも来てたの?」

 高木刑事の姿を探していて、そこに白鳥警部を見つけた警視庁のアイドル佐藤美和子刑事は瞳を瞬かせながらやってきた。

「それに蘭さんもどうしたの?その女の子は?」

 佐藤刑事は、蘭と彼女が抱っこしている金髪の女の子を見て首を傾げた。

「あ、この子は四十二階の客室に一人でいたので連れてきたんですけど」

 もしかして、ここに親が・・・と蘭が訊いたが佐藤刑事はすぐに首を振った。

「残念だけど、子供を客室に残してきたという人はここにはいなかったわね」

 もしいたら、真っ先にそう言ってるはずだし。

「そうですか・・・・」

 それじゃ、やっぱり親はもうホテルの外に避難してるのだろうか。

(もしそうなら、死ぬほど心配してるだろうな・・・)

 蘭の腕に抱かれている女の子は、いつのまにかクークーと寝息をたてていた。

 金色の巻き毛に白い肌。

 光沢のあるビロードの赤いワンピースにはふんだんに真っ白なレースが使われていて、エナメルの小さな赤い靴もかなり上等なものだった。

 眠ってることもあって、はたから見たら可愛らしいビスクドールを抱いているように見えるかもしれない。

「新一!」

 蘭はやっと上がってきた新一にホッとしたような笑顔をみせた。

「あら工藤くん!あ、そうか、デートだったのね」

 佐藤刑事は新一と蘭の二人を見て納得したように頷いた。

「災難だったわね、せっかくのデートだったのに」

 それはお互いさまでしょう、とはさすがに機嫌の悪そうな白鳥警部を見ては彼らも何も言えない。

 以前、園子とたまたま見合い中の白鳥警部と佐藤刑事を見つけ、その結果までバッチリ見てしまった蘭であるから、彼女も苦笑しか浮かべられなかった。(その時はコナンだった新一もいたのだが)

「佐藤さんもデートだったのでしょう?」

 え?と佐藤刑事は子供のように瞳を大きく瞠る。

「や〜ね、白鳥くん。高木くんがこのホテルのディナー券をもらったからって誘ってくれたのよ」

「もらった?」

 チラッと白鳥警部に視線を流された高木刑事の表情がギクリとこわばる。

 その顔だけで嘘がバレバレ。

 無理して手に入れたのだろうが、こんな状況になってしまっては気の毒と言うほかない。

 それを天罰だと一刀のもとに切り捨てる白鳥警部だが、そこはまあ大人であるから表に出すことはしない。

 それよりも、刑事である彼らには今しなければならないことがある。

 締め上げるのは後だ、と白鳥警部は思い、この場に避難している客たちを見回した。

 もしかしたら、この中にあの殺し屋と彼に狙われている女性がいるかもしれないのだ。

「彼女はいましたか?」

 新一が小声で尋ねると、白鳥警部は、否と首を振った。

「ここにはいないようだ」

 避難したか、それとも既に殺されているのか。

「あの男の顔がわかっていればいいんだが・・・・」

 白鳥警部がインターポールから得た資料には、あの殺し屋の顔写真はなかったのだ。

 わかっているのは、だいたいの身長と体格、見かけの年恰好に髪の色と瞳の色くらいだった。

 あの殺し屋にかかわった者の殆どは消されているというのでは、はっきりした情報が得られる筈もなかったが。

「・・・・・・」

 過失でない失火の可能性もあるホテルの火事。

 火災を起こしているこのホテルに今だ取り残された人々を、脱出させる方法がない。

 下ではいかにして救出すべきかが話し合われているのだろうが。

 それに加えて、最悪とも言うべき殺し屋がこのホテル内に潜んでいる可能性まであるというのでは、自分とそして佐藤高木の刑事三名ではかなり荷が重いかもしれない。

 せめて、アッシュ・コクトーの顔がわかれば・・・・

「刑事さん!」

 さっきまで佐藤刑事と話をしていたホテルの従業員の一人が駆け寄ってきた。

「実はこのホテルの設計に関っていた人が、たまたまこのレストランに商談で来ていたんですが、彼が言うには今なら展望室への直通エレベーターが使えるかもしれないと」

「本当ですか!」

 はい、と彼は頷く。

「運悪く二台とも下におりていて火災と同時に動かなくなったんですが、配線を少し細工すれば一度だけ使えるようになるそうです」

「それはありがたい!」

 確かに外につけられた直通エレベーター付近はまだ煙が少ない。

 今なら、それほど危険なく下へおりられるだろう。

「エレベーターの定員は何人です?」

「大人二十人ですが、体重の軽い女性や子供ならもう少し乗れるかと」

「十分です!すぐにかかって下さい!」

「わかりました!」

 従業員は大きく頷くと、すぐにエレベーターのところへと走っていった。

「助かったわね。半分がエレベーターで脱出できれば、屋上からの救出ってことになっても時間が短縮できるわ」

 とにかく、ホテルの従業員たちもだが、偶然とはいえこの場に来ていた自分たちにも彼らを全員救出する責任があるのだ。

 警視庁の刑事たちは、ホテルの従業員と手分けして二台のエレベーターに乗ってもらう客たちの人選を行った。

「エレベーターは一度おりたらもう上がってはきません。ですから、乗ってもらうのは女性と子供だけということにさせてもらいます。女性の中にはホテルの従業員も含まれていますが、そのことも了承しておいて下さい。下では今、屋上から救出するためにヘリの準備もされてます。連絡が入り次第、残った皆さんには順番に屋上へと上がって頂きますのでどうか安心して我々にまかせてください」

 白鳥警部が残される客たちが不安を覚えないよう力強い口調で説明を行った。

「あなたも頑張んなさいよ!」

 佐藤刑事は笑みを浮かべながら、やや緊張している顔の高木刑事の背中をバン!と平手で叩いた。

「食事が途中になっちゃったのは残念だけど、また機会があったら誘ってね、高木くんv」

「も、勿論ですよ!」

 恋する高木刑事は、ウィンクする彼女に向け赤い顔で何度も大きく頷いた。

 エレベーターが上がってきたという連絡を受けると、佐藤刑事と高木刑事は従業員と共に選んだ女性と子供を展望室へと連れていった。

 子供といっても、小学生以下は三人しかいなくて高校生以下でも合わせて八人だった。

 女性の数も男性の半分以下だったので全員エレベーターに乗ることができた。

 あとは高齢者を加えれば丁度定員となった。

「君もエレベーターに乗りたまえ、工藤くん」

 いえ、ボクは・・・と新一は首を横に振る。

「君は高校生だろう。あとは我々にまかせて、君は蘭さんと一緒に下りるんだ」

「白鳥警部、ボクは・・・・アッシュ・コクトーの顔を知っています」

 ・・・・・・!

なんだって!

「二度会ったことがあるんです。二度めは間近で顔を合わせたので見間違えることはありません」

「ちょ・・ちょっと待ってくれ!」

 白鳥警部は新一の口から聞いた衝撃的な事実にらしくなくうろたえた。

「君はアッシュと顔を合わせたというのかい!?」

 信じられない・・・!

 それでよく無事だったものだ。

「いったいどこであの男と・・・・」

「それは言えません。ボクにも依頼者の秘密は守らなければならない義務がありますから」

「依頼者?」

「二度ともアッシュの標的になっていた人物がかかわっているんです」

「・・・・・・・・」

「ボクは残ります。いいですね?白鳥警部」

「あ、ああ・・・わかった」

 確かにアッシュの顔を知っているというなら十分助けになる。

 だが・・・・

「今度あの男と顔を合わすことになったら君はかなり危険じゃないのか。顔を知っている君を放っておくほど、あの男は甘くないだろう」

「そうですね。でも・・・ボクの側としてもあの男は放っておけないんです」

 ボクにも守らなければならない人物がいますから。

 

 新一は先に展望室へ向かった蘭のもとへ行った。

 蘭はまだエレベーターの外にいて新一を待っていた。

 彼女の腕には金色の髪の小さな女の子が眠っている。

「やっぱり残るのね、新一」

 ああ、と新一は諦めたように笑う蘭の顔を見て頷いた。

「そうだと思った。新一が真っ先に逃げるわけないものね」

 でも、一緒に逃げて欲しかったよ、と蘭は首をすくめる。

「わりぃな、蘭」

「いいよ。それが工藤新一だもん。先に下で待ってるね」

「うん。心配すんな。オレっていろんな意味で運がいいんだから」

「運が良ければ事件にあったりしないと思うけど?」

「蘭・・・・ホント悪い。オレのせいでいつも巻き込んじまってさ」

「いいのよ。だって、こうして救える命もあるんだし」

 え?と蘭の言葉に新一は瞳を瞬かせる。

「もし新一とこのホテルに来なかったら、この子は誰にも見つけられなかったかもしれないでしょ?」

 いつもそう。

 新一といて事件に出会ってしまうけど、必ず誰かが救われるの。

「だからね、わたしは新一とここに来て良かったと思うよ」

 蘭・・・・・

 じゃ行くね、と蘭がエレベーターに乗ろうと動いた時、彼女の腕の中で眠っていた女の子の頭がもぞもぞと動いた。

 目が覚めたのか女の子は顔をごしごしと小さな拳で何度かこすり、そして新一の方にその青い瞳を向けてきた。

 女の子はパチパチとまばたきすると、その小さな手を前にのばし新一を指差した。

「ミーティ!ミーティブーン!」

 突然意味不明な言葉を言い出した女の子に蘭はえ?と首を傾げる。

 だが、女の子に指さされ言われた言葉に新一は衝撃をうけたように瞳を見開いていた。

 愛らしくニコニコ笑っているその小さな女の子が、その瞬間得体の知れない存在として新一の瞳に映る。

「新一?」

 突然顔色を変えて険しい表情になった新一を蘭が心配そうに見つめる。

 その新一と蘭の間を塞ぐようにエレベーターの扉がゆっくりと閉じていった。

 

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