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I孝子街道(きょうしかいどう)



孝子街道は、和歌山城下から、北島渡しを経て、紀ノ川北岸の北島村、梶取村、次郎丸村、
向村 を通り、貴志中村より、孝子峠を越え、孝子村に至るもので、藩政時代の紀州と泉州
を結ぶ本街道であった。


孝子街道

【紀伊続風土記】に『貴志の荘中村より、葛城を越えて和泉の日根郡中孝子、深日村に至
る、路程二里、山路平坦なり、この道 もとは笠置越え、また笠道という。古和泉国へ越え
る本道成り、・・・・』とある。

また、『神亀元年(724)聖武天皇〔第45代天皇 724〜749〕、天平神護元年(765)
称徳天皇〔第48代天皇 764〜770〕、和歌浦玉津嶋還行の時 この道より和泉国へ至
らせ給う。平安遷都後、雄ノ山峠開けたれど、永承3年(1048)関白藤原頼通公、和歌浦
遊覧に笠通山より越えられる。笠木笠通は古の名、今此の谷 三笠谷という。』とあり、こ
の街道は、古くから泉州へ越える幹線であったことがわかる。

後、明治7年(1874)に北島橋が架設され、明治31年(1898)県道に編入、昭和5年
(1930)国道16号線として、雄ノ山峠を越える路線を廃止して、孝子峠を越える路線を
建設、続いて昭和27年(1952)国道26号線と呼称を変更、路線も一部変更改修され、
昭和46年(1971)バイパスの開通により、現在の路線となった。以下、明治9年(1886)
の陸地測量部の地形図と資料により、その通筋を辿る。


孝子街道 道筋〔河南地帯

和歌山市本町1丁目の京橋北詰、札の辻から、西へ市堀る川沿いに駿河町、福町の市営
駐車場前、中橋の北詰、卜半町の県婦人会館の前を城北橋の北詰に至る。ここから紀陽
銀行の事務センタ−の前を寄合町に入り、寄合橋東詰から北へ市堀り川に沿って橋町、
船大工町、元博労町を通り、杉ノ馬場3丁目、石橋町、南海電鉄和歌山市駅のある西蔵
前町から紀ノ川の河原に出る。藩政時代に、この本町1丁目から寄合町に至る東西の堀
川端は、納屋川岸、寄合町から元博労町に至る南北の堀り川端は、西川岸と呼ばれ、水
陸交通の要地で城下第一の賑やかな通りであった。


孝子街道 道筋〔河北地帯

北島渡しの船着き場は、北島字川原崎、現在の北島橋の下流約300mのモ−タ−ボ−
タ−置き場の近くにあり、ハネの崎と呼ばれ、干潮時にはその跡を見ることができる。この
場所に河原を通路とした水面上のみに木橋が明治7年(1874)に、これよりやや上流に
架橋された。この渡しのあった紀ノ川堤防場に、「加太大川、右本山総持寺是より七丁、
文化八年(1811)」と記された花崗岩の道標があった。この道標は昭和27年(1953)
国道26号線が呼称変更され整備された時に、梶取の県道粉河加太線との交差点に移さ
れ、その後に事故で割れてしまったため、現在は総持寺の門前に放置されている。北島
には旅館も多く、ここで一泊して加太へ向かう人が多かったという。

道は紀ノ川堤防上で淡島街道と分かれ、北へ真っ直ぐに約200m進み、水路に沿って
北西に堤防下へ曲がって北島交差点にでる。十五ケ村誌(明治11年)に、この間の長さ
四丁四十二間三尺、道幅五尺とあるが、現在は道幅2mの小道である。北島交差点から
北西に福島に入り、字西向、旧河西ストア−の北川(ここに道標があったというが、現在
はそんざいしない。)で西に曲がり、関西電力北島変電所の北側を通って梶取に出る。
この間の道幅五尺、現在2mの道路となっている。

梶取の八箇側に沿って、西に200m位行くと本山総持寺への道と直交しており、右へ曲
がると、総持寺正門へ通じ、直進すると梶取字吉原、常福寺西側を通って北西に次郎丸
に通じている。この間、道幅六尺、現在は道路幅2mの道路となっている。

ここまでは、旧国道26号線の東側を並行しているが、南海電鉄加太線の踏切の南で旧
国道26号線に合流する。踏切を越えて、打手川を渡ると交差点があり、左へ折れると延
時に通じている。

直進して100m程行くと、左側にス−パ−松源があり、ここから旧国道の西側にある水
路沿いにほぼ真っ直ぐに進み、、次郎丸バス停留場の北、まき之商店の南から北西に
曲り、向の隔離病院跡の東側、キャタピラ三菱和歌山支店、南海モ−タ−スの敷地内
を通って北へ曲がると、旧国道26号線の陸橋があり、貴志中に通じている。旧国道の
交差点から100m程の所に古川(土入川)があり、ここに架かる市場橋を渡ると、市場
出という淡路街道との交差点に出る。ここは、元は貴志中村の水陸交通の中心地で、
舟で農産物を和歌山へ積み出したり、和歌山及び隣接各地からの物資を陸揚げした
所だと云われている。

ここから、淡路街道に合流して西向きに、貴志久司宅前で旧国道26号線を横切って
、和歌山運送の前から旧国道の南側を並行し、国道26号線との交差点付近で北向き
し、梅原三笠谷に入る。和歌山大学への進入路の所、現在の国道の東側に地蔵が有
り、台石に文久2年(1863)の文字が読める。

昔の三笠池は、現在の南海電鉄の線路と国道が立体交差する地点にあったが、明治
31年(1898)に南海電鉄敷設に際して、約400m南の現在の位置に移転されており、
(明治19年の地形図と比較すると明らかである) 従って、街道は、現在の三笠池の底
を通って、現在の国道の東側を南海電鉄の線路沿いに孝子トンネルの南口付近に達し
、ここから急坂を登って孝子峠を越え、大阪府岬町孝子に至る。



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