H南海道(なんかいどう)
『延期式』(注)による「南海道」とは、五畿七道の一つ、畿内から淡路島を経て四国に至る紀伊〜
淡路〜阿波〜讃岐〜伊予〜土佐の各国の国府を連ねた道。
転じて、これら六国を一括する行政区画をいう。即ち線としての南海道と面としての南海道がある。
(注)延期式・延喜式:延喜年間(901〜923)に作成された書物。延喜式とは、律令を補足した施行細則で、延喜年間に
編まれたことから「延喜式」といわれ、当時の政治万搬が網羅されている。全50巻から成る。
☆南海道
南海道の名は天智天皇〔第38代天皇 661〜671〕の世に初見される。
古代官道は、都から出発して諸国を貫いていた。紀伊国を通過している官道が南海道であるが、
紀伊国が都に近いだけに、都が変わることにより、その道筋も変化があった。
都が奈良盆地にあった時代には、南海道は奈良盆地から巨勢路にによって五條市に出て、
紀ノ川北岸を縦走して加太に至っている。大津京、恭仁京〔京都府相楽郡〕、紫香楽京の各時代
についても、五条〜加太間は変わっていないと考えられる。その後、時代とともに紀見峠越えに
なり、雄ノ山越えになり、更に孝子峠越えの背景もうかがうことができる。
南海道は中世から近代まで、時代によって、また場所によって、様々な名称で呼ばれるように
なる。「大和街道」・「伊勢街道」、そして「国道24号線」、部分的には「高野街道」であり「粉河
街道」であり「淡島街道」である訳だ。
原南海道の道筋を辿ることは、その後の地勢の変化、町の出現と発達によって不可能なことで
ある。ほんの部分的な痕跡が残っているにすぎない。
☆南海道
『延期式』による五機七道の一つ。紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐の六国の国府を通る
道を云い、同時に此等の各国の総称。現在の四国、和歌山と淡路島の範囲である。畿内より
南の海域へ下る道であることから命名されたと云われる。
☆五機七道(ごきしちどう)
令制における地方行政区画。中国では、古くから天子のいる都を畿と称し、その周辺地を
畿内と呼んだ。日本では、令制において五機とは都のあった大和を中心として山背国(後の
山城国)、和泉国、摂津国、の五カ国を称し、七道とは七つの官道に沿った国々を称し、東海
道・東山道・北陸道・山陽道・南海道・西海道を指した。道ごとに国府を連ねて官道が設けら
れ、その間に駅家(うまや)がおかれた。西海道は太宰府が特別な機能を持ち、九州全域を
支配した。
☆南海道 〔紀伊〜梅原〕
七瀬川を渡り紀伊駅前に至るまで、県道に対して二度出入りが認められる。なかでも、紀
伊駅前の旧街道は、民家密集地の路地として命脈を保ち続け、ここでも生活臭さえ感じさ
せる。
紀伊駅前を通過すると官道の北に出て、北野集落の北辺を巡り、南に方向を転じて再々度
県道を斜断し、広西へと向かう・・・・・。
府中から直川にかけて、旧街道は扇状地から氾濫原に移行するが、そこからは段丘崖に
密着し、六十谷を経て薗部まで達する・・・・・。
直川・六十谷境を流下する千手川に至ると、花崗岩の大きな石柱に行き当たる。千手川に
沿って遡行し、途中の支路を東折すると、墓の谷、行者堂へ・・・・・。
千手川を渡り、六十谷駅への登口で旧街道は県道に吸収される・・・・・・。
善明寺の小丘陵の麓を回った旧街道は、南の氾濫原の下り県道と交差した後、ほぼ直角
に屈折する・・・・・。
大谷の楠見小学校において、旧街道は二度直角近く屈曲する。周辺には、完全な形の条
理地割りを遺存しないが、二度の屈曲が其の存在した証左に唆を与えてくれる。また、小
学校の校地内を旧街道が通過する珍しい現象も見られる。
平井の入り口で、県道は左に急カ−ブするに反し、旧街道はそのまま真っ直ぐ西進する。
集落は打手川によって築かれた扇状地上に有り、平安期には河津の、戦国期には「鈴木
孫市:居宅の在した地」として有名である。旧街道は集落を貫通し、天井川である打手川
を越える急坂となって栄谷へ抜ける。打手川に架かる西川橋をはさんで東と西に若干の
道筋にズレが認められるのは、楠見村誌も語るように、近世・近代を通じて打手川の氾濫
による作用と判断される。打手川に沿って遡ると、孝子に通ずる峠道がある。この峠道は、
近世では孝子街道の脇道的存在で、飯盛街道或いは上孝子街道、また単に孝子街道を
西峠と呼ぶのに対し、東峠とも呼ばれていた。
栄谷は、戦国期までは、「境谷」・「坂井谷」とも記され、元来は海部郡と名草郡の境の意
であった。栄谷から貴志中へ向かうにつれて街道の道幅は次第に拡まり、原型の三倍程
度にまで拡幅されているのは、県道粉河加太線に受け継がれ、改修整備がされているか
らである。貴志中へは、その下流が土入川である高芝水路伝いに進む。一説には、近世
街道を貴志小学校裏の小道にあてるものもあるが。小字名を検すると県道粉河加太線沿
いに「市場」、旧国道24号線沿いに「茶屋ノ前」が判明し、仮説地図を参照しても明らかな
ように、上淡路街道は県道に継承され、孝子街道は旧国道にほぼ継承されている事実、
さらに旧二街道の重複部分ともなる等を考え合わせば、貴志小学校裏よりも、その表を
通過する県道に、近世近代共通のル−トを求めるのが妥当と思われる。
旧街道中「帝橋」なる小橋を渡るのに気付く。恐らく、これは小字「ミカド」に因んで名付け
られたと解釈され、『続紀伊風土記』は、称徳天皇〔第48代天皇 764〜770〕の和歌
浦行幸の帰り道に立ち寄った「海部岸村行宮」を此の地に比定し、編者自ら石碑を建て
たと記録する。仮に、この説を肯定するならば、旧街道は、近世より遙かに古い起源を持
つ可能性が生まれて来ることになろう。
貴志中〜梅原の間は、旧国道を斜断するようにル−トが着いていた。現在でも旧国道の
左脇(南側)に、幅70〜80cm許りの農道が存続し、新国道のガ−ド下を潜っているの
が発見できる。この道は、かつて大歳神社の鳥居前に通じていたが、国道改修、新設に
より、陰を潜めてしまう結果となった。
なお、梅原から木ノ本にかけては、県道西脇梅原線が、其のル−トを踏襲している。
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