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F高芝遺【大膳寺跡】

昭和54年(1979)から56年(1981)にかけて、和歌山大学の移転に伴う発掘調査が行
われた。しかし、すでに遺跡が破壊されたり、遺物が検出されなかった遺構も多かった。


『紀伊続風土記』より

    貴志村大字高芝の小山の上にあり、土地の人此を今尚大膳寺山と
    言っている。仁明天皇(第54代天皇 823〜850)嘉祥元年(848)
    の建立の七堂伽藍子院七箇寺。 宝泉寺・護泉寺・総泉寺・正泉寺・
    道福寺・貴志寺・大言寺 と言い七箇寺あったと云う。何れの時廃絶
    するを知らず、里人の説に大膳寺山の東九頭神谷で昔仏像三体を
    掘りす、一つは鷺ノ森御坊の本尊とする。(*此の説、鷺ノ森御坊の
    古伝の説と大同小異なり  『鷺森旧事記』)、一つは総持寺の本尊
    とす、後に在田の郡糸我に移す、一つは村中に伝ふ、此の仏古大膳
    寺の仏なりしに、寺廃絶の時此の谷に埋もれしという、貴志寺の事は
    霊異記『日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんぽうぜんあくれいい
     き)』に見えたり・・・・・中略・・・・・此の寺の古地なること知るべし、大
    膳寺山の西に城跡と唱ふる所あり誰の住みせしか知らす。


鷺森の本尊について  
『鷺森旧事記』より

   
当寺ノ 御本尊長二尺二寸ノ阿弥陀仏像ハ ムカシ木曽隠岐守当国栄谷ヲ領
   セラレシ時 栄谷ニ
大膳寺ヲ建立シテ 安置シ 自身ノ菩提道場トセラル 一年
    大膳寺兵火ニ罹ル 此仏像虚空ヲ飛テ 山上ニ至ル 中ニ光アリ 人々疑怪
   シテ光蜃謎處ニ至ルニ果シテ此ノ像ヲ得タリ 依テ村人篋(はこ)ヲ造リテ是ヲ
   納メ八幡宮ノ社ニ置事久シ 村人相伝テ曰ク 此篋(はこ)ヲ 開ク者ハ眼光落
   地云々、 天正年中ニ鈴木孫市トイフ在丁アリテ御宗門ナリシカハ・・・顕如上
   人御上洛 已後鷺森ニ本尊ナシ・・・孫市幸此八幡宮ノ篋中ニ阿弥陀仏アリト
   イエリ 是ヲ鷺森ヘ奉持シ奉シトテ 村人八幡宮ニ聚リ孫市篋ヲ開クニ果シテ
   阿弥陀仏ナリ 千時六月十八日 俄ニ黒雲覆ヒ雷電山ヲ崩シ冰凍屋ヲ破ルバ
   カリナリ 人々大キニ驚キオノカサマサマヘ迯帰リルトイヘトモ 流石孫市カ旗
   サシニ大カノモノアリ 此像ヰシテ負セントスルニ弥重シトキニ 孫市ニ向テ申
   ケルハ 形像ハ末世ノ福田ニシテ諸人ニ化益ヲQヲコソ本意タルヘシ 鷺森
   御坊ハ浄土真宗繁昌ノ地ナリナンソ今重キヤトイヒテ是ヲ上ルニ軽キ事木片
   ノコトシ 其時俄然トシテ天晴雲収ル 終ニ鷺森ニモリ来テ本尊トス。



『日本国現報善悪霊異記』

薬師寺の僧景戒(けいかい)が平安時代初期(823年前後)に編纂した仏教説話集。
諸国の奇異な話を元に仏教への帰依を説いている。全116話 のうち紀州関係は19
話。紀州の詳しい地名が出てくるところから、景戒が紀州の関係者と考えられる。
貴志寺の話は、称徳天皇の次の光仁天皇〔第49代天皇 宝亀元年(770)〜天応元
年(781)〕の時代の話として出てくる。

          弥勒 丈六仏像其逅P蟻所嚼示奇異表縁

  
紀伊国名草郡貴志里有一道場、号曰貴志寺、其村人等造私之寺故、以為字地、
  白壁天皇〔光仁天皇〕代有一優婆塞而其寺住、千時寺内音寺、呻言痛哉々々、
  其音如老大人之呻、優婆塞初夜思疑、行路之人得病参宿、起巡堂内、見堂無
  人、其時有塔木、未造淹仆伏而朽、疑斯塔霊矣、彼病呻音毎夜不息、行人不得
  聞忍故、起窺看猶無病人、然最誘(後カ)夜、倍於常音、響千大地而、大痛呻、
  猶疑塔霊也、明日早起見堂内、其弥勒丈六仏像P断落在土、大蟻千許集、嚼
  催其P、行人見之告知壇越、々々等帳、復奉造副、恭敬供養矣、夫聞、仏非肉
  身、何有痛病、誠知聖心示現、雖仏滅後、而法身常存、常住不易、更莫疑之



紀伊国名草郡貴志里に道場があったが、それは地名に因んで貴志寺といった。それは村の
人々が造営した寺であった。

その寺の優婆塞(うばそく:男性の在家仏教信者)は、ある時、堂内から「痛い痛い」と呻き声
のするのを聞いた。その声は、老人のうめき声のようであった。彼は、旅人が病気になって寺
に身をよせたのだろうと思い、堂内を回ったが、誰も居ない。その時、塔を造るための木がまだ
手付かずで長く倒れ臥して腐っていたのに気付いた。うめき声は、その塔の霊かと疑ったが、
その声は毎夜やまない。行人は、その声を聞くのが忍ばず、起きて見るが、それでもなお病人
を発見できない。そうして、ある夜半 いつもの倍くらいの大地に響くような大きな声がし、うめ
いた。それでもなお、塔の霊かと疑っていた。

明くる日、朝早く起きて堂内を見ると、その弥勒丈六(一丈:4.85m)の仏像の首が切れて土の
上に落ちていた。約千匹の大蟻が集まり、その首を噛み砕いていたのである。行人は見て壇
越(寺の後援者)に知らせると、壇越は悲しみ、また修復し、謹んで供養をしようとした。仏は生
身ではないので何の痛みがあろうか。しかし、仏像に宿った尊い仏心が知らせたのだと云うこ
とを誠に知るべきである。仏の滅亡後とはいえども、仏心つまり仏法の精神として無形の身体
はいつでも存在し、変わることはない。疑う事なかれ。


貴志は名草郡か海部郡か?

称徳天皇の行幸で、天皇が止宿した所を、『続日本記』〔天平神護 765年〕では「海部郡岸村
行宮」と記し、『日本国現報善悪霊異記』〔平安時代初期 823年前後〕では、僧:景戒は貴志
寺のある所を「名草郡貴志里」と記している。

奈良時代には海部郡に属し「岸」と表記し、平安時代には名草郡に属し「貴志」と表記した。
古代の「紀ノ川」は、貴志の付近で南流していた。その西側が海部郡で、東側が名草郡であっ
た。しかし、治水工事が未熟な当時では川の流路がしばしば変遷した。その結果、貴志地区は
時には海部郡、時には名草郡に属したと考えられる。

しかし、明治時代には、この二つの郡は合併し、海部郡の「海」と名草郡の「草」をとって「海草
郡」とした。貴志地区には、「栄谷」という地名があるが、戦国期には「境谷」と表記されている。


日本の民話〔紀ノ国遍〕

ネズミとお経


むかし、紀ノ川の北にある貴志の里に大きなお寺があっての。
ここに一人のお坊さんが住んどったんや。昔のことやさかい、なんどあったら、お寺にお参り
すらっしょ。そいで、和尚さんにお経をあげてもろうて、有り難い話の一つや二つ聞かせても
ろたんやが、これはもうお年寄りにとっては何よりの楽しみやった。

ところが、このお坊さん、どうゆうわけか、お経の読み方もあやしい。説教みたいなこと、した
ことないらしいわ。いつも、口の中でムニャムニャ言うだけで。

”皆さん、信心は大切ですど。信心している家に不幸はこんぞ。ひまさえあれば、お経をあげ
なされ。この有り難いお経を一冊ずつあげるよって、これをお読みなされ。さすれば、きっと
幸せになれる・・・・・  ”  と。

わかったような、わからんようなことばかり言ってるんやっしょ。
ある晩のことや、悩み事をかかえた一人の信心深い女の人がお参りして、どうか和尚さんの
有り難いお説教を聞かせて欲しい・・・・・・ていうんや。
和尚さん、弱ってしもうたな、実はあんまり勉強せなんだんで、何も知らんのやけど、そうとも
言えず、例によってモグモグとお経らしいものをあげはじめたわな。
すると、本堂の隅の方からチョロチョロとネズミが走り出てきたんやな。
和尚、思わず、

”おんネズミ、チョロチョロ、おんネズミ、チョロチョロ・・・・” 

といってしもうた。その時、丁度本堂の外に泥棒がやって来て、盗みに入ろうとしていたので、
さあビックリして、立ち止まった。
その時、ネズミが動くのをやまったので、和尚は、また

”おんネズミ、おんネズミ立ち止まり・・・・・”

と、やってしもうた。泥棒のことをネズミとも言うよって、この泥棒は どこかで誰かが きっと
自分のことを見張っているんやな・・・・・と思って、そら もう一目散に逃げていったわ。
その時、ネズミはお供え物を引っ繰り返したので、和尚は又言うたな。

”おんネズミ、引っ繰り返してチョロチョロ・・・・・ ”

折角、お参りに来た女の人も、これは何のことやら分からず、ポカンとしておった。
そこで、「人間はチョロチョロせんと、立ち止まって、ひっくり返らぬようにと、お説教してくれ
たんやろ・・・・・」と思った。



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