E北固寺碧巌院(ほっこざんへきがんいん)
貴志中村の北方約220mの山の中腹にたった臨済宗の寺院。和歌山禅林寺の開山である
夾山(かっさん和尚の隠居の地である。駿河から紀州に来て、和歌浦に碧巌院を建立した。
寛永13年(1637)碧巌院を此の地に移して隠居地とした。前には、姥桜や児桜があり(夾
山が植えた)、春には多くの人々で賑わい、禅の修行どころではなかったという。、
☆【紀伊国名所図会】より
貴志中村にあり。禅宗。本尊観世音、作者不詳。
当寺は、吹上禅林寺夾山和尚の開基にて、和尚彼所を退院ののち、追ってここに住まわれ
る。この地即ち終焉の地となる。
当寺に姥桜の大樹数株あって、弥生のころは壮観なり。遠近の騒人墨客、日々に樹下にき
て帰りを忘れる。実に闔国(こうこく)の名花なり。
櫻木はひとり吾日本(わがひのもと)にのみ生ふる木にして、また異国に出ことをきわず。
彼の沈休文(ちんきゅうぶん)のたぐい王刑公(おうけいこう)当の詩にもみえる山桜といえ
るものは、花の朱きものにて、類すべきものにあらず。また温公(おんこう)の詩には紅櫻
ともみえたり。
支那に此の樹はなきことは、既に延宝年中崎陽(えんぽうねんちゅうざよう)に来たりし何
清甫(かせいほう)といえる清人(しんじん)の、口ずからしかいえりとならん。
今、来舶(らいはく)清人、櫻の盆樹(はちうえ)を数多と整ひかえりて、大いに賞することと
かや。これ我邦の風土の相応の樹ならばなり。
昔は梅を花とのみいひしが、中葉以来(なかむかしより)、花といえば此の樹のこととするも、
山といえば比叡、寺といえば三井をいえるのたぐいにて、凡そ多かる花のなかにも、姥桜は
この花のことに優れて、尊ければなるべし。
漢国(あらくに)のいにしえ、梅の花をただ賞せざりしとみえしかど、塩梅といえる字のみは
古きふみにもみえたれども、花を愛ずるにはあれず。霊均(れいきん)が〔離騒経(りそうきょ
う)〕にだもいえることなし。その後ほぞを経て、魏(ぎ)といえる世にうつりても、唯ゆれい
梅の実の酸(す)きことのみは見えたれども、なほ其の花はめずることともきこえず。
これをもっておもふに、彼の国はいともいともきたなきまで、いろのふかきものにあらざれば
愛でぬ人の性なめり。さるお何条この洒落(やさし)く美麗(うるは)しき花の生(な)ともおも
うべきやは。こらは我邦のかれにくらべて、いといたう閑雅(みや)びてまされる人の性なれ
ば、こころなき草木まで、かかるめでたき花のなりませるになんありける。
さて彼の姥桜は、柏原先生の説には、彼岸桜に似て気候はすこし遅く、枝垂れ、海棠(か
いとう)桜と同じ頃ひらけり。その開くときなほ葉のなきゆえに、姥の名は負へるなりといふ。
○臨済宗(りんざいしゅう)
臨済を開祖とする仏教の宗派で、中国禅宗五家七宗の一つ。第七祖石霜楚円のとき、門
下の楊岐方会による楊岐派と、黄龍慧南に始まる黄龍派に二分したが、曹洞宗、運門宗な
どに抵抗して長く後代に伝わった。日本では、栄西が建久2年(1191)に黄龍派の法を伝
え、聖福寺、建仁寺を建てて、円・密・禅の三宗兼学の道場として始まる。また、楊岐派の
方は俊仍(しゅんじょう)が建歴元年(1211)に法を伝え、泉涌寺において戒律と並んで禅
法を広めたのを始めとし、禅宗二十四流のうち、二十流までが楊岐派の系統になるにいた
った。
明治以降に各派は、それぞれ館長をおいて独立し、なおも宗派は、天龍寺派・相国寺派・
建二寺派・南禅寺派・妙心寺派・建長寺派・東福寺派・大徳寺派・円覚寺派・永源寺派・
方広寺派・国泰寺派・仏通寺派・向嶽寺派の十四寺派を数え、妙心寺派が最も大きい。
末寺は合わせて六千余寺。
日本仏教の一派で、曹洞宗および黄檗宗(おおばくしゅう)とともに禅宗に属する。中国唐
時代の臨済義玄(生年未詳〜899)を宗祖とし、宗より元の時代に、その法派を日本に伝
えた中国及び日本の禅僧と、これを受けて日本で改宗した人々を派祖として、現在は妙心
寺派以下の十五派と四教団がある。十五派は、かつて第二次世界大戦中に連合し、臨済
宗と称したことがあるが、戦後は再び個別の宗教法人として独立し、今日に至っている。
教勢は妙心寺派が最大で、寺院3429寺、教師3509人、信徒69万5千5百32人(文化
庁『宗教年間』1980年版)を数え、その他諸派の信徒数は約78万人である。
○臨済
L i n - j i (?〜867) 、中国唐の禅僧。曹州南華の人。名は義玄、諡号(しごう)は慧照
禅師。臨済宗の祖。黄檗(おうばく)希運の法を継ぎ、参禅修行者には厳しい渇を与え、中国
禅宗の中で臨済宗は最も盛えた。臨済宗の激しさは画題としてもしばしば取り上げられ、そ
の言行は弟子により*『臨済禄』にまとめられている。
*『臨済禄』
L i n - j i - l u 中国、唐の僧 臨済の言語録。二巻。臨済の弟子:慧然が編集したもの
で、正式の名は『鎮州臨済慧照禅師語録』。問いに対する師の答えは「弁知」の一喝である。
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