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D称徳天皇行宮跡(しょうとくてんのうあんぐうあと)

旧道〔南海道〕に架かる橋、昔都の公家の方がお通りの時、架けた「帝橋」。この橋から南西
に向けて、「みかど」という小字(こあざ)がある。天平神護元年(765)、称徳天皇〔第48代
天皇 764〜770 皇位・東大寺の大仏を作らせた聖武天皇の娘。〕が和歌浦行幸の往還
のとき、宿泊したところがが、この地であるため、このような地名がついたといわれる。


『続日本記』称徳天皇行幸行程

  10月13日   平城京を出発し、高市郡小治田宮到着
      15日   山陵を過ぎ、宇智郡到着
      16日   紀伊国伊都郡到着
      17日   那賀郡鎌垣行宮到着、夜通し雨
      18日   和歌浦玉津嶋到着、晴れ
      19日〜  望海楼から海を眺め、雅楽や雑伎を楽しむ
      25日   海部郡岸村行宮到着
      26日   和泉国(日根郡深日行宮)へ向帰途につく

            ※行宮(あんぐう)・・・天皇がお泊まりになる臨時の宮殿


奈良時代の行幸

 同時代の政治の動きを記録した『続日本記』〔文武天皇(第40代天皇 697〜707在位)
697年〜延暦10年(791)桓武天皇迄9代95年間〕によると、この時代の天皇は約120回
の行幸 〔常住の都を離れて他所へ移動すること〕を行っているが、その大半は平城京内や
各離宮など畿内での範囲である。畿外への行幸は、わずか16例で、そのうち内乱などによ
る避難のための行幸は10例認められる。純然たる行幸は、たった6例で、その内紀州には
3回来ている。天宝元年(701)文武天皇の紀伊国牟呂温泉行幸、神亀元年(724)聖武天
皇の和歌浦行幸と、この称徳天皇の和歌浦行幸である。行幸回数の少ないのは天皇不在
による政治の停滞や軍事的緊張を恐れたためであろう。そんな中で、和歌浦には3回も来て
いるということは、平城京から近かったという地理的要因が関係している。そういった状況の
なかで、称徳天皇は和歌浦に来て、その帰途に「海部郡岸村行宮」に逗留したのである。
父の聖武天皇が和歌浦を訪れ、その素晴らしい印象を娘に語っていたのかもしれない。


「帝(みかど) 」の由来

 ここ「帝」は,その称徳天皇が逗留した所なのだろうか。だから、「帝」という小字が残ってい
るのだろうか。(江戸時代には、天皇の行幸を記念する紀州藩儒学者の仁井田好古の石碑
があった)。しかし、実際に、ここに天皇が逗留したとの証拠がない。「岸村」のどこかには間
違いないであろうが。ここに「ミカド」という地名が付いたのは、むしろ、この地で東西に走る
道と、南に続く道の三叉路であったからかもしれず、また、この地が、三角(ミカド)の形をし
ていたからかもしれないのである。結局は、はっきりしたことは残念ながら分からないという
ことになる。


*貴志の由来

 現在は「貴志」と記しているが、この時代には「岸」と書かれていたことが分かる。当時の
「紀ノ川」は、それまで西流してきた流路を、当地区付近で南方に変え流れていた。現在の
土入川がその名残である。「岸」と表記したのは、紀ノ川の川岸にあった村だからと考えら
れよう。


舊(旧)の孝子越え道

 岸村の行宮は、和歌山より孝子越え道を通って大阪府に入る途中にあったことは『続日
本記』の文によって明らかである。その後も和歌浦より此の道を通ったものであることは永
承3年(1049)藤原頼通が、紀ノ湊から紀ノ川を過ぎて葛城山脈越えしたことによっても
知るものである。旧の孝子越え道は、現在のものよりも更に東にあった。即ち栄谷小字ミ
カドの間の道を南に通ずる路が、「旧の孝子道」であった。今は、二尺ばかりの細い小路
となっているが、此の「淡島街道(南海道)」に突き当たる所に石碑が立っていた。

石碑の正面に  ” 右  わか山  左  こかわ ” と記し、
右側面に     ” 天明五年(1785) ”  左側に ” 二月吉日 ” と記していた。

即ち、この地点は、粉河と和歌山に行く三叉路をなしていたものであって、旧孝子越え街
道の和歌山への通路と南海道との分岐点であったことを示すものである。


行宮跡(あんぐうあと) 

『紀伊続風土記』によれば、巻八、名草郡貴志荘栄谷村の条に、
 
  ” 高芝の南にあり、方一町許の地字を帝と称す称徳天皇和歌山行幸の時 還到海
    部岸村行宮 とあり、即ち此地なり 今碑石を建て其の地を表す 其の文に曰く  ”


として、次に仁井田好古の選文を載せている。しかし、今はその碑文は貴志のどこにも見当
たらない。が、高芝と言い、帝という字名が当時においても既にあったことを知るのである。
『紀伊国名所図会』にも貴志村栄谷にあると記している。しかしながら、この所と指しては定
かではないが、土地の人々の帝という地名が、それであろうとしている。


岸村宮址 

『紀州名勝誌』にも、また この事を記している。

  ” 在府城北稍一里餘貴志庄栄谷村西、続日本記云称徳帝天平神護元年幸此。 ”

以上の如く、古来から此の地が岸村行宮跡として考えられており、又この跡を知るべき地名
も、今に残っているのである。


帝の玉津嶋行幸と地方の行政・経済

 三帝〔聖武天皇・称徳天皇・桓武天皇〕の玉津嶋行幸はただ単に風光を御賞覧されるだけ
のものではなく、地方行政の御巡察も兼ね、地方経済の発展にも心を注がれていたもので
ある。聖武天皇〔第45代天皇・神亀元年(724)〜天平感宝元年(749)〕神亀元年(724)
の行幸においては、百姓の課税を免ぜられ、特赦を行う。且つ、地方官吏に贈位をされ給う。

『続日本記』巻九 神亀元年十月十六日の条には

  壬寅(神亀元年十月十六日) ○略。百姓今年調庸、名草海部二郡田祖成免之。
  又赦罪人死罪巳下。名草郡大領外従八位上紀直摩祖為国造進位三階。少領正
  八位下大判檪津連子人海部直士形二階、自余五十二人各位一階。云々

紀伊国の百姓即ち一般民には、調庸を、さらに名草郡・海部郡の二郡の民には、なほ田祖
を免じ給うたのは、国造り以下の官吏に御贈位あらせられたる御事と共に離宮の功、並び
に行幸あらせ給うたに就いての民の奉公の労を嘉し給ひし御事と拝されるのであって、され
ば、玉津嶋の所在し、行宮離宮の設置せしめられたる海部郡及びその近くの名草郡官人、
百姓に対し、特に御仁慈を垂れさせ給うた御事と拝察し奉るのであり、また死罪以下の罪
人に特赦の恩典を垂れさせ給ひし御事も、皇恩の無辺なるをひろく人々に浴せしめたまふ
大御心を仰ぎ奉るのであって、斯く地方行宮にあたり、民草に垂れさせ給へる叡処の程畏
き極みである。 


称徳天皇〔第48代天皇 天平宝字8年重祚(764)〜神護景雲4年(770) 父:聖武天
  皇〕におかせられても又御同様の御仁政を施させ給うた。『続日本記』巻二六 天平神
  護元年十月の条に記し奉るところである。

  称徳天皇が玉津嶋行幸にあたり、紀伊国の一般民に調庸を、名草郡・海部郡の
  二郡の民には、更にその上に田祖を免じ給う御事は聖武天皇の御遺徳に倣はせ
  られ給うた。併し、特赦の恩典は十悪、盗の罪人には及ばしめず、特にその罪の
  悪む可きを知らしめ給ひ、行宮の功を賞せさせ給ふ聖恩は、この度は国造り及び、
  名草郡の官吏に限らず、熊野直廣濱にも及ばせられたのである。


桓武天皇〔第50代天皇 天応元年(781)〜延暦25年(806)〕 延暦23年(804)10月
  玉津嶋に行幸あらせられ、同月12日の条に

  紀伊の国司、郡司、民草並びに扈従(こじゅう:天子の乗り物の供をする)の
  人等に仰せ下されたのであって、名草・海部の二郡の民草に、今年の田祖
  を免じ給ひ、国司国造り以下の地方官人に位を賜うた御事は、先の二度の
  行幸の御時に同じくわたらせるのであるが、この度は、更に名草郡・海部郡
  の二郡に建立されてある諸寺に使いを御差遣いあそばされ、特に綿を御下
  賜あらせられたことがある。

三帝とも、高齢者の上に特に御優遇あらせられた。高齢者の多きことは、国土の繁栄
を示し、又一家族の幸福団欒を表すものである。天皇これを嘉し給ひ、高齢者の尊ぶ
べきことの孝道を御垂範あらせられた。


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