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C中野城址

 天下布武による全国統一を目指す織田信長は、元亀元年(1570)大阪本願寺とも亀裂を
生じ10年余りに及ぶ戦が始まった。天正5年(1577)になると、信長は本願寺の背後勢力
であった雑賀衆を10万人・15万騎ともいわれる軍勢を率いて攻撃した。当地には、中野城
があり、、激しい鉄砲戦が繰り広げられた。

雑賀合戦と呼ばれるものは、都合3回行われたが、その内の2回までは織田信長と雑賀衆
の間で戦われた。この時代、紀ノ川河口一帯を中心とするかなり広い範囲の地域を指して
雑賀と称していたが、ここを拠点とする土豪集団が雑賀衆であり、元亀元年(1570)に始ま
った石山合戦では、当初から本願寺の中核部隊となって活躍していた。そのため、信長とし
ては、彼らの本拠地を攻めて、これを破壊させることによって、いささか手詰まり状態になっ
ていた石山合戦に決着をつけようと考えたわけである。

雑賀衆の戦闘力が敵味方から高く評価されていたのは、彼らは大量の鉄砲を保有し、その
操作に熟練していた者も多かったことによるところが大きいが、彼らはまた多くの水軍を抱え
ていて、そちらの面での貢献も小さくなかった。諸国から石山に集まって来る兵員や物資は、
殆どは海路によって城中に送り込まれていたが、その任に当たったのは、「海賊門徒」と言わ
れた雑賀や、これと提携する和泉南部の水軍衆であった。

信長が日本国王になることを阻止した雑賀衆だが、彼らにも弱点があった。大体、雑賀衆と
いうのは、正確には幾つかの地域共同体〔惣(そう)〕の複合したもので、大別すると雑賀荘
・十ケ郷・宮郷・中郷・南郷の五荘に分かれていた。

宮郷・中郷及び南郷を指して三緘(からみ)あるいは三組と称していた。これらに属する人々
は、残り二荘郷の人々とは、意識においても行動においても、かなり隔たりがあった。彼ら三
緘衆は、石山合戦の際、狭義の雑賀衆ともいうべき雑賀荘・十ケ郷の人々が本願寺に与した
のに対し、最初から信長寄りの姿勢を示している。

これらは、浄土真宗(一向宗)信仰についての熱心さの相違、ひいては本願寺との関係の濃
淡ということもあろうが、それ以上に拠って立つ経済基盤や生態の違いに基づくところが大き
かったと考えられる。例えば、三緘衆の土地は地味が良く農業性にすこぶる適していたが、
雑賀荘などは農業に不向きであったため、早くから可耕地の争奪をめぐって、しばしば抗争が
あった(雑賀荘・新宮郷の争い、雑賀荘・日前宮領の争い、太田城の戦い、など)

信長が雑賀攻めのために用意した兵力は、同時代の記録によっても見ても、五〜六万から
十万までと随分開きがあるが、公称十万程度の人数は繰り出したようである。これは、信長
一代の戦史の中でも、あまり例のない大軍であった。彼が雑賀衆を潰すことに、如何に執着
していたかがよく分かる。

彼らは、予定通りに2月13日に京都を発し、16日には和泉香荘(大阪府岸和田市内)まで
進出した。翌17日、雑賀衆の前進拠点である貝塚(大阪府貝塚市内)を攻撃する計画にな
っていたが、相手は夜のうちに海路退却してしまった。一戦もせずに退却するくらいなら、は
じめから出てこなくてもよさそうなもんだが、本願寺の法王・顕如(けんにょ)が、この行動を
賞賛しているところをみると、予定された作戦の一部であったらしい。

この後信長勢は、2月22日に和泉の志立(大阪府泉南市信達(しんだち))まで進み、ここ
で次のように浜手・山手の二軍を編成した。

   浜手・・・滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・細川(長岡)藤孝・筒井順慶と配下の大和衆
   山手・・・佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重・別所長治・同重棟・堀重政・(案内者)根来
         杉坊・雑賀三緘衆

浜手の軍は、孝子峠を越えて、紀ノ川の北岸にある雑賀衆の支配地を制圧しようとするもの
であり、山手の軍は、和泉山脈を東方の風吹き峠を越えて根来に入り、田井ノ瀬付近で紀
ノ川を渡って小雑賀方面に迫ろうとするものであった。兵力は、それぞれ三万と伝えられて
いる。

対する雑賀側の配備は、あまり明らかとは言えないが、浜手の軍に対しては孝子越えとそ
の麓の中野城に兵を置き、山手の軍に対しては和歌浦に近い雑賀城を本陣とし、雑賀川
(この名称は、後世定着したもので、現在は和歌川と呼ばれている)に沿って、弥勒寺山
をはじめとする多くの砦を構えたことがうかがえる。動員した兵力については、雑賀川方面
に2000余人が出動したという伝承がある程度で、詳細が分からない。いずれにしても、
数の上では、十万と号する信長軍勢に比較して問題にならないほど劣勢であったことは
容易に想像できる。

信長の浜手の軍は、2月22日の内に、和泉の淡輪を経て孝子峠まで進み、ここを守って
いた雑賀衆と一戦して打ち破った。

  『信長公記』 天正5年2月22日
     ・・・・・・・浜手之方ヘ被遣候御人数
         滝川左近、性惟任日向、惟住五郎左衛門、蜂屋兵庫、永岡兵部太輔、
         筒井順慶、大和国衆
     谷之輪口(たんのわぐち)ヨリ先ハ道一筋ニ而節所候間、鬮取(くじとり)ニシ而
     三手二分而山々乱入也、中道、永岡兵部太輔、惟伸日向告先陣之所ニ、雑賀
     之者共罷出相支及一戦候、城介殿、北畠殿、上野衆、三七殿、二月ヲ推付御
     出也、永岡内(下津)推内一番鑓ヲ合、無比類働、己前モ岩成主税組討ニ仕
     手柄之仁候、研之者、数多討揃所々焼払、中野之城取巻被攻候、二月二十
     八日、二和(たんのわ)迄、信長御陣ヲヨセラレ、従之中野之城降参申、御赦
     免也・・・・・・

 『信長公記』淡輪から先は一本道の切所なのでクジ引きをして三手となり、山と言わず
谷と言わず乱れ入ったが、中筋は細川・明智の両勢が進み、二の手として信長の子の
信忠・信雄・信孝らが続いたとある。孝子越えの本道以外に間道も利用して進軍したの
かもしれない。信長の三子が、この方面に従軍していることからも知れるように、信長方
では主力をあげて突破を図ったらしく、雑賀衆側は相当の被害と損害を出して退却した。
信長勢の中では、細川の臣・下津推内(しもつごんない)という者が一番鑓を合わせた。
この下津は天正元年(1573)、山城淀城の戦で三好三人衆の一人・岩成友道(いわな
りともみち)の首を取った人物である。彼は後日、本陣に呼び出されて信長から賞詞を
賜り、大いに面目を施したが、その後、間もなく討ち死にしたと伝えられている。

孝子峠の戦いで雑賀衆を打ち破った信長方の浜手軍は、そのまま峠を下って中野城を
取り巻いた。この城は、土入川(どうにゅうがわ)に近い低湿地にあった平城で、今日で
もその所在はあきらかであるが、遺構らしきものはほとんど残っていない。孝子峠を第
一関門としれば、第二関門に当たるのが、この城であるから、雑賀衆の方も相当の準
備を整えていたと思われるが、2月28日に至って、結局、開城した。『信長公記』は、
信長の本体が淡輪に進出するのを見て、城兵がおびえたからだと説明しているが、和
泉山脈の向こう側の動きが中野城から望見できるはずもない。


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