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B 宗 固 松 〔上田宗固の生涯〕


 宗 固 の 松 【紀伊国名所図会】
 
 貴志村より北になる山上にあり、勝国のとき、浅野家の家老上田宗固なる人、世にも聞こえし
英雄にして、また、かたはら風流の道にも暗らかざりしと蚊帳。この葛城の山上に、手ずから一
株の松を植えて、常にその真操を賞せられし遺愛の樹なりとぞ。


 宗 固 松

 貴志村の北12町許。山上紀泉の境にあり。元三株あった故「三本の松」ともいう。浅野家家老
上田宗固が邸内から望んだ故名付けたものだと。或いは松の傍らに物見を建てた故名付けたと
もいう。松の西方数歩二方十間許平地がある。織田信孝が雑賀を攻めんとして此の地に砦を築
いた跡なりという。


 宗 固 松

 浅野家の家老で茶人でもある上田宗固が、自邸から借景として眺めた松が梅原の北方(現・
ノ−リツ鋼機敷地内)約12町(約1440m)の葛城山上にあったと伝えられている。元は三株あ
り「三本松」とも言われた。一株は三抱え程もあったという。彼は慶長8年(1603)から元和5年
(1619)まで16年間和歌山にいた。現湊紺屋町一丁目付近に屋敷を構え、慶長8年乃至9年
(1603/04)ころ邸内に茶寮「和風堂」を造営したようである。此の説とは別に、和歌山から一
理半ほど離れた乾の方向で、北山と俗称されるところに「宗固物見の松」と言われる松があった
とする資料もある。木本地区の小字に「北山」があるので、これを宗固松と考えれば、所在地は
梅原でなくなる。


 市小路説

 上田家の記録には、以下のようにある。

宗固松、紀州海上郡市小路之山上ニ有、山ハ此辺押並テ葛城ト称ス、和歌山ヨリ西北三十七
八町ニ有、松之太サ根ヨリ四、五尺、上ニテ弐カイ壱尺有、形ハ笠之如ク、枝四方ニ低レタリ、
近辺ニ余松無之・・・・


 戦国の武将 上田宗固(1563〜1650)

 尾張の出身、名は主水正重安(もんどのしょうしげやす)。もと、丹羽長秀(にわながひで)の
家臣。長秀の死後、秀吉に仕える。室は杉原氏で豊臣家臣・浅野家とは縁戚。千利休・古田
織部と交わり、茶人として知られる。関ヶ原では石田三成に与したため浪人。出家して宗箇(
宗固・宗古)と号す。紀伊の浅野幸長(あさのよしなが:長晟(ながのり)の兄)に招かれ、樫井
では陣頭で戦い軍功をあげた。元和5年(1619)浅野家の広島移封により、安芸小方(あきお
がた:現広島県大竹市)を領し、家老・一万七千石。茶室『和風堂(わふうどう)』を建て、茶人
・宗箇の名声を確立した。造園作庭や作陶にも優れた文化人であった。慶安3年(1650)、
88才で死去。


 大阪城の戦い 大阪冬の陣・夏の陣

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に勝利し、徳川家康は天下の政権をにぎった。とはいえ、
難攻不落の大阪城にいる豊臣秀頼(とよとみひでより)は、なお侮り難い存在であった。
慶長19年(1614)の「方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)」を口実に、家康は10月、諸大名を
動員して大阪城を包囲する〔大阪冬の陣〕。豊臣方は、浪人武将を招募、大阪城に立てこもって
徳川軍の攻撃を防いだ。しかし、12月に講和が成立すると、徳川の手で大阪城の惣構えと二の
丸・三の丸の堀は破棄されてしまう。翌年20年(1614)、家康は豊臣に不穏の動きありとして
再び開戦。大阪に攻め寄せた〔大阪夏の陣〕。ここでも豊臣方は、後藤又兵衛・真田幸村ら歴戦
の武将たちが勇戦し、徳川軍を苦しめた。だが、圧倒的な優勢を誇る徳川軍の前に名だたる武将
も次々と戦死。大阪城も焼け落ち、5月8日秀頼・淀殿は自刃。

豊臣家はわずか二代で滅亡した。その後、大阪の陣は『大阪物語』・『難波戦記』など軍記物の題
材となった。そして軍談の流行などによって、武士や庶民の人気を集めて行く。


 茶杓名『敵がくれ』  竹二本

 上田宗箇樫井川合戦の時、敵が迫ってくる中、竹藪に隠れ茶杓を二本作ったという。


 大阪夏の陣・樫井合戦

 泉州樫井の合戦は、大阪夏の陣の緒戦をかざる戦である。小規模な戦闘ながら単なる前哨戦
ではなく、夏の陣の行方をうらなう意味を持った戦いであった。慶長20年(1615)4月、家康は
豊臣領に隣接する紀伊の浅野長晟(ながのり)、それに四国の大名に、和泉への出勢を命じた。
適地に最も近い浅野氏が和泉方面の徳川軍先方を努める。これは当時の軍事上の慣例である。
大阪の包囲体制が整うまで、浅野軍と岸和田城主の小出吉英(こいでよしひで)に大阪方を牽制
させるのが、家康の戦略であった。浅野長晟(ながのり)は、兄幸長の急逝をうけて紀伊39万石
を継いで、まだ2年。家中の統率権は、まだ弱体だった。冬の陣では熊野・新宮一揆の平定に手
間取って、大阪へ到着が遅れた。豊臣家の姻戚であるためか、大阪への内通が取り沙汰されて
いた。

夏の陣も紀伊北部の一揆に対処しながらの出陣となった。4月28日には泉州佐野川付近に到着。
先鋒の亀田大隅(かめだおおすみ)の案で安松・樫井の線まで退いた。泉州樫井は熊野街道と樫
井川の交わる地点にあり、両側が水田のうえ町並みで街道は狭い。中世より城館が築かれてき
た要害の地である。浅野軍は南進してくる豊臣軍を大軍と想定し、樫井で敵軍を追撃する態勢を
取った。ただ、家老の浅野左衛門佐(さえもんのすけ)が佐野市場での正面決戦に固執し、亀田
と激しく口論する一幕もあった。ともかく、長晟(ながのり)本体は川向こうの信達に布陣し、老練
の亀田や上田宗箇が前線に立った。

対する豊臣方は、大野治長(はるなが)・治房(はるふさ)兄弟が徳川軍の進行ル−トの要所を
襲撃し、近在の徳川方を叩く作戦をたてた。治房軍は27・28日、大和郡山・法隆寺近郷と住吉
・堺を襲撃し、岸和田城を包囲。大野治長も知行地佐野で一揆蜂起を工作。紀北の一揆との呼
応して浅野軍を挟撃する構えをとった(紀伊の土豪山口兵内・兵吉兄弟は治房軍に所属)。ただ
し、佐野での一揆工作はあえなく失敗。紀北の一揆勢力との連携も万全ではなかった。しかも、
この追撃作戦は先鋒の塙(はなわ)団右衛門と岡部大学が確執のすえ先鋒を争い、大野治房本
体の到着を待たずに浅野軍に突撃したのである。浅野軍総勢五千に対して団右衛門・岡部勢は
数百。勝算や戦術を度外視した開戦である。このため、浅野軍も混乱したが豊臣方は少数の上
に後続がなく、団右衛門や淡輪重政ら物頭12人が討たれる敗戦となった。浅野軍は敵の抜け
駆けから、計算外の勝利を得たと言える。ただし、相当の混戦だったらしく、浅野方でも誰が塙を
討ち取ったにか意見が食い違うほどだった。

豊臣軍の敗因は、直接には団右衛門・岡部の対立と猪突にある。両者の不和は冬の陣以来で、
団右衛門が蜂須賀陣を夜討ちした際、岡部は参加できず恨みを持ったという。前日からの強行
軍で兵士の疲労も大きかった。しかし、全体的にみれば、大野兄弟の作戦に欠陥があり、団右
衛門らを統御できなかった点も大きい。

 塙団右衛門は冬の陣では、城西方面の戦局劣勢を挽回するため、本町橋口の敵陣を夜襲し
て快勝し、「夜討ちの大将」の名をあげた。10月末の緒戦でも堺から退却する友軍を援護して
いる。巧妙な戦法に優れ、決して猪突猛進の武将ではない。自分の名を記した旗指し物を使
い、夜討ちに際して名前札を撒かせるなど、誇り高き戦国人だった。岡部と争って泉州に出陣
する直前、団右衛門は同僚に討ち死にすると語っている。城の惣構え・堀を壊され、豊臣の負
けと決まった以上は、先陣の武名をあげて討ち死にする道を選んだのである。塙団右衛門の
討ち死にには、夏の陣で最初の豊臣軍大将の戦死である。それは緒戦の敗退という心理的な
衝撃のみならず、その後の豊臣方武将の行動を規定した。後藤又兵衛・真田幸村・木村重成ら
が後続なしに突撃して徳川方を潰乱させ、圧倒的な敵軍の中で壌滅するという夏の陣特有の
戦闘パタ−ンは、樫井合戦で作り出されたといえる。しかし、彼らの討ち死にには武功として称
賛された。

 勝者の浅野軍にとっても樫井合戦は、大きな転機となった。亀田大隅の指揮と上田宗箇らの
勇戦で勝ちはしたものの、長晟の指導力不足・重臣間の対立と家中の矛盾を露呈する結果な
った。塙を討った者も公式には浅野左衛門佐配下の士〔八木新左衛門(やえしんざえもん)〕と
決められたが、これらは亀田の不満を招き後に浪人する遠因となる。浅野家は元和5年(161
9)の広島移封後、左衛門佐の処分・亀田の退去をへて藩体制を固める。この過程で、上田宗
箇は家老となり、地位を高めた。


 武将たちの系譜 〔上田流「和風堂」と可部屋集成館〕

 樫井の合戦は、ここで戦った武将達にとって運命の分岐点となった。特に、浅野軍の亀田大
隅と上田宗箇のその後の歩みはきわめて対照的である。

 樫井では先鋒を指揮して勝利に貢献した亀田だが、戦後の家中での論功は彼にとって満足
なものではなかった。団右衛門を討ち取ったとの主張が認められなかったからだ。元和10年
(1624)、亀田は浅野家を浪人として隠棲。樫井合戦の覚書を記した。亀田の覚書は合戦の
貴重な記録として流布・引用され、写本も多い。だが、一般には、樫井合戦の一番槍上田宗箇
、団右衛門を討ち取ったのは八木新左衛門とする浅野家側の見解が広まっていった。

これと反対に上田宗箇は、浅野左衛門・亀田大隅なきあと、浅野家家老の要職ついた。毛利
氏と堺を接する安芸佐伯郡を領し、自身は広島にあって次子の備前守重政(びぜんのかみし
げまさ)とともに藩政を担った。長子の重秀(しげひで)は徳川の旗本に取り立てられている。
また、家中きっての茶人・宗箇は浅野家の茶道を指南、茶人武将の名声を確立した茶杓『敵
がくれ』の逸話のとおり、剛毅(ごうき)な武将の文化人という独自の位置を築いたといえよう。
宗箇の開いた茶は、後に上田流と呼ばれるに至る。現在、広島で上田流を継承する(財)上
田流和風堂(うえだりゅうわふうどう)の名は、宗箇が広島に建てた茶室『和風堂』に因るもの
である。

☆ 最後に、塙団右衛門の子孫について。
  長男の直(なおたね)は、大阪城を落ち延び、桜井姓(母方の姓ともいう)に改め、広島で
福島正則に仕えたという。一説には、上田宗箇が団右衛門の遺児達を逃がしたという。元和
5年(1619)、福島正則が改昜されると、広島郊外の可部(かべ)に移り住んだ。そして、奥
出雲の仁多郡(にたぐん:島根郡仁多町)に移って可部屋(かべや)を名乗り、製鉄業を起こ
したといわれる。加部屋・桜井家は、松江藩にも重要され、奥出雲の富豪として今日に至って
いる。近年、『加部屋集成館(かべやしゅうせいかん)』を設立。塙団右衛門ゆかりの品々や
製鉄業関連の資料が公開されている。


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