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A李 梅渓 旧宅跡(李 親子の生涯)

旧貴志村大字梅原(現和歌山市梅原)、大歳神社の西隣にあり。紀州藩主:頼宣公より贈られ、
梅渓この地を隠栖の処としていたので、地名により梅渓と号した。今は荒れ地となり、唯その隅
に一つの井戸を残すにみであるが、旧地人は「梅渓屋敷」と称していた。

 【李家の系譜】
                       ・ ・ ・清軒(養子)
                       ・ 
李 公済・・・真栄・ ・ ・ ・ ・梅渓 ・ ・ ・
              ・         ・
              ・         ・ ・ ・牛之助(早世)
              ・
              ・
              ・ ・ ・立卓(西条藩侍医)・ ・ ・


*李 真栄(り しんえい)の生涯〔梅渓の父〕(1571〜1633)
  朝鮮の儒学者。文禄の役(1592 文禄元年 豊臣秀吉 朝鮮出兵)で捕らえられて、大阪に
連行され、後に和歌山に来る。紀州紀州藩主頼宣公に召し抱えられ、藩の儒学者になる。
 李真栄が徳川頼宣に教授する儒学者として召し抱えられたのは、頼宣が元和5年(1619)に
紀州藩主として入国して来た直後であった。ところで、真栄は朝鮮慶尚道霊山(けいしょうどう
れいさん)貴族の家に生まれ、文禄の役で捕らえられて日本に送られてきた捕虜の一人だっ
た。詳しい様子は解らないが、文禄2年(1593)22才〜23才の頃に捕らえられ、羽根田長門
守の手によって日本へ送られる。大阪に住んでいた頃、紀州名草郡西松江(和歌山市)の西
右衛門に買われて、下男となる。後に和歌山城下海善寺に引き取られる。これは海善寺に僧
、中岸松院西養(ちゅうがんしょういんせいよう)が、元は朝鮮の下級役人だったため、真栄が
王族の子孫であることを聞き、あえて寺に連れてきたと云われる。また、梶取村総持寺の住持
が真栄に文才があるのを知り、強いて海善寺に住まわせたのだとも伝えられている。しかし、
真栄がどうにも仏教が肌に合わず、ほどなく又大阪に移り住む。大阪の陣の際(冬の陣:慶
長19年10月。夏の陣:慶長20年4月)再び和歌山に戻り、土豪の末裔(まつえい)で有田郡
の宮崎三郎右衛門の娘を娶って久保町(和歌山市)に住み、卜筮(ぼくぜい:うらない)を行う
かたわら、儒学を講じていた。この時、すでに多くの弟子があったようだ。元和元年(1619)
徳川頼宣が紀州藩の藩主になった直後、真栄は南麻主計尉(なみまかずえのじょう)という
人物の推挙で頼宣の儒者となり、毎夜頼宣に御前講義を行った。元和8年には切米30石を
与えられていた。寛永3年(1626)、唐物類が必要なので、対馬(長崎県)で朝鮮人と対談
し、唐物を買い求めて来るように命じられた。御金奉行(おきんぶぎょう:出納に携わる奉行)
羽賀三郎兵衛・堀部佐右衛門等と共に対馬に行き、翌年に戻る。寛永10年(1633)、63
才で没する。真栄も朝鮮に戻りたかったであろうが、貴族の出身だったため、戻れなかった
と云われる。朝鮮では、清(しん:中国)との間で混乱が続いていたからであろう。
<真栄の墓は和歌山市内海善寺>


李 真栄の生涯〔概略〕

 秀吉の文禄の役(1592)朝鮮攻撃  義兵の抵抗  地元の有力者を捕らえた。
 文禄2年(1593)23才で日本へ  名護屋を経て大阪へ  5年間大阪の農家
で働く  その後、紀州の西右衛門(農業・水産物の商いで大阪にも出向く)に売られ、
西松江村へ  松江で偶然に西誉(朝鮮人)と出会い海善寺へ  海善寺で仏教を
研究  総持寺へ  儒学との隔たりを感じる  慶長10年(1605)海善寺を離れ
再び大阪で儒学の塾を開く  慶長19年(1614)大阪冬の陣  戦乱を避け、再び
和歌山へ → 海善寺近隣の久保町で私塾を開く → 元和2年(1616)宮崎三郎右衛
門定直の娘と結婚  元和3年(1617)梅渓が久保町で誕生  元和5年(1619)
徳川頼宣紀州入国 → 頼宣は藩政に必要な人材を求める → 真栄を侍講として登用
、扶持米30石  寛永10年(1633)63才で死去。(墓は海善寺)


李 梅渓(りばいけい)の生涯〔1617〜1682〕

 真栄の惣領(家を継ぐ男子)として生まれたのは梅渓です。梅渓は元和9年(1623)
、7才で父に従って加田浦(和歌山市加太)に行き、詩を作っています。幼い頃からの
才能の高さが忍ばれる。寛永11年(1634)、家督を相続し、切米30石の儒者となる。
永田善斎の弟子となり、京都にも遊学し、後に切米80石に加増されている。藩主頼宣
の子、光貞(みつさだ)にも学問を教え、また、朝鮮通信使来航の際には、同行してい
た朝鮮人学者の李氏と詩文のやり取りをする等の応接に努めた。万治3年(1660)の
頃には、農民に向けた教訓場、父母状の作成にも係わったという。同じ頃、家臣に対
して講釈も行っている。また、徳川家の「年譜」の編纂にも携わり、命じられて30年が
かりで「徳川創業記」等を完成して幕府に献上、その功で寛文12年(1672)、知行
300石となる。これより前、献上に当たって幕府老中の阿部豊後守忠秋が題名を見な
がら「表紙に書いてあるこの創業という題は易学の書名だから、道理にかなった題名
だ」と云った。梅渓はしばらくして「数年思案致したものです」と答えたと云います。後
に、葛城山麓の梅原村(和歌山市梅原)を与えられ梅渓と称したと云います。その後
、藩年寄りの安藤直清(なおきよ)に対しても儒学を講じた。また、熊野へ行き王子社
や古跡の調査をしたり、友ヶ島の額や和歌浦の碑文を書いたりしている。書画にも堪
能だったようです。元和2年(1682)66才で没しました。子孫は代々儒学や医者を
輩出している。梅渓の著書に「一陽軒昜説(いちようけんえきせつ)」・「潜窩雑記(せ
んかざっき)」・「大君言行録(たいくんげんこうろく)」・「梅渓文集」がある。


李 梅渓(りばいけい)の生涯〔概略〕

 梅渓の諸名称全直、衛正、一陽斎、葛城隠民(おんみん)、江西(こうさい)、釣岩
叟など。元和3年(1617)久保町で誕生  幼い頃から父の影響を受ける 
17才の時父が死去  寛永10年(1633)父の跡を継ぎ藩の儒員となる。(侍
講は阿波活所)  同じく藩の儒官永田善斎に教えを乞う。京都で儒学を修行
 後の二代藩主徳川光貞の師となる → 寛永17年(1640)頃から頼宣の江
戸参勤に随行(9回) → 明暦元年(1655)江戸で朝鮮通信使一行と面談 
万治3年(1660)父母状藩内配付 → 寛文元年(1661)弟子の清軒を養子に
迎える → 寛文9年(1669)友ヶ島五所額を書す → 寛文12年(1672)十
数年かけた「徳川創業記孝異」十巻を完成 → 五十石を加増され禄高三百石
となると同時に梅原に別邸を賜る。この頃「梅渓」と号す → 延宝6年(1678)
別邸を譲り、大浦に移転 天和2年(1682)66才で死去。(墓は海善寺)

民衆を教化するために長く用いられた父母状

 元治 3年(1660)、徳川頼宣は農民に対して父母状を触れ出し、(布告)している。
これより前、熊野の山中で親を殺した者があり。殺人で捕らえて糾して見ると、隠そう
とせずに、「私が他人の親を殺したというのであれば、お咎めも当然でしょうが、私の
殺したのは自分の親です。何時も我が儘ばかり言うので、家の者も困り果て、私の
言うことも聞かないので殺したのです。私は間違って居ません。」と抗弁するばかりで
した。牢役人も罪の重さ、親の尊い事を言い聞かせましたが、この者は同じ事を繰り
返すばかりで納得しません。奉行や頭の役人も当惑して、このことを頼宣に伝えました。
 頼宣は話をじっくり聞き、しばらくは答えも出ませんでしたが、「さてさて、熊野は山の
中で辺鄙なところであるが、和歌山城下からはそれほど離れているわけでもない。鳥
や獣ですら孝と云うことは知っている。ましてや、身分は低いとは言いながら、人間で
あっては当然解っていなければばらない。鳥や獣にも劣ったこの行いは、この者の過
ちではない。私の政道が行き届いていないと言う不徳こそがなしえた事なのだ。」と
言って涙をこぼした。「このような疎かな者を自分の罪が解らないまま処刑すべきでは
ない。孝の尊い事を聞かせよう。」と言って、李梅渓を遣わした。
 李梅渓は毎日毎日牢屋へ行き、『孝経(こうきょう)』(孝道について書いた儒教の
教典)を読んで、諭して聞かせたが、この者は少しも分別できません。3年たってから
ようやく初めて孝道の重いことが、この者に解り、「今までは、このような親の有り難い
事を知らずにおり、誠に罰当たりな事でごございました。お上にもご苦労をお掛けし、
言いようもございません。このように孝道が解りました以上、わずかな間でもお天道様
の光を受けていることは恐ろしく、早くお仕置きを仰せ付けて頂きたい。」と泣く泣く訴
えた。頼宣は喜んで、「道理を理解し誤りが解ったのならば、不憫なことではあるが政
治である。そうであるなら、法の示す通りに実行せよ。」と命じたので、その罪は罰せ
られることになった。頼宣は再びこのような者が出ては情けない事だと言い、自ら筆を
取って教訓状を書き、これを津々浦々まで張り出してよくよく論じ教えよと命じた。

『父母に孝行に、法度を守り、へりくだり、奢らずして、面々家職を勤め、正直を本とす
 ること、誰も存じたる事なれども、彌能相心得候様(よくよくあいこころえそうろうよう)
 に常に下へ教え聞かせよ』


 文頭の「父母」の言葉から、これは「父母状」と呼びならわされる事になるのですが
、実はこの父母状は、李梅渓が拘わって作成されたと見られている。伝えられている
父母状の文言は若干の異同がありますが、ここに示したものが最も信ずべきものと
言われています。 父母状は、その後も、寛文10年(1670)に紀州藩の支藩、西条
藩で出され、紀州藩でも享保11年(1726)、安永6年(1777)と繰り返し触れ出さ
れました。後には、手習いの手本ともなって子ども達にも親しまれて行きます。何時
のころからか、心ならずも罪を犯してしまうことのないよう父母状に解釈を加えた御
ケ条書(ごかじょうがき)も作られ、代官や郡奉行(こうりぶぎょう:農民に直接支配す
る役人)が繰り返し人々に読み聞かせるようにもなった。

一、父母に孝行のこと
   お上が言ったからといって、軽簿な孝行をすることは、返って不幸の悪人になる
   ことである。
一、法度を守ること
   法を守っていれば、罪に問われるようなことはない。
一、謙(へりくだ)り、不奢事(おごらざること)
  百姓は自分の程度に合わせて身を持ち、下の者をあなどらず、百姓の作法を心
  得、上も敬うようにすれば罪に問われるようなことはない。
一、面々の家職を勤め、正業を本とすること
  めいめいの仕事を忘れずによく勤めれば、我が身のためになり、百姓ならば耕作
  の利益が出てきて罪を犯すこともない。また正直さえ基本にすれば、右の箇条に
  反することもない。自分も人も安全に世を送ることができ、罪を犯さずに子孫に至
  るまで末永く続くであろう。 
 
 また、紀州藩には郡奉行が農村を巡回して回ったとき、農村に対して「春廻り之節
読聞候書付」(はるまわりのせつよみきかせそうろうかきつけ)を読み聞かせる制度
があった。現在残っている一番古いものは正徳6年(1716)、五代藩主吉宗が将軍
家を相続する2ヶ月前に作られたものです。さらに、元禄16年(1703)に、当時奉行
(後の勘定奉行)であった大嶋伴六が農村を巡回し、大庄屋や庄屋等に申し聞かせ
た十四ケ条の法令があります。これらは、「春廻り之節読聞候書付」の前進なのです
が、ここにもすでに父母状の内容が盛り込まれています。このように、梅渓が作成に
加わった父母状は、単独で出されただけでなく、紀州の農民を教化する基本法令で
ある「春廻り之節読聞候書付」にも入れられ、広く農民に聞かされていたのです。

※ 注釈
 【那波活所(1595〜1648)】
 京都で藤原惺窩(せいか)に師事し、後に熊本藩に仕えた。寛永元年(1634)、
伏見(京都市)で頼宣に儒学を講じ、以後、頼宣から禄を受けることになる。翌年禄
高五百石になるとともに、広瀬(和歌山市)に屋敷を与えられ、私塾を開いて紀州藩
の教育に携わったといいます。
「人君明暗図説(じんくんめいあんずせつ)」等を著した。

 【永田善斎(1597〜1664)】
 善斎は、13才のころ京都で惺窩(せいか)に師事、後に林羅山(はやしらさん)に
も学び、羅山の推挙で当時駿河(静岡市)の大名だった徳川頼宣に仕官した。元和
5年(1619)には、頼宣に従って紀州に移り、寛永年間のはじめころに二百石の御
医師になっている。和歌山で塾を開き、家臣の教育に当たっていたようです。

 【西条藩(さいじょうはん)】
 紀州藩の支藩。幕府は寛文10年(1670)、二代藩主光貞(みつさだ)の次弟松
平頼純(まつだいらよりずみ)に幕府領であった伊予国西条(愛媛県西条市)三万
石を与え、分家大名として取り立てた。後、紀州藩六代藩主宗直(むねなお)、九
代法貞(はるさだ)、十四代茂承(もちつぐ)が西条藩から出ている。

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