「歴史散策<目次>へ戻る!


      【中 世】
貴志村

 鎌倉期〜室町期に見える村名。名草群園部荘に所属。 徳治3年3月1日〔1308 
第94代 後二条天皇:1301〜1308〕付の地頭代沙弥某 田地寄進状写(名草群
古文書/国立資料館蔵)に、「寄進 園部荘内貴志村土入薬師堂」と見えるのが
初見で「土入村新田」にある田三反が寄進されている。
 これによれば、当村が園部荘に属していたが、新田開発により次第に独立しつつ
あったことが知られる。室町初期で永享5年(1429)以前とみられる4月13日付き
畠山道端書状案(隅田家文書/県史中世1)によれば、「本領紀州園部庄内貴志・
山路両村地頭職」と見え、隅田党が当村と山路村を本領と称して、その証文を守護
に提出し、訴訟を起こしていることがわかる。隅田党が、これ以前から当村に勢力を
及ぼしていたと思われる。なお、慶長4年(1599 関ヶ原の戦い1年前) 5月9日
の廊之坊諸国旦那帳(潮崎陵威主文書/熊野那智5)に「きの本上きし」とある
 「上きし」は当地内のことと思われる。現在の和歌山市中・中野・梅原を中心とした
一帯と推定される。

栄谷村
 戦国期に見える村名で、名草郡に所属。永禄5年(1562)7月吉日の湯河直春
起請文(東京湯河家文書/県史中世2)に、「坂井谷源次郎大夫殿」と見え、雑賀一
揆を構成する雑賀五組(五搦:雑賀荘・中郷・十カ郷・三上(南)郷・社家(宮)郷)の
一つで、十カ郷に所属した。

土入村
 鎌倉期に見える村名。名草群園部荘に所属。 徳治3年3月1日〔1308 第94代
後二条天皇:1301〜1308〕付の地頭代沙弥某田地寄進状写(名草群古文書/
国立資料館蔵)に、「寄進 園部荘内貴志村土入薬師堂合田三段者土入村新田」と
見える。薗部の荘貴志村に属していたが、新田開発が進められて次第に「土入村」と
して独立しつつあったものと思われる。

中野村
戦国期から見える村名、名草群に所属。 天正5年と推定される5月20日付けの
本願寺顕如消息(徳願寺文書/県史中央2)に、織田信長の雑賀攻めに際し
「中野在城衆敵同心」と見え、当地の城に門徒が立てこもっていたが、信長軍の着陣
とともに降伏したことがわかる。これに関し「信長記」天正5年2月22日条に「中野之
城取巻被攻候」と見え、ついで天正5年2月28日条には、「丹和(淡輪)」迄信長 
御陣を寄せられ、此之中野之城降参申、御赦免也」とあり、織田信長が当城を請け
取って居城したと記す。(和歌山市史4)江戸期〜明治22年の村名。名草郡に所属。
和歌山県に和歌山藩領地行所。貴志組に所属。
  なお当村など西名草郡は、海部郡代官の管轄下にあった。村高は、慶長検地高
目録で117石余、
「天保郷帳」旧高旧領ともに120石余。当村は、明和年間小野田
八左衛門・朝倉助兵衛の相給、
明和4年の諸色懐中覚留(中村家文書)によれば、
田方は反別3町余・高67石余、畑方は反別3町余・高60石余、新畑反別2反余・
高2石余、計7石余・120石余。水利は中村と梅原村の上池・下池三笠池を利用し、
その水懸かり高52石余、家数9軒、人数49うち男22・女27、牛2。
  作物は米・麦・大豆・粟・空豆・木綿・菜種・芋・多葉粉・菜大根、肥取り小船1艘
がある。
「続風土記」では、家数7軒・人数39。また、寛永3年の「貴志組村高家数人数覚」
(幸前家文書)では、家数9軒・人数44。
明治3年の「人口併米麦見積帳」(古屋区
有文書/和歌山市史6)では、戸数9、人数50うち男21・女29。作物は米46石余、
麦37石余、綿650斤、菜種4石余、藍50貫のほか、空豆・大豆・小豆。隣村からの
入作があり反別2町余、また出作地は8反余。
  梅原村鎮座の大歳神社を氏神とする。明治4年の和歌山市に所属。明治6年に
は戸数8男19・女21。明治6年9月向村に貴志小学(尋常)が共立で開校された。
(和歌山市史11)  明治12年の区費賊課帳(古屋区有文書)による戸数10。
明治22年貴志村の大字となる。


「歴史散策<目次>へ戻る!