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貴志地区の歴史及び生い立ち

 岸とも書いた。和歌山市北部、土入川河畔に位置する。古代において
紀ノ川の一本流であった現土入川の岸辺に位置していたところから生じ
た名であろう。なお、この地は、江戸期には那賀郡貴志荘と区別するため、
下貴志と称されることもあった

注1)日本の古代・中世・近世・近代
   原始:旧石器、縄文、弥生、古墳、飛鳥、白鳳文化から邪馬代国まど。
   古代:縄文時代以降の大和朝廷時代(原始古代)から奈良、平安時代まで。
   中世:平安末期、鎌倉、南北朝、室町、戦国時代まで。
   近世:安土・桃山から江戸時代まで。
   近代:明治維新から太平洋戦争の終結まで。
   現代:太平洋戦争終結以降、現在まで。

【古代】
岸村

 奈良期に見える村名。はじめ海部郡、のちに名草郡。「続日本紀」によれば、
称徳天皇は、〔第48代天皇 764〜781〕は天平神護元年(765)10月に
紀伊国に赴き、10月25日「還到海部郡岸村行宮」とある。江戸期の「続風土記」
栄村の項によれば、同村の「帝と称ふ」地字を、この行宮(あんぐう)の跡に比定して、
江戸末期に碑が建てられたことが定しているが、詳細は不明。

貴志里
 平安期に見える里名。名草郡に所属。「日本霊異記」下第28には「紀伊国
名草郡貴志里有一道場、号日貴志寺」と見え(古典大系)、当里が名草郡に
属していたことがわかる。
また、「公任郷集」には、紀伊に旅して詠んだ歌の詞書の中に「そのよはきし
つらに泊まりて」と見えるが(群書14)、この「きしつら」は岸面の訓で、紀ノ川
の一本流であった現土入川河畔に位置する当地付近を指すと考えられ、孝子
峠を越えて紀州に入った藤原公任ら当地に一泊していることが分かる。
 なお、当里は「地名称」に見える。

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