2003.5月 はなのほろ酔い小部屋
今日のお話・・・フミ先生のこと 「新学期」といわれるシーズンになりましたが、 「新学期」と縁遠くなって、もう、数十年になります。 それでも、そんな遠くのことでも、深く印象に残っている先生があります。 そんな中の一人の先生が、「フミ先生」です。 フミ先生は、国語の先生でした。 いつも、着物姿で、少し片足をひきずるように歩かれました。 小柄な先生は教卓に座られると、ほとんど 「小さなおばさん」といった様子です。 ところが、いったん、授業が始まると、私は緊張の連続でした! もう、その緊張のほとんどの内容は忘れましたが、 今でもはっきりと覚えている授業があります。 それは「伊豆の踊り子」を取り上げた授業でした。 受験を終えて、高校生になったばかりの5月ごろ、 15歳のまだ、のほほんとしている女生徒ばかりの教室で、 先生は 踊り子が、湯殿から手をふるシーンについて、授業をされました。 「脱衣場から、『私』に手を振る踊り子を見て、『私』が朗らかな喜びでことこと笑い続けたのは どうしてだと思いますか?頭が拭われたように澄んで来たのは、なぜですか?」 という問いに対して、 私たちの回答は 「無邪気だったから」「幼いから」などといったものでした。 それしか思いつかないのに、先生の求めておられる答は明らかに違うもののようで、 なかなか、「よろしいですね」と言われません。 おしまいに、じれじれしてきた様子で、先生は大きな声で言われました。 「踊り子を見て、『私』が思ったのは、なんだったか!? それは、まだ踊り子が男と寝ていない、まっさらの処女である、ということです! その、処女性の純真無垢なところがまだ守られているということに大きく安堵しているのです!」 ・・・・ 今を去ること、数十年前、もう少し、性に関することは真綿にくるんだように表現する時代でした。 でも、フミ先生は、はっきりと大きな声で「処女である」と言われたのです。 川端康成がそう書いていたわけではありません。 でも、先生が言われたかったのは、文章の奥を読め、ということだったようです。 その言葉から連想する俗的な性的な意味合いをすっかり排除して、 ただ、文学としての性的な意味を読め、と言われたようでした。 思わぬ展開に、目を白黒させている私たちに 続いてどんな授業をされたのか、今では定かに覚えていません。 ただ、その、1シーンだけが強烈な印象で、私の脳裏に焼きついたのです。 まだ、15歳かそこらだから、 理解できるかどうかわからないから、 そんな理由で手を抜いた授業をする先生ではありませんでした。 相手がいくつであれ、文学とはこういうものである、と真剣勝負を挑まれていたように思いました。 また、別の機会には、「日本語の使い方が間違っている」という話もされました。 「あなたたちは、すぐに『すご〜い!』と言いますね? しかし、『すごい』という言葉は、漢字で書くと『凄い』なのです。 それは、すさまじきもの、恐ろしいものを表す言葉であって、 楽しいこと嬉しいことにつく言葉ではないのですよ? 『すごくおいしい』というのは、おかしな表現なのですよ?」 そう言われて、ずっと長い間、「すごくおいしい」「すごく楽しい」を 言えない私でした。 相手が、15だから、女の子だから、 と顔色を窺うように、子供たちに接する大人たちが増えたように思います。 でも、相手が子供であっても、 自分の流儀を通して良い場合もあるのでは、ないでしょうか? 「子供の目の高さで接しましょう」は、幼児期の子供に対してすることであって、 まっすぐに向き合ってさえいれば、真剣に向き合ってさえいれば、 思春期に至った『人間』であれば、 自ずと、物事の本質を理解するようになるのではないでしょうか? 新学期、おろしたての制服にぴかぴかの鞄で駆けていく女の子を見て、 ふと、あの子の学校にも「フミ先生」は、いるのかしら?と 思ってみたりする私です ・・・・・・ |