9月


24日
セヴェロ・オチョア(Severo 0choa)(1905〜1993) スペイン生れのアメリカの生化学者。

スペインのアスツリアス地方のルアルカで生まれましたマドリード大学で医学を学び。ハイデルベルク大学オットー・マイヤーホフのもとで研究を行いました。1931年、マドリド大学講師となりましたが、1936年スペインの内乱を避けて、再びハイデルベルグに移転したカイザー・ウィルヘルム研究所のオットー・マイヤーホフのもとで筋肉の研究を行いました。

しかし、まもなくマイヤーホフ自身がナチスに追われて、フランスに亡命することになり、彼は、翌年プリマスの海洋生物研究所に移り、ついでオックスホード大学でビタミンBlの研究を行い、1940年に渡米し、セント・ルイスのワシントン大学のコリ夫妻のもとで研究、1942年ニューョーク大学に移っています。

彼の上げた業績のうちで最も重要とされるポリヌクレオチド・ホスホリラーゼの発見は、なんと偶然になされたものでした。細菌の抽出液を用いてヌクレオチド二リン酸と無機リン酸とからヌクレオチド三リン酸をつくろうと試みたところ、ヌクレオチド二リン酸同士がリン酸を1つずつ放出しながら結合し、その結果、リボ核酸(RNA)に近似した化合物が得られたのです。

この反応を触媒した抽出液中の酵素 (彼がポリヌクレオチド・ホスホリラーゼと命名) は,細胞内で実際にRNAが合成されるときに働く酵素とは別物と判明したのですが、人工的に RNAをつくることを可能にした点で意義は大きいといえます。

この発見に対し、彼はA.コーンバーグとともに、1959年ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。そして1961年からは、人工RNAを使って遺伝暗号解読に取組み、蛋白質合成の基本となる遺伝子の暗号の発見などすばらしい数々の成果をあげました。

9月


24日
三浦按針(みうら あんじん)本名 ウィリアム・アダムス

(1564〜1620)

イギリスの航海者

英国ジリンガムに生まれ、12才の時郊外の造船所の弟子となり、12年間造船と航海術、砲術、天文学、幾何学、数学などの勉強をし、航海士兼船長の資格を取りました。その後、イギリス海軍に入り活躍し、1598年にオランダの貿易会社に入り、航海長としてオランダ東洋派遣艦隊の1隻リーフデ号の航海長としてマゼラン海峡をこえて西航したが、日本に向かう途中、暴風に遭い、1600年4月19日九州の臼杵湾に辛うじて到着しました。その時乗組員110名の内生存者はわずか24名で、そのうち3名は翌日亡くなったそうです。

噂を聞いた家康は船長、航海長ウイリアム・アダムス、航海士ヤーン・ヨーステンを大阪城に呼び海外事情を聞いた。家康と会見した彼は、スペイン・ポルトガルとことなる新教国の存在と通商の熱意をつたえると、以前から対外交易をのぞんでいた家康の外交顧問にむかえられることになりました。

また家康は、リーフデ号の積荷の火縄銃や、砲弾、火薬などの先端軍事技術に注目し、静岡県伊東市での洋式船(80トン)の建造の指揮をとらせ、日本初の洋式船は見事に完成しています。家康はその船に自ら乗り込み江戸まで回漕させ、その後120トンの洋式船も完成させたのでした。

彼は、論功行賞として横須賀市の地に250石の領地を与えられ名前も「三浦按針(あんじん)」と名乗り、大御所政治に深く関わるようになってゆきました。

1618年、肥前(長崎県)平戸に開設されたイギリス商館につとめ、イギリスとの貿易に従事し、自ら商品導入の為、シャムに航海するなどの活躍をしていました。1620年(元和6)5月16日彼は病の為に平戸の住宅で亡くなりました。57歳でした。按針町の住民達は、逸見村浄土寺に八斗の米を毎年寄進し、アダムスの冥福を祈ったといわれています。
彼は、相模国三浦郡逸見村(横須賀市)に領地250石と、江戸日本橋に邸宅をあたえられました(ここは後に安針町と呼ばれ、現代では記念碑が建てられています。)彼には九十人近い下人が付き従い、この国でこれほどの地位を与えられた外国人は自分だけだ、と本国に書き送っているほどです。この三浦の地名と、水先案内人を意味する按針から彼は「三浦按針」と呼ばれるようになりました。
また、彼の屋敷の庭には葡萄が植樹され、「葡萄屋敷」と周りから呼ばれたといいいます。また、乗組員の1人であったヤン・ヨーステンも同様に屋敷を前島に与えられ、ここは彼の名前から八重洲と呼ばれるようになったということです。
彼は、再三家康に帰国を願っていましたが許されず、ようやく、日英貿易に訪れた船で帰国を許されたときは、その船の船長せーリスの日本に対する無礼な態度に堪りかね、直前になって帰国を取りやめ、次の機会を待つことにしましたが、結局、その機会はありませんでした。
ちなみに彼は、非常に日本びいきで、家康の下で、常に日本の利益を考えて行動していたため、宗教的対立関係にあるポルトガル人、スペイン人だけでなく、イギリス人からも恨まれることが多かったそうです。彼にとっては、日本は異国の地ではなく第二の故郷となっていたのかもしれません。


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