7月


28日
大原孫三郎(おおはら まごさぶろう)(1880〜1943) 実業家

岡山県倉敷市に大原孝四郎の三男として生まれました。大原家は米穀・棉問屋として財をなし、小作地800町歩、小作人2500余名を数える倉敷一の富豪でした。明治を迎えて地元の殖産を託した倉敷紡績を設立するにあたり、父、孝四郎は初代社長に就いていました。

大原家では二人の兄が夭折していたため、跡継ぎである彼は、身体が弱いこともあってわがまま放題に育てられました。その後、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学しましたが、講義にはほとんど出ず、遊里通いの放埒な日々を送り、最後には謹慎の身となり、実家である藤田家に預けられています。

謹慎中、二宮尊徳の「報徳記」を耽読し、「儲けの何割かを社会に還さねばならない」という言葉に感激し、その後の日記にも「余は余の天職のための財産を与えられたのである。神のために遣い尽くすか、或いは財産を利用すべきものである」と記しています。

倉敷紡績に入社した彼は、職工達が、小学校さえ出ていないのに驚き、そこで職工教育部を設立し、翌年には文部大臣の認可を得て工場内に尋常小学校を設立しました。また、働きながら学ぼうとする若者のために倉敷商業補修学校を設立し最初の校長になり、さらに、地元の子弟を対象とした大原奨学会も始めたのです。

そして、明治39年に社長に就任すると、まず飯場制度を廃止しました。当時は口入れ屋が従業員の手配、炊事の請負、日用雑貨の販売を仕切り、法外なピンはねを行っていた。これを会社に帰属させるとともに、非人間的な集合寄宿舎をやめて分散式家族的寄宿舎を建設しました。

こうした諸施策は株主の反発を招きましたが。しかし、孫三郎は「健全な従業員こそが会社を発展させる力だ。従業員の生活を豊かにすることは経営者の使命であり、その施策は必ず会社に還ってくる」と押し切っています。

彼は、経営者としても果断な施策で倉敷紡績を全国規模の会社に成長させました。大学や高専出身者を次々に採用。前垂れの番頭中心の古い経営を一掃し、次々と工場を拡張し、更に自前の発電所もつくり、いち早く蒸気動力から転換しました。

大正に入ると彼の読みどおり、第一次大戦の勃発により日本は空前の好況を迎え、倉敷紡績は先行投資が功を奏し、四国にも合併・新設で工場拠点を築き、遂に業界大手にのしあがりました。さらに、県下の銀行を統合した中国合同銀行(中国銀行の前身)の頭取となり、電力事業の統合を図って中国水力電気会社(中国電力の前身)も設立しました。こうして彼は、中国・四国きっての実業家といわれるまでになったのです。更に彼は、新事業にも積極的に取組み、大正15年には、人絹事業の将来性を見抜いて倉敷絹織(現・クラレ)を設立しました。

彼は農業でも「地主と小作人は同胞的関係にならないと平和を保つことはできない。そのうえで生産と経済の両面から研究して農業を改良しなければならない」との考えから。大正3年に大原奨農会農業研究所(現・岡山大学農業生物研究所)を設立し、運営のために200町歩を拠出しました。この研究所で岡山名産となるマスカットや白桃が開発されていったのです。

また、労働者のために倉敷労働科学研究所をつくり、工場内の労働環境を改善すべく、工場内の温湿度管理やカロリー計算に基づく給食などを実施しています。さらに、従業員のために倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)を設立し、一般市民にも広く開放しました。

昭和14年に長男の總一郎に一切をゆずり、晩年は、素朴な民芸を愛し、昭和18年に大原邸で臨終を迎えました。62歳でした。これほどの事業を成し遂げたというのに、「自分の一生は失敗の一生だった」と總一郎に語ったといわれています。

その翌年に、彼の最後の社会事業となった、わが国初の西洋美術館である、大原美術館が建設されました。
放蕩息子であった彼の決定的な転機となったのは石井十次との出会いである。岡山の医学校を中退して医師をしていた石井は、クリスチャンでもあった。身寄りのない患者の遺児を預かったのを機に医師をやめ、濃尾地震で被災した孤児を集めて岡山孤児院を創設した。その石井の講演を聞いて、孫三郎は激しい感動に包まれた。石井の事業を資金面から支えることになる。といっても石井は一時は1,200人もの孤児を集め、孤児たちが自立できるように宮崎県茶臼原に大農場を開いたりするような理想主義者だったから資金はいくらあっても足りない。それでも「一言の小言をも云わずに助力せらる。頼むものも頼むもの、応ずるものも応ずるもの」と石井が日記に書くほどの全面的な支援を続けたのだった。
 石井は孫三郎にも日記をつけることを勧めた。孫三郎は「余は余の天職のための財産を与えられたのである。神のために遣い尽くすか、或いは財産を利用すべきものである」と記した。放蕩の日々と横死した義兄への贖罪の気持ちがあったのかも知れない。石井の仕事は、今日、宮崎市の石井記念友愛社に引き継がれている。
 石井は結婚も勧めた。明治34年、石井スエ(寿恵子)と結婚する。孫三郎はいまだ21歳であった。
石井十次  4月11日生まれ
孫三郎は倉敷紡績第四代社長となる長男の總一郎に 「十人の人間のうち、五人が賛成するようなことは大抵手遅れだ。七、八人がいいといったらもうやめた方がいい。二、三人位がいいということをやるべきだ」と自分の経営哲学を説いている。
大原美術館は孫三郎の最後の社会事業となった。そのコレクションは、大原奨学会の支援で東京美術学校(現・東京芸術大学)に学んだ児島虎次郎が蒐集した西洋絵画がもとになっている。児島は、勧業博覧会美術展で青木繁、熊谷守一らの俊才をしりめに「里の水車」で一等になり、孫三郎から褒美にパリ留学を許された。大正8年、2度目の留学の際、児島は日本で学ぶ画学生のために絵画の蒐集を孫三郎に頼んだ。孫三郎は迷った末に許可を与えた。
 蒐集した絵は倉敷の小学校で展覧されたが、全国から人が集まり、駅前から行列が絶えなかったという。それを見た孫三郎は驚き、欧州の画商にさらに蒐集を依頼するが、集まった絵には満足できなかった。そこで、再度、児島に本格的な蒐集を命じ、エル・グレコ、ゴーギャン、ロートレックなど印象派を中心にロダンの彫刻など教科書に載るような巨匠の作品が網羅されたのである。
 孫三郎が最初は躊躇しながら、3度目ではうって変わって積極的に蒐集を指示した背景には、繊維産業に身を置いて綿花などの先物を扱ってきた経営者の眼があった。第一次大戦後の欧州不況と円高を読み取り、今が西欧文化を輸入するチャンスだと判断して、千載一遇の好機をとらえた買いだったのです。
従業員のために倉紡中央病院(現・倉敷中央病院)を設立し、一般市民にも広く開放しました。病人は社長も工員も平等であるという考えで小児以外は個室をつくらず、見舞品ももらえない人があるという理由で持込禁止とした。入口に大きな温室を設けて病人が憩える環境をつくり、白い壁は圧迫感があると淡いピンクで塗ったそうです。


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