4月


11日
石井 十次 (1865〜1914) 社会事業家

宮崎県児湯郡上江村(今の高鍋町)の馬場原(ばばのはる)に高鍋藩士の石井万吉の一人息子として生まれました。

彼は15歳のとき上京して攻玉舎に学んでいましたが、1年ほどで脚気にかかり帰郷。明治14年、16才で近くの平原に住む内野品子と結婚しています。それと同時に、上江小学校教員になりましたが、数ヶ月でやめてしまい、宮崎警察署の書記になりました。この時期に萩原宮崎病院長のすすめで熱心なクリスチャンとなりました。その後、郷里の苦学生とともに岡山県の甲種医学校に入学。偶然、大師堂で巡礼者の子供を引き取ったことから孤児教育会をつくりました。しかし、教育会の資金は乏しく、学資の一部やアルバイトで得た金を充てたといわれています。

明治20年頃 彼は、孤児救済活動と医者との両立に悩んでいました。郷里の家族たちは医者になって帰郷することを望んでいました。そうしたある日、聖書の「人は2人の主に仕うること能わず」という一句に感動し、医学校を退学、医学書を全て焼いて孤児院の仕事に一生をかけることを決意しました。

彼は、この時の心境を日記に次のように記しています。「6ケ年学びたる医書に石油を注ぎ火を放ち焼き尽くし、全身を孤児院事業にあてり。これにより心衷に一の苦悶なく外友人の忠言を止み、全力を天命の事業に傾注することを得るに至れり」

いろいろな不幸な生い立ちの子ども達をそれぞれの個性に合わせて教育していくのはとても骨の折れる仕事でした。十次は自分の部屋に一人ずつ子どもを呼んで、子どもの悩みごとを静かに聞いてあげたり、十次の考えをじっくり話したりすることに努めました。これは、時間のかかる方法でしたが、子どもとの心が深く通じ合いとても効果があがりました。十次はこの対話を『密室教育』と呼びました。また、十次を「お父さん」品子を「お母さん」と呼ばせる『家族主義』や、子供たちにひもじさを抱かせないよう腹一杯食べさせる『満腹主義』を実践しました。

岡山孤児院の子供達は次第に増加し、濃尾大震災による震災孤児救済や、東北大飢饉では、800人あまりの孤児を引き取り、院児は多い時には、1200人を超えていました。

彼は、明治42年、かねての理想であった教育と開墾を実現するために、以前から購入していた木城村(現、木城町)茶臼原に分院を開きました。開墾はすすみ、大正2年には水田13町歩・畑46町歩・桑園16町歩に達した。これは、当時の茶臼原の孤児350名が自給自足できるほどのものでした。

しかし、彼の健康はこのころから悪化し、翌年1月30日、50歳で生涯を終えました。くしくも、その朝、岡山の児嶋家(長女の嫁ぎ先)から初孫(男子)誕生の知らせを受けています。

「孤児のため いのちを捨てて働かん 永の眠りの床につくまで」
7才の頃のこと、その年もにぎやかに天神様の秋祭りが行われていました。十次は母が作ってくれたつむぎの帯をしめてにこにこしながら神社の大鳥居に差しかかりました。すると、何やらけんかでもあるらしく少年達が集まっていました。中を見てみると友達の松ちゃんが涙を流しています。どうやら友達の松ちゃんがわらで編んだ縄の帯をしめてお参りしているのをからかっている様子です。
 十次は怒りがこみ上げ、中に割って入るとさっさと自分の帯を外し松ちゃんに手渡すと、変わりに松ちゃんの縄の帯を自分の腰に巻き付け、「これでいいんだな!」と少年達に響き渡るよう力強く言いました。やがて帰宅した十次は、母に叱られることを覚悟で、つむぎの帯を縄の帯と取り替えた訳を正直に話しました。すると母は、「それは良いことをしましたね」と笑顔で十次の頭を優しくなでてくれました。
 この母の一言は幼い十次の心に深くしみ入りました。そしてその言葉がその後の十次の人生に大きな影響を及ぼすことになるのです。
彼は単なる慈善的孤児養育ではなく、自主独立の精神に則った孤児教育を目指しました。
彼はその点をこう述べています。
「単なる慈善事業ということで事が経過しておれば、苦心も困難もなかった。困ったら人に訴えて寄付金を募り、ただ小学教育だけを施す、それで済ませたであろう。ところが、単に学問教育のみを授くれば、遊情におちる恐れがあり、実業教育を主とすれば学問教育を軽んずる恐れがある。半労働、半学とすれば、一もとらず、二もとらぬ的となる。昼労夜学とすれば、学問遅々として進まないばかりでなく、少年児童だと、幾分健康障害を来す恐れがある。」

かつて医学を志した十次にとって、少年期の健康を害することには相当警戒したものと思われます。この様に彼が苦心の末考えたのが、成長年齢に応じた教育方針である「時代教育方針」でした。それは次の様なものです。

 @幼年時代(6歳〜10歳まで)は遊ばせる。
 A少年時代(10歳〜16歳まで)は学ばせる。
 B青年時代(16歳〜20歳まで)は働かせる。

 この教育方針に基づいて、孤児院内に私立の幼稚園と尋常高等小学校を付設し、また小学校卒業者には中学校、女学校に行かせる者までいました。これは当時とすれば、常識を越えて孤児の能力を尊重したものでした。
彼のヒューマニズムの精神は、岡山孤児院十二則にもよく表れています。有名な「満腹主義」は、孤児の悪習を除くのために空腹感を満たすことから始めたわけですが、医学的な発想だけでなく心理学的な直観もあると思います。彼は年齢や体格による食事量制限をせず、各自が欲するままに食事させました。また「非体罰主義」では、子供が嘘をついたり、喧嘩をするのは父母教師が体罰をすることに発すると考えています。

 「密室主義」とは「善行あらば賞し、悪為あれば戒む、而してこれを為すに無人密室の内において為す」というもので、みんなの前で誉めるのは偽善に陥りやすく、また嫉妬も受けやすい、衆前で悪事を戒めるのも反抗心を招きやすく、本当に素直な改心をさせることができないというものです。

4月


11日
小林秀雄(こばや しひでお)

1902〜1983

評論家

東京神田猿楽町に生まれました。第一高等学校に入学したのですが、父の死、母の急病と家庭問題があいつぎ、休学します。しかし、「青銅時代」に「一ツの脳髄」を発表するなど文学活動を続け、大正14年、東京帝国大学仏文科に入学しています。この頃、高校生だった大岡昇平にフランス語の家庭教師をしたりしています。

大学卒業後の、昭和四年に雑誌「改造」の懸賞評論に「様々なる意匠」が二席に入選し、以後評論家として活躍することになります。

彼は、日本における近代批評の確立者といわれ、その評論の対象は文学のみならず、古典、哲学、芸術全般に及び、「評論の神様」と呼ばれました。

大東亞戦争がはじまると古典と古美術へ傾斜し、「無常といふ事」など、日本再発見のエッセイをはっぴょうするようになりました。以後「モオツアルト」「ゴッホの手紙」「考えるヒント」などを著わします。

また昭和40年年から「新潮」に連載をはじめ、11年かけて完結させた「本居宣長」は批評的主題を結集した記念碑ともいえます。ほかに、ランボオ「地獄の季節」等の翻訳もあります。

昭和58年3月1日午前1時40分に亡くなりました。81歳でした。
今日の小林秀雄は評論の神様、昨日の淀川長治は、映画評論の神様と呼ばれていました。この2人の誕生日が一日違いというのは興味深いですね。
彼の父、小林豊造は、日本で初めてダイヤモンドの研磨技術を習得した技術者で、蓄音機のルビー針も開発しています。 日本ダイヤモンド株式会社を設立しました。


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