7月


1日
ジョルジュ・サンド(アマンティーヌ・オーロール・デュパン)フランス 女流作家(1804〜1876)

フランスのパリのメレ街で名門貴族の血をひく父と、パリ庶民の娘である母との間に生まれました。4歳の時、身重の母に連れられ、父の任地に行くが、王宮の一室をいつまでも借りていられないので、フランス中部のベリー地方アンドル県ノアン村にある祖母(ポーランド王家の血縁者)の館に身を寄せることになります。

その後、弟が生まれましたが、彼は目が見えず、生後3か月で死んでしまいます。その8日後、父が落馬で亡くなってしまいます。母がサンドを残しパリに行ってしまったので、祖母の館で暮らすようになります。14歳でパリのザングレーズ修道院に寄宿するようになりましたが、17歳の時、祖母が病で倒れ、徹夜の看病に当たります。睡魔と闘うため、煙草やコーヒーを飲み、後に、煙草はサンドのトレードマークとなっていったのです。

翌年、18歳でデュドバン男爵と結婚しましたが、性格の不一致からノイローゼになり別居、そんな中、同郷の小説家ジュール・サンドゥと知り合い、26歳のとき2人の子をベリーに残して、パリに仕事を探しに出て、新聞記事を書くようになります。

その後、サンドゥと共同執筆した「ローズとブランシュ」を発表、1832年にはジョルジュ・サンドの名で「アンディアナ」発表し、広く認められるようになりました。

彼女が男装してパリの市中を歩いたことは有名で、「男装の麗人」と呼ばれ、ペンネームも男性の名前を使い、男性と積極的に文学論を戦わせていました。詩人のミュッセ、音楽家のショパンやリストと親しく交わっていました。特にショパンとの恋は有名です。

その後、「魔の沼」「愛の妖精」「笛士のむれ」など、」田園の美しい風景と善良な農民達をえがき、彼女の代表的傑作となりました。

1848年二月革命後には少女時代を過したベリーに帰り、「ノアンの奥方」として新しい世代の作家たちに慕われて生涯をおくった。

その人生は母性愛と友情につらぬかれてロマン派の優れた作家と言われ、ドストエフスキーらロシアの作家にも影響を与えたと言われています。

サンドといえば、ショパンということで、3月1日生まれのショパンのページにもエピソードがありますので、是非見ていってください。
サンドは、27歳のときに小説「アンディアナ」で文壇に華々しくデビューして以来、71歳で死ぬ直前まで執筆活動を続けた。サンドは、60編以上の中・長編小説、多数の短編や劇作、エッセイ、そして近年まとめられた26巻におよぶ膨大な書簡集を残している。
人間が誤解しあい憎みあうことから世の不幸が生じているような時代においては、芸術家の使命は、柔和や信頼や友情を顕揚して、清浄な風習や、優しい感情や、昔ながらの心の正しさなどが、まだこの世のものであり、もしくはあり得るということを、或は心をすさませ或は力をおとしている人々に思い出させてやることである。
      ―――1851年12月21日 ノアンにて ジョルジュ・サンド『愛の妖精』の「はしがき」より
サンドは『魔の沼』、『孤児フランソア』、『愛の妖精』、『笛師のむれ』を4つの連作としてひとまとめにする計画を持っていたが実現されなかった。これらの作品は「田園小説四部作」と呼ばれている。      
フランソワとサンド
親友フランソア・ロリナとノアンの野を散歩している時、周囲の自然の美しさに感動した2人は、この自然の美しさを芸術が表現できるかという話から、農民の素朴な感情を文学的に表現できるかと論じたことから、『孤児フランソア』を書いており。  
また、2月革命の後、ノアンの野を散歩している時、フランソアが、こういう社会的動乱の時代には牧歌的な物語によって人心を慰める事こそ芸術家の使命であることを説き。7月 『愛の妖精』を書き始めています。


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