3月


1日
フレデリック・フランソワ・ショパン(1810〜1849)ポーランド 作曲家 (男性)

 ワルシャワで、陸軍学校でフランス語の教師をしていた父(フランス人)とポーランド人の母の間に長男として生まれました(姉が1人と、妹が2人いた)。4歳の時から、母にピアノの手ほどきを受け、6歳のときからピアノ教師について正式に習い始めています。7歳で「二つのポロネーズ」を作曲。8歳のときにワルシャワで公開演奏をし才能をあらわし、モーツァルトの再来と騒がれます。12歳でワルシャワ音楽院の院長であったエルスナーにより作曲を学びます。エルスナーは彼の独創性を、よく理解し自由に学ばせました。そして次々とピアノ曲を発表し、天才少年といわれるようになります。19歳の夏、ウィーンで演奏会を開き、大成功をおさめ、次いでヨーロッパ各地で名声を高め帰郷します。

 1830年(20歳)のとき再びワルシャワを出ますが、2度と帰ることはありませんでした。祖国ポーランドにロシアから独立を求める革命が起こり、ワルシャワが戦火に包まれたのでした。愛国者であった彼は革命軍に参加しようと帰国を決意しますが「音楽家は音楽で祖国に奉仕するべきだ」という親友の言葉に従いとどまりました。そんな思いをぶつけて作曲したのが「革命のエチュード」です。しかし、2度目のウィーンでは、敵国のポーランド人ということで、相手にされませんでした。
1831年パリへ出て、経済的には困難でしたが一応成功をおさめ、又、メンデルスゾーン、リスト等と知り合い、社交界でも歓迎されます。この頃、幼馴染のポーランド女性との失恋(彼の病気(結核)の事で、親族が反対)によって作曲されたのが「別れの曲」です。

 天才的な芸術家の集まるサロンに加わりリストの紹介で女流作家のジョルジュ・サンドと運命的な出会いをし、9年間恋愛関係が続きます。6歳年上の彼女は、結核にかかり弱り始めていた彼を、地中海西部のマジョルカ島やパリ近郊の自分の別荘に連れて行き、母性的な愛情で包みます。安定した生活の中でショパンは、数々の名曲を作りました。彼女と別れてからは健康が優れず、厳しい気候のスコットランドを演奏旅行したのが体に障り、パリへ戻りましたが、39歳で亡くなりました。
 彼の作品は、ポロネーズや、マズルカはもちろん、ポーランドの民俗音楽の特色がみられ、大部分はピアノ曲です。又、その手法に無数の装飾音を用いて旋律を飾ったり、演奏に、テンポ・ルバート(一つの楽句内での速さを自由に変えて演奏すること)を使いこなす等、ピアノによって演奏される最高の美しさを発揮させるような曲を数多く書き「ピアノの詩人」と呼ばれました。
ショパンの曲の題名
ショパンは曲の題名をつける事を嫌がり。「小犬のワルツ」とか「幻想即興曲」などは、彼の死後、勝手に弟子たちや、出版社がつけたものらしい。特に「別れの曲」は、ショパンの伝記映画が日本にきたとき邦題が『別れの曲』だったので、ついたと言われています。又、葬送行進曲は、楽譜を出版する際、勝手に付けられたもので、ショパンは、何度も足を運び、ただの行進曲にするように迫ったそうです。
出版社にとって、表題のない曲は、都合が悪く、当時は、結構いいかげんなところがあったようで、出版元によっても曲の名前が違っていたこともあるらしいです。
晩年のショパンが、イギリスに滞在した際、イギリスの婦人たちに「嘆息3番を弾いてください」とか、「私は、あなたの「鐘」が好きです。」などと言われ、あきれてしまった。というおもしろいエピソートが残っています。
婚約者マリア.ウォジニスキと別れの曲
ワルシャワの貴族ウォジンスキ家の娘。ショパンの親友の妹で、彼女の幼い頃、ショパンは、ピアノを教えていたことがあります。ショパンが25才のとき、美しく成長した彼女と再会したショパンは、次第にマリアに魅かれるようになり、求婚。マリアも受け入れ、家族も当初賛成するものの、ショパンの健康を懸念した親族の反対にあい、破談になってしまいます。
ショパンは、生涯マリアからの手紙の束をリボンで封印し持っていました。マリアは、その後貴族同士の2度の結婚をするが、ショパンの曲は、よく弾いていたと伝えられています。
この、失恋を曲にしたものが「別れの曲」だそうです。
ジョルジュ.サンド
ショパンがジョルジュに初めてあったのは1836年のリストの開いた夜会でした。初対面の「男装の麗人」ジョルジュを彼はあまり快く思わなかったそうです。(当時彼の心はマリア・ヴォジニスカに向いていたのです。)マリアとの結婚が白紙になり失恋の痛手の中でショパンはジョルジュに惹かれていきます。
地方貴族デュドバン男爵夫人として2児をもうけた後に身一つでパリに出て当時の社会規範や結婚制度に真っ向から立ち向かう作品を書き、さらには次々と恋人を代えることでも有名であったサンドのこの新しい恋は"スキャンダラスな恋"としてパリ社交界の人々の好奇の目にさらされる事になってしまいました。二人はこの煩わしさから逃れるため地中海のマジョルカ島へと旅立つことになります。
サンドと駆け落ちするようにして、スペインのマヨルカ島へ行ったショパンは、そこで結核を再発し、3か月でパリに戻ります。この頃には、ショパンとサンドの関係は、男女というより、母子愛のようなものへと変化していきます。サンドは、夏になると病弱なショパンをノアンの別荘で静養させ、献身的につくしました。サンドと過ごした間のショパンは存分に作曲に専念でき、数々の名作を生みましたが、サンドの前の夫との間の子供との誤解、中傷などが原因で1847年10年続いた関係にピリオドをうちました。
サンドとのエピソード
「感じの悪い女に逢ったよ!」
ショパンは友人にチトゥスに、サンドに最初に出逢った時の感想を手紙で送っています。
「何様のつもりだろうね、あの女!いや、女かどうかも怪しいよ」
ところが・・・その1年後のチトゥスへの手紙では
「あの人は、実は美しくて優しいんだよ。オーロール・デュパンっていう、あの人に相応しい本当の名もあるんだ。」
人の心というのは不思議なものですね
サンドはショパンと二人の子供のために、ショパンが寝た後の深夜に小説を書き続け、生活を支えていたと言われています。
代表作品
練習曲(エチュード)27曲「別れの曲」「黒鍵」「革命」
ワルツ15曲「子犬」、ポロネーズ11曲「軍隊」「英雄」
ピアノ協奏曲2曲、ピアノソナタ3曲、24の前奏曲、バラード4曲、
ノクターン19曲等数多くの有名な曲を作曲しました。

3月


1日
芥川龍之介 (あくたがわ りゅうのすけ)

(1892〜1927)

大正時代の小説家

東京で、新原敏三、母ふくの長男として生まれました。彼は、辰年、辰月、辰日、辰刻に生まれたため、龍之介と命名されました。しかし、その後、母ふくが精神に異常をきたしてしまい。彼は、母の実家である芥川家に引き取られ、母の兄芥川道章、儔(とも)夫婦や母の姉ふきによって養育され、芥川家に実子がいなかったこともあって、彼は、そのまま、芥川家の養子として入籍しています。

彼は、10歳の頃から、小学校の同級生たちと回覧雑誌「日の出界」を出し創作をはじめています。第一高等学校に入学し、菊池寛、久米正雄、山本雄三らと知りあいます。東京大学英文科に入学後は、これらの友人達と雑誌第三次「新思潮」を発刊し、。ついで、第4次「新思潮」創刊号に短編「鼻」を発表しました。これが、夏目漱石に認められ、文壇に第一歩を踏み出し、その後、発表した「羅生門」「芋粥」「手巾」によって不動の地位を築きました。

彼は、日本の古典、とくに「今昔物語」等から素材を見い出し、近代人のエゴイズムの問題を鋭い感性で描き、大いに賞賛されました。

大学卒業後は、横須賀の海軍機関学校で英語を教え、作家と教師の二重生活のなかで「地獄変」「奉教人の死」などを執筆。大正8年、創作に専念するため教師を辞し、大阪毎日新聞社に入社します。その後、健康の衰えがめだち、作品は自己の体験をもとにしたものが多くなります。激しい神経衰弱に悩まされながらも「河童」「或阿呆の一生」などを書きましたが、昭和2年7月24日、「ぼんやりとした不安」という言葉を残し、自宅で睡眠薬をのんで自殺してしまいました。35歳でした。
彼の神経衰弱のもっとも大きな原因は、彼の母が精神に異常をきたし、ついには若くして精神病院で亡くなった事だといわれています。しだいに狂っていく母を幼い頃に見ていたため、彼は、遺伝的に自分も母のように狂ってしまうのではないか、という恐怖に深く悩んでいたといわれています。彼の命日には「河童忌」が営まれています。
芥川龍之介の名を記念して、彼の友人であった菊池寛によって、直木賞と同時に昭和10年に制定されました。 各新聞・雑誌(同人雑誌を含む)に発表された純文学短編作品中最も優秀なるものに呈する賞 (応募方式ではない)。主に無名もしくは新進作家が対象となります。
芥川龍之介の遺書(現代語訳)

僕ら人間は一事件の為に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の総決算の為に自殺するのである。しかしその中でも大事件だったのは僕が29歳の時に秀夫人と罪を犯したことである、僕は罪を犯したことに良心の呵責は感じていない。唯相手を選ばなかった為に(秀夫人の利己主義や動物的本能は実に甚だしいものである。)僕の生存に降りを生じたことを少なからず後悔している。なお又僕と恋愛関係に落ちた女性は秀夫人ばかりではない。しかし僕は30歳以後に新たに情人をつくったことはなかった。これも道徳的につくらなかったのではない。唯常任をつくることの利害を打算した為である。(しかし恋愛を感じなかった訳ではない。僕はその時に「越し人」「和聞」等の□情誌を作り、深入りしない

前に脱却した。)僕は勿論死にたくない。しかし生きているのも苦痛である。他人は父母養子もあるのに自殺する阿呆を笑うかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであろう。僕は養家に人となり、我侭らしい我侭を言ったことはなかった。(と言うよりも寧ろ言い得なかったのである。僕はこの養父母に対する「孝行に似たもの」も後悔している。しかしこれも僕にとってはどうすることも出来なかったのである。)今僕が自殺するのは一生に一度の我侭かも知れない。僕もあらゆる青年のようにいろいろの夢を見たことがあった。けれども今になって見ると、□□気違いの子だったのであろう。僕は現在は僕自身には勿論、あらゆるものに嫌悪を感じている。
芥川龍之介
P.S. 僕は支那へ旅行するのを機会にやっと秀夫人の手を脱した。(僕は洛陽の客□にストロンベリイの「痴人の懺悔」を読み、彼も亦僕のように情人に□を書いているのを知り、苦笑したことを覚えている。)その後は一指も触れたことはない。が、執拗に追いかけられるのには常に迷惑を感じていた。僕は僕を愛しても、僕を苦しめなかった女神たちに(但しこの「たち」は2人以上の意である。僕はそれほどドン・ジュアンではない。)哀心の感謝を感じている。(現代仮名遣い)

芥川龍之介(1927/08/20)

上記は、極東ディスティニーランド様のご好意により転載させていただきました。こういう、遺書とかに興味のある方は、こちらのサイトに行かれてはどうでしょうか。

極東ディスティニーランド
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/

の中の自殺のページです
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kuhiwo/dazai/dazai.html

上記のページの自殺遺言集を見てくださいね。

トップページに     今日生まれの偉人伝に