4月


7日
法然(ほうねん)(1133〜1212)浄土宗を開いた鎌倉時代初期の僧。

美作の国(岡山県)久米南条稲岡庄の誕生寺のあった場所で生まれたとされています。

幼名は勢至丸といい、愛情いっぱいに育てられた彼は、すくすくと成長し、学問だけでなく、武芸の修行も怠らない子供でした。なかでも、弓を射ることは、大変上手であったといわれています。

彼が9才のとき、漆間家に明石源内武者定明(あかしげんないむしゃさだあき)らが、不意の夜討ちを仕掛けてきました。幼い彼も、敵に弓矢でねらわれていた父をかばい、使いなれた小さな弓で、敵明石源内武者定明めがけて射はなちます。矢は、見事に眉間に命中し、傷を負った定明は、したたる血を屋敷側の小川で、洗い流し、引き上げていきました。

その戦いで、父時国は深い傷を負ってしまいました。母秦氏の懸命の看病にもかかわらず、父の病状は悪化していくばかりでした。が、父は「恨む心を捨ててほしい。それが本当の幸せになる道なのだ。そのような心を求めて出家し、人々を救ってほしい。これが私の今生における最後の言葉だ。」との遺言を残し亡くなってしまいました。

父の遺言に従い比叡山で修学することになり、15歳で比叡山に登り、18歳のとき、黒谷の慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)の弟子となり天台宗を学びました。

しかし当時の仏教は貴族のための宗教と化し、不安におののく民衆を救う力を失っていました。学問を究め、難しい経典を理解し、厳しい修行を行わなければならない仏教は、世間の人々と無縁の状態でした。

彼は、比叡山西塔黒谷(今の青龍寺)にこもり、経典の読破に励みました。そしてあるとき、唐(今の中国)の善導大師の教えにふれ、善導大師の著した『観無量寿経疏』の中に「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。彼の仏の願に順ずるが故に。」という文を見出したのです。そして念仏によって我々心の乱れた者も正しい生活と往生が得られると確信したのです。

1175年(承安5年)、43歳の春、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることによってのみ仏に救われると説く浄土宗を開宗する決意をかため、京都に出て民衆や公家、とりわけ従来僧に近づけなかった婦人たちにも法を説いていきました。このため旧仏教の人々からねたまれ、讃岐の国(香川県)塩飽島に流されましたが、まもなく許されて京都の大谷に帰り、念仏再興にとりかかりました。

貴族の仏教を民衆のものにした功績は大きく、その弟子、源智(げんち)が大谷に遺骨を収めて知恩院を建てています。又、誕生寺では現在も法然上人の両親を浄土に迎える行事として四月十九日に練供養が行われているそうです。
浄土宗
平安末期、法然房源空が開いた浄土教系の宗派。無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三部経を基本の経典とし、中国の善導に依りどころを置いて、難易二道、聖浄二門の対立を通して安元元年の春、もっぱら南無阿弥陀仏の名号を念仏すれば極楽浄土に往生できると説き、戒律や造寺造仏の不要を主張した。その著「選択本願念仏集」は立教開宗の書とされる。浄土専念宗。念仏宗。
法然上人の母秦氏は、岩間山本山寺に子授け祈願をされた後、剃刀(かみそり)を呑むという不思議な夢を見て懐妊した。そして、長承2年(1133)4月7日、男の子が誕生し勢至丸と名付けられた。後に法然上人となられる。
 誕生のとき、どこからともなく、二本の白い幡(はた)が風に乗って飛来し、屋敷の大きな椋の木にかかり、7日間風にはためいていたが、やがてどこかに飛び去ったといわれている。このことから、この椋の木は「両幡の椋(ふたはたのむく)の木」といわれている。
死を悟った時国は、秦氏と勢至丸に「父の傷は、もう治らないだろう。もし、私が死んだら、お前は、おそらく父の仇を討とうとするだろう。しかし、決して仇を討とうと思わないでほしい。定明を恨まないでほしい。もし、お前が仇を討とうとするならば、両家の争いは永久に絶えないだろう。このようなむごたらしい争いが、いつまでも続くだろう。かわいいお前や、お母さんを残して別れてゆくのは、たえがたい悲しみだ。こんな苦しみや、悲しみは、私ひとりでたくさんだ。恨む心を捨ててほしい。それが本当の幸せになる道なのだ。そのような心を求めて出家し、人々を救ってほしい。これが私の今生における最後の言葉だ。」息もたえだえにそう語り、息を引き取ったと伝えられています。
南無阿弥陀仏
梵語の音訳で、「帰命無量光覚」と訳す。仏語。阿弥陀仏に帰依することを表す
ことば。浄土の信仰者は等しくこれを称えて極楽浄土を願う。真宗ではこれを六
字名号といい、仏名とし、これを本尊とする。

4月


7日
木梅太郎(すずきうめたろう)

(1874〜1943)

明治大正時代の栄養学者

静岡県に生まれました。東京に出て神田の日本英語館で英語の勉強をし、東京農林学校(今の東京大学農学部)の予科に入学、卒業すると大学院に入って勉強を続けました。明治34年文学部の留学生としてヨーロッパに渡り、とくにドイツのフィッシャーのもとでタンパク質の研究に励みました。帰国して東京大学の先生となり、栄養の研究を続けました。

当時、日本では脚気患者が多く、その原因は不明で、死者もでている状態でした。彼は、この問題を解決するため研究に着手し、当時、西洋人にはほとんどなく、日本人に患者が多かったことから、コメ糠から脚気の治療に有効な微量成分を分離し、「アベリ酸」と名付けました。そして、大正元年にコメの学名オリザ・サティバにちなんで「オリザニン」と改名しています。

これはビタミンB1発見ならびにビタミン学の先駆をなすものであったのですが、当初国内では脚気の伝染病説が強かった医学界に無視されてしまいます。そして、彼の発見の1年後、ポーランド出身のイギリスの科学者フンクが同様の有効成分を発見し、この論文が世界中から注目を浴びたのでした。

彼は、すぐに自分の論文を世界に発表したのですが、先にフンクの命名した「ビタミン」という名称が世界中に広まってしまっており、また、当時は日露戦争の頃でまだ日本が世界に認められておらず、世界的にはフンクが最初の発見者として知られるようになったのでした。

彼は、理化学研究所(理研)の創設に参画し、その主任研究員を兼任し、ビタミンAや米を用いない理研合成酒などの研究も行いました。昭和18年に文化勲章を受けています。
脚気は、ビタミンB1が欠乏することによっておこる病気で、末梢神経がおかされ手足が麻痺し、むくみを生じ倦怠感に陥り、ひどくなると、心臓の一部が肥大して死に至る恐ろしい病気です。当時、この病気は、西洋人にはほとんどなく、日本人に患者が多かったため、米食の東洋に発生する風土病と言われたり、白米中に毒物質があるためとか、はたまた脚気菌という細菌原因説まで言われていました。
彼の一大発見に対して、日本の医学界の対応は冷淡で、医者でもない農芸化学者が神聖なる医学に口出ししたことに対して怒り、東京帝大医学部教授らは、彼の発見を、いっこうに相手にしなかったということです。そして、せっかく脚気の薬として販売されたオリザニンは、臨床医からことごとく拒否されたということです。

4月


7日
鉄腕アトム

2003年4月7日生まれ

ロボット

当時の科学省長官であった天馬博士の息子飛雄が交通事故で亡くなってしまい、半狂乱にになった天馬博士は、科学省の総力を結集し、莫大な予算と最新技術の全てをかけ、人間同様の心を備えた息子そっくりなロボットを作成し、死んだ息子の身代わりとして自宅で育てるのでした。

しかし、当然のことながら、この新しい息子はロボットのため成長することはなく、腹を立てた天馬博士は彼をサーカスに売り飛ばしてしまい、自らも行方不明になってしまうのでした。

その後、お茶の水博士が後任の科学省長官となり、サーカスから彼を取り戻し、アトムと命名するのでした。そして、アトムは時には人間のように傷つき悩みながらも、7つの威力で平和のために戦い続けます。そして、お茶の水博士は、アトムのために、お兄さんであるコバルト、妹のウラン、お父さんとお母さん(名前不明)を作って上げるのでした。

アトム(アストロボーイ)の公式サイト  http://astroboy.jp/

また、こんなサイトもありました。

科学天使アトム  http://homepage3.nifty.com/kagakutenshi/
外国では、ロボットは人間から仕事を奪う悪のイメージが強いのですが、日本では子供から大人まで、ロボットに対して優しい気持ちを持っています。これは、日本には「鉄腕アトム」があったからだといわれてもいます。
ちなみに、作者(手塚治虫)の話によると、もともとアトムは女性型のロボットとして描かれていたそうで(そのため、まつげがあるそうです)、作者は非常に色っぽいロボットを書きたかったそうなのですが、少年誌での掲載と言うことで、少し書き直して現在の少年の姿になったということです
11月3日生まれ 作者 手塚治虫


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