11月


3日
武田信玄(たけだしんげん)

(1521〜1573)

戦国時代の武将

甲斐源氏嫡流の武田家の第一八世、守護・信虎の長子として古府中・積翠寺で生まれました。
16歳で初陣して信濃の海口城を攻め落とした彼でしたが、隣国、今川、北条と対決、無理な出兵を繰り返す父信虎の武断政治は、国内にさまざまなあつれきを生み、そうした荒々しい雰囲気の中で、彼は、むしろ文学や宗教に関心を抱く多感な青年として育っていきました。

しかし、そんな彼の態度は父信虎に受け入れられず、彼が21歳の時、次男信繁を跡継ぎにしようとしたため、彼は決起し、傅役・板垣信方や、飯富兵部を始めとする重臣たちと謀り、水も漏らさぬ周到さで、父信虎を駿河に追放、自らが国主となったのでした。

国主となった晴信は甲州法度の制定、金山の開発、信玄堤など の治水、税制改革など、民政に力を注ぐ一方、信濃に進出し、名族諏訪氏を攻め、義弟である諏訪頼重を滅ぼしています。

諏訪氏を滅ぼした晴信は連年にわたり信濃に出兵、村上、小笠原、など豪族と戦い、その勢力を駆遂、ついに越後の長尾影虎(後の上杉謙信)と対峙する。宿敵、上杉謙信との5回にわたる川中島の戦いは12年間 にわたっておこなわれ、とりわけ1561年の第4回・川中島の戦いは、両軍4万の軍勢が激突するという大合戦となった。

信濃を確保した彼はやがて、外交の基本を南進政策にとり、桶狭間の戦いで弱体化した今川と対決、しかし、今川義元の娘を正室とする嫡子義信は再度にわたる説得にもかかわらず、対立を続け、ついには父追放のクーデターを企て逆に幽閉され、獄死してしまうのでした。彼は2度にわたり、父と子の骨肉の情を断つという悲劇を背負うのでした。

1572年もはや彼にとって唯一の敵である織田信長をにらみながら、念願であった上洛を決意。彼が率いる総勢2万の軍勢は遠江に進入、二俣城を落とし、浜松城に迫りました。織田徳川連合軍は老練な信玄の挑発にのり、三方ヶ原に出陣、逆に奇襲を受け、家康は命からがら浜松城に逃げ帰ったといわれています。

しかし、家康を破り、信長軍が守三河・野田城を包囲中、病を得て倒れ、甲斐に帰国の途中、信州下伊奈の駒場にて、ついに帰らぬ人となってしまいました。享年53歳でした。死後、家督は四男・勝頼が継ぎましたが、遺言を守って喪は3年間隠され、世に知られる影武者の逸話を生んでいます。
勇猛な戦国武将にも当然苦手なものはあったらしく、少年時代の信玄は芋虫が大の苦手でした。この事を知った武田四名臣の一人、馬場信房は、芋虫を捕まえてきて信玄の目の前に突き出し、皮肉るように笑い出したところ、芋虫を見るのも嫌なはずの信玄は、その芋虫を触るだけでなく、なんと握り潰してしまったといいます。
1561年、信玄は上杉謙信と信州川中島において大激戦を行った、その3年後のこと、ここ11年間の川中島における両家の争いに決着をつけるべく、両家から力士を1名ずつ出して、その勝負により、勝った方が川中島を領することと約束の上、武田方から安馬彦六、上杉方から長谷川与五左衛門という者を出して勝負したそうです。
二人の力士は組み打ちし、ついに上杉方の長谷川が勝ちました。武田家の人々は無念がって、千余騎の兵が出撃準備をして今にも討って出ようとしたとき、信玄はこう言った。

「鬼をもあざむくほどの彦六が、あんな小男に討たれたのは、武運が尽きたのである。前々から、組み打ちの勝負次第で決着をつけると約束した以上、川中島のことは約束通りにしなければいけない。違約は武士として恥じるべき事、君子に二言はない。川中島四郡は今日より上杉家に差し上げよう」
 と言って帰陣したという。
信玄が信濃に出陣したときのこと、鳩が一羽、信玄本陣の庭先に木の上に舞い降りてきました。皆はこれを見て口々にささやいて喜びました。
信玄がそのわけを尋ねると、「鳩が樹に来るときは、合戦に大勝しないことはありません。縁起の良いことです」と答えました。 すると信玄は、猟銃ですぐさまその鳩を撃ち落としてしまいました。
これは、もしそういう迷信を皆が信じているようでは、合戦時に鳩が来なかった場合、落胆したり不安を感じたり、あるいは敵を恐れる心が生じ、合戦が危機に瀕するようなことになるかもしれないとの配慮からでした。
 「戦に勝つということは、五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする」信玄がまわりに言っていた言葉です。

 ある人がこれについて、その理由を信玄に尋ねたところ、「五分の勝ちであれば今後に対して励みの気持ちが生じ、七分の勝ちなら怠り心が生じ、十分つまり完璧に勝ってしまうと、敵を侮り驕(おご)りの気持ちが生まれるからだ」と言ったといいます。
だから信玄は常に程々以上を超える勝利は求めませんでした。上杉謙信はこれを評し、「いつも自分が信玄に及ばぬ所は実にここである」と言ったという。
誰も見よ満つればやがて欠く月のいざよふ空や人の世の中(甲陽軍艦)

この歌は、腹心の郡代板垣信方の慢心を戒めて信玄が詠んだ歌だといわれています。
山梨県の釜無川(かまなしがわ)は、甲府盆地で御勅使川(みだいがわ)と合流します。南アルプスの険しい渓谷から発する御勅使川は、急流となって釜無川に注ぐため、古来、合流部周辺は洪水や土砂災害が頻発していました。
そこで信玄は御勅使川の流れを変え、その怒とうのような奔流を釜無川の岩壁にぶつけて勢いを減じるという妙案を考え出しました。しかし、これだけでは洪水を防ぐことはできないので、合流部の下流に築いたのが信玄堤です。

信玄堤は断片的な土手を不連続に並べた堤防です。上からみると“彡”の字型のすきまのある堤防なので、素人目には未完成の欠陥堤防のように見えますが。 実は、大雨によって増水したときは、このすきまから自然放流されるので、堤防の決壊を未然に防ぐことができます。また、すきまから自然放流された水は、もはや勢いをなくしているため、これをうまく周囲に誘導して洪水を防ぐのです。

武田信玄が考案した治水術は、甲州流川除(かわよけ)と呼ばれ、江戸時代になると、信玄堤は各地で築かれるようになりました。
ちなみに上杉謙信は1月21日生まれです

11月


3日
手塚 治虫(手塚 治)

(1928〜1989)

ストーリー漫画,テレビ・アニメーションの創始者。

大阪府豊中市に手塚ゆたか、文子の長男として生まれました。映画好きの漫画少年として育ちましたが、昭和20年大阪大学付属医学専門部に入学しました。

翌年、「少国民新聞(のちの毎日小学生新聞)関西版」で彼のデビュー作となる4コママンガ「マアチャンの日記帳」が連載されるようになりました。さらにその翌年には、長編漫画「新宝島」が驚異的なベストセラーとなり、40万部を売りつくしたそうです。

その後も、優れた作品を発表し、昭和25年には、 「漫画少年」に「ジャングル大帝」の連載を開始します。 この年、大阪大学附属医学専門部を卒業しています。

翌26年には、「少年」に 「アトム大使」を連載し。さらにその翌年からは、脇役であったアトムが主人公となり、「鉄腕アトム」として長期連載され、医師国家試験にも合格しました。仕事の場を東京に移し、その後、都内の豊島区椎名町のトキワ荘へ引っ越します。この年、「少女クラブ」に「リボンの騎士」の連載を開始します。

昭和36年には、医学博士の学位をとり、さらに手塚治虫プロダクション動画部設立(後の虫プロダクション)し、昭和38年には、国産初のテレビアニメ「鉄腕アトム」をフジテレビで放送開始。この作品は高視聴率をあげ、アメリカでも「アストロボーイ」として放映されました。

彼は、その後も数々の名作を発表し、数多くの賞を受賞。存命中から「漫画の神様」と呼ばれていました。彼は死ぬまで精力的な創作を続け、原稿にして15万枚もの膨大な作品を描きました。代表作に「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」「リボンの騎士」「火の鳥」「ブラックジャック」「ブッダ」「アドルフに告ぐ」などがあり、今でも、大人から子供まで愛読され続けています。平成元年2月9日、胃癌のため亡くなりました、60歳でした。
オサムシ?
少年時代、昆虫採取に夢中になり、平山修次郎著「原色千種昆蟲図譜」を見て「オサムシ」という虫を知り、本名の治に虫をつけて「手塚治虫(オサムシ)」というペンネームにしたそうです。(昭和25年ごろからは、治虫オサムと読ませるようになったそうです)
日本でロボットという存在がここまで愛されるようになったのは、彼の「鉄腕アトム」によるところが大きいといわれています。そのアトムが誕生したのが2003年4月7日、もう来年なのです。来年、アトムと呼ぶのにふさわしいロボットは誕生するのでしょうか?
インターネットにも手塚治虫を紹介するサイトは数多くあります。この機会に一度訪れてみられませんか?

手塚治虫ワールド  http://www.tezuka.co.jp/


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