1月


21日
上杉謙信

(1530〜1578)

生涯すべての戦が「義戦」であり、私欲の為に戦ったことがない不敗の武将

戦国時代の武将 越後の龍

越後(新潟県)の守護長尾為影の末子(4男)に生まれ、幼名を景虎といい、観音菩薩の信者であった母のもとで育てられ、慈悲深い少年に成長しました。

7歳の時に城下の林泉寺に入れられ名僧天室光育から厳しく文武の道を習いましたが、9歳で帰城、1542年に父が亡くなり、兄の晴景が後を継ぎますが、力がなかったため、1548年彼が継ぎ国内の統一をはかります。そして、関東の北条氏康に追われた上杉氏から系図を譲られ、上杉を名のり関東管領となりました。

1553年と1559年の2度にわたって上洛し、天皇や将軍に拝謁して、深く信頼されていました。甲斐の武田信玄とは、川中島を中心に前後11年間戦いましたが、結局勝敗はつきませんでした。彼は、どんなときでも、領土的野心で戦いをしたことは一度もなかったといわれています。

1573年信玄の死により戦局が好転、越中から能登に進んで七尾城を落としました。しかし北陸で新たに織田信長との軋轢が生じるようになり、1577年には織田軍を加賀で打ち破っています。しかし翌年、関東出兵を前にして、突然、春日山城内で急死、49歳の生涯を閉じました。

彼は、朝廷と室町幕府を再興したいという大きな夢を持っていましたが、かないませんでした。文武両道にたけた人で、和歌、茶道、謡曲のたしなみも深く、信仰に厚く、また、産業をおこし、租税を軽くし、商工業や鉱業を盛んにするなど民政にもよく心を用いた名将として伝えられています。

敵国の甲斐の住民に塩を送ったという逸話は有名です。生涯独身でした。

※武田信玄(1521〜1573)
 戦国時代の武将、甲斐(山梨県)の国守。

※北条氏康(1515〜1571)
 戦国大名、相模(神奈川県)小田原城主。早雲の後、小田原北条氏の威勢を
 高めた。
一期の栄 一盃の酒
四十九年 一酔の間
生を知らず また死を知らず
歳月ただこれ 夢中のごとし

これは謙信の死後に発見された辞世の句といわれています。彼はこの句からもわかるように、大変な大酒のみで、彼の突然の死には、酒が深くかかわっていたのではないかと言われています。
敵に塩を送る
今川氏真が北条氏康と同盟を結んで、遠江・駿河・伊豆から甲斐に送っていた塩の輸送を停止し、商人の往来を禁止した。岩塩の産出しない甲斐や信濃では、塩止めによる戦略的効果はきわめて大きく、信玄は怒りながらも激しく動揺した。これを聞いた謙信は「北条・今川両氏は、戦争で武田に勝つことができず、塩や魚で苦しめるのはあまりにも卑怯なやり方である。我が戦いは弓矢であり、米塩の戦いではない。武田は敵といえども見殺しにすることはできない」といって、塩を安くして甲斐に送ることを信玄に通告した。「敵に塩を送る」と言う言葉は、謙信が宿敵である信玄に塩を送ったという、この話からできたと言われている。 
彼は、敵である武将たちからも信頼されており、かの武田信玄も「あのような勇猛な武将とことを構えてはならぬ。謙信は、頼むとさえいえば、必ず援助してくれる。断わるようなことは決してしない男だ。この信玄は、おとなげなくも、謙信に依託しなかったばかりに、一生、かれと戦うことになったが、甲斐国を保つには、謙信の力にすがるほかあるまい」と、その子勝頼に遺言したといいいます。

謙信の好敵手であった相模の北条氏康もまた、「信玄と信長に表裏つねなく、頼むに足らぬ。ひとり、謙信だけは、請け合った以上、骨になるまで義理を通す人物である。だから、その肌着を分けて、若い大将の守り袋にさせたいと思う。この氏康が、明日にでも死ねば、後事を託す人は謙信だけである」と、語ったといいます。
1559年2月、北条氏政が二万の兵を率いて佐野昌綱の居城を囲んだときのことである。謙信はこれを聞いて八千の軍勢を率いて救援に向かった。
 城が危いと聞くと、「後詰(救援軍)は自分に劣らぬ侍大将が多くいるので心配はない。肝心の佐野の城が心配だ。まず自分は城に駆け入って力を貸そう」と言って、武装もせず、黒木綿の胴服を着、十文字の槍を横たえ、たった二十三騎を率いて氏政陣二万の目の前を、馬を静かに歩かせて威風堂々城に入った。
 この様子を見ていた敵の軍兵は、ある者は恐れ、ある者は見とれ「夜叉羅刹とはこのことにちがいない」と、近づく者もいなかったという。

 城将・佐野昌綱は謙信の馬にすがりつき「毘沙門天様!」と泣きじゃくったといわれています。
「毘」と「龍」の旗。
毘沙門天の頭の一字「毘」の字を白地に黒く大書してあるのは「刀八毘沙門(とばつびしゃもん)の旗」と呼ばれています。
毘沙門天は仏教を守護する武神であり、左手に宝塔を捧げ、右手に矛をたずさえ、人々に幸福を授け、妨げるものを打ちひしぐ降魔の神です。
謙信は深く毘沙門天を信仰しており「我に武運を垂れ賜え、されば生涯女体に触れず」と誓ったといわれています。これは、謙信が生涯妻妾を持たなかった大きな原因の一つとされており、謙信は出陣する際には、必ず毘沙門堂にこもって戦勝を祈願したと言われています。
ちなみに、白地に「龍」の字を記した旗は「懸(かが)り乱れ龍の旗」といわれ、全軍総突撃の際に用いられ、龍の字のうねるが如く敵陣に乱入する意味を表しているそうです。
北越軍談によると、謙信の誕生にかかわるこんなエピソードが書かれているそうです。

母・虎御前の夢枕に20歳ばかりの修験者が現れ「あなたの胎内をお借りしたい。」と頼んできた。虎御前は「私には夫があります。夫の許可無く承諾できませぬ。」と断った。
翌日夫の為景にこの夢を話すと、「これは聡明な男児が授かる嘉兆であろう。と許した。
そこで、精進潔斎し、神祇を祀り、美酒・珍菓を供えて床に入った。すると昨夜の修験者が夢枕に現れ「我は坂東箱根山のものなり。しからば胎内に宿りはべらん。」と言って、彼女の左の袂入ったのです。
こうして翌朝、虎御前は謙信を懐妊したといわれています。
「執念の石」
「川中島の戦いで、上杉謙信が武田信玄に切り込んできた時、武田の家臣・原大隅が謙信に槍で突こうとしたが失敗。信玄も一命を取り留めたが謙信がこれほど近くに接近しながら討ち取れなかった無念から原大隅が石に槍を突き通したという伝説の石。」 というものが川中島古戦場(八幡原) にはあるそうです。
ちなみに武田信玄は11月3日です


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