2月


28日
ミッシェル・エケム・ド・モンテーニュ(1533〜1592)フランス 思想家

ボルドー近くのモンテーニュの貴族の家に生まれた、2歳からラテン語の教育を受けたといわれている。法律を学びボルドー高等法院参議をつとめた。その後自邸にこもって、読書と内省の生活を送り、1580年「随想録(エッセー)」を出版した。病気治療のためイタリアの温泉を旅行中、ボルドー市長に選ばれ、帰国後、その職を2期つとめた。

その後は、又、読書と著述の生活に戻った。「随想録」は読書の感想記録のようなものとして書き始めたものであるが、まもなく彼自身の生活、思想を書き表すようになった。人間の思想のむなしさを知り、誠実、謙虚に物事をみようとする懐疑主義的な考えを展開している。デカルト、パスカルなど近代の哲学者、科学者に大きな影響を与えた。フランスのモラリスト文学の始祖と称されている。

彼は晩年、宗教戦争を体験し、人類を救済するという宗教でさえ、戦争ではその凶暴性を発揮することを痛感する。その体験から、人間は偏見・独断・傲慢・不寛容などをうち破って、自分の人間性を吟味すべきだと定義した。
「随想録」で彼は、学問、政治、宗教、恋愛、詩、老病、死などへの処し方について、 謙虚な試論(エセー)の形で語っている。現在のエッセーの語源となったとも言われています。
彼の言葉には「ク・セ・ジュ?(Que sais je?)」というものがあるが。これは「われなにをか知る」(私は何を知っているのか)という意味で、そうやって自分の内面に常に問い掛けて、人間性を高めるべきだ、という意味である。
晩年彼は、宗教戦争を体験し、人類を救済するという宗教でさえ、戦争ではその凶暴性を発揮することを痛感した。だからこそ、人間は偏見・独断・傲慢・不寛容などをうち破って、自分の人間性を吟味(エセー)すべきだとしました。

2月


28日
山川惣治 (やまかわそうじ)(1908〜1992)絵物語作家、画家。

1908年福島で生まれました。その後、昭和七年兄とともに紙芝居配給製作所を設立。そうじ映画社を興し、多くの紙芝居を制作、自作の「少年タイガー」などが人気となり昭和初期の紙芝居ブームを作りました。

文部省主催の日本紙芝居コンクール入選を機に、雑誌「少年倶楽部」で「宣撫の勇士」「ノモンハンの若鷲」「和井内鱒」など戦記、伝記絵物語を発表、絵物語作家としてデビューしました。

第2次世界大戦後も、紙芝居や雑誌「少年倶楽部」などで絵物語作家として活躍。特に、紙芝居から絵物語にして単行本化した「少年王者」は。35万部を超える大ヒットとなりました。

これにより絵物語ブームが起こり、密林冒険物が巷にあふれました。そして、続く「少年ケニヤ」もヒットし、アフリカの密林で活躍する主人公ワタル少年はヒーローとなり、のちに単行本は大ベストセラーとなりました。

1968年に引退しましたが、1983年「少年ケニヤ」の再出版で再び注目され、雑誌に「十三妹 (シーサンメイ)」を連載し、話題となりました。

また、川崎のぼるが劇画化した「荒野の少年イサム」の原作者でもあります。

1992年12月17日、心不全のため千葉県八千代市の病院で亡くなりました。八十四歳でした。
少年ケニヤ
少年ケニヤの本当の名は村上ワタルといいます。動物調査のためケニヤの奥地を調査中、密猟業者に飛行機を撃墜され、ワタルは父の村上博士と離れ離れになってしまいます。しかし、マサイ族の大酋長ゼガを危難から救い、悪い呪術師に利用されていた金髪の美少女ケイトを助け出し、父との再会を求めてケニヤの広大な原野や、鬱蒼とした密林でワタルたちの活躍がはじまるのでした。
なお、「少年ケニヤ」は1984年、大林宣彦監督によりアニメ映画化(角川映画)されています。。主題歌は渡辺典子さん。声優は高柳良一さんに原田知世さんでした。

2月


28日
高村光雲(中島光蔵)

(1852〜1934)

木彫家

幕末の江戸下谷に生まれました。彼は、1863年(文久3年)から11年間、仏師・高村東雲のもとで修行し、師に認められその性をついでいます。しかし、明治初期、神仏分離令により廃仏棄釈の嵐が全国に吹き荒れるとその職を失い、木彫家に転進します。

木彫の世界に入った彼でしたが、彫刻会では輸出用の象牙彫刻が大流行し、伝統的な木彫は衰える一方でしたが。彼は木彫を続け、従来の木彫に西洋的な写実性を取り入れて、新しい表現を生み出して、しだいに、有名になってゆきました。

明治20年には、当時造営中であった皇居・化粧の間の装飾彫刻を担当し、そのすぐれた技術をフェロノサや岡倉天心に認められ、明治22年からは東京美術学校に勤務して翌年には教授に就任し、帝室技芸員にも推挙されています。

そして、明治26年、シカゴ万博に、あの有名な「老猿」を出品し評判となりました。その後も、皇居前広場の「楠木正成銅像」や上野公園の「西郷隆盛銅像」の木型制作主任を務めました

彼は、昭和9年に亡くなるまで、日本の木彫界で指導的役割を果たし、彼の門下からは、多くの優れた木彫家たちが輩出しました。また彼の長男である、詩人高村光太郎も、彫刻家としても有名で、彼の存在抜きではわが国の近代彫刻氏を語ることはできないと言われています。
シカゴ万国博覧会に出品された彼の「老猿」は、鷲をつかまえようとして取り逃がした老猿が、手に羽根をにぎりしめたまま、ワシの飛び去った方をにらみつけている構図となっていますが、当時は、日露関係が悪化しており、ロシア皇室の紋章(もんしょう)が鷲だったために、別の意味でも話題となったそうです。
彼の代表作のひとつである、上野の西郷隆盛像ですが、実は西郷隆盛という人は大の写真嫌いで、ちゃんとした写真は一枚も残っていなかったそうです。そこで、高村光雲は銅像を作るにあたって、上半身を弟の従道、下半身を大山巌をモデルとしたのですが、この銅像の除幕式のとき、隆盛の妻の糸子が「うちのおとうじゃない」と、つぶやいたそうです。

ちなみに、西郷隆盛像は当初陸軍大将の軍服をきるはずだったそうですが、政府に反逆した人物が軍服を着ているのはおかしいということで、犬を連れて兎狩りをしている現在の銅像となったということです。
  彼の息子である、高村光太郎の誕生日は3月13日です。一緒にごらんになってみてはいかがですか?

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