3月


13日
高村光太郎(1883〜1956)彫刻家 詩人

 木彫家高村光雲の長男として、東京下谷西町に生まれました。本名は光太郎(みつたろう)。後年自ら(こうたろう)と称するようになります。
 母は幼いころから光太郎のことば使いに大変やかましく、このことがのちに、詩や文章を書くときに役立ちました。小学生の時、父から彫刻の道具をあたえられ、15歳で東京美術大学に入り、日本語と彫刻を勉強しました。卒業してからも研究科に残り、洋画の勉強に励みました。
 22歳のとき、雑誌「スチュディオ」でロダンの「考える人」の写真を見て衝撃を受けます。又、新潮社に入り。「明星」に短歌、詩等を発表しています。
 1906年(明治39年)23歳アメリカに渡り、ついでイギリス、フランスで心ゆくまで彫刻や美術の勉強をし、1909年(明治42年)日本へ帰りました。1914年(大正3年)長沼智恵子と結婚し、智恵子のはげましによって詩作と彫刻に打ち込みました。
 妻、智恵子が九十九里浜松林内の「田村別荘」に昭和9年頃、病気療養していました。(元々体が弱かったが昭和6年頃より、精神に変調を来たしていました。)当時光太郎は52歳、智恵子49歳でした。
 光太郎は毎週土曜日の午後、東京から大きなリュックを背負って見舞いに来て、一晩とまり、日曜日に帰って行きました。その間、光太郎は妻をいたわり、目の前に広がる九十九里の大海原や松林、砂浜の道なき散歩道を散策し、妻を気遣いながら、いとおしく見守っていました。
 光太郎は渚で無心に千鳥と遊ぶ智恵子を詩「千鳥と遊ぶ智恵子」で「人っ子ひとり居ない 九十九里の砂浜の 砂にすわって智恵子は遊ぶ・・・・・」と読んでいます。
 昭和13年、智恵子は52歳で南品川のゼームス坂病院で、亡くなりました。
 その後、昭和16年に、光太郎は詩集「智恵子抄」を刊行しています。
「道程」「智恵子抄」等の理想主義的な詩集を発表し、美術評論家としても優れ、「ロダンの言葉」「美について」等の美術評論集を発表しました。彫刻作品では(粘土)「高村光雲胸像」「黒田清輝胸像」、(木彫り)「魴?」「蝉」「鯰」「白文鳥」などがあります。1953年(昭和28年)の十和田湖畔記念碑の「裸婦像」が最後の作品になりました。1957年(昭和31年)3月半ばから度々喀血、絶対安静を続けていましたが、4月2日早暁中野のアトリエで亡くなりました。
彼が最後に手がけた十和田湖畔の「裸婦像」は智恵子そっくりだと言われています。
又、詩の中にも「智恵子の裸形をこの世にのこして/わたくしはやがて天然の素中に帰ろう」と書かれています。この裸婦像は彼の智恵子への想いを形にした、逆にいえば高村光太郎そのものを形にしたモニュメントと言えるでしょう。
それは、彼が詩の中で書いているように「自然の定めた約束であり」、そして、そのために生を与えられたといっても過言ではないでしょう。

「ね、君、僕はどうすればいいの、智恵子が死んだらどうすればいいの?僕の仕事だって、智恵子が死んだら、誰一人見てくれるものがないじゃないの」

これは、病院に智恵子を見舞っての帰りのこと、誰もいないアトリエに帰る恐ろしさに耐え切れず、草野心平氏にもらした、心の叫びともいえる言葉です。彼の詩、特に智恵子を読んだ詩には、限りない愛情が込められています。
光太郎の歌
 光太郎智恵子はたぐいなき夢をきづきてむかし此処に住みにき
入院中、智恵子は、見舞いに訪れる最愛の光太郎のためにだけに製作した、紙の切り絵千数百点を残し、昭和十三年十月五日夜、五十二歳の生涯を閉じたのである。
今際のきわに、智恵子は大好きなレモンを光太郎からもらうと、一口かじり、かすかな笑みをこぼしながら息を引き取ったといわれる。
智恵子は十七歳の時、単身上京し、日本女子大学普通予科に入学する。(その後家政学科に移る。)智恵子が「新しい女」として、自分の資質に目覚め、自らの生き方を決定づけたのはこの数年のことであったろう。
 学友は、智恵子を評して「落ち着いて、口数少なく、物事に熱中する反面、ユーモアに満ち、急に人をアッと驚かすようなところがあり、自転車をいちはやく乗りこなし、たたむ必要のない不精袴を考案したり、得意なテニスでは、おとなしくしずかなひとの強打に仲間が不思議がっていた」といわしめている。
 明治四十年、女子大を卒業しても帰郷せず、当時としては稀な女流油絵画家としての生活を続けている。そのころ”新しい女性の集団”の一人として、雑誌「青鞜」創刊号の表紙絵を斬新なデザインで描いている。
 そんな時、フランス留学から帰国した彫刻家であり、歌人、詩人そして絵画にも通じ、さらには、新たな評論活動を行っていた「高村光太郎」と知り合っている。
 智恵子の先輩、柳八重の紹介により、光太郎のアトリエを訪問したのが、明治四十四年暮のことである。
 犬吠崎への写生旅行中の出会いや、光太郎が上高地に仕事で滞在中、智恵子も一ヶ月ほど一緒に油絵を書くなど、互いの芸術のよき理解者として、愛と信頼を深め、大正三年十二月、友人達に結婚を宣言したのである。
 智恵子二十九歳のことである。
光太郎の母は、言葉づかいに大変やかましく。光太郎が近所の子どもから悪い言葉を覚えてくると、必ず言い直しをさせていました。
彫刻家光太郎
 私は長男なので、父の家業をついで彫刻家になるということは既定のことであったが、特に父の指導をうけるということもなかった。多くの内弟子などの間にうろうろしていて、見よう見まねで何となく彫刻に親しんだに過ぎない。七歳頃に父に小刀を二、三本もらっていたずらしていたことをおぼえているが、よく刃物で怪我をした。
光太郎の父
「徳川末期明治初期にかけての典型的な職人であった。いわゆる 『木彫師』であった。(略)又その気質なり人柄なりに於いても完全に職人の美質と弱点を備えていた。」

3月


13日
ヘボン( ジェームズ・カーティス・ヘップバーン James Curtis Hepburn)

(1815〜1911)

アメリカの宣教師、医師、語学者

ペンシルバニアのミルトンで生まれました。プリンストン大学卒業後、さらにペンシルバニア大学に入り医学を修め、卒業後は、宣教師になって、シンガポールなどで医療と伝道に従事していました。

彼が、日本へ渡ることになったとき、彼の友人達は全員が反対しましたが。彼は全ての財産を処分し、彼の行動を理解してくれた妻のクララ夫人とともに日本へと向かったのでした。

1859年に日本に到着した彼は、横浜の成仏寺に住み、のち開業し神奈川宿で施療所を開き医療と伝道を行いました。当時の日本は、安政の大地震、コレラの流行、各地での凶作と悲惨な状態でした。しかも、攘夷派の浪人による外国人の暗殺が横行しており、彼も命を狙われたのです。しかし、彼は、少しもひるむことなく、患者のもとへと出向いていったそうです。

彼は、常に無報酬で治療を行い、「完治せざるもの無し」という評判がたち、多くの人が彼をしたって治療に訪れました。彼は「下は乞食から上は老中まで施療した」というほど多くの人々を分け隔てなく治療し、彼が帰国するまでの20年の間に、12万人以上の診療にあたったと言われています。

そして、彼は異人への殺傷事件が頻発する中「言葉が通じ、理解しあえば、こんなことはおこらない。」と、1867年日本最初の和英・英和辞典「語林集成集成」を編集、そのローマ字の表記法がヘボン式ローマ字と呼ばれました。この辞書は、幕末から明治初期にかけて、日本人が英語を勉強するのにもっと役立った辞書となったのです。

また、彼は、家塾「英和学校」を開いて英語を教え、その女子部は横浜のフェリス女学院,男子部は東京の明治学院となり、彼は、最初の総理(院長)に就任しています。また聖書を翻訳するなど日本の教育、文化に尽くし1892年(明治25年)に帰国しました。

彼は、44歳で日本へきて、33年滞在し、このとき77歳になっていました。そして、アメリカへ帰国後の、明治38年勲三等旭日章を受章し、明治44年に亡くなりました。96歳でした。
ちなみに、彼の本名は、ジェームズ・カーティス・ヘップバーンでしたが、日本人には「ヘボン」と聞こえたため、「ヘボン先生」と親しみを込めて呼ばれていたそうです。そして、自らも「平文(ヘイボン)」と称していたということです。ちなみに、女優のオードリー・ヘップバーンと同じスペルです。
明治学院の最初の総理(院長)は、推されてヘボンが就任した。やむを得ず総理に就任したのですが、二代目の総理には日本人がなるべきであると主張して、それを条件として就任したということです。そして、帰国する1年前に、総理の座を井深梶之助に譲り、帰国したのでした。
横浜市大医学部情報センター入口にはヘボンの肖像レリーフがあります。傍らに「ヘボン博士の暖かい近代医学への精神こそ横浜市大医学部の範とすべきである」と記されているそうです。さらに歌舞伎俳優三代目沢村田之助に米国製の義足を装着する様子を描いた錦絵があります。
この日本最初の和英辞典は 「簡便確実にして且鮮明なり。 英字に志ある諸君は座右に置かずんばあるべからず。」 との触れ込みで横浜で発行され、多くの日本人の目を西洋へと向けさせたのでした。
ヘボンの言葉
「私は、ただ地味な努力家に過ぎず、ごく当たり前な人間です。もし何かの故に人
に認められたならば、それはわたしが勤勉であり、忍耐力があったからでしょう。
とりえは、一途で、ただ一つの目標に向かって働いたということぐらいでしょう。」

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