12月


4日
ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke)

(1875〜1926)

薔薇の詩人

ドイツの詩人・小説家

鉄道官吏の子としてプラハに生まれました。幼いとき彼は母ゾフィアにより女の子として育てられています。女児(リルケの姉)をなくしたゾフィアの悲しみゆえでしたが、「フランス人の血を引く」と自称し、喪服のような黒衣を好む、虚栄心の強い母の手で幼年期を育てられたことは、リルケの性格形成と詩に多大な影響を及ぼしました。

その後、9歳の時に父母が別居し父側に引き取られるのですが、父の希望ではじめ陸軍高等実科学校に入学しましたが、中途退学し、詩人を志してプラハ、ミュンヘン、ベルリンの各大学に学びました。

1899年とその翌年に2度のロシア旅行を行いましたが、その旅行が彼が詩人として生きることを決定付けました。結婚生活に敗れて後パリに住み、彫刻家ロダンの作品に打たれ、その教えを受けています。ロダンと出会った後の彼の詩は客観的な詩風に変わっていきます。(リルケは30歳の頃にロダンの「秘書」をつとめ、ロダン論も書いています。)

そして、ロダンとの出会いによって彼は、死と愛、神と孤独、不安と芸術などの人生の根本的価値の諸問題を表現しました。ついで、アフリカ、スペイン、イタリア、フランス等の国々を放浪し、第一次世界大戦後はスイスに住んで、大作「ドゥイノ非歌」を完成し、20世紀詩の頂点といわれる「オルフォイスへのソネット」を書いています。また、小説「マルテの手記」では、文明におしひしがれながら、生きる詩人の内面生活を描きました。

以後フランス語で作詩したり、バレリーの翻訳をして、晴れやかな晩年を過しましたが、1926年、薔薇の棘で指を傷つけたことから急性白血病になり、51歳で死去しました。
リルケ自身による墓碑銘

薔薇よ、おお、きよらかな矛盾よ、
あまたの瞼のしたで、だれの眠りでもないという
よろこびよ。
「どうぞ 私の眼を拭い去ってください
 ほら、私にはあなたが見えます
 どうぞ 私の耳を投げ捨ててください
 ほら、私にはあなたの声が聞こえます
                    
 たとえ足がなくとも 私はあなたのもとへ行けます
 たとえ口がなくとも 私はあなたを呼び出せます
                  
 どうぞ 私の腕を折ってください
 私はあなたの心をつかみます
 手でつかむように この心で……」
                     
(『リルケ詩集』富士川英郎訳 新潮文庫)
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