11月


12日
オーギュスト・ロダン

(1840〜1917)

フランスの彫刻家

パリの裏町で、警視庁書記の子として生まれました。幼い頃から芸術の道を志し、帝国素描・算数専門学校で彫刻を学びましたが、芸術家の登竜門である国立美術学校の入学試験には失敗してしまいました。その後、人気彫刻家のもとで下彫り工として働きながら勉強を続け、力強い個性で作品を発表していきました。

1875年、イタリア旅行で、ミケランジェロに感銘し強く影響を受けたのですがが、彼はミケランジェロのように石を刻むのではなく、粘土をこね、指で肉付けしていく方法で運動、とくに微妙な動きを表現し、塊の中に生命を見出すのが彫刻だとして、彫刻を絵画と同様の芸術に前進させたのでした。

そして、1877年「青銅時代」を発表。そのあまりにリアルで迫真的な出来栄えから、直接人体から型取したのではないかと物議を醸し、フランス彫刻界の注目を集めました。

この作品により一躍注目を集めた彼は、その後も単なる写実に満足せず、内面的なものを追求する作風に変わっていき「接吻」「考える人」「カレーの市民記念像」「バルザック記念像」など、それまでの彫刻の流れを変えるような斬新な人物表現を生み出し大きな名声を確立しました。またミケランジェロ以来の最大の彫刻家と言われています。
1891年、ロダンは文芸家協会から、その初代会長である小説家オノレ・ド・バルザック(1799-1850)の記念像の制作を依頼されました。ナダール(フランスの写真家、1820-1910)による肖像写真をもとにして、裸体のもの、着衣のもの、頭像、胸像と数多くの習作をつくりました。そして1898年のサロンにガウンをまとった石膏像を発表しましたが、これが雪だるま、熔岩、異教神などと言われ、「フランスの誇る偉大な作家を侮辱した」と、なんと注文主の文芸家協会からは作品の引き取りを拒否されてしまったのです。ロダンは石膏像を自宅に引きとり、終生外に出すことはなかったそうです。
そして、彼の死後、1939年になってようやくパリ市内に、ブロンズで鋳造された像が設置、除幕されました。現在ではガウンによって写実的な細部が覆われ、大胆に要約された形態は、ロダンの作品の中でも最も現代に通じると、評価されています。
欧米各地で女優として大成功を収め、日本人で唯一、近代彫刻の祖オーギュスト・ロダンのモデルとなった花子(本名 太田ひさ)。森鴎外の短編小説「花子」でロダンとともに主題となっているのもこの女性です。
 岐阜の町で芸者をしていた花子は、明治34年にヨーロッパへ渡ります。ドイツや英国など各国で日本独特の「ハラキリ」などを真に迫る演技で見せ、巡業を重ねるうちに一躍有名になりました。その人気は、ハナコという名の酒やたばこまで販売された程でした。

明治39年、マルセイユでのある晩。花子は、「考える人」の作品で有名なフランスの彫刻家オーギュスト・ロダン(1840〜1917)と運命的な出会いをします。博覧会で花子の興行を目にしたロダンは、舞台が終わるやいなや楽屋へ駆け込み、花子にパリに来て自分を訪ねてくれるよう頼んだのでした。

以来、花子はロダンのモデルをつとめ、「死の首」、「空想に耽る女」をはじめ多数の彫刻やデッサンが遺されています。その数は50数体にのぼり、ロダンのモデルの中で最も多く制作されました。   

小柄な一人の日本人女性は、ロダンにプチト・アナコ(小さな花子)と呼ばれ、家族同様の愛を受けました。それはアトリエで創作中、花子が疲れるとお茶やコーヒー、チョコレートなどを与え、また、ロダンの邸宅には花子の部屋が設けられていたほどだったとのです。後年、花子は第一次大戦時のことを振り返り、ロダン夫妻ともにパリからロンドンへ避難した際に、ロダンの妻は彼の財産を金貨にしてその半分を渡してくれたとも語っています。

欧米18ヵ国で20年に渡り巡業し、スターとしての地位を築いた花子は大正10年に帰国します。そして晩年の24年間は妹が住む岐阜市で静かに暮らしました。近所の人たちから「イギリスばあちゃん」、「英国のばっさま」などと呼ばれ大変親しまれていたようです。昭和20年、岐阜市西園町でその生涯を閉じました。
カミーユ・クローデル(1864-1943)。
かの外交官詩人ポール・クローデル(1868-1955)の姉にして、天才彫刻家オーギュスト・ロダン(1840-1917)の弟子で愛人。カミーユ自身幼い頃から彫刻を志しており、17歳の時に父親の理解のもとパリに出て、やがてロダンに弟子入りします。若き彫刻家カミーユの作風は、まだ見ぬロダンのそれに似通っていたということなのですが、彼女自身はその時すでに著名だったロダンと比べられることを名誉に思うどころか、「この私の作るのとそっくりの彫刻を作る男!」と、激しく反発するのです。やがては、反感が愛に変わっていくのですが,
彼女がどんなに良い作品を作ろうとも、それはロダンの影響下のものとしてしか評価されず、さらには師である筈のロダンに自分の作品を盗作され、それを抗議しようとしてもそのことを信じる者は誰も無かったのです。そして、彼女を圧倒的に支配する師・ロダンは、芸術家としての彼女だけでなく女としての彼女も支配してゆきます。芸術家としての挫折、そこからもたらされる生活苦、そして不倫の代償としての流産。やがて彼女は精神に破綻をきたし、家族によって精神病院に閉じ込められ、そこで発狂したまま生涯を終えたのでした。


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