Bitter Sweet Anniversary (後編)




 悠とふたりで夕食をすませ、千秋に野菜スープを持っていくと、思ったより彼女はたくさん飲んでくれて、陸を喜ばせた。とはいえやはり、熱でずいぶんと体力が落ちているらしい。食後の薬を飲むのも辛そうで、「ごちそうさま」と彼に力のない笑顔を見せたとたん、あっという間に眠りに落ちてしまう。

 その間に悠もさっさと風呂に入って寝てしまい、ほっとひと息ついて時計を見上げた陸は「うわっ!!」とあおざめた。思いのほか遅い時間になっている。
 ばたばたと過ぎてしまった1日だけれど、彼は決して「主夫」だけをやっていればいいわけではなかった。実を言うと、締め切りのせまった仕事をひとつ、抱えている。いつもは絶対に、ぎりぎりまで仕事を放っておくことなどしない彼なのだけれど、こんなときはつい、千秋にかまけてしまうのが悪い癖で……。
 今日はどうやら、徹夜ってことになりそうだ。とりあえずその前に、皿洗いだの洗濯だの、片付けておかねばならないこともある。
 あわてて立ち上がったとたん、電話がなった。
 
 あーもう、それどころじゃないってのに、誰なんだよ。苛立たしい気持と共に受話器を取った陸の耳に、のんきな叔父の声が聞こえてくる。
「なんだ、陸か…。今度のライヴのことで、ちょっと打ち合わせたいことがあるんだけど。俺の可愛い姪っ子はどうしてる?」
「やめろよな、その言い方」
 マジでぶち切れそうになりながら、陸は言った。
「千秋本気で嫌がってんぞ。あちこちで、『俺の姪っ子』とか言って紹介するから、はずかしくてしょうがないって」
「何でだよ。お前の奥さんなら、俺の姪だろ? 間違ってないと思うけど」
 島崎はしれっと答える。なんだかぐったりした気持になりながら、陸は言葉を重ねた。
「なんか、基本的に間違ってるような気がする…。どっちにしろ千秋は出られないよ。今熱出して寝込んでるから」
「なに? それを早く言えっての。いつからだよ」
「2、3日前から…だけど」
「ったく、なんでお前がついてて、そういうことになるんだ? あーあ、これから仕事じゃなけりゃ、今すぐそっちへ飛んで行くところなんだがな」
「来なくていい!!」思わず声が高くなる。
「ったく、あき兄がそこまで心配することじゃねーだろ? あんまり調子に乗ってると、絢子さんに捨てられるぞ」
「絢子?」
 電話の向こうで叔父が不敵に笑う気配がした。
「あいつ、椎葉さんが寝込んでるって知ったら、真っ先にお前んちへすっ飛んで行くと思うぞ」

 信じられないことに、島崎の予言は当たった。数十分後、慌しげなベルの音にスコープを覗くと、いかにも仕事帰りといった風情の島崎の妻が、大きな紙袋を抱えて立っていて、陸は思わず深い疲労感に襲われる。
「アキから電話もらって、仕事切り上げて飛んできちゃったわよ。大丈夫なの? 私の可愛い姪っ子は」
「だから、その呼び方はやめてくださいって……」
「あら、あんたの奥さんなら私の姪でしょ?」
「それはさっき聞いた」
「さっき…って、私何も言ってないわよ」
 不思議そうに聞き返す、それはまあ、もっともなことなのだけれど……。
 短くカットした髪、小さくまとまった、きりっと無駄のない印象を感じさせる顔立ち。派手ではないけれど寸分の隙もない出で立ち。最近独立して自分の会社を作ったばかりのやり手デザイナーという職業を知れば、誰もがすぐに納得するほど、島崎絢子は一見「できる女」の空気を自然に身につけた女性であった。
 でも、昔からどこかずれてるんだよなあ、この人は。ダンナといい勝負だと陸は思う。

 絢子に付き合って、そっと寝室をのぞくと、千秋はまだ深く眠ったままだった。
「ゆうべは熱が高くて、あんまり眠れなかったみたいだから……。今はちょっとラクになったのかな」
「風邪なの?」
 陸はうなずいた。そしてこの機会に普段の恨みを晴らさずにはいられず、ひとこと付け加える。
「絢子さんがいつも、あんな衣装ばかり着せるからだよ」
「どういう意味よそれ。だいたい私の服はそんなに露出度高くないわよ。さりげなくボディ・コンシャスな色気を目指してるんだから」
「目指さなくてもいいっての」
 陸はため息混じりに答えた。
 島崎の経営するライヴハウスで、定期的に弾き語りのステージをやっている千秋のために、絢子が次々と作って寄越す衣装は、時と共にどんどん「色っぽく」なっているような気がする。 確かに露出度は高くない。でも、もはや千秋の個性を知り尽くした彼女は、職人芸と言っても良い技で、その艶かしさを際立たせてくれる。あの手この手で際立たせることにデザイナー生命を賭けている、といった感じなのだ。
 どうしてここまで入れ込むかなあ……。夫としては、変なストーカーでも付きやしないかと、気が気ではないのだけれど。
「彼女みたいな逸材を、デザイナーとして放っておくわけにはいかないわ。違った魅力が無限に隠されている、って感じなのよね。本人はまったく、そんなこと意識してないだけに、よけいにね」
 聞いてもいないのに、絢子は熱っぽく語った。千秋がスーパーモデルか何かであるかのような口ぶりに、陸は内心、「そこまで言うか?」と気恥ずかしくなったのだけれど、本人はあくまで大真面目らしい。
 この人、まじで千秋に惚れてんじゃねえかと、あらぬ考えが頭に浮かぶことがある。だいたい、沙希もそうなのだけれど、千秋のまわりにいる女の人たちは、夫や恋人に対するのと別なところで、どこかしら彼女に惚れていると思わざるをえないようなところがある。男である島崎もまた、似たような意味で千秋に「惚れている」のかも知れなくて……。
 それもまあ、ありがたいことなのだろうと思いつつ、陸の気苦労はたえない。
「まあ、二度とカゼなんかひかせないように、あの店のエアコンの温度上げとけって、アキに言っておくわ」
 そんな陸の胸の内も知らず、絢子は屈託なく言って、にっこり笑った。

「じゃあね。治ったらまた、遊びに来なさいよ」
 漢方薬だの、生姜湯の素だの、栄養ドリンクだのをどっさりテーブルに置いて、絢子は風のように去って行った。
 一体、なんだったんだ、あの人は…。急に静かになった部屋の中、どっと疲れが出る心地がする。
 洗い物や洗濯などをすませ、千秋の様子を見に行く。静かな寝顔、呼吸も昨日にくらべたら、ずいぶんと楽そうだ。ひとまずは、ほっとした。
 このままずっと、その寝顔を見ていたかったのだけれど……。
 しょうがねえ、仕事、仕事だ。後ろ髪をひかれる思いで、彼は仕事部屋にこもる。

 とは言っても、数十分に一度は、彼女の様子を見に行かずにはいられない、やはりしょうがない彼なのだったけれど……。




「千秋――」
 名前を呼ばれ、うっすらと目を開ける。霞んだ視界に、スーツ姿の男が、ぼんやりと像を結ぶ。
 ああ、帰って来たんだ……自分でも情けないほどの安堵にとらわれた。昨夜、どこへ行っていたのか彼は戻らず、どうにも心細い思いで、たったひとり、長い長い時を過ごしていたから。
 あれは、確かそう…前の結婚からひと月もたたない頃、智史を信じる気持が、まだまだ残っていた頃のことだ。新しい生活の疲れが出たのか、ひどい熱を出し、何日か会社を休んで寝込んでしまった。何で今ごろ、そんなことを思い出してしまったんだろう。 
 夢とうつつの間で、ぼんやりと思う。

 起き上がった千秋を待っていたのは、心底うんざりしたような、冷たい瞳だった。まさか夫のそんな表情に出会うとは思わず、言葉をなくす彼女に、智史は顔色を変えず言った。
「腹、減ってるんだけど……。夕飯は?」
 まだ、熱はずいぶんと高く、座っていると頭がくらくらした。驚きとか、怒りとかいった感情よりも、ただもう何も考えられず、千秋はうつむいて首を横に振る。
「ごめん…今日は用意できない…」
 夫の顔に、はっきりと苛立ちの色が浮かんだ。
「ただの風邪だろ? 俺のお袋はどんなに熱があっても、飯ぐらい、ちゃんと作ったぞ」
 腹立たしげに去って行く足音、ガチャンとドアの閉まる冷たい響き。再び取り残され、親に捨てられた子供のような心細さに、泣きたくなったあの時の気持は、もうすっかり過去のものになっていたはずなのに。

 行かないで、そばにいて、ひとりにしないで……。
 今になって、そんな言葉が涙と共に、過剰なまでに溢れ出しそうになるのは、どうしてなんだろう。


 再び、ゆっくりと瞼を上げる。気がかりそうに自分を見守る、真っ直ぐな瞳が目の前にある。
 反射的に手を伸ばすと、しっかりと握り締められた。馴染んだ大きな手の温かさ。今度こそ本当に、安心していいんだと悟る。
「泣くなって、千秋。もう、大丈夫だから」
 静かに言われ、頬が冷たく濡れていることに気付いた。
「ごめん……」また、同じことを繰り返してしまった。安堵と共に気恥ずかしい気持がよみがえり、小さな声で謝ると、陸は何も言わず彼女を抱き起こし、痛いほどにしっかりと、抱きしめてくれた。

 いつものように、陸は何も聞かなかった。
 どんな悪夢にうなされていたのかということも、涙の理由も……。ただ黙って、こうして抱きしめていてくれることが、いつも心底ありがたかった。でも、同時に、11も年下のこの男の子に、子供のように甘えてしまっている自分が、少し情けなくもなった。
 陸はどこまで察しているのだろう、と思う。いつもは智史のことなど思い出すこともなく、幸せな日々を穏やかに生きているはずの自分が、こうして熱を出すたびに、同じ夢を見てしまうこと。どうしようもなく心細い思いと共に目覚め、無意識のうちにも涙をこぼさずにいられないこと。
 自分でもわからないのだ。辛い結婚生活の最中にさえ、これほど弱く情けない自分の姿を、自分自身に晒したことはなかった。幸せな日々を送り、過去にとらわれる理由など何ひとつないはずの今、心や身体が弱っている時だけとは言え、何度もあの頃の夢を見てしまうなんて――。

「ああ、でも、今のお前には、泣くことも必要なのかもな」
 千秋の髪を撫でながら、思い直したように陸が言った。千秋は思わず顔を上げ、彼を見上げる。
 間近で目が合い、かすかに驚きの色を浮かべたその表情が、すぐに照れたような笑顔に変わる。それは昔から変わらない、彼女の胸にぱっと灯をともすような、無邪気であたたかい笑顔だった。
「ごめん、泣くなとか言って…。無理しなくていいよ。千秋は今、泣きたいときに泣かなくちゃいけないんだと思うから」
 今までため込んできた涙の分だけ…。陸はそう口に出しては言わなかったのだけれど。
 再び目の縁にじわりと滲んだ涙を、彼は唇で吸い取ってくれた。
 そんなことを繰り返すうちに、少しずつ気持はほぐれて、さっきまでの心細さや淋しさ、頭の重さや身体のだるさまでが、いつのまにか消え去っていることに、千秋は気付いた。

 そう、今の彼女には泣くことが必要なのかもしれない。なぜ、そう思ったのか、陸は自分でもわからない。
 一緒に暮らし始めた頃から、熱を出したときに限って、こんな風に彼女がたびたび悪夢にうなされることを、彼は知っていた。だから、こんなとき、どうしても放っておくことができない。今夜も仕事の合間に、たびたび様子を見に来ていたのだけれど、辛そうな寝顔がなんだか気になって、結局は彼女の傍らを離れることができないでいたのだ。
 千秋は何も話さないから、その夢がどんなものであるかを、陸は知らない。夢を見ているらしいということ自体、彼の想像に過ぎない。だけど、彼女を泣かせるものが、過去につながる何かであることぐらい、わからないはずもない。
 自分の手の中で、幸せに生きているはずの千秋が、ときおり悲しい過去にとらわれてしまうこと。そのことに、不思議と彼は苛立ちやもどかしさを感じない。そういうものかも知れない、と思うから。
 彼女は、さまざまなものを無意識に心の中にため込んでいる。愛されなかった記憶、受け入れられなかった淋しさ、自分は価値のない人間なのだという思い。どんなに強くあろうと努力しても、いや、強くあろうと努力を続けてきたからこそ、溶けきれない孤独感が、彼女の胸の奥に降り積もってしまったのだと思う。
 長い間にためこんでいた、すべての涙を流し切るまで、彼女は本来の自分を取り戻すことができないのかもしれない。今日、ふとそう思ったのは、自分自身にも似たような経験があったことを思い出したから。

 それは何年も前、千秋に別れを告げ、日本を旅立った飛行機の中でのこと。
 それまで気丈に振舞っていた彼だったのに、夜中になって突然流れ出し、止まらなくなってしまった涙を、どうしようもなく持て余した。だけど結局、それが胸の中にためこんでいたものであるなら、仕方がないと観念し、開き直って恥も外聞もなく、泣き続けた。
 もしあのとき、すべてを流し切ることができなかったとすれば、それから先の長い長い孤独の日々を、自分が乗り切ることは、不可能だったかもしれない。今にして、そう思う。
 それほどまでに、必要なことだったんだと。

 あの時の切ない気持が蘇り、彼は我知らず、千秋を抱きしめる腕に力を込めた。あの日のことを思えば、今、こうして愛しい人が自分の腕の中にいること、これはもう奇跡だと思う。
 たぶん、何年経ってもその思いは変わらないだろう。彼女が傍にいてくれる限り……。


 しばらく黙って千秋を抱きしめていた陸は、不意に彼女の顔をのぞきこみ、その額に自分の額を、こつん、とあてた。
「よかった……ずいぶん熱、下がってる」
 ため息混じりの言葉と共に、精悍な顔が、心底安心したように、ほころんだ。静かに凪いでいた千秋の心に、今度は違った種類のさざ波が立つ。確かに身体はずいぶん楽になったと感じていたのだけれど、そんな表情の変化を間近で見てしまえば、再び熱が上がりそうな心地がして。
 それだけでも、くらくらしてしまった彼女なのに…。
 そのままベッドの中にもぐりこんできた彼に、すっぽりと包み込まれ、唇を重ねられて、本格的に焦りを覚えた。
 いつものこととは言うものの……。
「り…陸…?」
 少しばかり息苦しいキスの後、ようやく解放されて、千秋は思わず、助けを求めるように彼を見上げた。昼間のフライングのようなキスのときとは違って、彼女の頭の中は少しクリアになっていて……。
「大丈夫、いつも言ってるだろ? お前の風邪、吸い取ったぐらいで熱出すほど、俺はヤワに出来てない」
 ちょっと不敵にも見える笑顔とともに、そんなことを言われると、逆に心臓はバクハツしそうになってしまう。
 どうしてだろう、これまで何百回、こんな風に抱きしめられ、触れ合ってきたか知れないほどなのに、いまだに彼女の心は慣れることがない。今夜は特にそう。あんな夢を見て、心が少し、昔に戻ってしまっているせいかもしれない。

 あの頃、彼は、遠い遠い世界に住む、憧れの男の子だった。近くにいて、言葉を交わしはしても、触れ合うなんてことは思いもよらず、ただ笑いかけられるだけで、それこそ、心臓がバクハツしそうになった。
 単なる元気の素、見ているだけでいいなんて突っ張ってはいたけれど、今ならわかる。結婚もしていた、いい歳の自分が、心の奥底ではずっとずっと、ティーンエイジャーの女の子のように、この男の子に恋焦がれていたんだってこと。 ほんと、情けないぐらいに…。

 今でも心は、簡単にあの頃に戻ってしまうというのに。
 彼の屈託のなさは時おり、あまりにも刺激が強すぎる。
 だからといって、ただもう愛しさで胸がいっぱいのこの男の子は、千秋の戸惑いに気付くこともなく、抱きしめたその腕をゆるめることなど、しばらくはしてくれそうにもない。
 この男の子にはいつだってかなわない。それは確かだわ。千秋はいつしか抵抗する気力を失い、抱きしめられるがままになっていた。それに、やはり、こうしているのは心地よいのだ。大きな身体にすっぽりと包み込まれていると、幼い子供になったような、懐かしい安心感が胸に広がる。
 どんなに歳を重ねたって、病気というものは、人を心細い気持にさせる。だからだろうか、こんなとき、相手が11も年下の男の子であることを忘れ、再び、泣きたいような思いにとらわれてしまうのは。
 本当に、不思議な男の子だわ。もう1年もいっしょに暮らしているのに、謎だ。
 額に、瞼に、唇に、時おり優しいキスが落ちる。それは本当に、彼女の心に、身体に残る様々な屈託を吸い取ってくれているようで……。
 何もかもを忘れて、心も、身体も、この大きな男の子に委ねてしまうしかない千秋だったのだけれど。

 ふと、抱きしめる腕が、わずかに緩められる。
 その時に至って、相手の身体がなんだか熱いことに、千秋は気付いた。まさか、本当に自分の熱を吸い取ってしまったせいだとも思えず、彼女は不思議に思って陸を見上げる。
 間近で目が合い、陸の瞳に困ったような笑みが浮かんだ。
「ごめん」
 彼は苦笑して言った。
「そんな目で見られると、やばいって…。なんでそんなに色っぽいんだろ、こういうときのお前って」
 頬に血が上る。
「これ以上ここにいたら、ほんとに欲しくなりそうだから…。ごめん、そろそろ仕事してくる」
 身体を離しながら、もう一度照れたような笑みを浮かべて彼は言った。とたん、逃げてゆくぬくもりが、千秋の中で理不尽な寂しさに変わる。

 行かないで、そばにいて、ひとりにしないで……。
 本当に独りぼっちだったあの頃とは違う。今になってこんな言葉がどうしようもなく胸に溢れ出すのは。
 それを受け止めてくれる人が、そばにいるからだと気付いた。

 立ち上がろうとするその手を掴んで引き止め、千秋は言った。
「お願い。もう少し、ここにいて……」
「え……?」
 思いもよらない言葉だったのだろう。陸の瞳に心底おどろきの色が広がる。
「だいじょうぶ…。私なら、かまわないから……」
 その瞳をじっと見つめて、千秋は言葉を重ねる。

 次の瞬間、陸がくれたキスは、それまでのような優しいキスじゃなかった。


 やっぱり、ちょっと無茶をさせてしまったかもしれない。最後に抱きしめたとき、熱の下がりきらない彼女の身体はひどい汗で、陸は余韻に浸るひまもなく、あわてて着替えとタオルを取りに行く。
 だけど、疲れの残る顔に「ありがとう」と笑顔を浮かべて着替えを受け取ったその表情が、なんだか色っぽくて、またしても、どきどきしてしまったのだから、彼もしょうがない。俺って、おかしいのかな……そう、自分に問わずにはいられないほど、いつも足りない…そんな気がしてる。
 だけど、今夜ばかりは仕方がなかった。まさか、千秋があんな風に自分を引き止めてくれるなんて、思いもよらないことだったから。
 もちろん、何も言われなくったって、千秋の本当の心を、陸は知ってる。本当の心を、なかなか口に出せない頑なな性質だということも……。だからこそ、この1年間をかけて、少しずつ彼女の心がほどけてゆく様を見守るのは、うれしいことだった。彼女自身のためにも、本当にうれしいことだった。

 もう少し、ここにいて……。

 こみあげるうれしさと共に、陸はその言葉を何度もかみしめる。あれほど千秋が素直になってくれたのは、初めてのことだったから。あまりにうれしくて、ついに自分を抑えきれなくなってしまったのは、不覚といったところだったけれど……。
 でも、それで良かったんだと思う。彼女がそれを、求めてくれたのだから。

 仕事を続けようと部屋に戻ったとき、彼は、千秋に大切なことを聞き忘れていたことに気付いた。
 あいつ、こんどの土曜日のこと、覚えてくれているだろうか――。


 もちろん、千秋はきちんと覚えている。それまでには、なんとか元気になれそうだわ、と、ほっとしながら心の中でつぶやいている。
 ふんわりとしたタオルで汗を拭いて、洗い立てのパジャマに袖を通すと、おどろくほど身体が軽くなった。もちろん、無茶をした分、疲れ切ってはいるのだけれど、その疲れすら心地よく感じられるほどで、もう、何も考えずに眠ることが出来そうな気がする。
 陸――。シーツに残る、彼の匂いに包まれながら、千秋は幸せな気持でその名前を口にする。
 これから仕事なのだという彼に、さすがに青ざめて「無理しないで」というと、「なに、言ってんの」とこともなげに笑った。疲れの跡がまったく感じられない、力強い笑顔、引きとめたことを後悔させないぐらい。
 あの太陽のような笑顔が、仕草が、抱きしめてくれる大きな腕が、いつも彼女を救ってくれた。これからもきっとそう。あの男の子が、そばに居てくれる限り…。何も返せないことが、いまだに歯がゆい千秋だった。せめて愛しい気持を、素直に言葉にすることができれば、どんなにか彼は喜んでくれるだろう。それはわかっているのだけれど。

 千秋、愛してる……。

 さっきこの部屋を出て行くとき、陸は笑って言った。まるで何気ない日常の言葉であるかのように、いつも無造作に、何度も何度もこの言葉をくれる彼だった。薄紅色をした春の花びらのように、暖かく降り注ぐその言葉は、長い時間をかけて、少しずつ少しずつ、彼女の心を溶かしてくれた。
 凍てついた記憶の下に隠れているのは、たぶん、負けないぐらいにたくさんの、彼と同じ言葉。涙と共に目を覚ます夜が終わりになったとき、きっと何かが変わる、そんな気がする。

 たぶん、もうすぐだわ。眠りに落ちながら千秋は思った。言葉にできない愛しさはもう、胸の中で溢れ出しそうになっている。たぶん、本当に溢れ出したなら、止まらない。そのことがなんだか怖くて、ずっと口を閉ざし続けている彼女だったのだけれど。


 きっといつか、何度でも言える日が来る。
 世界中の誰よりも、あなたが好き……と――。



- END - (2004.3.26)

前編へ
Indexへ