Bitter Sweet Anniversary (前編) スーパーマーケットの駐車場に車を停めると、薄紅色の花びらが、はらはらとフロントガラスに舞い落ちてきた。車を降り、鍵を閉めながら、肩に髪に降りしきる花吹雪に誘われるように、陸は空を見上げる。 駐車場の脇に植えられた数本の桜は、満開…というよりも、盛りを過ぎつつある感じ。こぼれ落ちそうになりながら、儚げな霞のようにひしめいていて、風が吹けば、あっというまに花びらの嵐となる。 確か、今夜から雨だって、天気予報で言ってた。桜も今日で見納めかも知れない。千秋と共同で使っている銀色のマーチの脇に立ち、陸はしばらくぼんやりと、その光景を眺めていた。 できれば今夜あたり、夜桜見物としゃれこみたかったところなんだけど。 どうやら今年はあいつ、桜の盛りを見ずじまいってことになりそうだ。2日前から熱を出して寝込んでいる千秋のことを思い、陸は小さくため息をついた。もっとも、本人はそんなことを気にするタマではないだろうけれど。 桜であろうと、祭りであろうと、クリスマスであろうと、季節の移り変わりやイベントといったものに対して、彼女があまり興味を示さない性質であることを、1年間いっしょに暮らして陸は知った(いや、だいたい予想はついていたんだけれど)。 決して醒めているわけではないのだろうけれど、常にマイペースっていうのか…なにしろ自分の誕生日でさえ、忘れてしまうぐらいなのだから。去年、悠とふたりでサプライズパーティーをやった時の、千秋の驚きようを思い出し、陸は思わずひとり、笑い出しそうになった。まあ、ああいうところが、可愛いといえば可愛いんだけど。 でもまさか、いくらあいつでも今度の土曜日が何の日かは忘れちゃいないだろう。その日までにはなんとか元気になってくれたらいいけど……。いや、元気になってもらわなくては困るのだ。 今週の土曜日、ふたりは結婚1年目の記念日を迎える。 そんなわけで彼は、ここしばらく何も食べてくれない同居人に、なんとしてでも何か栄養のあるものを食べさせるべく、食材を調達しに来たんだった。 はらはらと舞い落ちる花吹雪の中、彼は物慣れた様子で、行きつけの店内に乗り込んで行く。 主婦や子供達でごった返す昼下がりの店内、カートを押して颯爽と歩く、このやたらと姿形の良い男の子の姿は、自然と周囲の注目を集めることになる。 25歳…普通なら平日のこんな時間は、堅苦しいスーツにネクタイをしめて、会社の机にしばりつけられているか、営業だのなんだのでヨレヨレになるまで外を歩き回っている年頃だろう。でも、そういった人生を選ばなかった彼は、同世代の男の子達の誰よりも大人にも見えるし、少年ぽくも見える、不思議な空気を身につけている。 放っておけばくしゃっとなってしまう髪は、少し短めに切って茶色っぽく色を抜き、片耳には小さなピアス。色褪せたジーンズにトレーナーというラフな格好は、まるで高校生のように見えなくもないのだけれど、その出で立ちが、無理に大人ぶらなくってもきちんと「大人」をやっていけるという確固たる自信のなせる技だということは、堂々としたたたずまいや、揺らぎなく強い瞳の光に向かい合ってみれば、すぐにわかる。それでいて、あたたかみのあるその表情はときおり少年のように無邪気に輝き、見るものをはっとさせる。 その場にいる誰よりも頭ひとつ分は越えている背の高さや、ゆったりとしたトレーナーを着ていてもどこかたくましさを感じさせる体格の良さとも相まって、彼は「彼」としか言いようのない雰囲気を身につけていて、この日常的な風景の中では、否応なく目立ってしまうのだ。いったいあの大きな男の子は、誰のために、キャベツだの人参だのを次々と手に取り、楽しげに思案にくれているのだろう。周りにいる誰もが、そんな好奇心と共につい、彼に視線を送ってしまうのも、自然な成り行きで……。 もっとも彼の頭にあるのは、いかにして千秋に少しでも食べさせるかということだけ。元来、無頓着な性質ということもあって、自分が注目を浴びていることになど、まるで気付いていない。 彼はいつも、そうだった。千秋のために、何を作ろうかとあれこれ考えているときは、特にそう。普段でも「食べる」ということにあまり執着を示さない同居人に、「美味しい」と言わせることは、この1年の間に陸の生き甲斐のようになっていたから。 もっとも沙希などに言わせると、「千秋ってば、昔っからどんなに食欲がなくても、陸の作るものだったら食べちゃうのよね」ということらしくて、そんな言葉を聞くと、やっぱり頬がゆるんでしまう彼なのだけれど。 とはいえ、今回のように寝込まれてしまうと、さすがの陸もお手上げで、昨日は1日、彼女は水以外のものを口に入れようとしなかった。今日のお昼はようやく、おかゆを何口か食べてくれて、彼をほっとさせた。 熱に潤んだ瞳をほころばせて、「美味しい」とにっこり笑ったあの表情……ああ、やっぱり思い出すたびうれしくなってしまう。 なんのことはない、彼は実のところ、こういう状況がちょっぴりうれしいのかも知れなかった。 いつも忙しげに飛び回っている彼女が、ほんの一時だけでも、自分の手の中で、羽根を休めてくれている、そんな感じがするのかも知れない。 結婚1年…もう、そろそろ慣れても良いはずなのに。 長い間、何度も自分の胸をきりきりと痛くしてきた、好きで好きでしょうがない相手が傍に居る。その事実のまぶしさを、陸はいまだ当たり前のこととして受け止めることが出来ないのかも知れなかった。 「ねえ、何ひとりでにやついてんのよ」 不意に、そんな言葉と共に、後ろからばんと背中を叩かれ、あわてて振り向く。 やたらとお腹の大きな女の人がいる…と思ったら、沙希だった。 「さ…沙希さん。また、大きくなってねえ?」 「あったり前じゃないの、もう臨月なんだから。まあ、医者には太りすぎだって毎回怒られてるけどね」 悪びれずそう言って、沙希は笑った。陸は逆に内心、青ざめる。 臨月…って、今生まれてもおかしくないってことじゃん…。実際、やたらと重そうなそのお腹を見ていると、今すぐにでも赤ちゃんが出てきそうな気がして、自然と彼は、すたすたと買い物を続ける沙希にくっついて回ることになった。 実のところ、こっちもそれどころじゃないんだけれど…。とはいえ、何かあったら翔一に何を言われるか、たまったものではない。 「で、お宅の奥さんの様子はどうなの?」 そんな陸の顔色など気にする様子もなく、沙希はわざと茶化すようにそう尋ねた。 「昨日よりはマシ。相変わらず熱は高いけど」 「奥さん」なんて言葉にいまだ慣れない陸は、少し赤くなって答える。 「あの子、ちょっと無理するとすぐに熱出すのよね。私もちょっと、責任感じるかも」 少しばかり真面目な顔になって、沙希はため息混じりに言った。 そうなのだ。沙希が産休に入って以来、千秋がやたらと忙しくなったのは事実。 しかも、家庭の事情で急に辞めなくてはならなくなった社員がもうひとりいて、その代わりにと入れた新人は、まるで役に立たなくて、ここしばらく千秋にとっては激務と言っていい日々が続いていたんだった。 ようやくそんな日々に一段落がついたらしいのが、一昨日のこと。その日の夜遅く、真っ青な顔で帰ってきた千秋は、そのまま玄関先でぱったりと倒れてしまった。額を触った陸が、一瞬「ひえっ!!」と手を引っ込めてしまうほど、それはもう、ものすごい熱で…。 あわてて彼女をベッドに運び、パジャマに着替えさせ、冷やしタオルを作って、なんてことをやっていると、沙希から電話がかかってきたのだった。 「最近、やたら忙しいって聞いてたから、そろそろなんじゃないかと思って電話してみたんだけど、どう?」 「図星――」 陸は苦笑して答えるしかなかった。 実を言うと、こんなことは今に始まったことではない。世の中には「無理のきかない身体」というものが存在するのだと、陸は千秋と暮らして初めて知った。とにかく、少し無理をするとすぐに熱を出す。子供の頃から健康優良児で、今だって仕事で徹夜が何日続こうがビクともしない陸などから見ると、その繊細さは、なんだか違う世界の生き物のように思える。 こういうタイプに限って、自分のペースを省みず働き過ぎてしまうのもありがちなことで、この1年間だけでも、同じようなパターンで何度倒れただろう。別に病院で検査が必要になるような、たいそうな病気ってわけではなく、たいていは2、3日で治ってしまうのが救いなのだけれど。 今回も医者に連れていったところ、少しばかりきつめの風邪らしいと言われた。もう4月だというのに、この季節感のなさがまた、彼女らしいのだけれど、笑い事ではない。 「俺、ときどきマジで心配になるんだよな」 あれこれ思い出しているうちに、不意に胸がぎゅっとしめつけられるような思いにかられ、陸は言った。 「あいつ、あんなに身体弱くてだいじょうぶなんだろーか。きちんと長生きしてくれるんだろうか、ってさ。ただでさえ、俺の方が置いてかれる可能性大なんだぜ」 「な…何言ってんのよ…」 あながち冗談を言っているわけでもなさそうな、陸の沈痛な表情に、沙希は思わず吹き出してしまう。 「長生き…だなんて、なに今からじーさんみたいなこと言ってるの? 千秋はああ見えて図太いとこあるわよ。あの子の健康診断の結果、見たでしょ? 職場じゃ一番の健康優良児で通ってるんだから。心配しなくてもあんたよりずーっと、長生きするわよ」 「それはそれで、ちょっと困る。それじゃああいつ、独りぼっちになっちまうじゃねーか」 陸はあわてて言った。その表情は、あくまで大真面目である。 「俺は千秋を独りになんかしない、絶対に、あいつより長生きしてやる」 「なんだか、言ってることが矛盾だらけだわよ」 笑いをこらえつつ、沙希が指摘する。少しばかり論理が飛躍してしまった自分に気付き、またしても彼は赤くなった。 だけどときおり、陸はそんなことを真剣に考えてしまうのだ。彼の年齢なら、普通は考えもつかないような、ずっとずっと未来のことまで。たぶんそれは、千秋と教会で式を挙げた、1年前のあの日以来だと思う。 今と同じ、桜の舞う季節。あのときの千秋は、本当にきれいだったと、ふと彼の記憶は逸れる。 目立つことはしたくない、籍を入れるだけでいいと言っていた千秋だったのだけれど、「ねえねえ、近くにすっごく素敵な教会があるんだけど、結婚式やってみない? 私、一度でいいからチャペル・ウェディングって、やってみたかったのよね」と、まるで自分自身が結婚するかのような勢いで彼女を口説いたのが、他ならぬ陸の母親だった。 結局、彼女のペースに巻き込まれるような形で、すべてが決まってしまったのは、不覚といえば不覚だったのだけれど、陸としては、千秋のウェディングドレス姿が見れたんだから、この件ばかりは、母親の強引さに感謝感激だと思っている。千秋自身も、彼女と同じ白いドレスを着せてもらった悠も、すごくうれしそうだったし……。 あの日のことを思い出すたび、いまだに往来の真中であろうと頬がゆるむ。生涯最高の日…と言いたいところだけれど、その「最高」が今日に至るまで毎日続いているような気がするのだから始末が悪い。 だけど、ただひとつ、ずっと胸にひっかかっていることがある。 「死がふたりを別つまで……」教会で聞いた、あの悲しい言葉を、この1年間、彼は時々思い出していた。どうしてあんな悲しいことを言うんだろう。なんてことのない常套句ではあっても、それが自分たちに向けて投げかけられた言葉であれば、妙に聞き流すことができず、あの日以来ずっと、その言葉が胸のどこかに引っかかっていた彼なのだけれど。 あれは本当に意味のある言葉だったんだ、と、最近になって彼は思う。お互いに、相手の未来のすべてを、最後まで引き受け合うことが、結婚というものに違いないのだから。 ただ傍にいて、触れ合えることがうれしかった頃とは違う。生涯を共にすることを誓った瞬間から、彼は愛しい人の人生に関する、様々なほろ苦い心配ごとを背負い込むことになった。 それは一方、彼にとっては甘く贅沢な重荷でもあるのだけれど。 「何でまた、そんなに買うんだよ」 ぶちぶち言いながら、お腹の重そうな沙希に代わって買い物袋が満載のカートを駐車場まで押してやり、全部を車に積み終えたところで彼女と別れる。 「そろそろ、運転やめたほうがいいんじゃねえの?」 「大丈夫よ。天馬が生まれるときは、自分で車運転して病院まで行ったんだから」 ぜんぜん、大丈夫じゃねえっての。まったく、翔一の苦労が忍ばれる。 走り去る車を見送り、未だに自分たちの夕食が決まっていないことに、彼は気付いた。 まったく……。 沙希は沙希で、大きなお腹で車を運転しながら、ひとり苦笑していた。 昔から、ああいうところがあったけれど、あの男の子もこの1年ですっかり苦労性が身に着いたものよね。何もそこまで…っていうぐらい、いつも千秋のことを気にかけている。もし、彼女をいつもポケットに入れて連れて回れるものなら、迷わずそうするんじゃないかしら。いや、彼の意識の中では、すでにそうなっているのかもしれない。 いつも心の片隅に住まわせて、片時も忘れることがない、そんな感じがする。 あのふたりの間には、長い長い紆余曲折があったことを、誰よりも沙希は知ってる。彼らの間には11の年齢差があり、しかも出会った頃、陸はまだ高校生で、千秋にはダンナがいた。歳の差、立場の差、そして様々な間の悪い偶然が重なり、誰よりも強く惹かれ合っていたにも関わらず、ふたりがお互いの気持を確かめ合い、結ばれるまでには何年もかかった。 その長い長い月日、大人になるため、千秋と肩を並べる存在になるために、あの男の子が孤独の中でどれほど大変な思いを重ねてきたか、それも沙希は誰よりもよく知っている。 そんな風にして、ようやく傍に居られるようになった相手なのだから、陸の気持もまあ、わからないでもないのだけれど。 もう少し、ゆったり構えていてもいいんじゃないの? あれじゃ、夫というより、過保護の父親みたい。千秋は彼より11も年上の、見かけよりは自立した立派な大人なのに……。どちらかといえば陸の中では、千秋の娘である7歳の悠の方が、「大人」ということになっているらしくて……。 とはいえ、今の彼はそうすることが楽しくて仕方がないに違いない。千秋も幸せなオンナよね。 7歳年下の夫になんだかんだと世話を焼かれ、このところお説教までくらうことの多い自分の立場を、彼女は今、完全に忘れている。 沙希のおかげでえらく時間を取られてしまった。大あわてであれこれと買い込み、ずっしりと重い買い物袋を車に放り込んで陸は家に戻る。買ったものを冷蔵庫に片付けるのももどかしくて、キッチンの床に放り出したまま、ともあれ千秋の部屋をのぞいてみた。 彼女は静かに眠っていて、ほっとした。額に手をあててみる。少しは下がったみたいだけれど、まだまだ熱い。しばらくその姿勢のまま、寝顔を見つめていると、不意にふわりと目を開けられて、彼は慌てた。 「ごめん…起こすつもりじゃ、なかったんだけど」 「だいじょうぶ、ずっと半分起きてたから…。陸が帰って来たのも、気付いてた」 少し困ったように笑って千秋は答えた。 そうなのだ。玄関の鍵の開く音を、遠く夢とうつつの間で聞いて、千秋は情けないほどの安堵を胸に感じていたのだった。 こんなときは、いつもそう。こんなこと、大の大人が恥かしくて言えやしないのだけれど、誰もいない家に独りにされると、どうしても眠ることができない。熱で意識は朦朧として、何度も眠りの中に引き込まれそうになるのだけれど、故のない不安が、いつも心を現実に引き戻す。買い物に出かけた陸が帰ってくるまで、独りベッドの上で、そんな風にむなしい戦いを繰り返してた。 独りきりの自分と飽きるほど向かい合っていたあの頃には、考えられないようなことだ。やわになったなぁ…と思う。この1年の間、11も年下の男の子に甘やかされて、すっかり弱くなってしまった。 甘えてはいけないと、いつも心に言い聞かせてはいるのだけれど。 心も身体も少しばかり弱っている、こんな時だけは、どうしてもダメだわ…。昔と変わらない、心にぱっと灯をともすような、力のある笑顔をぼんやりと見ながら、胸の中でため息をつく。 この笑顔が自分だけのものだなんて、1年もいっしょに暮らしている今でも、やっぱり、信じられない。 「そういえば、あちこちで桜が満開だった」 千秋の脇に座り、額に置いた手でそのまま彼女の前髪を梳き始めながら、陸は屈託なく言った。 「どこもすごい景色だったぞ。お前に見せてやれないのが、ほんと、残念」 「また、来年があるわよ」 千秋は笑って答えた。ずっとずっと、桜どころではない大変な日々を送っていた彼女にとって、季節はいつも、知らないうちに何度でも巡ってくるもので、陸のようにその移ろいを楽しんだり惜しんだりといった感性は、なんだか不思議なものに思える。それでも、この1年はそんな彼のおかげで、新鮮な発見の多い日々であったことにも、彼女は気付いているのだ。 そうか、桜の季節はもう、終わりなんだわ。そう心でつぶやいてみると、不意に寂しいような心地に襲われる。そんな自分が、なんだか、おかしいのだけれど…。 「そうだ、ひょっとしたらここに残像が残ってるかも知れない。覗いてみな」 そんな千秋の胸の内を読み取ったかのように、不意に陸はそんなことを言い出す。 冗談なのか、本気なのか、彼が「ここ」と言いながら指さしているのは自分の目だった。「なに、言ってんのよ、陸ってば…」と笑って言葉を返そうとすると、すでにいたずらっ子のように輝く瞳が目の前にあって、澄んだ光に我知らず誘い込まれるように、千秋はその瞳をじっと見つめてしまう。 「見えるだろ?」 真っ直ぐに見つめ返され、そう聞かれると、本当に薄紅色のたくさんの花びらが瞳の奥に見えてくるようで、一瞬、くらくらした。思わず目を閉じると、不意に、唇をふさがれる。 花吹雪の残像が、まぶたの裏をくるくると回る。熱をもった唇に触れる、ひんやりした感触が思いのほか心地よくて、千秋は思わず、陸のシャツの袖を、ぎゅっとつかんだ。 いや、べつに…初めからそんな下心があったわけではなかったんだけれど――。 自分の瞳をのぞきこむ、真剣な表情を間近にすると、やはり何かせずにはいられなくなって、陸は思わず唇を重ねてしまったのだった。 千秋が何か言おうとしたのは、ほんの一瞬だけのことだった。いつも熱があろうとおかまいなしにくっついてくる陸に、「うつるから」といちいち抵抗していたのも、初めの頃だけのことで、最近では何があろうとびくともしない彼の頑丈さを悟ったのか、何も言わなくなっている。 だけど今日はさすがに、触れ合った唇がすごく熱い。ちょっと、辛そうだな。そうは思っても、どうしてもすぐにはキスをやめることができず、陸はしばらく遠慮がちに、その唇の熱さを味わっていたのだけれど。 ずっと彼のシャツをつかんでいた千秋の手が、不意にぱたっとベッドに落ちる。 おどろいて顔を上げると、あろうことか彼女は、眠りに落ちていた。 そ…そうか、寝ちゃったのか…思わず力が抜ける。ほっとしたものの、なんだか複雑な気持で…。 俺のキスって、いったい…。 彼が出かけている間、千秋がずっと、故のない不安の中でひとり眠れずにいたこと。彼女を眠らせたのは、彼のキスではなく、彼がそばにいる安心感であったことを、知るはずもない彼だったから…。 少しばかり熱くなった心を持て余しながら、リヴィングのドアを開けた陸は、一瞬、「うわっ!!」とのけぞってしまう。 まるでずい分前からそこにいるような風情で、悠がテーブルに宿題を広げていた。 「ゆ…悠…。お前いつの間に帰ってたんだよ」 「とっくのむかし…」澄ました顔で、彼女は答える。「お父さん、お母さんのところにいたんでしょ? おジャマするのも悪いかな、って思って、そーっと家に入ったの」 「そ…それはどうも……。えらく気を使っていただいて……」 胸にやましいところがなくもない陸は、口の中で小さく礼を言う。ふと、買った物を放りっぱなしだったのを思い出し、あわててキッチンに入ると、買い物袋の山が、忽然と消えていた。 「ぜんぶ、片しといた」 ノートに鉛筆を走らせながら、悠が言う。 「ラブラブなのもいいけど、気ぃつけた方がいいよ。冷凍モノが溶けかけてた」 「そ…そっか…」 冷蔵庫を開け、あるべきものがあるべき場所に、きちんとしまわれているのを見て、陸は思わず「はぁーっ」と、ため息をついた。 彼の記憶に間違いがなければ(いや、間違えようがないんだけれど)、彼女は確か、1年生になったばかりのはず…。 いったい、なにがどこでどうなって、こんなにしっかりした小学生が出来上がったんだ? 初めて出会った2年前から、彼女はそんな子供だった。やたら、シャキシャキ、テキパキしている。独立心旺盛で、困ったことに冒険心も負けずに旺盛で、自分をいっぱしの人間だと信じているから、ときおり周りの大人があっと驚くようなことを、涼しい顔をしてやってのける。 それも義理の父親である自分の若さ未熟さゆえのことかも知れないと、本気で悩んだ時期もあったけれど、彼女の自分に対する屈託のなさを見ていると、とてもそうは思えない。この性格はたまに他人に言われるような「家庭環境」のせいなどでは決してなく、生来のものに違いないと陸は思っている。 確かに彼女には生まれたときから父親がいなかったのだけれど、ある意味父親よりも頼もしい、千秋の親友の沙希が、千秋といっしょに彼女を育ててくれた。沙希の息子の天馬という、兄弟のような存在も近くにいて、悠の育った家庭は、そんじょそこらの「普通の家庭」よりも、むしろ強固であたたかいものであったに違いない。その頃ずっとアメリカにいて、当時の彼らを実際に見ることが出来なかったのは、陸としてはいまだに悔しいかぎりなのだけれど。 だけど千秋のお腹にいたときの悠なら、彼もよく知っている。離婚してとっくに縁もなくなったはずの元夫の子供を身ごもっていると気付いたときの彼女のショックも、それでも生んで育てようと決意するまでの様々な葛藤も、すべて、傍にいて彼なりに受け止めてきた。 だからかもしれない。長い間離れていても、血がつながっていないという根本的な事実があっても、初めてこの女の子に会ったとき、「俺はこの子の父親なんだ」と、不思議な確信に満ちてそう思えたのは。 人を結びつけるものは、決して血のつながりなどではなく、運命だ。悠は自分の娘だと、今でも陸ははっきりと断言することができる。 とはいえ、このやたらとしっかりした女の子は、どこまで自分を「父親」として頼りにしてくれているのだろう。ときおり疑問に思わないでもないのだけれど。 「お母さん、だいじょうぶだった?」 それでもどうにか父親らしく、連絡帳や終わった宿題に目を通してやっていると、悠が尋ねた。 「うん、まだちょっと辛そうだな。なんとか食べられるようになったみたいだから、夜は野菜スープでも作ろうかって、思ってるけど…お前も食べるよな」 「えっ? 野菜スープ?」 聞き返したその表情が、少し、固まる。 「お父さんが…作るんだよね?」 念を押す瞳が不安げだった。思わず吹き出しそうになりながら、「当たり前だろ?」と答えてやると、あっという間にその表情が安堵したようにゆるみ。 「じゃあ、だいじょうぶだ」 と、にっこり笑う。 「悠ちゃんは、運動も良く出来るし、協調性もあって、お友達からも頼りにされているんですけれど、給食だけは苦手なようですね。お家でも好き嫌いは多い方ですか?」 保育園のときの懇談で担任の先生に言われ、面食らったことを思い出す。陸はその時までぜんぜん知らなかったのだけれど、悠は本来、小食の母親に似て…というか、かなり偏食がちな子供であったらしい。 それまで気付かなかったのは、悠がこれもまた母親に似て、陸の作るものならなんでも「美味しい」と言ってぱくぱく食べてくれていたから。そのことを知って、陸は不覚にもなにやら感動のようなものを覚えてしまったんだった。 そうだよな、なんだかんだ言って、こいつもまだまだ子供で、そして一応は、俺のことも頼りにしてくれているんだ…と。 「よーし、今日の晩メシは、野菜スープとオムライスにするか」 立ち上がりながらそう言うと、悠の顔が「やったー!!」と輝いた。 |
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