選べない男 後編
 








こんな後味の悪い気持ちは初めてだ。
いつだって修羅場のあとはホッとした気持ちでいっぱいだった。
そして残ったやつと気兼ねなく付き合う。それだけだった。
それだけだったはずなのに。
いつもならそのままホテルに直行するのだが、おれは女と別れて帰宅した。
ソファに身体を沈ませ、目を閉じて今日の出来事を反芻してみる。
男は一言も言葉を発しなかった。
ただただ女の罵詈雑言をじっと聞いていた。
男の表情に変化があったのは、おれと視線が合ったときだけだ。
と言っても終始俯いていたから、その表情を確かめることはできなかったが。
女の言うとおり、おれは遊ばれていたのだろうか?
そんな考えが浮かんだが、すぐに打ち消した。
人を弄ぶような男じゃない。
おれに対する気持ちが偽りだったというのなら、相当の演技者であるはずだ。
そんな器用な男ではない。
甘い言葉をはにかみながらも受け入れ、おれに従順であろうとした男。
セックスのクライマックス。おれに揺さぶられながら『好き』と繰り返していた男。
それが可愛くてそのまま抱きしめて眠ったこともしばしばあった。
普段は身体を寄せて眠ることはしないのに。

何なんだろう、この気持ちは。
心の奥がもやもやして重くてたまらない。
おれは煙草に火をつけようとしたが、ライターのガスが切れていることに気付いてテーブルの上に放り投げた。

それは突然だった。
後悔という嵐がおれを襲う。
座席の位置が悪かったのだろうか?
あのシチュエーションだと、おれと女がグルになって男と対峙しているように思えたかもしれない。
男はおれが女の味方だと思ったのではないか。
おれはわかっていたはずなのに。
男が他人と言い争うような性格ではないことを。
何を言われようとじっと我慢して黙って聞いていた姿は、獰猛な獣に追い詰められた小動物のようだった。
おれは男に何を期待していたのだろう。
男が女を言いくるめることだろうか。
男がどれだけおれのことを好きかを語ることだろうか。
おれはケータイを取り出し男のアドレスを呼び出した。
しかし、電話の向こうからは、電源が入っていないことを告げる、無機質なアナウンスが流れるだけだった。

今頃男はどうしているだろうか。
それを考えると眠る気にもなれなかった。
女のほうはどこかのクラブで騒いでいるらしい。
女にとって今日の出来事はその程度のことなのだ。
女はおれのことをそれなりに愛しているのだろうが、愛する対象が必ずしもおれである必要はない。
金払いがよくて外見も自分とつりあうステイタスのある男。
そのことに今気付いたわけではない。
おれは自分の優柔不断さを今更ながらに呪った。
あのときおれは選ぶべきだったのだ。
どちらを選ぶか、心は決まっていたのに。

翌日おれは男と出会ったバーに出かけた。
女にはもう会わないとメールを入れたが、返事は来なかった。
おそらく男を叩きのめしたことで気が済んだのだろう。
その手のバーにしては静かな雰囲気だが、誰もが相手を物色している独特な空気に包まれている。
気軽に声をかけ、会話を楽しみ、気があえば一夜を過ごす。
一夜限りで終わるもよし、そのまま関係を続けるもよし。
特にこの店の利用者はおれのようなバイよりもゲイが大半を占めていた。
重厚なドアを開けると、心地よいくらいに音量が絞られたジャズの調べと、気にならないほどの話し声。
おれはぐるっと店内を見回した。
一番奥のカウンターに男の姿を見つけた。
「けい―――」
声をかけようと思った瞬間、おれは男の名前を飲み込んだ。
隣の男と顔を寄せ合い、親しげに話をしていたからだ。
バーテンが陰になり、よほど注意しないとお互いの姿は見えない程度に離れたカウンター席に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ」
馴染みのバーテンにオーダーを通すとおれは気付かれないように男の様子をうかがった。
「あそこのふたり、よく来るの?」
おれはさりげなくバーテンに聞いてみた。
「あぁ、背の高い方はよく来られます。あちら側の方は・・・ここ最近はいらしてなかったものですから、今日は珍しいと思っていたんですよ」
そう言いながらバーテンはおれの方をちらりとうかがう。
おそらくおれが男とよく話をしていたのを覚えていたのだろう。
そしておれと男がここに顔を出さなくなったのが同じ時期であることも。
「かわいらしい方ですから、今日も数人の方から声をかけられていたようですが、あの方とは気が合われたようで、かれこれ1時間は一緒に飲んでおられますね」
普段バーテンは客のことを詮索しないし話題にもしない。
ここが特殊なバーであることと、客の筋がいいこと、オーナーの教育が行き届いていることが理由だ。
しかし、おれたちに何か事情があると察したのか、バーテンはおれにそんな情報をくれた。
男たちが立ち上がった。
背の高い男が肩を抱き、店を出て行こうとする。
おれはいてもたってもいられなくなり、その後を追いかけた。
「啓介」
やっとのことで名前を呼んだのは店の前だった。
「雅哉さん・・・」
驚いた様子で、啓介はおれを見た。
「何、こいつ」
啓介の肩を抱いたまま、男はおれを睨みつけた。
遠目からでははっきりわからなかったが、おれは男を知っていた。
バーの常連で男癖が悪いと評判の男だった。
スタイルも良く顔のつくりも整っている。身に着けているものも人目で上等だとわかるもので、袖から高級腕時計がチラリと見えた。
このバーに集まる男たちは何かしらの出会いを求めているから、一晩限りの付き合いというのも少なくないが、この男はベッドで相手に苦痛を与えるセックスを好むという噂があった。
真偽がどうであれ、そんな男についていこうとする啓介をほっとけるわけがない。
「け・・・」
もう一度名前を呼ぼうとしたときだった。
「何か御用でしょうか」
冷ややかな表情と冷めた声音におれは言葉を飲み込んだ。
それはおれが知ってる啓介とはまるで別人のようだった。
「いや、あ、あのな」
啓介の静かなる迫力に押されて言いよどむおれから視線を外すと、啓介は肩を抱く男の耳元で何かを囁いた。
男がおれに一瞥与えて離れてゆく。
「彼には先に行ってもらいました。何か御用でしたら早く済ませてもらえませんか」
店内のすべての視線と興味を感じて、おれは啓介の腕を掴むと店の外に出た。
繁華街の喧騒が日常の世界へと引き戻す。
ドア一枚でこんなにも世界が違うものだったかと、そんなことを思った。
「この間のことなんだが」
「話は終わったはずです」
ばっさりと会話の糸口を絶たれる。
この男はこんなにはっきりモノを言う人間だったろうか。
おれから顔を背けたままの横顔は、かすかに唇が震えていた。
愛しさがじわじわとこみ上げてくる。
やはりおれはこの男が好きなのだ。しかも思っていた以上に。
「啓介、聞いてくれ」
おれは啓介を失くしたくない一心で訴えた。
「おれが悪かったんだ。この通り謝る。おれは啓介のことが―――」
「あの女性の言ったことが正しいと思います」
やっと顔を上げてくれた啓介はとても悲しい瞳をしていた。
「おれよりもあの人のほうがずっと魅力的ですから。仕方ないともう諦めました」
「ち、違うんだ。啓介、あのな―――」
「女性を愛せるのなら、選ぶのは女性の方がいいと思います」
啓介の口調はとても淡々としていた。
「雅哉さんがおれに満足していないことはわかっていたし、他にも付き合っている人がいることには気付いていました。何も知らないとでも思っていましたか?」
おれが黙り込むと、啓介は小さく口元を歪めた。
「雅哉さんと出会って、おれの生活は変わりました。暗くて深い井戸から陽の当たる場所へと引き上げられたような気持ちでした。夢のようで逆に戸惑いを覚えるほどでした。だけどそれも長くは続かなかった。人の本質なんてそう簡単に変えられるものじゃない。だからおれは決めたんです。この先どうなろうとも、すべてを受け入れようって。あの人から連絡をもらったとき、『とうとう』って思いました。雅哉さんと並んで座っているのを見たとき、『やっぱり』って思いました。それでもほんの少しだけ望みを持っていたんです。『もしかしたら』って。だけど雅哉さんは何も言わなかった。あの人にすべてを任せて一言も口を利かなかった・・・・・・楽しかったですか、面白かったですか。おれは揶揄いがいがありましたか?」
全く感情のこもっていない啓介の言葉に胸が痛くなる。
「だから、それは―――」
啓介が首を横に振る。
「すみません。責める資格なんてないのに生意気なことを言いました。性癖がバレやしないかとビクビクしてずっと過ごしてきたおれが、気の利いた会話のひとつもできないおれが、雅哉さんを満足させるなんて無理なんだと自覚したときに、身の程をわきまえればよかったんです。気付かないふりをして雅哉さんの情けに縋っていたのはおれなのに」
どうしておれは何も言わない?
啓介に対する気持ちに気付いて追いかけてきたんじゃないのか?
また同じことを繰り返すのか?
この期に及んでまだ自分で決められないのか?
「あの男がどういうヤツなのか知っているのか?」
そんなことはどうでもいいのに。
「サドっ気があるともっぱらの噂だ。ついていけば酷い目に遭うぞ?」
でももしこの感情をぶつけて拒絶されたらどうする?
「おれなら優しくしてやるぞ?」
だから啓介、おれを選べ。
「その優しさはあの人にあげてください」
その声は微かに震えていた。
「雅哉さんの心がおれにないと知りながら抱かれるのは辛かった。あの男は噂通り酷いセックスをするのかもしれない。でも、心が痛むか身体が痛むかただそれだけの違いでしょう?おれにとっては瑣末なことです。だけどおれはあの男を選ぶ。それはあの男がおれと同じこちら側の人間だから」
こちら側の人間。それはゲイであるということなのだろう。
バーの重厚なドアは異世界への扉。
ドアの向こう側では自らをさらけ出すことができる男は、同じ世界の人間を選んだ。
どちらでもありどちらでもないおれは、啓介には選ばれなかった。
選べない人間は選ばれない人間になり、大切なものを失った。
男を追って背を向ける啓介におれは何も言うことができなかった。


















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