明日があるなら 第1話








ピピピッという連続したデジタル音を手を伸ばして止めると、雅彦はベッドの中で大きな伸びをした。
肌触りのよいシーツから抜け出すのはもったいないが、ベッドサイドの時計を見て仕方なく身体を起こす。
カーテンを開ければ、昨夜から降り続いている雨のせいか薄暗い。
今日一日は止みそうにないなと、雨の日用のスーツをクローゼットから取り出し引っ掛けて、雅彦は自室を出た。
階段を下りながら感じる違和感。
耳を済ませても物音ひとつ聞こえない。





葉月はまだ寝ているのか・・・・・・?





どんなことがあっても雅彦より遅く起きたことはなかったのに。
雅彦が返さないとわかっていても笑顔で挨拶をし、雅彦が食べないとわかっていてもテーブルに並ぶ朝食。
無言で家を出る雅彦の背中にかけられる『いってらしゃい』の言葉。
この家に来てからの葉月は、それらを一度も怠ったことがなかった。
だからなのか。
いつもとは違う朝に雅彦は戸惑い、さすがに昨夜は酷すぎたかと後悔した。
いつからか優しくできなくなった。
自分を気遣う葉月を見ていると、イライラして辛くあたってしまう自分を止められない。
だからといって辛くあたればすっきりするわけもなく、むしろ心の中の大きなしこりとなり雅彦を苦しめる。
その苦しさから逃れる術がわからなくて、新たなイライラを呼び、葉月に当たる。
その繰り返しは続いて、すでに数ヶ月が経っていた。
葉月に非が無いのはわかっているのに、雅彦は暴走する自分をどうすることもできなかった。








***   ***   ***








広すぎる一軒家は亡くなった親から譲り受けたものだ。
両親は雅彦が物心ついたころに事故であっさりと逝ってしまった。
その後は同居していた祖父母に育てられ、その祖父母も数年前に相次いで亡くなった。
資産家だった祖父母・そして両親の遺産を引き継ぐことになったが、土地のほとんどを相続税でもっていかれ、残ったのは、わずかな預貯金とこの家だった。
就職と同時に家をでて一人暮らしをしていたが、相続を機にこの家に戻って暮らし始めて数ヶ月目。
雅彦は葉月と出会ったのだった。
付き合いで連れて行かれたビアガーデンで、葉月は働いていた。
ホテルの屋上でもないそのビアガーデンは、安さが一番の売り物らしく、仕事帰りのサラリーマンでいつも賑わっていた。特にその日は近くのスタジアム帰りの団体が、かなり派手に 飲み散らかしていて、かなりの混雑振りだった。
酒は静かにゆっくり味わいたい、そんな雅彦にとってはあまり居心地の良い場所ではなく、だけども早々に席を立つのも大人気ない気がして、冷凍モノだとすぐにわかるたこ焼きやポテトをうんざり気味につまんでは、社内の噂話に相槌を打っていた。
そんな時だった。
次々に入るオーダーをこなすべく、テーブルからテーブルへと身体に似合わぬ大きなジョッキを両手に、くるくる渡り歩くその姿が目についたのは。
おそらくは猥雑なその場所に似合わぬ雰囲気を醸し出していたからだろう。
恐ろしく細い腰と少し長めの髪で隠れた整った顔立ちは、雅彦の興味をそそり、視線で追いかけ始めれば周りが気にならないほどだった。
もっと近くで見てみたいとジョッキを空にしてオーダーを通せば、運良く彼がテーブルに運んできた。
思った以上に華奢な腕から直接ジョッキを受け取ると、小さな声で「ありがとうございます」と応える。
間近で見た彼は、まだ高校生ではないかと思えるほどで、伏目がちな瞳を彩る睫毛は驚くほど長かった。
それから何度か雅彦はそのビアガーデンを訪れた。
雅彦は彼を追っていた。執拗に追いかけた。
同時に雅彦は感じていた。彼が自分を意識していることを。
最初に言葉をかわしたのはどちらからだったろうか。雅彦は覚えていない。
ただそれをきっかけにふたりの距離は急速に近づいた。
葉月という名前を知り、家族がいないこと、そしてまだ17歳だということ、年齢を偽って働いていることなどを知った。
身体の関係を持つのにそんな時間はかからなかった。
雅彦は男女どちらでも恋愛対象にできる性癖の持ち主だったし、雅彦を受け入れたということは、葉月も同類なのだろう。
小さなアパートでひっそり暮らしている葉月に、自分の家に越してくるように伝えたときの葉月の困ったような笑顔。
知り合ってそう時間は経っていなかったが、葉月の慎ましやかな性格は好ましく思っていたし、まるで居候のようになる同居に彼が戸惑いを見せるのはわかっていた。
だから、家事の苦手な自分のかわりにそれを受け持って欲しいと、条件を提案したのだ。
どうやら葉月の収入では家賃もかなりの負担だったらしく、雅彦がもっともらしいことを口にして説き伏せると、葉月も納得したようだった。
実のところ、雅彦は他人と馴れ合うのが苦手だ。
小さな頃から集団は苦手だったし、ひとりの時間は雅彦にとっては気楽で快適だったのだ。
しかし、雅彦は葉月と一緒に住むことを決めた。
面白いと思ったのだ。
他人と一緒に暮らすことが。
雅彦にそうしてもいいと思わせるくらいには、雅彦は葉月を気に入っていたのだ。








***   ***   ***








遮光カーテンに遮られたリビングは薄暗く、薫やかなコーヒーの香りも、香ばしいトーストの香りも、雅彦の鼻腔を刺激することはない。
カーテンを開けると、いつもとかわりない、整理整頓されたリビングに明かりが射し込み、何も変わらない毎朝の風景が映し出された。





葉月はまだ眠っているのだろうか・・・?





さすがの雅彦も、昨夜の自分の葉月への仕打ちに、チクリと胸が痛む。





今日はゆっくり寝かせておいてやろうか。





雅彦はコーヒーメーカーのスイッチを入れると、ふとテーブルの上の新聞に気がついた。
今日の日付・・・ということは、葉月は一度起きだしてきたということか・・・?
二度寝するなんて葉月らしくないと疑問に思いながらも、部屋に立ち込めるコーヒーの香りに誘われ、雅彦はカップの準備をした。
新聞に目を通しながらコーヒーを啜り、今日の仕事の段取りについて思案しながらも、どうしてだか今日は葉月のことが気になって仕方がない。
なんら変わらない朝なのに、葉月がいないだけでこうも自分の気持ちに変化が現れるのか。
もやもやした気持ちを振り払いたくて、雅彦は葉月の部屋へと足を運んだ。
そこに・・・葉月はいなかった。










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