beloved




第十三話




名前を呼ばれてからだが震える。
おれは、この声が大好きだった。
いや、いまでも・・・
「どこに引っ越すんだ?」
一瞬、ほんの一瞬もしかしてと思った自分がおかしくて、クスリと笑いが漏れた。
「連絡先くらい、教えてくれないか?」
この人は・・・そんなことを聞いてどうしよういというのだろう。
年賀状でも寄越すというのか?
おれは、聞こえよがしに、大きくため息をついた。
「おれは、あなたを嫌いになったわけじゃないんです。あなたにとってはもうどうでもいい存在かも知れないけど、おれにとってはまだまだ・・・あなたがいちばんなんです。でも、進むべき道が違うから、おれはおれのやりたいことが出来たから、あなたと離れることを選んだだけなんです。じゃあこれからは高校時代の教え子と生徒に戻りましょうと言われても、とても無理です。あなたに連絡先を教えたら、もしかして連絡がくるんじゃないかとか期待してしまう。そんなんじゃ、おれは・・・前に進めない。だから、もう全て忘れてください」
そして、最後に、片岡の顔を正面からじっと見つめた。
「メガネ、変えたんですね。ノンフレームもとても似合ってますよ。でも、おれはそのメガネがあまり好きじゃない。おれの知ってる片岡先生じゃないみたいだ。まるで知らない人みたい・・・・つうか、もう他人でしたね」
本当は、ありがとうというつもりだった。
けれど、どんなに強がってみてもおれはおれで・・・最後は捻くれたものの言い方になってしまった。
呆れただろうか・・・それならそれでいい。
綺麗に終わらせるつもりなんてこれっぽっちもなかったのだから。
らしくていいかと思いつつ、最後の最後はと、深々とおじぎをして部屋を後にした。
追いかけてくる様子はなく、そのことはまたおれを深みに突き落とした。
玄関のシューズボックスの上に、鍵を置く。
想いを通じ合わせて最初の誕生日にもらったこのマンションの鍵。
それ以前にセックスも済ませすでに恋人といえる関係だったけれど、これをもらった時に、やっと認めてもらえた気がしてとても嬉しかった。
おれの存在が片岡を幸せな気分にさせることができるんだと・・・・・・
鮮やかな青色をしていたリボンも、今では色褪せてくたびれていた。
それが片岡の中のおれの存在を反映しているようで、可笑しかった。
「さよなら」
結局言えなかった別れの言葉を、愛着のある銀色のそれにのせると、玄関の扉を開けた。
背後でガチャリと重い扉が音をたて、全ての終わりを告げた。
笑わすほどタイミングよく、銀色の空から降りそそぐ雨粒が、おれの代わりに泣いてくれているようで、涙雨って本当にあるんだなと、泣くことさえできない自分を蔑んだ。
「よしっ、今日はとことん飲んでやる!」
飲んで飲んで飲みまくって、全てを消化してしまおう。
忘れるなんでできないだろうけど、全てをいい思い出にしてしまおう。
片岡には、幸せになってもらわないと困る。
もちろんおれだって幸せになてやるつもりだ。
もう会わないなんて、忘れてくださいなんて言ったけれど、おれももっと成長して片岡と同等の大人になったら、笑って会えるかもしれない。
あいつがおれのこと忘れてる可能性があるけどな・・・・・・
おれは、マンションを一度も振り返ることなく、雨の中を駅まで急いだ。
雨で濡れる頬を、ほんの少しだけ違うもので濡れるのに気付かない振りをして・・・・・・






                                  おしまい









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