happy christmas?







その3






「すごくおいしかった」
満足そうな久遠に、紘一郎も自然と笑みがこぼれる。
「ちょっと飲みすぎちゃったかも」
シャンペンで頬をほんのり赤く染めた久遠は、いつになく艶やかで、紘一郎を落ち着かなくさせる。
「ツリーもとっても綺麗だったね」
少し興奮気味に声を弾ませる久遠に、紘一郎は微笑んだ。
大通りで手を上げてタクシーを拾うと、久遠が紘一郎を見上げた。
「マンションで・・・いい?」
さらに頬を染めコクンと頷いた久遠とタクシーに乗り込む。
車内はしんと静まりかえっていた。
マンションについた後のことを、頭の中でシュミレーションを何度も繰り返す。
紘一郎は生まれて最大の緊張感に包まれていた。
久遠が紘一郎のマンションを訪れるのは2回目だ。
遠慮がちに玄関に佇む久遠を奥のリビングへと促すと、少し緊張した面持ちでソファに腰かけた。
朝から掃除をした室内はホコリひとつなくピカピカだ。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
紅茶、と答えた久遠のためにキッチンへと立つと、ケトルを火にかけた。
(今夜、久遠と・・・・・・)
期待と不安で紘一郎の心はいっぱいだ。
なにしろ初めての経験だ。久遠の方はどうからわからないが、どちらにしても紘一郎がリードする必要がある。
何度も何度も頭の中で繰り返したシュミレーションをもう一度辿ってみると、情けないがなんだか頭がボーっとしてきた。
落ち着け自分、と冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し口に含んだ瞬間、紘一郎は小さな悲鳴を上げた。
「っ・・・・・・」
今朝ミルクを飲んだ時と同じ痛みが紘一郎を襲う。
ディナーにワインを飲んだ時も大丈夫だったのですっかり忘れていた痛みだ。
ただ、今朝と違うのは、ジンジンとした痛みが引かないこと。
カチカチと歯をかみ合わせてみれば、キリッと刺すような痛みが頭に突き抜ける。
(明日、歯医者にでも行ってみるかな・・・)
ちょうど沸いた湯をカップに注いで、久遠の元へと向かった。






*** *** ***






「うわっこんなの初めてです!」
「そう、よかった」
久遠の前には、今日紘一郎が購入してきたケーキ。
「これ、どうやって食べるのかな」
「フォークでチョコレートを割ってごらん?」
チョコレートの箱から出てきたのは、真っ白の生クリームと真っ赤な苺だけのシンプルなケーキだ。
「うわっ、ふわふわ」
「うまいか?」
満面の笑みで頷かれ、紘一郎もホッとしてフォークを持ったところで手を止めた。
見た目によらず、紘一郎は甘党だ。特にケーキの類には目がなく、疲れているときなどはご飯よりもケーキに手が伸びるほどだ。
だからこのケーキも、贔屓にしているスイーツショップで取り置きしてもらえたのだ。
週に数回、自分の分も含めて事務所で働く女性たちにケーキを購入する紘一郎はかなりの得意客らしく、すんなり無理を聞いてもらえた。
クリスマス限定だというケーキを目の前に、紘一郎は躊躇う。
なぜなら、先ほどの歯の痛みを思い出したからだ。
ミネラルウォーターを飲んだ瞬間よりも痛みは小さくなってはいるが、果たしてケーキを食べていいものなのだろうか。
「雨宮さん、食べないんですか?」
「えっ、あ・・・」
「すっごくおいしいですよ?」
久遠は紘一郎が甘いもの好きだと知っている。紘一郎としては、大の男が甘いもの好きだなんて知られたくなかったのだけれど、神谷にバラされてしまったのだ。
久遠に『なんだかカワイイ』と言われてかなり恥ずかしかったのを覚えている。
だから『甘いものは苦手』なんていう、いかにも男が使いそうな言い訳は通じない。
(穴が開いてるわけじゃないし、虫歯じゃないみたいだから、大丈夫か)
紘一郎はチョコレートにフォークを突き刺した。
久遠の言ったとおり、ケーキはふわふわで口の中で溶けるようだ。フォークで崩したビターチョコとの相性も絶品で、紘一郎はさくさくとフォークを口に運んだ。
見慣れた部屋に久遠がいる、それだけで特別な場所のように思える。
前回この部屋に久遠が来たのは、確か大切な書類を届けてくれたときだった。お茶でも出そうかと思ったのに、久遠はそれを慎ましやかに辞退してそそくさと帰ってしまい、紘一郎はショックを受けたのだ。付き合い始めてから冗談めかしてそのことを久遠に告げてみたら、なんと久遠もそのときから紘一郎に特別な感情を抱いていたらしく、恥ずかしかったんだと申し訳なさそうに話してくれた。
お互い思いあっていながら遠回りした感もあるが、片思いだと思っていた時間もそれなりに楽しかった。
そして今、恋人として、紘一郎の目の前にいてくれる。
最後まで取っておいた苺をほおばる久遠はとてつもなく可愛くて、どれだけ見ていても紘一郎を厭きさせない。
「ごちそうさまでした」
敷かれていた銀紙を綺麗に折りたたんで手を合わせた久遠は、紘一郎の視線に気づいてふと顔を上げた。
「ほら、クリームがついてる」
「えっ?」
久遠が慌てて拭おうとする前に紘一郎が手を伸ばした。
そっとあごを上に向け、親指の腹で唇の端についた白いクリームをそっと拭ってやる。
テーブル越し、腰を上げた紘一郎を、まっすぐと見つめる久遠の瞳に、紘一郎は釘付けになった。
少し半開きの無防備な唇に吸い寄せられるように、紘一郎はゆっくり顔を近づける。
柔らかい感触を唇に感じ、同時にチュッという可愛らしい音を耳にした。
驚いたような表情をみせた久遠に、紘一郎ははっと我に返る。
衝動的行動だった。愛しさがむくむくと湧き上がってきて、余計なことを考える暇もなかった。
久遠は真っ赤になってうつむいてしまっている。
こういう経験のない紘一郎はどう接していいのか全くわからなかったが、久遠にこの動揺を知られたくない。
ふと以前どこかの小説で読んだシーンが頭に浮かび、紘一郎は久遠の頭をクシャリと撫でると、すくりと立ち上がりリビングを後にした。
(うわ〜キスしちまった・・・・・・)
予定よりも早い行動に我ながらびっくりだ。
紘一郎にとってあまりにも遅すぎるファーストキス。
上手くできただろうかと思い返してみても、ついさっきのことなのにどうだったか思い出せない。
覚えているのは、温かく柔らかい感触だけ。
ハーッと大きく深呼吸をして心を落ち着ける。
こんなことでこれ以上先に進めるのだろうかと不安がよぎった。
(こんなことなら遊びでもいいからいろいろ経験しとくんだったよ)
後悔しても後の祭り。このまま久遠をひとりにしておくわけにもいかない。
紘一郎は覚悟を決めると、書斎のデスクに置いておいた紙袋を手に取るとリビングへと引き返した。
久遠は、リビングの隅っこに飾られたクリスマスツリーのオーナメントをひとつひとつ手にとって眺めていた。
輸入雑貨屋で購入したオーナメントは全て外国製で、珍しいものが多かった。
こちらに背を向けているから久遠の表情は見て取れない。
「森岡くん」
紘一郎が呼ぶと、久遠はゆっくりと振り返った。
「これ、プレゼント」
「お、おれに?」
「もちろん。君以外に誰がいるんだ?」
紘一郎が揶揄い交じりに笑みを浮かべると、久遠もふわりと笑った。
「ありがとうごさいます」
嬉しそうに紙袋を受け取ると、中を覗き込む。
「開けてもいいですか?」
紘一郎が頷くと、久遠は丁寧にラッピングを解き始めた。
「うわぁ!」
「ありきたりのプレゼントで申し訳ないんだが、それならいくつ持っていたって困らないかと思って」
プレゼントは腕時計にした。
久遠は学生らしいカジュアルな時計を愛用していたが、男なのだからスーツに似合う腕時計をひとつくらい持っていてもいいだろうと考えたのだ。
どんな職業につくにしても、スーツを着る機会がないということはない。
いわゆる高級ブランドではないが、老舗のスイス時計メーカーの、お洒落なシースルーバック仕様だがスーツにもしっくりするデザインの時計をチョイスした。あまり高価なものをプレゼントして久遠に気を遣わせたくなかったからだ。
箱に収まったままの時計をじっと見つめる久遠に近づくと、箱から時計を取り出した。
「ほら、つけてみろよ」
後ろから抱くようにして腕を取ると、その手首に嵌めてみる。
ケースがメンズの割りに小さめなので、男の割りに細い久遠にもしっくりくる。紘一郎は満足気にその手首を掲げてみた。
「ベルトが少し大きいな。今度一緒に調節してもらいに行こう」
紘一郎が手を離しても、久遠は嬉しそうに手をかざしていろんな角度から眺めていた。
「でも・・・」
「でも・・・・・・?」
「こんな高価なものいただいてもいいんでしょうか」
「嬉しくない?」
「そんなことっ―――」
「だったら素直に受け取っておいてくれないか?それに・・・・・・」
さぁ決め台詞だ、そう思った瞬間、あの痛みが襲ってきた。
「雨宮さん・・・?」
咄嗟に口元に手をやった紘一郎を、久遠は不思議そうに覗きこむ。
紘一郎は誤魔化すようにその身体を引き寄せ腕に包み込んだ。
「きみからはもっと素敵なプレゼントをもらう・・・約束だから」
久遠の身体が少しだけ震えたのがわかった。






*** *** ***






そのまま抱きかかえて寝室へと連れて行きそっとベッドへと降ろす。
ゆっくり眠れるようにと購入したひとりだと大きすぎるベッドも今日ばかりは大きすぎることもない。
ベッドサイドのランプを灯すと、久遠は恥ずかしそうに横を向いた。
飴色の光がふたりを照らし出す。
今日のために新調したシーツは、神谷のオススメの通販で購入したイタリアの有名ブランドもので、肌触りも抜群なはずだ。
紘一郎の心臓は壊れるのではないかと思うほどに早鐘を打っていた。
(冷静になれ、自分)
勢いでここまできたものの、ここからは未知の世界。
ベッドに横たわる恋人を目の前に、今にも食いつきたい衝動に駆られるが、オトナの男たるもの余裕のない姿は見せられない。
しかし、気の聞いた言葉も見つからず・・・・・・
(ええい!もうどうにでもなれ!)
冷静になろうったってなれるわけがないと諦め、紘一郎は久遠に圧し掛かった。
「森岡くん」
呼びかければ久遠は素直に紘一郎に顔を向けた。
「雨宮さん・・・・・・」
「なんだか他人行儀だな。名前で呼んでくれないか?」
久遠が躊躇いがちに口にする。
「紘一郎さん・・・」
「久遠」
優しく髪をなでながらキスを落とした。
小さなキスを繰り返しながら久遠のセーターの裾に手を入れる。
もうここまできたら経験がないとかそんなことは関係ない。ただ本能のなすがままに、紘一郎は久遠に触れた。
しかし、ここにきて、あの痛みがじくじくと紘一郎を襲い始めた。
意識しないようにと思えば思うほど、そこに意識が集中し、ズキンズキンと紘一郎を苦しめる。
明らかに痛みは酷くなっていた。
もっと深いキスがしたいのに、痛みの根源がそこにあるため、躊躇われる。
「紘一郎さん・・・・・・」
久遠も欲しいと思ってくれているのか、紘一郎の背中に腕を回し、甘えるような声で紘一郎の名前を囁く。
愛しくてたまらなくなって、紘一郎は瞼や頬にキスをすると、少し角度を変えて久遠の唇を舌先で割った。
久遠はさしたる抵抗もなく紘一郎を迎え入れた。
生暖かい粘膜は興奮度を高め、身体をなお熱くさせてゆく。
貪るように舌を絡め合い、すっかりキスという行為に夢中になっていた・・・のは久遠だけだった。
「っ・・・・・・」
「こういちろ・・・さ・・・ん?」
今日一番の痛みにとうとう紘一郎は呻き声を上げ、唇を離した。
顔の半分を手で覆った紘一郎に、久遠は驚いて身を起こす。
「どうしたの・・・?」
「な、なんでもない。悪い」
顔から手をのけ、笑おうとした紘一郎の顔を見て、久遠は叫んだ。
「紘一郎さんっ、口っ、腫れてない・・・?」
見せて、と至近距離で顔を覗き込まれ、紘一郎は観念した。
久遠に腫れているらしい鼻の左下を指先で軽く押され、紘一郎は顔を顰める。
「っつう・・・・・・」
ジンジンジクジク。痛みは容赦なく紘一郎を襲った。
かっこ悪い。かっこ悪いなんてもんじゃない。
情けない。情けなくて泣きそうだ。
なんで今日なんだ???
おれが何か悪いことをしたか???
一生懸命仕事を終えて、恋人と楽しいクリスマスを過ごそうとしただけじゃないか!
それなのになんだ!なんなのだ!
どうしてイブの夜にベッドの上で泣きそうになってるんだ!
しかも恋人を目の前にして!
紘一郎はすっかり肩を落としていた。
「ちょっとな、今朝から歯が痛くて。でももう大丈夫」
「大丈夫じゃありません!かなり腫れてきてますよ?」
甘いムードはすっかりどこかへ飛んでしまって、これ以上続ける雰囲気でもなければ、そういう気分でもなくなってしまった。おそらく久遠もそうだろうと思うと、紘一郎はいたたまれない。
その間もじくじくと忌々しい痛みはますます酷くなってゆくようだ。
「森岡くん」
「久遠です」
「久遠・・・悪いけど今日は帰ってくれないか?」
あまりに情けなすぎてひとりになりたかった。
これ以上こんな姿を見せていたくない。
なんだか話をするのも億劫になってきた。
「どうして?」
「どうしてって・・・・・・」
「おれは今夜は雨・・・紘一郎さんと一緒に過ごすって決めたんです。その・・・抱き合えないならおれに用はないですか?」
「そんなことは―――」
「ならここにいます。いさせてください」
そう言うと久遠は紘一郎にパジャマに着替えるようにいうと、部屋を出て行った。
しばらくベッドの上でボーっとしていたが、痛みがますます酷くなってきたので、言われたとおりにパジャマに着替えることにした。
ベッドに入ろうかと悩んでいた時、久遠が戻ってきた。
水の入ったグラスをお盆に乗せている。
「取り合えずこれ飲んでください」
そう言って差し出されたのは白い錠剤。
「勝手に救急箱のぞかせてもらいました。歯痛止めじゃないから効くかわからないけど、何も飲まないよりはマシだろうし。もし我慢できないくらい痛いようなら、正露丸を詰めるといいって言うのも聞いたことがあるけど・・・」
「それは遠慮しておく」
紘一郎は錠剤を流し込んだ。
「さ、ベッドに入ってください。意識が少しでも逸れるようにテレビつけておきますね。はい、これで冷やして」
冷凍庫に入れておいた、何かを購入したときについていた保冷剤をミニタオルで巻いて渡してくれる。
鼻の下、いわゆる唇の上にそれを当てると、傷む部分は熱を持っているのか、冷たくてとても気持ちがいい。
「歯医者の予約は?」
「明日の朝イチでいれるつもりだった」
「それなら朝一番に電話しましょうね」
ベッドに入った紘一郎に優しく微笑み、じゃあおやすみなさいと部屋を出て行こうとする久遠の腕を引き止める。
「どこに行くんだ?」
「おれはあっちの部屋で休ませてもらいますから」
イヤだ、と思った。
歯が痛くて心細いのだろうか。
いや、そんなことはない。
一人暮らし歴もすでに10年以上となる。
その間に何度も寝込んだことはあるし、その度にひとりで乗り越えたのだ。
いずれ朝はやってくる。朝がきたら病院にいけばいい、そう思ってひたすら我慢した。
それなのに、今日はひとりになるのがイヤだった。
歯痛くらいでなんだ、恥ずかしい、そう思う自分もいた。
(歯痛なんて病気じゃないだろうが)
だけど一度萎えてしまった心は、すっかり紘一郎をダメにしていた。
元来男は痛みに弱いものなのだ。
もうカッコイイ大人の男を装うこともできず、ただの歯痛に悩まされる情けないひとりの男と化していた。
誰かにそばにいて欲しい、そんな思いが込み上げてきて、紘一郎は情けない声を上げた。
「ここに・・・いてくれないか?」
久遠がそばにいるからと言って痛みが消えるわけはない。
だけど痛みが和らぐような気がした。
久遠はそんな紘一郎を軽蔑した様子もなく、いつもと変わらない紘一郎が惚れた笑顔を見せた。
「じゃあ、向こうの部屋、電気消してきますね」
そういった後に小さく呟いた。
「紘一郎さんって・・・カワイイ人だったんですね」
「えっ、なに?」
「なんでもないです。話すと痛みますよ?静かにしていてくださいね」
まるで母親のような久遠に、紘一郎はこの先、イニシアチブを握るのはもしかして久遠かもしれないと思った。
(ほんと、とんだクリスマスイブだ。プレゼントも貰い損なったし)
だけど一歩進めたことは間違いない。
(キス・・・したからな)
二段階は一気に上れないのかもしれない。
何しろ恋愛初心者なのだ。
次こそは・・・そんな野望を抱きながら、紘一郎は歯の痛みと戦っていた。
朝方、とうとう我慢できず、久遠の前で涙を流してしまうことを、紘一郎はまだ知らない。






戻る 次へ ノベルズ TOP TOP