happy christmas?







その1






頬のあたりに違和感を感じて目が覚めた。
あまり気持ちの良い寝起きではない。
ベッドサイの時計に目をやると朝の6時。休日にはまだ早い時間だ。
だが二度寝する気にはなれなかった。
起き出してリビングの部屋で最初に目に付いたカレンダーを見てひとりほくそえむ。
赤いマジックで大きな丸印のついているのは12月24日。
今日はクリスマスイブだ。






*** *** ***






紘一郎は弁護士を職業としている。
中学からの腐れ縁で共に司法試験に合格し、司法修習を経て別の弁護士事務所で働いていた神谷と数年前に独立開業した。
イソ弁として所属していた中堅の法律事務所で培ったパイプが幸いして、それなりに忙しい毎日を送っている。
主に民事事件を取り扱っているのだが、平日は事務所と裁判所の往復、週末は積極的に公での法律相談に出向いたりと多忙な日々だ。
休みは少ないが、仕事は好きだし苦にならない。
一人暮らしだが、要領のいいほうだから、短い時間で家事もこなすし、きちんと余暇も楽しんでいる。
そして、目に入れても痛くないほど可愛らしい恋人もいる。
紘一郎には向かうところ敵なしなのだ。






*** *** ***






ひとりの朝は基本的に朝食を摂らない。
紘一郎は冷蔵庫を開けると、最近ハマっているミルクを取り出して口をつけた。
行儀が悪いと思うけれど、誰にも迷惑はかけていないから気にしない。
もちろん恋人がいるときにはこんなガサツな部分は決して見せないのだが。
冷たいミルクが喉を通る瞬間と口の中に残る微かな甘さに病みつきになり、毎朝欠かしたことはない。
今日もこれで爽やかな一日が始まる・・・と思ったのに、一口飲んで瓶を口から放した。
キンと脳天まで突き抜けるような、細い痛み。
「っ・・・・・・ぅ・・・・・・・」
歯にしみる。前歯でも奥歯でもない、中途半端な場所の歯だ。
紘一郎は冷蔵庫にミルクを戻すと、カチカチと歯を噛み合わせてみる。
少し違和感はあるが、どうやら大丈夫のようだ。
舌でしみた部分を探ってみるが、虫歯で穴が開いているわけではないようだ。
「やっぱり疲れてる・・・かな」
それもそのはず。今日のこの日が一日自由になるように、12月は仕事をガンガンに詰めたのだ。
週に数回は恋人と過ごしたいから、必然的に早出をして昼間はほとんど休憩なしで仕事をこなしている毎日。
それでも世間は紘一郎をそう簡単に自由にしてくれなかった。
当番に当たっていた弁護士が今年流行の胃腸風邪にかかり、弁護士会館での無料法律相談が回ってきたのだ。
クリスマスイブの日に相談にくるヤツなんているはずない、と悪態をついたところでどうにかなるわけではなく、これまたすっかりクリスマスイブは休む気でいた相棒に、借りを作る形で頼み込んで何とかイブの休日をゲットしたのが、ビジネスパートナーの神谷が提示した代償がイブまでの3日間の休み。
イブに仕事を引き受けるかわりに、少し早めのクリスマス休暇を取ることを求めてきた相棒の仕事までをも背負い込むことになったのだった。
しかも相棒は苦手な事務仕事を大量に残していったのだ。
もともとは自分の我儘を通すことから始まったのだから、さすがに事務の女性を残業させることはできず、今日までの3日間は怒涛のような忙しさだったのだ。
タフさが自慢の一つでもある紘一郎だったけれど、さすがに身体は疲れているようだ。
今までにも、寝不足だったり力仕事をしたりと身体が疲れている時には微かな歯痛を感じたことがあった。
紘一郎は肩を揉みながら首をグルグル回して身体の筋肉をほぐす。
そうすると、少しだけ楽になった気がした。






*** *** ***






紘一郎の恋人は大学生だ。しかも同性。
知り合ったのは、開所当時から事務方を任せている伊藤女史が体調を崩し入院したことがきっかけだった。
検査も含めて1ヶ月近く休暇が必要だと聞かされ、紘一郎を含めて事務所は大いに困った。
何しろ紘一郎も神谷も事務処理能力が際立って低いのだ。それでもまだ紘一郎はマシな方で、神谷ときたら数分前に手に持っていた書類を紛失する始末。
神谷も紘一郎も頭はキレるし、弁護士としての素養は抜群なのだが・・・
こんな状態で1ヶ月も無理だ、それなら臨時で事務を、いや事務までとはいわない、書類をファイリングしたり、電話応対や来客応対などだけでも助けてくれる人材をと、大学時代に世話になったゼミの教授に頼ったところ、紹介されてやってきたのが、ゼミの学生森岡久遠だったのだ。
一目ぼれだった。
出先で予想以上に時間を費やし、約束の時間に30分遅れて事務所へ戻ったあの日、紘一郎は恋に落ちたのだ。
応接室の、それこそ小さな事務所には似つかわしくない立派なソファに礼儀正しく腰掛けて、彼は座っていた。
待たせてしまったと慌てて部屋に飛び込んだ紘一郎を見るや否や、すくっと立ち上がり、駅から走ってきた紘一郎の汗に気づくと、綺麗にアイロンのかかったハンカチを差し出してくれた。
ありがとう、と礼を言いながら目の前に立つ学生を見た瞬間、紘一郎のハートがドキンと大きく響き、鼓動が高鳴ったのだ。年甲斐もなくドキドキした。
キューピットの矢がハートを直撃、まさしくそんな感じだった。
身長は紘一郎の目線ぐらいだろうか、少し見下ろす感じだ。小さな顔にバランスよくパーツが並んでいる。特に目を引いたのは、黒目がちの大きな瞳だった。見上げる眼差しは穏やかな性格を象徴しているように柔らかく、なんだか人を和ませる色を含んでいた。
『お忙しいところをお時間割いてくださってありがとうございます』
彼の方が雇用される身とはいえ、都合も聞かず日時を設定したのはこちらの方であり、呼びつけておいて遅れた紘一郎に非はあるはずなのに、彼は少しも嫌な顔をみせず、逆に笑顔をみせたのだ。
にこりと微笑まれて、紘一郎は二本目の矢をくらった。
紘一郎はすぐさま採用を決めた。






*** *** ***






紘一郎はモテる要素を兼ね備えたルックスをしている。
身長も180センチを超えているし、着やせするタイプで、スリムだが均整の取れた筋肉の付き方をしているからか、スーツもよく似合う。
切れ長の瞳は少し冷酷そうに見えるが、そこがニヒルでいいと言われたことは少なくない。
それでいて職業は弁護士。これでモテないはずはない。
しかし、実のところ、紘一郎はその外見からは想像もつかないほど恋愛経験に乏しかった。
乏しいを超えて経験ゼロと言っても過言ではない。
中学高校と部活に明け暮れ、学生時代は恋愛よりも講義とバイト、司法試験に合格し晴れて弁護士という肩書きを得てからは恋愛よりも仕事。
特に弁護士となってからは、その肩書きからかかなりのアプローチを受けたが、乗り気になれなかった。
どうしても断れなくて、幾度か紹介された女性と付き合ったことはあるが、当の紘一郎にその気がないのだから長続きするわけがない。元来女性は勘がいいししたたかだ。自分に全く興味を持たない男にしつこくする女性もなく、メールもしない、デートに誘いもしない紘一郎に飽きれて自然消滅。
そのパターンが数回続いていた。
思い返してみれば、自分の中に誰かを『好き』という感情が芽生えたことがない気がする。
35年間も生きてきて。
紘一郎のすべてを知っている神谷には呆れられ、『もしかしてオンナに興味ないのか?』とホモ疑惑をかけられるほどだった。
もちろん紘一郎は否定していたのだが・・・・・・まさか同性に惚れるなんて。
そう、紘一郎にとって久遠が初恋の相手となったのだ。
人を好きになるのが、恋に落ちるのがこんなに簡単なことだったのかと、紘一郎は実感した。
全く恋愛に興味のなかった自分がウソのように、頭の中は久遠のことでいっぱいになった。
(瞬殺だったんだよなぁ)
それに久遠は第一印象を裏切らなかった。
仕事の覚えも早く、伊藤女史の入院で混乱気味だった事務方のサポートを黙々とこなし、気遣いのできる性格と人当たりのよさは、神谷にも他の女子事務職員にも歓迎されるところで、すぐに輪の中に溶け込んでいった。
そしてそんな久遠に紘一郎はどんどん惹かれていったのだ。
渋滞につかまるよりも確実だからと、ほとんどの移動は公共交通機関を利用する紘一郎が外出先から帰ってくると、冷たいお絞りと少し甘めのアイスコーヒーをそっと持ってきてくれた。
みんなが忙しそうにしていると、何も言わなくても残業して、自分にできることを見つけてはこまめに動いていた。
コピーを取ったり、書類を整理したり、はたまた夜食の調達までも。
それらには全く恩着せがましさがなく、紘一郎をはじめ、みんなが久遠に感謝し、助かっていた。
見返りを求めているのではない、ただそうしたいからそうする、そんな久遠の態度は大変好ましく紘一郎には映った。
久遠に対する紘一郎の思いは募るばかりだったが、紘一郎はその気持ちを伝えようとは思っていなかった。
自分は同性でも全く気にならなかったが、世の大半の男性がそうではないとわかっている。
好きだという気持ちだけで見境なく告白するほど若くもない。
この恋が実る可能性はゼロに等しいのだと、紘一郎はきちんと自覚し理解していた。
どうしてだか付き合いの長い神谷にはこの気持ちがバレてしまい、何ひとりで純愛を気取ってるんだと鼻で笑われたが、紘一郎は現状で満足していた。
そばで彼のことを見つめ、暖かな気持ちになれるだけで満足だった。






戻る 次へ ノベルズ TOP TOP