夏のある日







その1






夏は嫌いだ。
特に日差しの照りつける真昼間、資料でパンパンに膨らんだブリーフケースを片手に歩きまわっている時の不快感はこの世のものと思えないほど隆弘をイラつかせる。
スーツの下のシャツが汗で肌に張り付き、気持ち悪くてたまらない。
しかし、隆弘は上着を脱いだりしなければ、ネクタイを緩めることもない。
不快感が全く顔に出ない隆弘は、暑苦しさとは無縁と思われているらしく、隆弘もそれがデキル営業マンだと信じているからだ。
待ちを行き交うスーツ姿の男たちは、誰もがみな吹き出る汗をハンカチでぬぐい、上着を片手に、背中のシャツが肌に張り付いているのを恥ずかしげもなく晒し歩いている。
そんな男たちを見るたびに、隆弘はため息を漏らす。
あんな格好は他人に不快感をもたらすだけだ。
見ている方まで暑苦しくなってくる。
その点自分はどうだ。
ショーウインドウのガラスに映った自分の姿に、隆弘は満足気に笑みを漏らす。
真夏の暑さに汗のひとつもかいていない涼しげな男。
どんな時も余裕を持って行動しているから、この暑さの中を歩を速めることもない。
いつもスマートでクールな男。
隆弘はキュッとネクタイを締め直すと、実は汗まみれになっている身体をスーツに隠し、次の営業先へと気持ちを向けた。








***   ***   ***








「隆弘さんはどの季節が好きですか?」
そう尋ねたのは、隆弘の大切な大切な恋人である凛だ。
サラリーマンの隆弘とベーカリーショップに勤める凛の休日が珍しくかち合った夏の午後。
エアコンの効いた隆弘のマンションで素麺をすすっていたときだった。
テレビでは、何とかという女優とお笑い芸人が出演している旅番組を放映していた。
隆弘も凛も生活の中においてテレビというものに重要性を感じていない。
だからふたりでいるときにはほとんどテレビをつけることはないのだが、その日は凛が訪ねてくる前に何となくつけておいたのがそのままになっていたのだ。
重要性を感じていないから、テレビがついていてもふたりはあまり気にならないし、真剣に画面を見ているわけでもない。
たわいのない話をしながらのんびり時間を過ごすのが、ふたりの常だった。
それなのに今日の凛はテレビに意識を向けていた。
そういえば以前、いつかは海外旅行してみたいと行っていたっけ、と隆弘は記憶を巡らせた。
生い立ち上、海外旅行はおろか国内旅行さえもまともに経験したことがないらしい。
高校の修学旅行は海外だったらしいが、公立でさえかなりの積立金を要したらしく、凛は欠席せざるを得なかったそうだ。
いつだったか、凛の部屋に旅行会社のパンフが数冊置かれているのを発見し、隆弘に相談もなしに旅行の計画があるのかと少し疑問に思いながら尋ねてみれば、眺めているだけでいろんな場所に行った気分になるから、と笑って答えていた。
隆弘は、凛の日々の暮らしが楽ではないことを知っている。
慎ましやかに毎日を送り、その中から少しずつ貯金を捻出していることも。
旅行なんていくらでも連れていってやる、隆弘は凛にそう言いたいけれど、言い出せずにいた。
凛が嫌がるような気がしたから。
なんでもしてやりたい、凛が望むことはなんでもかなえてやりたい、隆弘はいつも心に思っているが、それらを上手に実行することはかなり難しい。
「ここの国には四季がないんだって」
「へぇ〜」
どうやらそこは赤道近くの南国の島らしい。
「四季がなくて年中暑いってのはそれなりに便利かもな。Tシャツと短パンさえありゃいいわけだろ?季節ごとに服を買う必要もないし」
とは言ってみたものの、夏が嫌いな隆弘にとっては、1年365日暑いなんて気が狂いそうだ。
隆弘はどちらかというと寒いほうが好きだ。寒ければその分着込めばいい。下着にシャツ、セーターにスーツ、そしてコート。襟元が寒ければマフラー。何なら身体中にカイロを貼り付けてもかまわない。寒さ対策なんてどうにでもなる。
しかし、暑いのはどうだ。脱ぐにも限度があるし、とにかく不快だ。冷房の効いた場所は限られていて、長居をすると身体に悪い。
夏なんてなければいいのにと、隆弘はずっと思っていた。
春が過ぎ梅雨の季節になると憂鬱になる。一番嫌いな季節がやってくるかと思うとげんなりしてしまうのだ。
あぁ冷たい風と真っ白い雪が懐かしい。
それに冬の季節には凛との想い出が詰まっている。
クリスマス然り。バレンタイン然り。
冷たい空気の中、頬をピンクに染めて白い息を吐く凛はおそろしいほど可愛い。
触れる肌は温かく、隆弘の心も身体も温めてくれた。
あれから、恋人同士のスキンシップはかかさないが、やはりあの時のことを思い出すと隆弘はにやけてしまう。
おれは冬が好きだなぁ、そう言おうとするより先に、凛が口を開いた。
「おれ、夏って好きなんです」
隆弘は慌てて口を閉じた。
散々嫌いだと心の中で繰り返していた夏という季節を、凛は好きだという。
心の中までバレていないだろうが、隆弘はドキッとしてしまう。
素麺を掬おうとしていた箸を止めて、凛を見やった。
そんな隆弘の様子に気付くこともなく、凛は続ける。
「小さいころ、夏祭りに連れていってもらったんです。もちろん施設の先生にだけれども」
凛は独り立ちするまで施設で育った。物心ついた頃にはすでに父親はおらず、母親にも捨てられたらしい。
自分の生い立ちについて話してくれた凛は、それらを全て認め消化しているような笑みを浮かべていたけれども、逆に隆弘はそれが切なく、そんな凛に愛しさを感じたのだった。
「すごく楽しかった。イカ焼きの香ばしい香りとか、ふわふわ揺れる綿飴とか。金魚すくいもヨーヨーつりもみんな真剣で見てるだけでわくわくしちゃいました」
楽しかった風景を思い出しているのか、凛はクスリと笑う。
「その日はね、1年で唯一お小遣いがもらえるんです。たった100円だけれど嬉しかった。どんな使い方をしてもいいんですよ?って100円じゃ使い道なんて限られてるんですけどね」
笑う凛に隆弘が尋ねる。
「で、凛は何に使ったんだ?」
隆弘の問いに、凛は笑みを浮かべたものの答えてくれなかった。
「ただね、楽しかったけど、やっぱり寂しかった。仲間が一緒でも、先生が一緒でも、お父さんと仲よさそうに金魚すくいをしている子や、お母さんに綿飴を買ってもらっている子を見ると、やっぱり自分たちは違うんだって、現実を見せつけられた気がして、帰り道はなんだか沈んじゃって」
先生が気の毒だったな、なんて苦笑いすると、凛は素麺をつるつると流し込んだ。








***   ***   ***








それは当たり前の感情なんじゃないかと隆弘は思う。
親に捨てられたという事実を受け入れていても、やはり親は親なのだ。
隆弘の両親は健在だ。兄夫婦と孫と共に暮らしている。
夕飯は毎日家族で、なんていうほど仲の良い家族ではなかったし、どちらかというと放任主義だったように思う。
しかし、学校行事には欠かさず参加してくれたし、夏休みには家族旅行にでかけた。それは隆弘が高校生になるまで続いた。
写真が趣味だった父親とフォトハイキングに出かけたこともある。
今でも数ヶ月に一回連絡を取ればいいほうだし、盆正月くらいしか帰省することもない。
それでも、いざ何かがあったときに還る場所があるという事実は、隆弘に何かしらの安心感を与えてくれていることは否めない。
帰省すれば父親や兄と酒を飲み交わし、母親の話を聞いてやる。
一緒に暮らしていなくても、年に数回しか会わなくても、隆弘にとってはかけがえのないものだ。
それが、凛にはない。
施設が凛にとってはそれに変わるものだのだろうけれども、そこはすでに凛の還る場所ではない。
還る場所も、頼る人もいない凛は、たったひとりで踏ん張っている。
そのことを考えるたびに、隆弘の胸が痛みで疼く。
おれを頼れ、おれに寄りかかれ、そう言いたくなる。
決して同情ではない。
どちからというと隆弘は、人間関係というものにクールな性質で、利己主義的な面を持っている。自分でも自覚している。
そんな自分を薄情だとは思わないし、嫌いではない。
それなのに、どうしてだか凛に惹かれた。
施設育ちだとか、孤独だとか、負の部分を持ちながら、それらをすべて受け入れて、前を向いて生きている。
決して見せかけではない笑顔は隆弘を幸せな気分にしてくれる。
その笑顔をずっとずっと見ていられるように。それが隆弘の願いだった。
だから、何でもしてやりたいのだ。
ごく一般家庭に育った子供ならば経験済みであろうことを、凛は知らない。
はぐれないように手をつないで、並んだ露店をひやかしながら歩く親子連れ。
夏祭りはいつもより開放感を与えるのか、ねだる子供の我侭をこの日ばかりは聞いてしまう親たち。
りんご飴にカキ氷。ビニール袋の中で揺れている金魚たち。
当たり前の夏の情景の中に、凛はいない。
それなら自分が、と隆弘は思った。
ちょうど2週間後、隆弘の勤務先のある街では花火大会がある。
会場へ続く道はたくさんの露店で埋め尽くされ、たいそうな人出になるこのイベントは、この土地では有名な夏の風物詩だ。
(絶対残業なんてしてやらねぇからな!!!)
クリスマスイブの苦い記憶が甦り、隆弘は何があっても定時退社することを心に誓った。








***   ***   ***








(か、かわいいっ!!!)
花火の打ち上げが始まるまでの時間を、隆弘と凛は露店めぐりで過ごした。
思った以上の人出でないのは、誰もが花火のビューポイントで場所取りをしているからだろう。
打ち上げ終了後はこの道も食べ物を求める人でいっぱいになるに違いない。
昔ながらの綿菓子をはむはむと味わっている凛は殺人的にかわいい。
しかも今日は浴衣なのだから、かわいさも倍増だ。
凛の着ている浴衣は、隆弘がチョイスしたものだ。
浴衣の着付けなんでできやしない隆弘は、凛の働き先であるベーカリーショップの店長婦人を頼った。
もとから客であった隆弘は、経営者である高城夫妻と面識はあった。
凛と付き合うようになってからは、会えば言葉を交わすようになったし、なんとなくではあるが、夫妻は隆弘と凛との関係に気付いている気がしていた。
歳の離れた友達・・・で片付けてしまうにはいささか歳が離れすぎている。
いくら夫妻のことを信用しているからといって凛が隆弘との関係わざわざ話すとも考えられないから、おそらく気付かないうちにそういうオーラがでているのかもしれないと隆弘は思っていた。
別に関係がバレたからといって、隆弘が困ることはひとつもない。
むしろ凛がこれからも世話になるだろう人たちに保護者面できるのも悪くない。
彼女は二つ返事で引き受けてくれて、凛だけでなく隆弘にまで浴衣を着付けてくれることになった。
隆弘はすぐさま凛と自分の浴衣を買い求めた。もちろん下駄から帯から一式だ。
「隆弘さん、金魚すくいしようよ!」
綿菓子を食べ終わり、はしゃぐ凛を見ていると隆弘まで心が躍る。
凛は低い水槽の向こうに座っている年配の男性に小銭を支払うと、小さなお椀とポイと呼ばれる金魚を掬う道具を2人分受け取った。
「はい、隆弘さん」
「よしっ、やるか」
袂をまくってやる気を見せると、凛が楽しげに笑い声を上げる。
水槽の中を覗き込むと、ほとんどが小さく赤い金魚で、水の中を素早い動きで行き交っている。
その中をポツポツと黒出目金が様子をうかがうようにじっとしている。
隆弘はさっと水槽全体に目を走らせると、まずは隅っこでじっとしている小さな金魚に狙いを定めた。
ポイを水面と平行にしてなるべく紙が濡れないように注意を払いながら、頭から金魚を救い上げると、金魚はスルリとお椀へと滑り落ちた。
ポイはほんの少し濡れただけた。
そのまま調子にのって、隆弘は狙いをつけた金魚を片っ端から掬いあげてゆく。
狙った獲物が自分の意思通り捕獲される様に爽快さを感じ、どんどん夢中になった。
視線を感じてみれば、凛が隆弘の手元をくいるように見つめていた。
その表情は、興奮で目がキラキラと輝いていた。
「スゴイスゴイ!隆弘さんスゴイ!!」
「そ、そうか?」
褒められて悪い気はしないが、子供じみて夢中になってしまったことを考えると、恥ずかしさが先にたつ。
気がつけば、お椀の中は金魚でいっぱいになっていた。
「凛は?」
照れを隠すように凛のお椀を覗くと、透明の水しか入っていなかった。
手には輪っかしか残っていない無残なポイ。
「おれ、初めてだから、要領とかよくわかんなくて。一発で破れちゃった」
視線が合うと、凛は恥ずかしそうにうつむいた。
「凛・・・・・・」
隆弘はひとり夢中で金魚すくいに没頭してしまったことを悔いた。
(おれって大人げなさすぎじゃないか)
「おっちゃん、もう1回ね」
隆弘はポイを受け取ると凛に手渡す。
「ほら、凛、おれが教えてやるから」
ニコリと笑いかけ、隆弘は凛の背中から手を回して、凛の右手に手を添えた。
身体が密着しても全く暑さは感じないのは、相手が凛だからだ。
「た、隆弘さんっ!変に思われるって」
困った様が可愛くて、驚いて身じろぐ凛をさらにぐっと引き寄せた。
「大丈夫だって。ほら、こっちに集中して」
握った手に力をこめると、凛も観念したように、水面に視線を落とした。
恥ずかしさよりも金魚すくいへの興味のほうが勝ったということなのだろう。
「すばしっこいのじゃなくて、おとなしくじっとしているのを狙うんだ。力を入れずにやわらかく、水面と平行に・・・そうそう、掬い上げるのは頭からな。尻尾は跳ねるから破れやすい・・・ほら、取れた!」
「隆弘さんっ、出来た!!!」
「次は、この隅っこの・・・・・・そうそう上手いじゃないか。じゃ今度はひとりでやってみろ・・・・・・上手い上手い!」
凛はポイをだめにすることなく、立て続けに5匹を掬い上げた。
「隆弘さん、こんなに取れたよ!」
嬉しそうにお椀を見せる凛は満面の笑みを浮かべている。
「今度は、あのでっかい黒出目金を・・・・・・・あっ、やっぱダメだ・・・・・・」
この水槽の親分のような黒い出目金は、中央あたりを気持ちよさそうに泳いでいた。さすがにそう簡単にはいかないようだ。
だいたいどう見ても、あの質量でこのポイがもつとは思えない。
「欲張っちゃだめだね、初心者なのに」
残念そうな凛の表情が隆弘の闘志に火をつけた。
「凛、おれにまかせろ。オッサン、もうひとつ追加!」
おっちゃんがオッサンに変わっていることに気付かず、隆弘はポイを受け取ると、中央に狙いを定める。
隆弘に狙われていることを知ってか知らずか、黒出目金はふてぶてしい態度で水中に佇んでいた。
慎重に慎重を重ねて水面にポイを近づけると、黒い物体ははプイとそっぽを向いて移動してしまう。
それを何度か繰り返しながらチャンスを狙い、隅に追い詰めてから、隆弘は掬いにかかった。
「あぁっ」
凛の小さな悲鳴と同時にポイは無残に敗れ、出目金はスイスイと気持ちよさそうに場所を移動していた。
「クソッ、オッサン追加!!!」
小銭を投げるように渡すと、憎き黒い敵を睨み付ける。
隆弘は意地になっていた。
最初は凛にいいところを見せたいとか邪な感情が動機だったけれども、今では黒出目金を捕獲することしか考えられなくなっていた。
「よっしゃ!!!!!!」
ガッツポーズを決めたころには破れたポイが片隅で山積みになっていた。

「隆弘さんって、結構熱い人だったんだ」
コロコロと凛が笑う。
その手には小さな赤い金魚の袋と、大きな黒出目金の袋。
「おまえ、とうとう捕まっちゃったな」
目の高さに掲げて、凛は出目金に語りかけていた。
「隆弘さんてば途中から殺気立ってたし」
「悪い」
負けず嫌いな性格が災いして夢中になりすぎてしまった。
途中からは明らかに傍らの凛の存在を忘れていた。
凛の前ではクールでカッコイイ男でいたかったのに熱くなりすぎてしまった。おまけにここには凛を楽しませるために来たはずなのに、その凛をほっぽって自分が夢中になってしまった。
そのことが恥ずかしく後悔の念にかられてしまう。
「だけど、かわいかった」
「か、かわいい・・・?」
生まれてこのかた言われたことのない言葉で表現されて、隆弘は声が裏返ってしまった。
かわいいかわいい凛にまさかかわいいと言われるとは思ってもみなくて、隆弘は返す言葉を失ってしまう。
「必死に金魚追っかけてる隆弘さん、子供みたいでかわいかった」
追い討ちをかけるようにもう一度言葉を綴って隆弘に微笑みかけると、凛は「とうもろこし食べよう」と隆弘の袖を引っ張った。








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