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その31







「陽人くん、ほら、タイが曲がってるわよ」
智美に指摘されて、陽人は苦笑いしながら、もう一度鏡でチェックした。
黒いタキシードに身を包んだ自分の表情がさすがに強張っているのがわかる。
「さ、これ飲んで、肩の力抜いて」
紙コップの中にはこげ茶色の液体。陽人の大好きなショコラだ。
「ありがと、智美さん」
礼を言って、陽人はそれを手にとって口に運んだ。
全国チェーンのカフェで売っているショコラは、いつもと変わらない味で、陽人を少しだけ和ませた。
高校を卒業して、音大に進んだ陽人は、めきめきとその才能を開花させた。
もともとヴァイオリンの技術は持っていたものの、メンタル的な問題から陽人は目立つ存在ではなかった。
しかし、家族と離れ、一人で暮らす毎日の中で、陽人の中で明らかに何かが変わった。
大学とマンションを往復するだけの生活。
十分すぎるほどの親の援助で、防音効果抜群の部屋を借りることができたし、アルバイトの必要性もなかった。
もともと物欲もないから、日常生活での無駄遣いもしなかったし、思う存分ヴァイオリンに打ち込めた。
指導教授との相性がよかったのも影響している。
所属する全ての人間が音楽を志す音大の中で、出来のいい学生というのはあらぬ妬みを買ったりすることも多いが、陽人は違った。
陽人の奏でるヴァイオリンの音色に魅了される人間のほうが圧倒的に多く、陽人はいつも人に囲まれていた。
学生たちの間で『癒しの王子』と呼ばれていたことを陽人は知らないのだが。
大好きな音楽の世界で、陽人は充実した日々を過ごした。
弦楽器の重奏や他楽器とのセッション、学生オーケストラとの共演など、あらゆる経験を積み、それをソロでの演奏に生かす。
確実に広がる世界の中で、陽人は自分の音楽を確立していったのだった。
レッスンの成果を披露する学内での発表会は、いつも学生たちでいっぱいになった。
そのうち学外からも演奏会の依頼が舞い込み、陽人はそれらに精力的に参加した。
何よりヴァイオリンが好きだったし、聞いてもらえるのが嬉しかった。
コンクールのたびに緊張のあまり指が引きつってしまい失敗を重ねた自分が嘘のようだった。
教授の勧めで参加したコンクールで本選に進み、惜しくも第2位だったが、観客の投票で決まる聴衆章を受賞したときには信じられなかった。
海外への短期留学にも参加したし、音楽に対しては貪欲に挑むようになった。
海外の著名な演奏家のレッスンも体験した。
そして昨年、毎年薦められてはいたものの自信がなくて固辞していた海外のコンクールに、卒業年の思い出にと出場したところ、見事第1位を獲得してしまったのだった。
世界的に有名なコンクールではなかったけれど、歴史も古く権威あるコンクールだったため、新聞にも小さく掲載された。
それからは驚くほどの忙しさだった。
ゲスト出演の依頼がひっきりなしに舞い込んだ。
ルックスのいい陽人にマスコミが食いついたのも仕方のないことだ。
空前の『王子ブーム』に乗っかることになってしまった。
もともと上品ですっきりした顔立ちだから、それはどの『王子』よりも王子らしく、またそれがクラックに興味もない層まで取り込むことになった。
それでも大学卒業までは学生なのだから気を引き締めないとと自戒していたのだが、周りが放っておくはずがない。
卒業と同時に、クラシック演奏家を多く抱えるマネージメント事務所と契約することとなった。
契約の際、陽人はひとつだけ条件を出した。
拠点を海外に移すため、頻繁に日本での演奏会に出演することができないことだ。
もともと卒業したら海外で腰をすえて勉強したいと考えていた。
大学を卒業してからの海外留学は遅いくらいだ。在学中にも長期留学を進められたが、毎日があまりに充実していて、躊躇っているうちに卒業を迎えることになってしまったのだ。
その矢先、コンクールで陽人の演奏を聞いた審査員のひとりが、自分が教鞭を取っている学校に陽人を招聘したいと申し出てくれたのだ。
それはヨーロッパでも著名な指導者で、あまりに光栄な誘いを、陽人が断る理由がなかった。
数ヵ月後、陽人はヨーロッパへと旅立つ。
演奏会の予定が入れば帰ってくるつもりだけれど、それも年に数回に留めるつもりだ。
大学の4年間、陽人は音楽とヴァイオリンのことだけを考えて毎日を過ごしてきた。
帰る場所もない自分は、ここで生きていくしかなかったから。
できるだけ余計なことは考えずに、ひたすらレッスンに打ち込んだ。
そして、どうしてもやりきれない想いは、ヴァイオリンの調べに乗せた。
悲哀、憧憬、熱い想いは音楽に乗り、陽人の魂を揺さぶり、聴衆の心を震わせた。
そして、今の陽人がいるのだ。
マネージメント事務所は、陽人の条件を飲むかわりに、逆に条件を提示した。
陽人の初リサイタルを渡航前に行なうことだった。
陽人はその条件を受け入れ、契約書にサインをした。
場所として生まれ故郷も候補に挙がったが、それは陽人が拒否した。
あそこにはもう帰らないと固く誓っていたから。
結局、やはり故郷の近くがいいだろうと、少し離れた街に決定した。
どれだけ話題になっていても、ジャンルがクラシックだけあってどれほど集客できるかわからない。
その点陽人のことを知る人が多い場所ならば、格好がつくほどには客も入るだろうと事務所も考えたのだろう。
加えてちょうど数年前に建設されたばかりの小さいけれどもクラシック専門ホールがそこにはあった。
メディアの露出が多いといってもそれはクラシック界での比較であって、他のジャンルに比べれば知名度は確実に低いからと、演奏会は小ホールで開催されることになったが、いろいろな心配をよそにチケットは即日完売した。
陽人にとって初めての単独リサイタルだった。
チケットには陽人の名前しか印刷されていない。
チケットを購入した人はみんな陽人の演奏を聞きにくるのだ。
演奏会は何度もこなしてきたけれど、いつも他の演奏家と一緒だったから、気が楽だったのは否めない。
だから、リサイタルが決定した瞬間から、陽人は気合いをいれまくった。
ピアノ伴奏は気心の知れた大学の友人に依頼した。彼は快く引き受けてくれた。
それからは充実した日を過ごした。曲目も決まり、順調だった。
1週間前までは。
陽人はショコラ色の液体をじっと見つめていた。















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