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その1






窓の外は見慣れた町並み。
いつもは何も考えずボーっと眺めていればよかったのに、今日の陽人(あきと)はハラハラしていた。
ど、どうしよう・・・・・・
どうしようもなにも、たった一言、どうぞ、と口にするだけなのだ。
しかし、陽人にとってそれは泳げないのに海に飛び込むくらい勇気のいる行為だった。
この路線は比較的利用者も少なく、乗客はほぼ全員座ることができるのが常だが、なぜか今日は途中からどんどん乗客が増え始め、座席は全て埋め尽くされていた。
そこへきて、少し年配の女性が乗ってきたかと思えば、陽人のすぐそばに立ったのだ。
席を譲るべきなのだろうか、でもまださほど歳を取っているようには見えないと、陽人は頭を悩ませた。
もともとおとなしい性分で、思ったことをなかなか口にできない。それに加えて先日、このバスではないが通学途中の電車の中で、勇気を振り絞って席を譲ろうとしたらば、まだそんな歳ではない、と年配の男性に喝を入れられ立ち竦んでしまったという経験をしていた。
今回は男性ではなく女性だし、電車と違って揺れも酷い。
それでも、もし断られたらと思うと、どうしても声をかけることができず、そのうちタイミングを逃してしまった。
こういうことは、時間をかければかけるほど言い出しづらくなることくらいわかっているのに。
そのうち周りの視線が気になり始めた。
なんて気の聞かない子なんだろう、すぐそばに年配の女性を立たせて平気なのか、みんながそう思っているんじゃないかと思うと居たたまれなくなる。
陽人はそんな視線を堂々と受け止めることができるほど、神経が図太くない。
あと、目的地の停留所までは3つ。数分の我慢なのだが、陽人には限界だった。
降車ボタンを押すと、ちょうど停留所が見えたところで、運良くすぐにバスが止まった。
陽人は慌てて席を立つと、バスを降りた。
ブルルルとエンジン音を響かせてバスが去っていくのを見送ると、やっとほっと一息つくことができた。





昨日から今朝まで降り続いた残雪の残る歩道を、バスが走り去った方向へと歩いてゆく。
暦の上ではすでに春だというのに、この寒さはいったいなんなんだろう。
冷たい風にブルッと身体を震わせると、学校指定のコートの襟をギュッと合わせた。
かじかんで思うように動かなくなっている大事な指先を口元に持っていくと、温めるように息をかける。
今朝家を出てから手袋を忘れたことに気付いたのだが、寝坊して遅刻しかけていたため取りに戻るのを止めたのだ。
きっとまた先生におこられてしまう・・・・・・
怒られるならまだしも、呆れたようにため息をつく教師の顔を思い浮かべると、陽人は持っていた荷物を・・・・・・
普段から白い陽人の顔色が、真っ青に一変した。
バ、バスの中に忘れちゃったんだ・・・・・・!
慌てて降りたのが原因だが、それにしてもあんな大事なものをバスの中に残してくるなんて!
どうしよう、どうすればいいのだろうと、頭の中をいろんなことがぐるぐる回る。
あのバスの終着はどこだったっけ?とにかくバス会社に連絡しなくちゃ・・・その前に先生のところに・・・・・・
ケータイを取り出そうとカバンを持ち直すと、かじかむ指先に手がすべり、人に踏まれてぐちゃぐちゃに濡れている雪の上に中味がバサリと散らばった。
「あっ・・・」
慌てて拾い集めるも、すっかり濡れてしまっている。
ポケットからハンカチを取り出すと、テキストだけはと丁寧に水気を拭き取り、カバーをかけていてよかったとホッと胸を撫で下ろしたときだった。
「あ〜よかった!これ、きみのだろ?」
歩道にしゃがみこんだ陽人の頭上で、ハアハアという乱れた息まじりにする声は、少し低めの優しい響きだ。
驚いて顔をあげると、そこには、何よりも大事なバイオリンケースがあった。
「あっ・・・・・・・」
慌てて立ち上がり目を見張る。
目の前に差し出されたそれはまぎれもなく陽人のものだったのだ。
思わず手を差し出すとそれを受け取り、胸に抱え込んだ。
「とっても大事なものみたいだね」
声の主は、まわりの空気を白く染めながら、陽人に微笑みかけた。
その笑顔は、忘れ物が持ち主に戻ったことを心から喜んでくれている、とても穏やかな笑顔だった。
「きみ、乗ってきたとき、とても大事そうに窓側に立てかけただろ?なのに、すっかり忘れて慌てて降りてくもんだから、おれも焦ったよ」
「もしかして・・・次で降りて戻ってきてくれたんですか?」
「そんなの、たいした距離じゃないよ。それよりホントよかった」
笑顔を絶やさない男は私服姿で、年上に見えるが大学生だろうか。
全くの平均身長の陽人よりも視線は上にあり、少し見下ろされている感じがする。
「これからレッスン?」
陽人が頷くと、どうしてかその青年は残念そうな表情を見せた。
しかしそれはほんの一瞬のことで、すぐに青年は穏やかな笑みを浮かべると、自分の嵌めていた手袋を陽人に差し出した。
「これ、使いなよ」
「えっ・・・?」
突然の申し出に陽人はどう返事をしていいのかわからず、青年の顔を見上げた。
「指、冷やすといけないんだろ?なのに手袋を忘れた・・・違う?」
ほら、と、バイオリンケースを抱きしめた陽人の手を取ると、それを強引に嵌める。
青年の指先は温かく心地よく、わけもなく陽人の鼓動が早まった。
モスグリーンの細い毛糸で編みこまれた手袋は陽人には大きかったが、青年はそんなこと気にする様子もない。
そして陽人も、どうして自分はされるがまま、反抗しないのか不思議だった。
「バスの中でずっと指先温めただろ?」
「でも・・・」
「いいから。もうすぐ冬も終わりだし返せなんていわないから。ほら、そろそろ行かないとレッスンに遅れるんじゃないか?」
慌てて時計を見ると、レッスンまであと15分だった。ギリギリってところだ。
「あ、バスが来た。じゃあね。レッスン頑張って」
ポンと陽人の肩を叩くと、丁度やってきたバスに乗るために、青年は器用に残雪の道を駆け出した。
「あ、あのっ!」
いくら何でも貰うわけにはいかないから、連絡先だけでも聞こうと陽人は叫んだけれど間に合わず、青年はバスに乗り込んで、笑顔で陽人に手を振っていた。
優しい、眩しい笑顔に、陽人は言いようのないトキメキを覚えた。






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