love you only





後編






「優―――……っ」
耳に馴染んだ声で呼ばれて、ぼくは我に返った。
どれだけとろとろ歩いてたんだろう。
先輩のバイト先のお店からそんなに遠く離れていなかった。
振り返れば制服姿の先輩。
やっぱりかっこいいな〜とぼくは見惚れてしまった。
黙ったままのぼくに先輩は笑顔をくれる。
「優のこと知ってるヤツがいてさ。店を覗いてたって聞いたから……ランチ食いに来てくれたのか?」
笑いながら、さっき一緒に食ったんだったな、と呟いている。
ぼくがケータイを届けにきたとは思ってもみないようだ。
「先輩、これ」
ケータイを差し出すと驚いた顔でぼくを見た。
「テーブルの上に先輩のケータイ見つけて。ないと困るかなって思ったから」
「わざわざ届けてくれたのか?」
「あ、見たい参考書あったから」
「昨日本屋に行ったじゃないか」
「え、あっ…と、そ、そう、友樹が、いいやつがあるって。メールくれたからそれで……」
先輩に気を遣わせたくなかったけれど、いいわけめいたぼくの口調に先輩はすぐに気付いてしまったのだろう、口元に笑みを浮かべながら、ケータイを受け取った。
「そっか、助かったよ。ありがとう」
こんなときさらっと流してくれるのが先輩の優しさだ。
ほんの少し前別れたばかりなのに、会えてとても嬉しくて、離れがたくなってしまう。
だけど、先輩はバイト中だ。
早くお店に戻らないといけない。
先輩に関心を持っている、彼女たちのところへ……
「じゃ、ぼく、帰ります。バイト頑張ってください」
これ以上引き留めてはおけないから、ぼくはペコリと頭を下げると、その場を後にしようとした。
「優」
腕を取られてそのまま細い路地へと引っ張られてゆく。
雑貨店とヘアサロンの間の隙間の太陽の光も届かない薄暗い場所。
そして、あっという間にその広い胸に捕らわれてしまった。
「せ、せんぱ……」
びっくりして身体を引こうとしたけれど、さらに強く抱き締められる。
左手で腰を、右手でうなじから後頭部のあたりをホールドされれば身動きができない。
今日のランチの材料だろうか。
顔を押し付けた制服からは微かにガーリックの香りがした。





***   ***   ***





「なんか…嫌なことでもあった?」
びっくりして顔を上げると、探るような視線の先輩と目が合う。
気をつけていたはずなのに、気持ちが表情に出てしまったのだろうか。
「どうしてですか?何にもないですよ」
笑顔を浮かべてまっすぐに先輩を見ようとしたのに…失敗してしまった。
ほんの少し視線をそらせてしまったのだ。
先輩は、ぼくの考えていることを驚くほど読んでしまう。
何か特殊な力があるんじゃないかと言うくらいに。
一度そんなふうに言ってみたら「優限定だよ」って囁かれてぼくは真っ赤になってしまったことがある。
だから、ぼくには先輩を騙す…と言えば言葉が悪いけど、先輩を欺くことはできないだろう自覚はあった。
それこそ気合を入れて、凄い覚悟を持たないとダメだろうと思っていた。
今みたいに視線を逸らせば、何かあったと、先輩の読みは正しいと言っているようなものだ。
「優……」
ここが薄暗い路地でよかったと思った。
きっと今ぼくは情けない表情をしていることだろう。
そんな顔を先輩には見られたくない。
あまりにさもない、先輩に知られたくないぼくの感情の揺れが理由が原因なのだから。
「優……」
優しく名前を呼ばれたと同時に、頬に馴染んだぬくもりを感じた。
慈しむように指先で肌を撫でられ、むくむくと蟠った感情がせりあがってくる。
「何が不安なんだ……?」
ぼくの髪に口元を埋めて、先輩が囁く。
ドキリとした。
決して悲しい表情を表に出してはいないはずだ。
なのにどうして……
「優……」
少し切なげに名前を呼ばれて、次の瞬間、先輩の顔が近づいてきた。
キスの予感に自然と目を閉じる。
「……ンっ……」
先輩のくれるキスはただくちびるをくっつけ合うだけのものじゃない。
優しさや愛おしさ、それにたくさんの愛情エキスが含まれている。
ここはふたりきりの世界じゃない。
数メートル歩けば人や車が行き交う、ぼくたちの生活の場所だ。
だけどぼくは拒まなかった。
大好きな先輩の腕の中で、この瞬間はぼくだけに注がれている愛情を、思う存分受け止めたかったから。
情欲を湧きあがらせるような深いキスではなく、互いの存在を確かめ合うような小さなキスを何度か交し合い、ぼくは先輩の胸におでこを強くこすりつけた。
いつだって不安だらけだ。
思いがけず手に入れた幸せを手放すことが怖くてたまらない。
その時の覚悟は出来ているつもりだけれど、その瞬間がいつやってくるか、ぼくはいつもその影に怯えている。
できればこの幸せの時間を、できるだけ長引かせたい。
そう祈りながら、見えない恐怖と対峙しているのだ。
そしてそんなぼくの気持ちを先輩に気付かれたくない。
先輩には情けないぼくの心情を知られたくないのだ。
先輩のそばではぼくはいつだって笑っていたいから。
だから顔を上げる。
「先輩今日は6時に上がれるんですよね?」
「あ、うん」
「先輩の大好きなビーフシチュー作っておきますから…早く帰ってきてください」
最後に先輩の手をギュッと握り締めると、先輩も握り返してくれた。
「先輩、バイトに戻らないと」
腑に落ちない表情を残す先輩の背中を押して通りへと出ると、少し遠くで先輩と同じ制服を着た男性がきょろきょろとを辺りを見まわしていた。
「ほら、先輩行方不明になっちゃってる」
そう言うぼくを、先輩は探るようにじっと見つめるから、困ってしまった。
「三上〜」
どうやら見つかったようで、先輩を呼ぶ声が聞こえた。
「じゃあ、おれ行くわ」
諦めたような口調に、ぼくは心底ホッとした。
バイトに戻る先輩の背中を見送りながら、ぼくは自分の甘さを実感していた。
こんなことじゃ先輩に心配ばかりかけてしまう。
迷惑ばかりかけてしまう……
先輩が誰と付き合おうと自由なのだから、ぼくが気を病む必要はないのだ。
ぼくといる時間だけでも、ぼくのことを考えていてくれれば本望なのだから。
どんどん贅沢になってゆく感情を遠くへ追いやって、ぼくは帰途についた。
おいしいビーフシチューを作ること。
ただそれだけを考えるようにして。

                                                                       





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