love you only





前編






「あ……」
食べ終わった食器を片付けて、ふとダイニングテーブルに目をやって気がついた。
「先輩、ケータイ忘れちゃってる……」
時計を見れば11時過ぎ。
先輩が出かけてからすでに30分以上経過している。
先輩がバイトしているカフェは、この界隈ではとても人気のカフェだ。
特に土曜日限定ランチプレートは、多種の野菜がふんだんに使われた色鮮やかなサラダと数種類から選べるパスタ、そして季節のドルチェとドリンクがついて1000円という安さで大人気だ。もちろん味の方も格別だと大評判で、11時半の開店と同時に行列ができるほどである。
先月から先輩はそのカフェでバイトを始めた。
人気店だからかバイトの人数も多いらしく、個々の希望に合わせてきっちりシフトが組まれている。
今日は僕もバイトの予定だったんだけれど、急遽明日の日曜とシフト変更になってしまった。
僕たちは、できるだけ同じ時間を過ごせるようにバイトのシフトも極力同じにしてある。
だから今日は、ふたりで家でゆっくり過ごす予定だった。
外に遊びに出ることもあるけれど、どちらかというと家で過ごすほうが、僕も先輩も好きだ。
お母さんが気に入っていた庭の手入れをしたり、先輩が曲作りをしている隣りで読書をしたり。
もちろん、受験生の僕は勉強の時間もきっちり取っているし、とても頼りになる人がそばにいるから安心だ。
この時期になって、先輩は「勉強しろ」と少しうるさいくらいなのだ。
バイトについてもそろそろ考えないといけないなぁと自分でも思っている。
だから、先輩が出かけてしまったら、今日は一日受験勉強に集中しようと思っていた。
先輩と一緒にいられるのはとても嬉しいことだけれど、やっぱりそばにいるといろんなことを考えてしまうのが本音なのだ。
「ケータイないと困るだろうな……」
バイト中に使用することはないだろうけれど、このご時世、ケータイがないと困ることも多い。
僕だってうっかりケータイを忘れてしまった日は、なんだか心もとない。
今日は外もポカポカ陽気だ。
先輩が帰ってくる時間までずっと家にこもっているのももったいない気がする。
僕は先輩のバイト先にケータイを届けることにした。





***   ***   ***





例年より梅雨入りが遅れているようで、じめじめした鬱陶しさはないが、薄く汗ばむ程度には夏が近づいているような陽気だった。
いつもは自転車を利用している駅までの道を、今日は歩いてみる。
小さな空き地で姫女苑が白く清楚な姿をあらわしていた。
ゆらゆらと爽やかな風に揺られるのを眺めていると、今は亡き母のことを思い出してしまう。
植物が好きな人だった。
広い庭はマイホーム購入の際に無理を言ったらしく、いつも季節の花で鮮やかに色づいていた。
僕が小さな頃は、散歩しながら、道端に咲いている草花の名前をたくさん教えてくれた。
教えてもらった花を思い出しながら、姉と一緒に図鑑を眺めて過ごした。
母に影響されてか、父もガーデニングに凝り始め、休みの日にはホームセンターで買ってきた煉瓦で花壇を造っていた。
僕も姉も大きくなって、家族みんなで過ごす時間は減ったけれど、それでも家族の関係について取り沙汰される昨今、仲のよい家族だったと思う。
そんな家族−−−父も、母も、姉も…今はもういない。
あれから1年が経ち、独り残された生活にもようやく慣れ、事実を受け入れることができるようになった。
変わらずやってくる毎日に追われていれば、センチメンタルな気分になることも減ってきたように思う。
それでもこうやって思い出に触れてしまえば、やっぱり想いがこみあげてきて、胸が締め付けられる。
じんわり押し寄せる涙の予感に、ぼくはぐっとくちびるを噛み締めた。





ブブブブブ―――





突然バッグの中のケータイが震えた。
どちらのケータイだろうかと探ってみると、僕のケータイがブルブルと震えていた。
何かあった時のためにと教えてもらった先輩のバイト先が表示されていて、慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし」
『あっ、優か?』
先輩の声だ。
声を聞いただけで寂寥感が遠くへと逃げて行く。
代わりにじんわりと押し寄せる安堵感が心を温かくしてくれた。
「あ、はい」
『おれのケータイ見当たらないか?たぶんテーブルの上に忘れてると思うんだけど』
家に忘れたのか、途中で落としたのか、気になったらしい。
「はい、あります」
『そっか。それならいいんだ』
後ろで先輩を呼ぶ声がする。
届けに行くところだと告げようとしたが、「じゃあ」と切られてしまった。
どうやら想像以上に店は忙しいらしい。
どうしようかと迷ったけれど、お店の誰かに預ければいいだろうと、ぼくはそのままお店に向かうことにした。
それに少し興味があったのだ。
バイト中の先輩の姿に……
いつもとは違う、僕がまだ知らない先輩の姿を、垣間見てみたかったのだ。





***   ***   ***





お店はにぎやかな通りを抜けて路地を入った裏通りにひっそりとたたずんでいた。
一度だけ先輩と一緒に前を通ったことがある。
その時はまさか先輩がそこでバイトすることになるとは思ってなかったんだけれど。
赤茶けた煉瓦づくりに蔦が絡まるお店はとても雰囲気のある洋館建築で、観光地であるこの土地にとてもマッチしている。
以前は民家だったらしいのだが長年空家になっていたのを、なるべく外観には手を入れずに改装されたのだと先輩が言っていた。
最近は前面ガラスだったりとオープンな外観が当たり前だが、この店はステンドグラスの嵌った木のドアがあるだけで、中を覗き見ることはできない。
しかし、店の外には入店を待つ列ができていたから、今ごろは応対に追われているだろうと容易に予想できた。
どうしよう……
困るだろうからと勝手に判断してここまでやってきたものの、混雑時に来てしまったことを後悔した。
もっと時間を置いてからにすればよかったと思ってもあとのまつりだ。
このまま引き返そうか……
そうも思ったけれども、ぼくはどうしても先輩の顔が見たかった。
さっき別れたばかりだし、夜になったら会えるのに、一目でいいから顔が見たかった。
さっきいなくなった家族のことを思い出してしまったからだろうか。
ぼくの勝手なわがままだと自覚しているのに、どうしてもこのまま帰る気にはなれなかった。
近くの本屋ででも時間をつぶして出直すことにしよう。
あと1時間もしたら店の方も落ち着くだろうから。
そう決めて大通りへときびすを返したときだった。





「次のお客様は……」





あっ、先輩の声だ。
振りかえったぼくの瞳に映ったのは、ぼくの知らない先輩だった。
「おまえら、また来たのかよ」
先輩は数人の大学生らしき女の人に囲まれていた。
「なによ〜っ、それ、お客に向かってとる態度ぉ〜?」
「そうよぉ〜せっかく来てあげたのにぃ」
「誰も来てくれなんて頼んでないだろ?」
「またまたまたぁ〜、三上クンがバイトするようになってからお客が3割増だってウワサだよ?」
「そうそう!今日だって…あ、この子、三上クンのファンなのよ。ほら、憧れの三上くんだよ」
「わかったわかった。とにかく店に入ってくれ」
女の人たちは先輩に促されてきゃいきゃいと店内に消えていった。
ぼくはしばらくその場所から動くことができなかった。
立ちすくんだまま、先輩たちが消えて行ったお店のドアをじっと見つめたまま。
蔦の絡まる洋館。
洗練された制服がとっても似合うかっこいい先輩。
そしてその先輩を囲む同世代の女性たち。
それらがあまりに似合っていて、おしゃれな雑誌の1ページのようだった。
先輩がファンの女の子達に囲まれているのを目にしたことは数え切れないほどだし、ぼくはそんな先輩を誇らしげに思っていた。
先輩の音楽をたくさんの人たちが好きだと言ってくれることが嬉しかった。
だけど、今ぼくはとても淋しさを感じていた。
あれはきっと先輩のファンというよりも、大学の友達に違いない。
もちろん先輩の音楽も好きなんだろうけど、それ以上に先輩を一人の男性として意識しているはずだ。
そして彼女たちへの先輩の態度も、ファンの女の子たちへとは違い、気遣いなどがないように見うけられた。
そしてそのことがとても自然なことに思えたのだ。
先輩はぼくを好きだと言ってくれる。
その言葉を疑う気持ちなんて全くないし、ぼくだって先輩のことが好きで好きでたまらない。
だからこそ不安になる。
いつまで先輩がぼくを好きでいてくれるのか。
いつか普通に女性を好きになる日がくるのではないか。
そうなったら、ぼくはこの恋情をどこにやればいいのだろう。
先輩を過ごす楽しい毎日。
幸せすぎて怖いくらい満たされる日々。
ぼくは先輩のケータイを胸に握り締めた。
「お客さまは…おひとりですか?」
並んでいる客と間違えられたようで、先輩に代わって出てきた店員に問われてぼくは数歩後ずさりしてしまった。
「い、いえ、違います!」
ぼくは慌ててくるりと背を向けた。





***   ***   ***





嫌な気分……
ぼくは来た道をとぼとぼと引き返した。
先輩のそういう姿を見たことよりも、そういう風に卑屈に思ってしまう自分が嫌になる。
彼女たちが先輩に興味を持つのは、最初は目立つ外見だろうが、接するうちにだんだん中味に惹かれるのだろうと思う。
大学での先輩をぼくは知らないけれど、クールに見える外見とは裏腹に、優しいし面倒見がいい。
高校時代だっていつも人に囲まれてた。
だから、ぼくの中に湧きあがる感情は間違っている。
頭ではわかっているのに、心のもやもやが消えない。
そしてそのもやもやを消せない自分が嫌でたまらなくなる。
先輩が甘く囁いてくれる『好き』と言う言葉。
信じているからこそ、ふとした瞬間その言葉に影が落ちる。
ぼくは余計なことを考えまいとブルブルと頭を振って雑念を追い払おうとした。

                                                                       





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