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アヌビス神

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 3月 1日(月)03時28分26秒
返信・引用  編集済
  最近の一連の作業をお読みくださっている方はこの神様の名を何度かお聞きになったと思います(参考:ベルリン・パピルスの表)。ブルクシュが"「leprosy」の処方箋集"としている、そして私が「leprosy」は「wekhedu」の誤訳であると指摘している問題のブツは、アヌビス神の足の下から発見されました。

これはまあ偶然そこに有ったのだろうと思い込んでいたら、「いやそうではない!」という説が現われました。ROBERT O.STEUERAetiological Principle of Pyaemnia in Ancient Egyptian Medicine」の書評Grace C. Kimballという人が1948年に書いているのですが、それが面白いのです。この寸評の中には実は「wekhedu」についての一つの見解も示されているのでその面からも参考になります。

(前略)This paper is a study of the meaning of wḫdw, as used in the ancient Egyptian medical papyri. (The only hint that we could find for the pronunciation of this transliteration was the Germa word Uchedu.) The author arrives at the conclusion that wḫdw represents an agent of decay associated with the feces(排泄物), which might rise from the intestinal tract(腸管) through the blood vessels, and thus set up purulent abscesses(化膿性の潰瘍) in other parts of the body. The study was undertaken because the author was dissatisfied with the currently accepted translation of wḫdw as "pains".

(中略)The Egyptians apparently conceived of wḫdw as a destroying agent which acted upon the blood during life, and upon the corpse after death. This action can be prevented by appropriate therapy during life, and by mummification of the corpse. The close relation between putrefaction(化膿) and suppuration(腐敗) is indicated by several facts. For example, papyri relating to the treatment of wḫdw diseases were found beneath the statue of Anubis, the god of embalming.(後略)

 この論文は古代エジプトの医学パピルスで使われているwḫdwの意味を論考しています(この言葉の発音についての唯一のヒントはドイツ語のUcheduです)。この著者はwḫdwは排泄物とも関連した"腐敗因子"であるという結論に達しました、そしてそれは腸管で発生し血管を通して身体の他の部分に化膿性の潰瘍をもたらすのではないかと。この論考は著者がwḫdwを「苦痛」と翻訳する最近の傾向に不満を覚えたため、なされたものなのです。

(中略)エジプト人は明らかにこう考えています、wḫdwは生きているときには血管に、死後は死体に作用する破壊分子であると。この作用は生者に対しては適切な施療で、そして死体に対してはミイラ化によって防止できるのです。化膿と腐敗が密接な関係にあることは多くの事実が明らかにしています。一例を挙げれば、wḫdwの治療法を記したパピルスはアヌビス神の像の下から発見されていますが、アヌビス神はミイラ化(防腐加工)を司る神なのです。


そう言うわけだったのですね。たまたまではなかった、古代エジプト人の敬虔な祈りが篭められていたとは・・・少し感動させられました・・・^^

この本著を書いたROBERT O.STEUERという人は、1961年に「Controversial Problems concerning the Interpretation of the Physiological Treatises of Papyrus Ebers」という本を書いて、その中で「wekhedu」同様厄介なコンセプトを持つ「metu」について取り上げて居るのが読み取れます。ブルクシュの80年後、今から50年前にこれらの言葉が真剣な議論の対象になっていたことは注目すべき事だと思います。日本の学者の方達は何もなさらなかったのか、考えさせられる問題を孕んでいます。

が、この問題はもうここまでにして店仕舞いに入ります。昨日纏めた話はどこか「ハンセン病のリンク集」に短く纏めて放り込んでおきます。重要なのは「地域別の歴史年表」「ハンセン病の歴史」の訂正です。

人様のことはなんだかんだとケチを付けて喜んでいる人間が、致命的なミスを放置していてはお天道様に叱られます・・・証拠却下・・・じゃなかった脚下照顧・・・〆(.. )メモメモ…
 

パピルスについての結論

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月28日(日)05時21分30秒
返信・引用  編集済
  ここ数日間英語とドイツ語とヒエログリフとこの三カ国語との死闘を繰り広げていました。いやオーバーでなく辞書と首っ引きと言う奴で「死闘」に近い悪戦苦闘でした。どうにか目鼻が付いたと言えるので、思い切って書きます。

ハンセンが「Mycobacterium leprae」を発見したのが1873年ですが、その前の年1872年にエーベルスは「エーベルス・パピルス」を或る金持ちのエジプト人(a wealthy Egyptian)から購入しました。そして2年後には色刷り2巻のヒエログリフの本(ヒエログリフ-ラテン語辞書付き)を世に出したのです。ラムセス2世の頃に書かれてから約3400年後のことです、折しもハンセン病の病原菌が特定されて医学的に大きな一歩が踏み出された時代でした。

丁度同じ1875年、ブルクシュはエジプト史の本「A History of Egypt under the Pharaohs=Histoire d'Egypt」を出し、その中に「エーベルス・パピルス」のことを取り上げます。

”第1王朝のTeta王の時重宝された「増毛法」のことが取り上げられている、そして肝要なのはそんなに昔のファラオ(Tetaは実は医者だったようです、王様と兼業でというか)が医学についての書き物を残したという事実だ。そう言えばメンフィスで発見された「the great medical papyrus(=Berlin Papyrus)」というのがあり、そこに「receipts for the cure of a certain number of maladies of the nature of leprosy=ハンセン病の性格を帯びたいくつかの病気の治療法」が書かれており、それも元を辿れば遠く第1王朝の5番目の王(Hesepti)にまで遡る。”

そしてわざわざ「the great medical papyrus」に書かれた文章を引用するのです。

  'This is the beginning of the collection of receipts for curing leprosy. It was discovered in a very ancient papyrus enclosed in a writing-case,
  under the feet (of a statue) of the god Anoobis, in the town of Sochem,
  at the time of the reign of his majesty the defunct king Sapti'


この一文が全ての間違いの元と成ったので太字にしました。

この本の4年後にW.Munroが「Leprosy」という本を出します。そしてその中で・・・

"私の知る限りでは、「leprosy」に最初に言及したのはブルクシュの「Histoire d'Egypt」であり・・・"として「leprosy」の起源の年代を論じるのですが、ブルクシュからの引用の箇所はこうなっているのです、少しの違いにご注意ください。

'a number of receipts for the cure of diseases of the nature of leprosy (du genre de la lepre).' (仏語のgenre=ジャンル、種類)

と丁寧にフランス語を入れて正確を期しています。というか「leprosy」と断定していないのです。学者らしい慎重な扱いだと思います。ではブルクシュは「ベルリン・パピルス」の何を、どんな言語のどんな単語を「leprosy」と訳したのでしょう。問題の核心はここに有ります。「ベルリン・パピルス」は英訳がありません。それからドイツ語訳はweb上で見付かりません。そこで一種の謎解きゲームを行いました。ゲームという言葉を使うと遊び心が疑われましょうけれど、決してそんな物ではありません。長くなりますから、ここには核心部分をズラリと並べます。じっくりご覧頂くと、私同様の結論にお達しになると拝察します。私自身の結論は敢えて省かせて頂きました、お楽しみを殺ぐといけませんので。解説不足の部分があれば明日追加を試みますのでお許しください・・・m(_ _)m


John Francis Nunn著「Ancient Egyptian Medicine」から。

Paragraph 856a(Ebers Papyrusの) states that:

   The book of driving wekhedu from all the limbs of a man was found in writings
   under the two feet of Anubis in Letopolis
   and was brought to the majesty of the king of Upper and Lower Egypt Den (First Dynasty).

この文章は「Paragraph 856a」と書いてありますが「Berlin Papyrus」の「a passage」に書いてあった次の文章との関連をどう捉えれば良いのでしょう?編者はAshraf Alexandre Sadek著「Some Aspects of Medicine in Pharonic Egypt」Warren R. Dawson著「Magician and Leech」(78ページです)などの「similarities 」や「duplicate」の記述から察せられるように「Berlin Papyrusu」は「Ebers Papyrus」からの転記だろうと推測します。この点は異論の生じやすい部分です、何卒別稿「考証:パピルスの中の「leprosy」」をご通読の上、ご判断を賜りたいと思います。長すぎると仰有る向きは、私奴をご信頼頂くしか御座いません^^。なお「ベルリン・パピルス」は「エーベルス・パピルス」の約300年後に書かれたと推定されます(参考)。

「Berlin Papyrus」の「a passage」には・・・

   This is the beginning of the collection of receipts for curing leprosy. It was discovered in a very ancient papyrus enclosed in a writing-case,
   under the feet (of a statue) of the god Anoobis, in the town of Sochem,
   at the time of the reign of his majesty the defunct king Sapti.

●次に「856a」のドイツ語版(この独訳はwebmasterのものでは無いかと思われます=不明)では・・・

   Beginn des Buches über das Durchziehen der Schmerzstoffe in allen Korpergliedern des Mannes, wie es vorgefunden wurde als Schriftstück
   unter den Füssen (einer Statue) des Anubis in Letopolis.
     Es wurde gebracht zur Majestat, dem Konig von Ober-und Unteragypten, (Usaphais=Usaphaidos=Sapti)|, gerechtfertigt.

  Schmerz=苦痛、stoff=要素、素材

●これはEbbellの英訳(終わり近くです、「Usaphais」で頁内検索が早いかも)では・・・

   The beginning of the book on the traversing of purulency in all limbs of a man according to what was found in a writing
   under Anubis' feet in Letopolis;
   it was brought to his Majesty of Upper and Lower Egypt Usaphais, the justified.

  purulency=化膿、膿

●そしてヒエログリフでは・・・
                  ↓この丸印がwekheduの「h」です。
  

●そして「wekhedu」のヒエログリフは・・・

  

「鳥」と「渦巻き」の違いがありますが、今後の課題です。本日はこれで・・・(06:49脱稿)
 

「Turin Papyrus」

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月28日(日)02時22分2秒
返信・引用  編集済
  パピルスのことを調べていたら、思いがけず沢山有るのでへえっと思いました。こちらに集めてありますが英語のwikipediaが最も良く集めてあります。ついでに一齣入れておきますと、ここには「Berlin 3038=いわゆるベルリン・パピルス」が欠落しています。大きなミスです。中に「Turin Papyrus」と言うのが有って「Turin」って何のことだろうと辞書を引くと、これがトリノ・オリンピックのトリノのことなのです。なのですなどと言っていますが、知らないのは私だけかも知れませんね、「Torino」はイタリア語だそうです。英和中辞典には出ていません、大辞典には有りましたが。

その「Turin papyrus」の現物が今神戸で見られます。「トリノ・エジプト展」というのが始まったのです。

涎が出そうなほどなのですが、どうしようかなあ・・・(^^;)


いわゆる「Turin Papyrus」はこれです(左半分です)。前に紹介した「トリノ王名表=Turin Royal Canon」とは別物でこちらは地図です。上に出てきた「トトメス3世のシリア遠征パピルス」はどちらに属するのでしょう?Wikipediaではトリノ博物館には3点のパピルスしか有りませんから・・・?
 

探し魔

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月28日(日)01時34分46秒
返信・引用  編集済
  「エーベルス・パピルス」のことを書こうとしてつい下を読んでしまい、そう言えばとまあ駄目押しを付け加えたくなりましたものですから・・・。

連れ合いはこう言います。「私は子供の頃から探し魔なの」だそうです。「探し魔」というのが一発変換で出てきたので、アレッと思いました。それはご当人にとっては探している間はそれこそ「魔」の時間でしょうから分からないでもないのですが、こんな言葉は無いでしょう。それならむしろ「無くし魔」と言うべきだと思ったのですが、辞書にはどちらも有りませんでした。兎に角しょっちゅう捜し物をしています(おや「さがしもの」はこの字で辞書にありました)。「探す」と言うより「探しまくる」という表現が適切なのです、なにしろ盲滅法(は禁止の方向とか)探しまくるのです。

私はあんたの探し方には思想が無いと非難するのです、先ず一応考えて見当を付ける、そして心当たりの強いところから探していくべきだと。これって「思想が無い」とは言わないでしょうけどそういう感じでしょう?一万円札を探していてコンパクトを開ける人は先ず居ないでしょう。5円玉を探してジャムの瓶を開けますか?つまり「あ、無い!」と決まった瞬間に一種のヒステリー状態に陥るのだろうと思います、そうそう「パニック」と言う言葉も当てはまるでしょうか、精神的な視野狭窄になるのでしょう、そんな感じです。先の禁止用語が最も適切に言い表わすのです。

そして意外なところから出てきたとき(当然意外なところからです)の喜びようがまあ幸せそのものを掴み取ったような大仰なもので、この幸福感、達成感が楽しみでわざと無くしものをするのではないかと疑いたくなるほどなのです。

いや本当に呆れた無くしものをするのです。10年以上前になりますか、ヘンケルの良い包丁を無くしました。日頃台所は女の城だとか、利いた風な口をきいているので「侍が刀を無くしたようなものだ」と言ったら、少し応えたようだったので優しくフォローしておきましたが、しかし考えられない物が無くなるのです。菜箸と言うのですかあの長くて一方の端を糸で繋いである、あれが消えたのには驚きました。これもご当人には相当なショックだったようでその後買って来ませんでした。何年かしてこれは出てきました、何処にあったと思われますか?

小さなティースプーンやフォークも随分減りました。ご当人は水道に流れて行ったと言い張るのですが、川で洗い物をしているわけで無し、U字管という物が有るのですから何かと一緒に捨てたに違いないのですが、菜箸となると何かに紛れ込むはずもなく・・・ガスコンロの後ろから出てきました。彼女のお城には魔物が棲んでいるとしか思えません。

包丁ですか?未だなのですこれは・・・。近所の方達と農村から野菜の共同購入をしていて、我が家のガレージでそれを配分したりしていました、恐らく野菜屑に紛れ込んで行ってどこかの土の中で酸化しているのでしょう・・・やれやれ・・・。
 

脛 に傷持つ身だから・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月27日(土)17時32分49秒
返信・引用  編集済
  連れ合いが今日次女の住まいへ、手作りのまあ「お袋の味」などを持って行ってきたときの話。乗り換えをして電車が出た、車掌さんのアナウンスが行き先と逆の駅名を告げました。「エッ!確かめて乗ったはずなのに・・・」と腰を浮かしながら彼女は「脛に傷持つ身だからなあ・・・」と思ったと言います。実は直ぐ訂正のアナウンスメントが有って安心したという話なのですが、私は焼酎を吹き出しそうに大笑いをしてしまいました。

そうなのです、連れ合いはまあ「粗忽者」で御座いまして「ウッカリ夫人」と言いますかまあその類の失敗談には事欠かないのです。例えば「同窓会」に限っても2件有ります。一つは一週間前に会場に出かけて行って誰もいなかったので帰ってきたとか、一つは逆に当日電話がかかってきて「あら、未だ居たの、受付係じゃなかった・・・」これも日にちを間違えていました。いえ冷蔵庫にカレンダーが張ってあって、スケジュールを書き込んでいるのですが、それを書き込む時に間違ってしまうのだから、話にならないわけです。

てな具合なので、まあ日頃楽しませて頂いているのですが、にしてもご本人は当然ながら自覚なさっていたわけで・・・。

それが車掌さんのアナウンスを聴いた時、「アレッ!?」と一瞬思ったものの、「されど脛に傷持つ身だから・・・」と思し召したのでありましょう・・・。でもこういう時にそんな表現を使いますか・・・?いやあまり笑ってはと控えながら、少し経っては又吹き出していました、何度も何度も・・・。

楽しい日々を送っている所以で御座います・・・^^
 

Re: 春眠暁をなんとやら・・・

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年 2月24日(水)22時09分8秒
返信・引用
  > No.4670[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

吃驚して小生のを読みましたが、なお有料で、2000あるようです。なお数えてみましたら、91件は削除していました。

 Ichiro
 
    (リベル) 通常は問題ないのです。Teacupから返事が有って何か手違いが有ったようです。どうかご安心ください・・・(^^)(2.25 07:31)  

春眠暁をなんとやら・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月24日(水)00時33分32秒
返信・引用  編集済
  でもありませんが、今日はかなり暖かくなってきました。昨日は大酒を食らってしまいました。いやこの28日を定年記念日と決めていて毎年飲むのですが、今年は15周年、だからではないのですが前倒しして、大いに飲みました。連れ合い相手にパピルスへの恨み言を大声上げて喋り倒しました。そしてバッタリ、15時間は眠ったでしょうか、昼頃起きてTeacup(掲示板の運営会社)へ文句を言ってまた飲んで先程まで寝ていました。

Teacupがとんでもないミスをやってくれました。合併やら何やらでゴタゴタしているなとは感じていたのですが・・・私は有料掲示板にしていてこれはこちらから契約解除を申し出ない限り自動継続で続けてきました。ところが13日、なんの前触れもなく突然無料掲示板になっていたのです。慌てて有料版の手続きをしたのですが、問題が有りました。有料版では2000件の投稿を保存してくれますが、無料版は1000件だけなのです。

それだけ言えばお分かりいただけますね。無料版にされた時点で1000件の投稿が宙に舞ってしまったのです。2007年の9月末から2008年の6月末までの投稿が無くなってしまいました。何とかならないかと聞いても、無くなったものは戻らないと、木で鼻を括った返事。さすが温厚を以って鳴る小生も怒りました、と言ってもたいしたことは無いのです。そちらに非があって生じた不祥事なのだから、詫びの一言は有ってもよかろう、程度で・・・。

過去ログを保存しておかなければなあと昔のを見ていたら、PCのクラッシュ以後見失っていた「日々是電脳写真」を発見して、機嫌が直りました。「壁紙ダウンロード」のページから四つ葉のクローバを見付けて喜んでいます・・・ヽ(´ー`)ノ ワーィ!


 

「エーベルス・パピルス」とは?

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月21日(日)04時57分35秒
返信・引用  編集済
  エーベルス・パピルス」はテーベの共同墓地の中のアサシーフ地区医師の墓から「エドウィン・スミス・パピルス」と一緒に発見されました。それは1862年のことでした。アメリカ人エドウィン・スミスはその年にこれらをルクソールで領事館の職員でもあり、商売もやっていたMustafa Aghaから購入し、「エーベルス・パピルス」を少なくとも1869年までは持っていたようです。大体エドウィン・スミスという人は冒険家でありながら、金貸しや骨董品屋から古美術の偽造まで手掛けていたという噂もある人物なのですが、後の「エーベルス・パピルス」も広告を出して販売しようとしています。結局エーベルスは1872年に、エジプト人の金持ちから購入しました。

私が2年ほど前に纏めて臆面もなく年表の注の所に書いていたのは・・・

エーベルス・パピルスは ドイツのエジプト学者・作家である、ゲオルク・モリッツ・エーベルス(Georg Moritz Ebers 1837〜1898)が
   (a)古都テーベ(現ルクソール付近)の墓地に埋葬されていたミイラの膝の間に差し込まれていたのを1862年(1873年とも)に発見したとも、
   (b)地元のエジプト人から大枚をはたいて購入したとも、
   (c)エドウィン・スミスから購入したともいわれています。(所在:ドイツ、ライプチヒ)

これだけの情報しか手に入らなかったのです。しかし四苦八苦して体裁を整えようとしているのが読み取れて、涙ぐましくもあります・・・^^

思えばそうなのです、エーベルスが1872年に入手し直ちにドイツへ持ち帰ってライプチッヒ大の図書館に保存を委ねたのは誠に賢明な処置だったと思います。先日ほぼ実物大の「エーバルス・パピルス」をお目にかけましたが、3500年前のものとは思えない美しさに唖然としました。「高松塚」、「キトラ」を思うとエーベルスの130年後の日本人の(いや日本の官僚の)お粗末さにこちらは暗然といたしますが。

兎に角その3年後1875年には立派な本(ヒエログラフとヒエラティックですが)にして出版し、同年にブルクシュが「A History of Egypt under the Pharaohs」の中で早速引用しています。それから135年経っているわけです。私は「考証:パピルスの中の「leprosy」」を纏めるべく「資料庫」を作って整理しかけています。この百数十年間にエジプト学、歴史、「ハンセン病」などの専門家がそれぞれの立場から執筆したものを出来るだけ集めて(ネット上という制約はありますが)年代順に並べて読んでいます。ただ気をつけなければいけないな、とだいぶ経ってから思ったのは、100年前に書かれたものと、2年前に書かれたものとを、同列に並べて読んではいけないという、まあ当たり前のことですが・・・。

13年前、1997年に書かれたJohn Francis Nunn著「Ancient Egyptian Medicine」とその翌年に書かれたStephen Carpenter et.al.著「THE EBERS PAPYRUS」が総まとめ的に貢献した学者名などを教えてくれるので重宝します、っていうか洩れがないことが確認できますから。

何人もの学者が英訳、独訳をしているのですが、十分なものが無いのです。実は出来ていたのに製本に至らなかったとか、入手が困難を極めるとかで。Nunnだけが「Paragraph 856a」というような引用をしていますが、これはご本人が白状なさっているように製本までされたのに販売ルートに乗らなかったGhaliounghuiの本のコピーを人を介してGhaliounghuiの未亡人から借用して可能になったほどなのです。

そのGhaliounghuiの英訳の中に「wekhedu」が出てきます。突然結論っぽいことへ飛びますが、S.G.Browne氏の一節が天来の音楽のように鳴り響き始めるのです・・・

「エベルス(Ebers)のパピルス(紀元前約一五五〇年)に出てくるウケドウ(Uchedu<Ukhedu>とチョン(Chon)のはれものは、今日ではらいと鑑定するにはあまりにも漠然としていると判断されています。もっともこの療法の手引きに書かれている断片的な症状の描写は、すべてらいの診断に全くあてはまらないともいえません。」

この文章はNunnの16年前に書かれています。Nunnはwekheduについて長い解説を書いています。これは途中から落丁となるのですが、しかし「leprosy」は出てきそうにもありません。「ベルリン・パピルス」の中で「leprosy」とされたものの本体は実はS.G.Browne氏が喝破した通りなのではないでしょうか。乗りかかった船です、Nunnの「Ancient Egyptian Medicine」をアマゾンで発注してしまいました。ペーパーバックの中古だと送料込みで1500円くらいで買えます、2週間ほど待たなければなりませんが。一眠りするといたしますか・・・^^


 

大変やったねえ、陣内さん・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月20日(土)07時49分26秒
返信・引用  編集済
  小堺一機さんの「ごきげんよう」と言うトーク番組に藤原紀香さんと結婚して去年離婚した陣内智則君が出ていました。こんな話をしました・・・

大阪のいつも出演している何とかという寄席にチョット壊れかけた自動販売機が有るのです。いくらお金を入れても出なかったり、そうかと思えばお釣りがジャンジャン出て二千円儲かったりという壊れ方なのですがなかなか直してくれない。或る日先輩に頼まれてコーヒーを買いに行きました、120円預かって。自販機のある階までエレベーターで上がったら顔なじみの掃除のおばさんが居ました。「おばさんこんにちは〜」と言うと、「あ、陣内さん・・・大変やったねえ・・・」と挨拶を返してくれました・・・離婚騒動の後だったので。

自販機に120円入れて「コーヒー」を押したら「ウーロン茶」が出てきました。またかあと思いながら入れ間違いかも知れないと自分のお金を120円入れて間違いなく「コーヒー」を押したのですが、また「ウーロン茶」。この野郎と思って今度こそ、ともう一度やってもまた「ウーロン茶」、三度続けて「ウーロン茶」。そこで陣内君考えた。

そういうことなら「ウーロン茶」を押せば「コーヒー」が出るかもしれないぞと、回路のつなぎ方が間違っていることもありますから。そして祈るように「ウーロン茶」を押した・・・そしたら・・・こちらも「ウーロン茶」が出てきたのです。頭に血が上った陣内君、自販機を罵しっているところへ先程のおばさんが戻ってきました。「陣内さんどないしたん?」、「いや、おばさん、今、「ウーロン茶」を押したら「ウーロン茶」が出て来ましてん」と言いました。おばさんは一瞬キョトンとした顔をしてクルリと向こうを向いてソソクサと立ち去りながら・・・「あら、ほんまに大変やったねえ陣内さん・・・」と。

私は思わず吹き出したのでだいぶ前を歩いていた人が振り返って・・・困ってしまい耳に手をやってヘッドフォンを直す仕草をしたものです・・・♪♪♪


 

ちょっとちょっと、ブルクシュは正しいのかいな??

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月18日(木)07時40分34秒
返信・引用  編集済
  昨日「エーベルス・パピルス」と「ベルリン・パピルス」を見比べてみました。昨日書いているときには気付かなかったのですが、後でそれとなくAshraf Alexandre Sadek著「Some Aspects of Medicine in Pharonic Egypt」の「ベルリン・パピルス」の所を読んでいて、「ん!」と閃きました。おかしいと思っていたことがあったのを思い出したのです。読んでいたのはこんなところです・・・

「The papyrus deals with general medical cases and offers some similarities with some texts of Papyrus Ebers.」(…エーベルス・パピルスの文章といくつかの類似点が見られる)

そういえばあちらこちらで目にしたぞ・・・と気付きました。Warren R. Dawson「Magician and Leech」(78ページです)では「ベルリン・パピルス」の説明のところでこう書いています・・・

「Amongst these is a duplicate of a long passage in the Ebers Papyus dealing with the heart and its vessels.」(…エーベルス・パピルスの中の長い一節の転写がある)

「エーベルス・パピルス」は「ベルリン・パピルス」の約300年前に書かれたことはほぼ確かです。他のパピルスからの一部転写、これはあり得る話ではないか。・・・そして見付けました!

John Francis Nunn「Ancient Egyptian Medicine」(31ページの方です)の「エーベルス・パピルス」の項ににハッキリこう書いてあったのです。

「Paragraph 856a states that:

   The book of driving wekhedu from all the limbs of a man was found in writings
   under the two feet of Anubis in Letopolis
   and was brought to the majesty of the king of Upper and Lower Egypt Den (First Dynasty).」

私の頭はこんぐらかっていたのですこれを最初に読んだときは、だから「ベルリン・パピルス」の中に似た文章が有った事を思い出せなかったのです。Heinrich Karl Brugsch著「A History of Egypt under the Pharaohs」の中には「ベルリン・パピルス」の一節からの引用(This is what the text says on this subject.)として、こう書いてあったのです・・・上の文章との類似をご覧ください。

   This is the beginning of the collection of receipts for curing leprosy. It was discovered in a very ancient papyrus enclosed in a writing-case,
   under the feet (of a statue) of the god Anoobis, in the town of Sochem(=Letopolis),
   at the time of the reign of his majesty the defunct king Sapti(=Den).


何度も口にしますが、「Ebers Papyrus」の原典が読めないのが口惜しいです。Paragraph 856aって何処に有るのか!!!口惜しがっているとこんなのが目に飛び込んできました。同じ本の中でNunnは「wekhedu」について「意味の不確定な用語」の中で詳しく述べているのです。またこれが口惜しいことに、電子ブックの落丁で尻切れトンボなのです。S.G.Browne氏が「ウケドウ(Uchedu<Ukhedu>とチョン(Chon)のはれものは、今日ではらいとと鑑定するにはあまりにも漠然としていると判断されています。」と書いたのはNunnの18年前です。やはり「wekhedu=leprosy」と断定するのは難しい・・・と言うことになると、ブルクシュ氏が「A History of Egypt under the Pharaohs」の中で「the beginning of the collection of receipts for curing leprosy」と表現していることが疑わしくなってきました。正しくはその直前に書いている通り、「the cure of a certain number of maladies of the nature of leprosyハンセン病の特長を有したいくつかの病気の治療)」なのではないか、それが「leprosy」に略されてしまったのではないか?

お分かりいただけるでしょうか、今日書いていることは最終的な「ツメ」の積もりだったのです。

エーベルス・パピルス」は「leprosyらしい病気」についてB.C.1537年頃書いた。一方「ベルリン・パピルス」はその約300年後(B.C.1304〜1237年頃)に「leprosyの処方箋」について書いた。またそれは第1王朝のHesepti王の頃とされていることから、B.C.2975〜2935年頃にはエジプトに「ハンセン病」が存在したことになります。

こう結論づけて、年表を仕上げようとしていたのです。おお!!!それが出来なくなりました。ブルクシュの言う事の裏付けが取れないことに気付いたからです。「ベルリン・パピルス」は「エーベルス・パピルス」の転記らしい、ならば「エーベルス・パピルス」で確定していない「leprosyらしい病気」を「ベルリン・パピルス」が「leprosy」と記述している根拠は何か?そう言うことです。

「wekhedu=leprosy」と、いつ、誰が、決めたのか、断定したのか?

ブルクシュ氏自身が書いたあの文章を思い出さざるを得ません・・・

「マネトーが彼の本を通じて、こういう古い時代の事を私達に如何に詳しく教えてくれているか、そのことは、後世の著作者達が余りにもお粗末な引用しかしないものだから、私達に一層良く分かるのです。彼等はこの内容豊かな文献を、哀れなほど無知な用い方しかできず、そのことによって自らの理解力の貧困さを露呈しています。私達はマネトーの本の中に肝要なことが如何に多く含まれているかを知りそして驚きに打たれるのです。」

ブルクシュよ、お前もか・・・♪♪♪
 

検証:エーベルス・パピルス

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月17日(水)03時02分6秒
返信・引用  編集済
  > No.4637[元記事へ]

1月30日の投稿では↑(元記事)このようになっていますが、(一)の「Heseptiはハンセン病だったか?」は問題の出発点だったとは言え、立項するのは馬鹿馬鹿しいですから、変更します。(一)には「「エーベルス・パピルス」に「leprosy」の記述は有ったか?」を持ってきて、(二)は「他のパピルスは記述していなかったか?」として纏めてみます。


(一)「エーベルス・パピルス」に「leprosy」の記述は有ったか?
エーベルス・パピルスは「ヒエラティック(Hieratic)」で書かれています。これは「ヒエログリフ(hieroglyph=象形文字)」を簡略化した(行書体とも)文字です。それが英訳、独訳されて一般人が読めるようにしてあるのですが、探してもこのEbbellの英訳しか見付からなくて、実は困っています、文献にはもっと分かり易い引用があるのですが。別の英訳が入手できるまでは隔靴掻痒ながら、推測で話を進めます。推測ながら間違いではありません。

まずCarl H.von Klein「The medical features of the Papyrus Ebers」(1905年)の「Diseaeses of the Skin」の中に「leprosy」が存在すると書いてあります。またCyril P.Bryan「THE PAPYRUS EBERS」(1930年)には「leprous spot」(右ページの上から9行目)という表現が有ります。

John Francis Nunn「Ancient Egyptian Medicine」(1997年)(p.74、p.75)には「wekhedu」が、Alexander Wilder「History of medicine」(1904年)とHarold M.Spinka「Leprosy In Ancient Hebraic Times」(1959年)(本文の4行目)には「uchedu」が出てきますが、これはS.G.Browne著「聖書の中の『らい』」(1979年)でこう紹介されているものです。

「エベルス(Ebers)のパピルス(紀元前約一五五〇年)に出てくるウケドウ(Uchedu<Ukhedu>とチョン(Chon)のはれものは、今日ではらいとと鑑定するにはあまりにも漠然としていると判断されています。もっともこの療法の手引きに書かれている断片的な症状の描写は、すべてらいの診断に全くあてはまらないともいえません。」出典:L.R.Oppenheim,1964,Quated in Skinsnes,O.F. Leprosy Review,35,115.→Skinsnes,O.F.(1964).Leprosy Rev.,35,Leprosy in Society:p.21

以上から言えることは(昨日書いたように)、「エーベルス・パピルス」には「leprosy」らしい記述はあるけれどもJohn Francis Nunnが言うように「tenuous(曖昧な、はっきりしない)」で有ることは否めないということです。これは実は誰かが果敢に「Ebers Papyrus」のヒエラティックに挑戦して確認=解読するほか解明の手段が有りません。私はお断り致します・・・(^^;)


(二)他のパピルスは記述していなかったか?
1875年にHeinrich Karl Brugschによって書かれた「A History of Egypt under the Pharaohs」に「the great medical papyrus」と言う表現で「ベルリン・パピルス(Berlin 3038)」が取り上げられています。今判明している限りでは、これが「leprosy」を扱った唯一のパピルスです。この中に「leprosy」の処方箋集が有り、それについてこう記述してあります。(このパピルスのドイツ語訳があるそうですが入手できていません)

'This is the beginning of the collection of receipts for curing leprosy. It was discovered in a very ancient papyrus enclosed in a writing-case, under the feet (of a statue) of the god Anoobis, in the town of Sochem, at the time of the reign of his majesty the defunct king Sapti.'

Sochem」は「Sechem」の間違いであり、SaptiHeseptiの事であることは、先に書いたとおりです。この「ベルリン・パピルス」によって「leprosy」がエジプトのパピルスに書き込まれたのはラムセス2世(B.C.1304〜1237年)の時であり、書き込まれている内容はHesepti(B.C.2975〜2935年)にまで遡ることが分かりました。つまりエジプトには遅くともB.C.2939年頃「leprosy」が存在したのです。


(三)「エーベルス・パピルス」の歴史
(1)いつ頃書かれたか
(2)どのように発見されたか


については、もう少し整理したいので数日後にさせてください。有り体に申し上げると、この表が出来上がらないと自信が持てないからなのですが・・・^^
 

茶髪五千年

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月17日(水)01時09分38秒
返信・引用  編集済
  白髪三千丈は中国の話ですが、エジプトを調べているとこれまた色々なことを学んで面白いです。上(かみ=ナイル川上流)エジプトと下(しも)エジプトを統一して最初の王朝を作ったメネス(ナルメルとも)王は在位B.C.3100年頃と言いますから今からおよそ五千年前になります。その子Teta王のおふくろさんといえば当然メネスの奥さんというかお妃だと思うのですが、どういう訳か何処にもそうは書いてないから不思議です(参考:王朝一覧表)、その名は「Skheskh」、web上にGerald Masseyの他に無し。こんな不思議はザラですが・・・^^

そのSkheskhさんが染髪か洗髪(hair dye or washes)をやっていたそうですから、約五千年前に茶髪も有り得たと言うことになります。面白いですね・・・。


これはツタンカーメン王です(クリックで巨大化します)
 

結論!「史実」の恐さ!

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月16日(火)01時52分7秒
返信・引用  編集済
  そもそもの始まりは去年の暮れも本当に押し詰まった12月30日でした。中世のハンセン病の「ラザレット」などの細かいことを一応洗い出して、さあ纏める前にちょっとルシャット氏の纏めを読み流して、流れを作ろうとしたのがいけなかった、というか、運の尽きというか、いや本当はラッキーでした。爾来約1ヶ月半ドップリ「エーベルス・パピルス」に浸かりました、首までどころかスッポリ全身を持って行かれました。しかし、これはやって良かった、というかやらなければエライ怠慢になるところでした。間違った「史実」をノウノウと年表に書き込んでいました。ここ数日の内に訂正します、如何に私奴がいい加減な男であるか、今ならこちらで見られますからどうぞ。B.C.2975年とB.C.1535年です。注もしっかり読んで笑ってやってください。こんないい加減な事を書き残したままで死ぬところでした、本当にラッキーだったのです。では「史実」らしいことをしたためます。

先ずルシャット氏のこの言葉に引っかかったのです。

「In Egypt, Huspati (Horus-Den), a quasimythical Thinite Icing of the First Dynasty (〜3500 BC), is reported in papyrus dating from /- 1500-1200 BC as having suffered from a disease whose signs are evocative of leprosy.」(「 The paleoepidemiologyof leprosy」から。半分ほどスクロールしてください)

「B.C.1500〜1200年頃のパピルスに、エジプトの第一王朝のHuspati王がハンセン病を想わせる病気に罹っていたと記されている。」

もう一つそのころ読んでいたS.G.Browne著「聖書の中の『らい』」にこう書いてありました・・・

エベルスのパピルスに出てくるウケドウ(Uchedu<Ukhedu>とチョン(Chon)のはれものは、今日ではらいと鑑定するにはあまりにも漠然としていると判断されています。もっともこの療法の手引きに書かれている断片的な症状の描写は、すべてらいの診断に全くあてはまらないともいえません。」

私はこの二つを頭から鵜呑みにしてしまって「エーベルス・パピルス」に「leprosy」の記述が有るとしてしまったのです。ルシャット氏は「エーベルス・パピルス」とは一言も仰有っていないにもかかわらず、です。反省しています、こういう風に直ぐ鬼の首を取ったように踊り回っては後から反省する姿は、もうお馴染みになってしまったかも知れません・・・^^

今回はこんなページを作って良く良く読みました(未だ一番上の表は未完成ですし、もっと探して読みたい文献も無いことはないのですが、基本的な理解には達したのでこれを書くことにしました)。ご覧のように「ハンセン病」と古代エジプトの医学を結びつけているのは二つのパピルスです。「エーベルス・パピルス」と「ベルリン・パピルス(厳密にはBerlin 3038)」です。ルシャット氏が取り上げて居るのはこの後者です。これを分けて記述しなければいけません。

●先ず「エーベルス・パピルス」は実は「leprosy」を明示してはいません。「uchedu=wekhedu」という表現で登場し学者(例えばEbbell)によって「leprosy」と推測されていますがそれ以上突っ込んだ把握が出来ないのです。原文は無理としてもこの英訳が唯一のものでは無さそうなので、これはもう少し調べます。現段階では「エーベルス・パピルス」には「leprosy」らしい記述はあるけれどもJohn Francis Nunnが言うように「tenuous(曖昧な、はっきりしない)」で有ることは否めません。これが書かれた年代は「B.C.1537年頃」と断定しても良いかとは思いますが、前提として「世界考古学事典」とそれが準拠している「Cambridge Ancient History(3rd ed)」が正しいことが必要になります。「諸説有り」と断っておきましょう。

●一方「Berlin Papyrus」の方はブルクシュが1875年にこう書きました。

「This is the beginning of the collection of receipts for curing leprosy. It was discovered in a very ancient papyrus enclosed in a writing-case, under the feet (of a statue) of the god Anoobis, in the town of Sochem, at the time of the reign of his majesty the defunct king Sapti.」

以後135年間(一)第19王朝のラムセス2世の治世下(B.C.1304〜1237年頃)に書かれたこと。(二)メンフィスの共同墓地の一つサッカラ(Sakkara)の町で発見されたこと。(三)内容の一部「leprosy」の処方箋集はHesepti王B.C.2975〜2935年頃)の時代にSochem(=Letopolis)のアヌビス神の像の下から発見されたこと。の三つは未だ異説を見ません。これは年代はともかく、「史実」と見ても叱られないだろうと思います。誰に叱られるか?3日前にブルクシュのこんな言葉を紹介しました・・・

「マネトーが彼の本を通じて、こういう古い時代の事を私達に如何に詳しく教えてくれているか、そのことは、後世の著作者達が余りにもお粗末な引用しかしないものだから、私達に一層良く分かるのです。彼等はこの内容豊かな文献を、哀れなほど無知な用い方しかできず、そのことによって自らの理解力の貧困さを露呈しています。私達はマネトーの本の中に肝要なことが如何に多く含まれているかを知りそして驚きに打たれるのです。」

いや私も「ハンセン病とサンスクリット語」「白癩に関する一考察」「「エーベルス・パピルス」の中の「leprosy」」と古い昔の事ばかり追っかけていて「お粗末な引用」には相当しごかれてきました。ルシャット氏があれだから、推して知るべしなのでしょう。なあに人様のことを言っている場合じゃ有りません。私自身が如何に「お粗末な引用者」であったか、骨の髄まで思い知らされた次第です。マネトさんご免なさい・・・m(_ _)m


やはり先史時代の「史実」は何処の国のものも明確には分かりません。「史実」らしいことをしたためますと書いた所以です・・・^^
 

ブルクシュの文章の再チェック(備忘録)結論

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月14日(日)02時41分59秒
返信・引用  編集済
  As an example we will allude to the great medical papyrus discovered in the necropolis of Memphis, which was added to the collection of the museum of Berlin, about fifty years ago.(中略)This manuscript was composed in the reign of Ramses II., but there is a passage in it which throws back the origin of one part of the work to the fifth king of the table of Abydos. This is what the text says on this subject.(原文ではここでの行替えはしていません)

'This is the beginning of the collection of receipts for curing leprosy. It was discovered in a very ancient papyrus enclosed in a writing-case, under the feet (of a statue) of the god Anoobis, in the town of Sochem, at the time of the reign of his majesty the defunct king Sapti.

一つの例を引き合いに出すとすれば、メンフィスの共同墓地で発見された重要な医学パピルスがあります、それは約50年前(1825年頃)にベルリン博物館のコレクションに加えられました。(中略)この(医学パピルスの)原稿はラムセス2世の時に書かれたものなのですが、しかしその中の或る一節(a passage)には、この原稿の一部はその起源が「アビュドスの表」の5番目の王にまで遡るものだ、と書いてあります。以下は、この件についてのこの一節(=passage)の説明文です。

”これ(one part of the work=この原稿の一部)はleprosy治療の最初の処方箋集である。そしてそれは故Hesepti王(Sapti=第1王朝5番目の王)治世の時、Sochem=letopolisの町にあるアヌビス神の(像の)足の下に置かれた文箱に封印されている非常に古いパピルスの中に書かれていた(で発見された)。


昨日の作業に手を加えて、分かり易く改訂しました。重要な医学パピルスが「Berlin 3038」か否かは、置いておきます。ただ「Berlin 3038」がBerlin Museumに置かれたのは1827年ですから、可能性は高いです、後に検証します。このパピルスが発見されたのはメンフィスの共同墓地(サッカラ)なのです(「A」のマークではありません、その約30キロ南です)。そのパピルスの中の或る一節にleprosyの治療法の処方箋集に関する記述が有ります。そこにはこう書いてあります「この処方箋集Sochem=letopolis(現在の「Ausim」です)(「A」のマークの場所)の町にあるアヌビス神の足の下にあった古いパピルスに書かれていた」と。なので処方箋集はそこに有ったのですが、重要な医学パピルスが発見されたのはその約30キロ南だと言うことになります。

取り敢えず「Berlin 3038」としておきましょうか(実はほぼ確信していますが)。くどいと思いますが私の誤解は「Berlin 3038」の発見された場所とその中に書かれている「処方箋集」の発見場所をハッキリ分けて考えていなかった事に尽きます。恥ずかしい限りではあります・・・(^^;)

以上が答えです。これから数時間訂正と裏付け作業をいたします、ではでは・・・。
 

北斎とマチュピチュ

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月14日(日)01時34分48秒
返信・引用  編集済
  先日紹介した北斎の今際の際の一言がいつも脳裏から離れなくて困ります。

天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし

「真正の画工」ってなんなんだ?画業を極めるとか言うのとまた違うのか?自分にとって「画工」に相当するものはなんだ?「悟りを開く」というのは人生についてだろうから少し違うだろう?北斎自身私達から見れば既に「真正の画工」ではないか?ダヴィンチ、ゴッホなどは「真正の画工」ではないのか?90歳で死に際に言うということはやはり人生について大悟の境地に至りたいとの意味だったのか?「真正の画工」は分かっても「真正の画商」という表現は無いだろう?「真正の会社員」と言うのもない、「真正の営業マン」は有るのか?

などなど・・・

つまり北斎は「真正の画工」を求められたから良いが、私は一体「真正のとなるを得べし」と言えば良いのだろう、その答えを探しているのです。

学生時代のボート部の先輩・友人達と年賀状を交わしています。或る先輩が去年世界一周の豪華客船の食堂で撮ったご夫婦の写真入りで、今年はマチュピチュを背景にした写真入りで、呉れました。功成り名遂げた映像を保存し、開陳したいのかなと、まあ思いました。この先輩などは「真正の○○となるを得べし」などと未練がましいことはもう仰有らないのでしょうか。

それはともかく私にはそういう言葉で表現すべき目標が無い、そう気付いて愕然としたのです。「エーベルス・パピルス」とかハンセン病の歴史はおっぽりだして、「人類歴史年表」の完成に日々彫心鏤骨、一生を捧げるというのも有るでしょう。ウッカリ「完成」という言葉を使いましたが、あの年表には「完成」が無いことを知っています。いや歴史には終わりがないからという意味ではなく、間口の広さや踏み込んでいく深さには際限がないという意味で「完成」は無いと思っています。そう言う意味では画業も同じですね。では「真正の歴史年表」・・・寝言を言ってはいけません。これもあるかも知れないが、何か肚に落ちない。

古い話をご記憶なさっていないと思いますが、かって「受容と献身」とマザー・テレサの専売特許みたいな言葉を口にしました、また映画「晩秋」の中に出てきた「be forgiving=受容」も私が実践できていない大きな目標です。朝青龍や、小沢幹事長や、国母選手(強けりゃ何やっても良い、は朝青龍の悪影響でしょう)をforgive出来ない自分を恥じなければいけません。


「これでいいのだ」を口癖にする「真正のただのおいぼれ」、これを目指しましょう・・・^^

赤塚不二夫氏の告別式でタモリさんが読んだ弔辞の中にこんな一節があります。「あなたの考えは全ての出来事存在をあるがままに前向きに肯定し受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰(いん)の世界から解放され、軽やかになりまた時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。」

 

ブルクシュの文章の再チェック(備忘録)

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月13日(土)05時05分18秒
返信・引用  編集済
  Mena's son and heir was called Athothis, in the Manethonian description (in this name are included three kings, Tota, Atot, and Ata, according to the stone table of Abydos). He built the king's tower in Memphis, arid wrote, wonderful to say, a work on anatomy, 'for he was a physician.' The information of the monuments is silent about a physician of the name of Tota, Atot, or Ata; mention is only made of a roll of a very ancient book bought in Thebes by Mr. Ebers, which, when Teta sat on the throne, was prized as a means for making the hair grow. More important than this information, interesting at most to hair-dressers, is the fact that the writings of the pharaohs on medical subjects reach back as far as the first dynasty of the Thinites.

As an example we will allude to the great medical papyrus discovered in the necropolis of Memphis, which was added to the collection of the museum of Berlin, about fifty years ago. As we have elsewhere shown, this precious document contains a quantity of receipts for the cure of a certain number of maladies of the nature of leprosy, and many other diseases. In a simple, childish exposition of the construction and mechanism of the body, the writing explained the number and use of the numerous 'tribes.' This manuscript was composed in the reign of Ramses II., but there is a passage in it which throws back the origin of one part of the work to the fifth king of the table of Abydos. This is what the text says on this subject. 'This is the beginning of the collection of receipts for curing leprosy. It was discovered in a very ancient papyrus enclosed in a writing-case, under the feet (of a statue) of the god Anoobis, in the town of Sochem, at the time of the reign of his majesty the defunct king Sapti. After his death it was brought to the majesty of the defunct king Senta, on account of its wonderful value.

'And behold the book was placed again at the feet and well secured by the scribe of the temple and the great physician, the wise Noferhotep. (And when this happened to the book at the going down of the sun, he consecrated a meat and drink and incense offering to Isis, the lady, to Hor of Athribis, and the god Khonsoo-Thut of Ainkhit.)'

What further the priest Manetho was able to tell us of those old times out of his book of kings, appears in meagre extracts in later authors, who have shown their own poverty of intelligence by the miserably ignorant use they have made of this copious document of antiquity. We hear and are astounded at how much there was of importance in the book of the priest.

メナの息子と後継者はマネトーの記述ではAthothisと呼ばれます(アビュドスの表によればこの名前はTota、Atot、及びAtaの三人の王を指しています。(参考:第1王朝の表))。彼(Athothis)はメンフィスに王の塔を建て、驚いたことに解剖の方法を書きました、'彼は医者だったからです'。碑文にはTotaもAtotもAtaも医者の名として書かれてはいません。それが挙げられているのはエーベル氏がテーベで買った一巻のとても古い本でした、そしてそこに書かれていることはTeta(第1王朝2番目の王)が王位に就いている時に、増毛法として重宝されていたのです。その様な情報はせいぜい美容師さんには興味深いかも知れないけれども、遙かに重要なのは、医学をテーマにした王様の書き物がはるか第1王朝の昔に遡るという事実です。

一つの例を引き合いに出すとすれば、メンフィスの共同墓地で発見された重要な医学パピルスがあります、それは約50年前(1825年頃)にベルリン博物館のコレクションに加えられました。前にも触れた様に、この貴重な文献は「leprosy」らしきいくつかの症例や他の多くの病気の治療法を数多く記載しています。人体の構造や働きを分かり易くたどたどしく解説しながら、この書は多くの「管状組織」の機能や数を説明しています。この(医学パピルスの)原稿はラムセス2世の時に書かれたものなのですが、しかしその中の或る一節(passage)には、この原稿の一部はその起源が「アビュドスの表」の5番目の王にまで遡るものだ、と書いてあります。以下は、この件についてのこの一節(=passage)の説明文です。

”これ(one part of the work=この原稿の一部)はleprosy治療の最初の処方箋集である。そしてそれは故Hesepti王(Sapti=第1王朝5番目の王)治世の時、Sochem=letopolisの町にあるアヌビス神の(像の)足の下に置かれた文箱に封印されている非常に古いパピルスの中に書かれていた(から発見された)。それは余りにも貴重だったので、Heseptiの死後故Senta王(第2王朝5番目の王)の手に渡った。

見よ!、その本は再び足の下へ置かれ寺院の書記と偉大な医師である賢者ノフェルホテプ(第18王朝)によって安全に保管された。(中略)”

マネトーが彼の(王についての)本を通じて、こういう古い時代の事を私達に如何に詳しく教えてくれているか、そのことは、後世の著作者達が余りにもお粗末な引用しかしないものだから、私達に一層良く分かるのです。彼等はこの内容豊かな(古代についての)文献を、哀れなほど無知な用い方しかできず、そのことによって自らの理解力の貧困さを露呈しています。私達はマネトーの本の中に肝要なことが如何に多く含まれているかを知りそして驚きに打たれるのです。」


ブルクシュがこの部分で言いたいことは何か?それを理解するために最後の部分を付け加えました(コンテキストはこちらです)。ここでブルクシュはマネトーの記述がいかに委細を尽くしているか、そして後世の学者がいかにいい加減な読み方をしているかを言いたかったようです(うん、耳が痛い^^)。

しかし、これで何もかも明らかになりました・・・私のいい加減な英語の読み取り方が、理解を著しく損なって、無茶苦茶な結論を書き付けていたことまでも・・・(恥)
 

嬉しいような、悲しいような話

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月12日(金)05時31分26秒
返信・引用  編集済
  もう大声を上げての大騒ぎになってしまいました。ご面倒ですがこの一覧表の右端をご覧ください。昨日の形にする時間がないので・・・。

昨日より三人、学者が増えています。色々検索して探して書き加えていました「Passalacqua  Sakkara」で。つまり昨日の反証を求めていたのです、癪なことに集まってくるのです、ご覧の通り。

そこでもう一度ブルクシュに立ち戻って「Sochem Letopolis」で検索をし直していたら、妙なものに気付いて、念のために半ばヤケクソで確認に行きました。そして飛び上がってしまったのです、大声を上げてしまいました。これまでにも電子版の検索機能に疑いを持ち始めていたのと、テキスト版の存在を知っていたことが、幸いしました。電子版では「sochem」は一つしかヒットしなかったのです。テキスト版でページ内検索をしたのですが、念のためにもうワンクリックしたのです。そしたら次の「注」が存在していたのです。

「P. 58, near end. Add Note on the name 'Sochem': The Letopolis of the Greeks and Romans, still called by the Copts Ushem, after its old name.」

つまり昨日の推論は、ピタリ正解でした。なにもかも。ブルクシュがどうして「e」を「o」にしてしまったのか、それは分かりませんが・・・。

しかし喜んでばかりはいられないのです。「Berlin Papyrus」が発見されたのは「letopolis」か「sakkara」か?という話に矢張りなってしまったのです。これも昨日の予想が「当たった」と言えば当たってしまったのです・・・^^

今、こんなページを見付けました。「Medical Papyrus Berlin 3038はメンフィスの共同墓地sakkaraの甕の中から、ラムセス2世時代の裁判文書と一緒にPassalacquaによって発見された」と明確に書いてあります。


でも、ドイツ語で書いてあるから正しいとは限りません♪♪♪  あああ、なかなかこの泥沼から抜け出せない・・・ヽ(´ー`)ノ ワーィ!


これはラムセス4世の墓だそうです・・・
 

「Sakhur」「Sochem」「Sechem」「letopolis」の謎解き

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月11日(木)04時48分39秒
返信・引用  編集済
  お目触りかも知れませんがもう一度、この右端が今日のテーマなので・・・


最初にお断りしておかなければならないのは、これはあくまでインターネット上の話で、世界の全ての文献を調べた結果ではないということです。当たり前のことですが「ネット社会」では忘れられがちのことですので念のため・・・嘘つけ!自分を戒めているんだろ・・・ご名答。

(一)「Sakhur」は「Sochem」の積もりで使われました。
 「Sakhur」を使っているのはGerald MasseyJ.G.R.Forlongの二人(クリックしてください)です。そしてこの二人とも実はBrugschからの引用として「Sakhur」を用いています。ところがご覧頂けるようにブルクシュはその語を使っていません、「Sochem」を使っているのです。なのでハッキリ言えることは、「Sakhur」は、「Sochem」を引用するときの誤記です。二人が同じ誤記をするのは不思議なのですが、恐らくForlingの引用はMasseyを通じた孫引きだと思われます。ちなみに「Sakhur」で検索なさってみてください、他にもMasseyからの「孫引き」が有ることにお気付きになると思います。

(二)「Sochem」は「Sechem」の積もりで書かれました。
まずRawlinson(クリックしてください)はご覧の通りブルクシュの引用ですから、忘れましょう。ブルクシュは「Sechem」を写すときウッカリして「e」を「o」にしてしまったのだと、私は想像します。「sochem」で検索すると余分が沢山ヒットしますので「sochem letopolis」で検索してみてください。Brugschの著書(1875年)以外に、F.J.Lauth著「Aus Aegyptens Vorzeit」(1881年)とGeorge Rawlinson著「History of ancient Egypt」(1881年・これはご覧の通りBrugschの引用です)の2著、合計3件ヒットするだけです。ところが「sechem letopolis」で検索するとエジプト関係がざくざくヒットします。私の想像は当たっているのではないでしょうか・・・。

(三)「Sechem」「letopolis」は同じ場所の名前です。
検索していて「Papyrus of Ani」というサイトを見付けました。これを見なかったら、今日の推論は思い立たなかったと思います、見た途端に雷に打たれたように全てが見えた、そんな感じでした。下の方に良く出てくる地名とその通り名の一覧表が有ります、そこに「Sekhem=letopolis」と書いてあります。念のためですが漏すわけには行かないのが・・・「sechem」と「sekhem」です。これはこちらをご覧ください、言語の問題でした。

(四)結論:「Sakhur」、「Sochem」、「Sechem=Sekhem」、「letopolis」は同じ場所を指します。
引用の際のミス、転記ミスが前者2例を生みました。これらはカイロの北西12〜13キロの地名ですので、Dawsonの書いている「sakkara」(カイロの南)とは別の場所です。  以上。


Dawsonが何故「sakkara」としているのか、それを究明すると今日の結論が瓦解して出直さなければならないかも知れません・・・それはまた明日ということで・・・^^
 

「letopolis」と「Sochem」

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月10日(水)13時02分47秒
返信・引用  編集済
  これが最近修正した表です。

George R. H. Wright著の「As on the first day: essays in religious constants」によればなんとこの二つが同じ場所を指すことが分かりました。というか頭に来てこの二語で検索していて発見したと言うわけです。

Sochem」=「Sakhur」=「Sakkara」≠「Letopolis」という前提で話を纏めかけていた(でしょう?)私にはまるで青天の霹靂。どだい 「Sochem」=「Sakhur」=「Sakkara」と言う前提が文字通りの当てずっぽうだったので、天罰覿面。っていうか「sakkara」や「ルクソール(Luxorでは出ません)」や「テーベ」(南へスクロールして行くと「ルクソール」が有ります。そのナイルの西対岸に有ったのです)はGoogle Mapに出ていても、「Sochem」や「Sakhur」は無い、古代エジプトの遺跡地図にも見当たらないのだから、頭を抱えてしまうのです。

もう数日調べて分からなければ、その時は、ね、私には「老人呆け」という強力な壁(病垂の方かな)が有るのでそれを発動致しますが・・・。

「Letopolis」で検索していたらこんなあちらのBBSが有りました。古代エジプトについて活発な議論が展開されています。活発な議論と言えば私が時々覗く「進化論と創造論についての掲示板」と言うのが有ります。私のこのサイトを引用していたので発見しました。世間は広いようで狭もうございます・・・^^


こんなのもあります・・・。「Letopolis」はカイロの北西13キロとされているのですが・・・???
 

Re: 6-3=9 という話

 投稿者:邪魔風  投稿日:2010年 2月10日(水)09時05分30秒
返信・引用
  > No.4652[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

> 朝青龍にしろ押尾某にしろ小沢某にしろ間違った答えを書いてしまったのです。そして後で答えを突き付けられると「6-3=9」が既存の事実であるかのように誤認してしまいます。だから間違えて出してしまった「9」を問題にしないで出題の「6-3」をどうだこうだと言い始める、聞いている方は、あ、そうかもしれないと、催眠術にかかってしまうのです。

お言葉ですが、この論理(?)の逆もまた真かもしれないと考えないと、催眠術は解けないかと愚考します。
 
    (リベル) あ、北風さんいらっしゃいませ。お元気そうですね^^

>逆もまた真かもしれないと考えないと、催眠術は解けないかと愚考します

なるほどね・・・そうかもしれませんね・・・。(2010.2.10 12:21)
 

ピカソはデッサンを描かせたらめちゃめちゃ上手かった

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月10日(水)01時51分47秒
返信・引用  編集済
  関西発のテレビ番組「ちちんぷいぷい」というニュースショウでクイズ番組で活躍中の「京大芸人」がしたり顔でこう言ったので、腰を抜かしました。クイズ番組では博識ぶりに感嘆するのですが、これは一体何だ!と叫びたくなりました。何か大事なものをどこかに置いてきて生きていなさる。もっと色々なものを良く見聞きしないと変な人になってしまう・・・。


ゲルニカに至るにはキチントした基本の積み重ねが有った、当たり前!!!
 

6-3=9 という話

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月10日(水)00時36分39秒
返信・引用  編集済
  関西発のテレビ番組「ちちんぷいぷい」というニュースショウでこんな話を取り上げて居ました。足し算引き算を覚えかけた子が「6-3=9」と書いているので、これは間違いだから直しなさいと言ったら、「ハイ!」と即座に「-」に縦の棒「|」を書いて「+」にした、これ、どう思いますか?と出演者に問いかけるのです。

「最近のクイズ番組ブームの所産だとか算数ドリルの氾濫のせいだとか空論が飛び交っているので、僕は真相を話したくなりました。大人の人はあの式一つだけを見て色々言ってるけど、これって足し算引き算の問題が20問並んでいたんです。でついうっかり「+」だと思って「9」って書いただけなんです。直せって言われたので面倒臭いから棒を引きました。だって易しい問題ばかりだから間違えるわけ無いでしょ。」と当のご本人は言っているはずです。

そうなのです、大人は考えすぎるのです、視聴者の目を気にして何か尤もな理屈を付けようとします。私は「おとしどころ」は何なんだろうと片方の耳で聴きながら、こんなことを思っていました。

この子は「既存の体制」に逆らっているのではないかと。逆らうという意識はなくても問題に向かっているとき問題は印刷されていました、これは「既存」していたのです。書き終わってから「これ間違っているよ」と突き付けられたとき、そこには印刷と鉛筆の色こそ違え、一つの等式が有るだけなのです。等式が「既存」のものと化している。だから直せと言われたら一番楽な方法で等式を成立させれば良い、そう感じるのです。これが真相なのだと私は思う。

朝青龍にしろ押尾某にしろ小沢某にしろ間違った答えを書いてしまったのです。そして後で答えを突き付けられると「6-3=9」が既存の事実であるかのように誤認してしまいます。だから間違えて出してしまった「9」を問題にしないで出題の「6-3」をどうだこうだと言い始める、聞いている方は、あ、そうかもしれないと、催眠術にかかってしまうのです。


大人がこうだから、そういう子供が出てきても、仕方がないなあこりゃあ・・・とそんなことを考えている内に番組は他のテーマに移っていました・・・気楽な世の中です・・・
 

古代の話はまあこんなものですよ、という話

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月 8日(月)03時21分6秒
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  先にご紹介した「HISTORY OF EGYPT UNDER THE PHARAOHS」の第4章「THE CHRONOLOGY OF THE PHARAONIC HISTORY」はこのように始まります。

「If the reader's curiosity leads him to an enquiry concerning the epochs of time already fixed in the history of the Pharaohs, and to a critical examination of the chronological tables thus far composed by scholars, he must be strangely impressed by the conflict of most diverse views in the computations of the most modern
school. As to the era, for example, when the first Pharaoh, Mena, mounted the throne, the German Egyptologers have attempted to fix it at the following epochs:

              B.C.                    B.C.
Boeckh ......... 5702      Lepsius .........3892
Lauth  ......... 4157      Brugsch ........ 4455
Unger  ..........5613      Bunsen ......... 3623

The difference between the two extreme points of the series is amazingly great, for its number of years amounts to no less than 2079! In order to comprehend it more fully, let us suppose, for the sake of comparison, that, some sixty centimesドイツ語(12行目です)は「sech(s=ミス)zig Jahrhunderte」なので「sixty centuries」の誤訳だと思います) after our time, the learned world should launch out into a discussion about the date of the reign of the Roman Emperor Augustus, which began, as we at this day know exactly, at the year 30 B.C. Instead then of this correct date, our learned sages would differ so widely in their opinions, that one would propose the year 207 B.C. of our chronology as the highest date, another the year 1872 a.d. of the same chronology as the lowest, for the accession of Augustus.」

第1王朝のメナ王の即位の時期についてドイツのエジプト学者がそれぞれ算定した年代が如何にマチマチか、最大で「5702-3623=2079年」も差があるのです。これを現在の話に置き換えて面白くブルクシュさんは書いています。ローマ皇帝アウグストゥスの統治はB.C.30年に始まったと今では正確に分かっているのだが、6000年後の優秀な学者連中がその年代について論じ始めた時或る学者はB.C.207年だと言い、極端な学者は1872年(この本の英訳は1875年に出版されていますが、ドイツ語での出版年が分かりません)だと固執するようなものだと(207+1872=2079年)。

面白いのは実はここからなのです。ブルクシュさんが「HISTORY OF EGYPT UNDER THE PHARAOHS」を執筆したのが1875年だとしておきましょう。今から135年前のことです。その頃アウグストゥスの統治はB.C.30年("exactly"ですよ)からとされていたのですね。たった135年の間に、まあ6000年に比べれば「たった」でしょうね、その年代は「B.C.27年」へと3年変わってきていることに驚きます(国語中辞典は「オクタヴィアヌス」で引いてください、人名辞典では「アウグストゥス」で。文科省しっかりしてくれ!)。

歴史って難しいですね・・・でも面白い・・・♪♪♪


オクタヴィアヌス
 

奮戦、一念発起に至るか?

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月 8日(月)00時50分35秒
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  「エーベルス・パピルス」を調べるために「王朝一覧表」を添付しています。ふと気になってその前置きを読み始めたら、何の事やら皆目理解が出来ません。半ばムキになって昨日は歩くのを中止して取り組みました。分からないのも道理です、「サッカラの表」、「アビュドスの表」、「チューリン・パピルス」それぞれが大きな実体を持っていたのですから。そんなことは実は当然でこの表に目を通そうという御仁は既に相当のエジプト学者であるはずなのです。たとえばこの表はブルクシュの「A HISTORY OF EGYPT UNDER THE PHARAOHS」を読み進めてきて第6章に登場するのですから、十分なエジプト学の予備知識は身に付いている訳なのです。そんなわけで私も相当勉強しました。それは又後にして、その結果シャポリオン宜しく解読した結果が以下です・・・

「The following is the table of the pharaohs who succeeded Mena. This list is due to the discoveries of the tables of Saqqarah(サッカラ) and of Abydos(アビュドス), together with the fragments of the papyrus of Turin, which in its perfect state contained the same names, with the addition of the reign of each king. The names and the figures given in the Manethonian Canon complete our table. The Manethonian list of kings answering to those found on the monuments is given for the sake of comparison.」

「下の表はメナ王の後を継いだ王の一覧表です。これは「トリノ王名表」(the papyrus of Turin=Turin papyrus)の断片と一緒に発見された「サッカラの表(The Saqqara Tablet )」と「アビュドスの表(The Abydos King List)」に基づきます。「トリノ王名表」はもし完全な状態であれば、これらの一覧表と同じ王の名前と更にその統治期間も加えて記していたのです。なおこの表はマネトーの王名表(Canon)の王名と数字で補完しています。比較のために碑文から発見された王名表に対応するマネトーのリストを並べてあります。」


いかがですか?例えば「Turin papyrus」ってこんなものだとは想像もなさらなかったでしょう?しかも発見当時は遙かに良い状態だったのが保管状態が悪くてボロボロのなってしまったなんて・・・日本の文化庁(文部省も)の「高松塚」や「キトラ」の失態が思い浮かびます。何か色々知ってくれば来るほど、妙味が尽きなくなってきて、ひとつこれは大学へでも入って勉強し直すかなどと・・・北斎の元気が有ればやるだろうなあ・・・^^


 

葛飾北斎曰く・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月 7日(日)17時43分26秒
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  1834年・1835年(74歳・75歳)に刊行した「富嶽百景」の跋文にこう書いたそうです・・・

己六歳より物の形状を写すの癖ありて半百の比(ころ)より数々(しばしば)画図を顕すといへども七十年前画く所は実に取るに足るものなし。七十三歳にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり。故に八十歳にしては益々進み九十歳にして猶其の奥意を極め一百歳にして正に神妙ならんか百有十歳にしては一点一格にして生けるがごとくならん。願わくは長寿の君子予が言の妄ならざるを見たまふべし。

嘉永2年(1849)90歳の春、4月18日朝七ツ時(現在の4時頃)息を引き取ったと、160年前ですね。「葛飾北斎伝」にはこうあるそうです。

「翁、死に臨み 大息し天我をして十年の命を長ぜしめば、といい暫くして更に謂いて曰く、 天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし、と言い説いて死す

その意気たるやまさに軒昂!こういう境地も有るのですね・・・(思わず腕を組む・・・じゃなくて・・・拱く・・・ですか・・・^^;)


82歳の時の自画像です。


北斎と言えばこれですが・・・


アメリカの地質調査所が1983年に撮影したハワイ・キラウェア火山のマグマです。カメラマンに北斎の記憶が有ったのか、不思議ではあります・・・。(鎌田浩毅著「地学のツボ」(筑摩書房)より)
 

二つの結論!

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月 7日(日)05時15分22秒
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  昨日書いたとおり一覧表にしています。まだ未完成ですが数日ください。「エーベルス・パピルス」の内容の源泉を探ると遠い昔にまで遡ることは前に書きましたが、それは「Hesepti王」の時代でありその年代はB.C.2975〜2935年頃であることが分かりました。

次の結論にも大きく関係しますので触れておきますが、変な偶然があるのです。エジプトの第一王朝の年代について、英語のWikipediaと「世界考古学事典」が全く同じ数字を提示しているのです。「世界考古学事典」の方は「Cambridge Ancient History 3rd edition」と出典を明示しています。Wikipediaの方は出典を書いていませんが恐らく同じなのでしょう。

古代エジプト王朝の年代の算定は、マネトーを初めとする無数の文献・史料や天文現象との照合などから導き出されるそうですが、たとえばセンウセルト3世(B.C.1885年頃)の頃のシリウス星の日の出の時間とエジプト暦との照合に際しても、学者間で異同が生じて定まらないなどと、決定的・絶対的な年代算出は現在の所不可能に近いそうです。次の「エーベルス・パピルス」が書かれたとされる第18王朝のアメンホテプ1世に関してはWikipediaと「世界考古学事典」の数字はもう異なっています。私はケンブリッジを採用することにしました、今日の所は・・・ですね・・・^^この世界は明日何が発見されるか分からないから、こたえられない・・・ヽ(´ー`)ノ ワーィ!

「エーベルス・パピルス」の方はこのような結論を出しました。書かれた年は約B.C.1537年頃とはじき出されました。この表の右側に「ブルクシュの言う「the great medical papyrus」」というのが付いています。これは「Brugsch Papyrus」或いは別称「Berlin Papyrus」(だと思うのです)のことを洗い出します。どうも大きな勘違いをなさっている学者さんがいらっしゃるような気がして・・・明日挑戦します・・・どこまで脱線する事やら・・・(^^;)


これがエーベルスさんです(1837〜1898年)私より98歳年上です・・・「年上」って言うか・・・!!!


生まれたのはドイツ南部トゥッツィングです。ここからエジプトへ出かけたんですね・・・
Googleマップで見る
 

続・続・続・検証:エーベルス・パピルス(三)「エーベルス・パピルス」の歴史(1)いつ頃書かれたか 

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月 6日(土)04時00分24秒
返信・引用  編集済
  一昨日ここまで書いています・・・

●その翌年1998年にカーペンター(Stephen Carpenter)他が「THE EBERS PAPYRUS」の中でこう書いています・・・

「パピルスの原稿の最後(ここでは最後になっています)に有るカレンダーにはアメンホテプ1世の9年目に書かれたと記されており、それはB.C.1536年です。これは途轍もなく良くできた真っ赤な嘘か、真実かのどちらかなのですが、エーベルスは真実だと信じました。」

同じような話を列挙していますが次で終わりです。いずれ短く整理しますので、ご容赦ください・・・m(_ _)m

●2008年にウェンデル(F.C.H.Wendel)が「History of Egypt」の中でこう触れています。

Hesepti王すなわちマネトーの言うUsaphaides王は在位20年でしたが、これらの王の中でも特に文筆を好む性格でした。後にベルリンに保存された医学パピルスやエーベルス・パピルスに筆写された”leprosyの治療法”も彼の治世に遡ると言われています。」

と書かれた年代には言及していません。

以上1875年(「エーベルス・パピルス」が刊行された年です)のブルクシュの記述以後約130年間の色々な学者の記述を一瞥してみました。明日にでも私の好きな一覧表にしてみます。自ずから「いつ書かれたか」の答えが浮かび上がってくるでしょう。
 

日本最古の人骨?

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月 5日(金)03時52分56秒
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  昨日の朝日新聞の夕刊に報じられました。私は一瞬「ん?」と首を傾げました。「3万2000年前」という記憶がチラチラして、直ぐ調べはじめました。一眠りして再開。高校の日本史の教科書やら、「世界考古学事典」やら「ウィキペデイア」やらを読みまくりました。結局最終的に自分なりの結論に達して「人類歴史年表」にも訂正を入れて、ここへ書き込みに来ました。

時間がかかったのは、自分自身の頭の中が整理できていなかったからです。一体日本の「旧石器時代」って何万年前からなのか?「新石器時代」と「縄文時代」は同じ期間なのか?どう違うのか?などという極めて基本的な問いに正確に答えられない自分に頭に来て調べまくりました。エーベルス・パピルスどころじゃなくなって。上の基本的な問題の答えは確保しました、がここでは書きません。とても長くなりますので、また皆さんは既にしっかりした知識をお持ちだと思いますので。

それよりも朝日新聞の記事です。大体「石器」と「人骨」とに分けて整理しなければいけなかったのです。相沢忠洋は3万年前の「石器」なのです。記事は「人骨」でこれは3万2000年前の「山下洞穴人」と比較しなければいけないのです。それを整理しましたので、未だ体裁の上で整っていないところ(リンクの場所)はあるのですが、紹介させて頂きます。


●日本最古の人骨は、沖縄県那覇市山下町第一洞穴(やましたちょう)で1968年に発見されました。約3万2000年前とされる6〜7歳の子供の大腿骨と脛骨で、日本では最古級の現生人類の人骨とされています。現生人類の人骨は他に静岡県の浜北人(はまきたじん・約1.4万年前)と沖縄県の港川人(みなとがわじん・約1.8〜1,6万年前)が出土しています。なお2010年2月、沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で出土した人骨が、炭素年代測定によって約2万年前の旧石器人の骨であることが分かりました。(これまで最古とされる那覇市の山下町第一洞穴の骨(3万2000年前)も木炭での測定のため、年代観を疑問視する意見があります。)私は一応検証が進むまではこれを「最古」としておきます。

●1949年に相沢忠洋が群馬県みどり市笠懸町岩宿(いわじゅく)で関東ローム層中から発見した石器は少なくとも約3万年前(岩宿I石器文化)と約2万年前(岩宿II石器文化)の2種類有ります。その後1983年に岩手県遠野市で発見された金取遺跡(かねどり)は2003年7月約9万年前のものと分かりました。また2003年12月に、長崎県平戸市入口遺跡(いりぐち)で発見された石器は約9万年前、さらに2009年9月島根県出雲市の砂原遺跡(すなばら)から発見された石器は約12万年前のものとされていますが、これらは果たして人類の定住を証明するものなのか(或いはマンモスを追った通りすがりの人類だったのか)検証が待たれています。


以上を整理しながら、そして脱線して周辺情報を再確認しながらつくづく思ったのは、この辺のことに関する本が少ないことです。残念ながら付け加えておきますがウィキペディアは頼りにしてはいけません。執筆者の責任が曖昧なのと出典の明示が無い記述が多いからです。芸能人情報などには便利ですが、子供に何かを教える場合はみだりに信用してはいけません。一時執筆していた本人が言うのだからこんなに確かなことは・・・^^

お奨めできるのは、そして今回つくづく有り難かったのは三井誠著「人類進化の700万年」と河合信和著「人類進化99の謎」の二冊です。後者は私に「人類歴史年表」を決意させた張本人なのです、実は。

もう一つ、つくづく思ったのはこの種の本を書く学者(前に書いたお二人はいずれもジャーナリストです)が少ないのも尤もだと言うことです。理由はお察しの通り、今回のような発見や研究が相次ぐので自著があっという間に古い情報しかない書物と化すからなのでしょう。私がしょっちゅうお世話になる「世界考古学事典」にしても御多分に洩れません。1979年発行ということは約30年前です、そう古くはないと言いたくなるのですが、しかしこの本が出た頃「神の手」は未だ前期・中期旧石器時代の石器のカケラを掘り出していなかったのですから、この本には勿論カケラも出てはきません。


こんなのはいかがですか・・・^^
 

続・続・検証:エーベルス・パピルス(三)「エーベルス・パピルス」の歴史(1)いつ頃書かれたか 

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月 4日(木)03時49分18秒
返信・引用  編集済
  31日にこう書きました・・・

●1929年にウォーレン・ドーソン(Warren R. Dawson)は「Magician and Leech」でこのように書いています。

「「エーベルス・パピルス」はB.C.1500年頃書かれましたが、しかし実は何世紀も前の一連の書籍類から写されたものであるという、文献学や他の分野からの多くの証拠があるのです。これはパピルス自身の中で述べられていることですが、或る一節は第1王朝(B.C.3400年)に遡り、また他の抜粋は第6王朝(B.C.2345〜2181年)の女王と関連があるのです…(後略)」

ここから今日・・・

●翌1930年にCyril P. Bryanは「THE PAPYRUS EBERS」(2月2日の投稿の最後にチョッピリ触れていますが)の中でこう書いています・・・

「エーベルスは最初のページの裏に書かれた”カレンダー”の解釈に精力を傾注します。そして1875年に出版準備が整うまでに、彼は”確信と紙一重の予断”によってパピルスは1553〜1550B.C.に書かれたと明言することが出来ました。この年代は最初は各方面からの批判を受けましたが、ベルリンのEhrmannやオクスフォードのGriffithによって確実に保証されました。この二人はパピルスが転記されたのはお馴染みのツタンカーメンの丁度200年前の、アメンホテプ1世の統治下であったと特定したのです。」

ここではエーベルス自身が思い切って「1553〜1550B.C.」と断言したことが記されています。それから67年間誰もこの事について書かなかったとは信じられませんが、私の現在集めた限りの文献に従うなら・・・

●それから67年後の1997年、John Francis Nunnは「Ancient Egyptian Medicine」でこう書いています。

まず第2章「The medical papyri」の「最も重要な医学パピルス」には「1500B.C.」と書かれていますが、同じ章の中の「The Ebers papyrus」には次のように書かれています・・・

「裏ページの一節(Bryanのところで"カレンダー"と記した部分です)にアメンホテプ1世の9年目と記されておりこれはB.C.1534年頃です。(中略)このパピルスの一部はベルリン・パピルスとどちらが古いか年代を競い合っていますが、これは医学パピルス以外のパピルスでは良く見られる争いです。エーベルス・パピルスの”856”ではこう書かれています・・・

   人間の手足からwekheduを追い払うという記述が
   レトポリスのアノビス神の足下にあった著作類の中から発見され
   それは第一王朝のDen王にまで遡るものである

B.C.3000年頃まで遡るというこの記述は、パピルスを大いに権威づけようとしてなされたものです。」

これと同様の話は1929年にウォーレン・ドーソンが書いた「Magician and Leech」でも見かけました。

●その翌年1998年にStephen Carpenter他が「THE EBERS PAPYRUS」の中でこう書いています・・・

「パピルスの原稿の最後(ここでは最後になっています)に有るカレンダーにはアメンホテプ1世の9年目に書かれたと記されており、それはB.C.1536年です。これは途轍もなく良くできた真っ赤な嘘か、真実かのどちらかなのですが、エーベルスは真実だと信じました。」

今日書いた範囲だけでも、年代は4種類出て来ました。この辺はムキにならずに受け流すことを、幸か不幸か覚えてしまいましたが・・・では続きはまた・・・^^


今から3550年前にエジプト人が書いた実物写真です(「document」の幅が30センチだと言いますから、少し大きいかも)。実物はドイツのライプチッヒ大図書館でご覧ください。筆記用具はどんなものだったか、興味を引かれますね。
これは「尿・膀胱関係」の一枚です。右から左へお読みください・・・(^^;)
 

Re: 「人名歴史年表」90万アクセス!

 投稿者:あずき  投稿日:2010年 2月 3日(水)16時22分40秒
返信・引用
  > No.4643[元記事へ]

遂に90万のアクセス達成、ならびにお誕生日おめでとうございます。

> なぜ一万円札か?良おくご覧頂くと・・・^^

紙幣ナンバーが90万ですね。どこにあったのですか?

プレゼント♪
 
    (リベル) あ、あずきさんいらっしゃいませ。

>遂に90万のアクセス達成、ならびにお誕生日おめでとうございます。

有難う御座います。すなおに嬉しかったので書いてしまいました・・・^^

>紙幣ナンバーが90万ですね。どこにあったのですか?

いや、なに、たまたま札入れに入っていましたので・・・というのは勿論嘘でして、なあに「900000」で画像検索したらこんなのが有った、というのが真相でした・・・^^(2010 16:39)
 

「人名歴史年表」90万アクセス!

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 2月 3日(水)04時32分34秒
返信・引用
  遂に90万のアクセスに達しました。どうでも良いのでしょうが、嬉しいのです。後10万で100万突破です、大体一日に1000アクセス前後ですからあと100日、5月中に達成するかもしれません。

90万を越えたのが奇しくも75歳の誕生日当日だったのも、何となく嬉しいです・・・いい年して・・・ヽ(´ー`)ノ ワーィ!


なぜ一万円札か?良おくご覧頂くと・・・^^
 

続・検証:エーベルス・パピルス(三)「エーベルス・パピルス」の歴史(1)いつ頃書かれたか 

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月31日(日)05時08分21秒
返信・引用  編集済
  昨日はここまででした・・・

(1)いつ頃書かれたか

●先ず1875年、ブルクシュ(Brugsch)は「エーベルス・パピルス」が書かれた年代については触れていません。しかしこのパピルスは第一王朝の二番目の王Tetaの時代(B.C.3050〜3049年)に増髪法として重宝されたと書いています。

●その30年後、カール・フォン・クライン(Carl H. von Klein)は「エーベルス・パピルスの年代」の項を設けてこう書いています。

「このパピルスの書かれた年代は未だ確定していません。色々な説が有るのです。パピルスの外(裏表紙?:リベル)に付いている例のカレンダーはB.C.16世紀の第18王朝に触れこんな碑文を書き付けています。”偉大なるエジプトの王、アメンホテプ1世「永遠なる者」の9番目の年”(アメンホテプ1世は在位B.C.1546〜1526年です→9年目は1537年:2010.2.6追記)」

ここでちょっと立ち止まって整理しておくべき事があります。今私が追いかけているのは「エーベルス・パピルス」が書かれた年代=執筆された年代です。文献を読んでいくとき気をつけなければならないのは、文献には頻繁に「エーベルス・パピルス」の中に書かれて居る内容が大昔から伝わったものだ、ということが書かれている点です。少し前にブルクシュが第1王朝の増髪法について書いていますが、このような話が今後も頻出しますので、ご注意ください。次もそのことに詳しく触れています・・・。

●カール・フォン・クラインの24年後、1929年にウォーレン・ドーソン(Warren R. Dawson)は「Magician and Leech」でこのように書いています。

「「エーベルス・パピルス」はB.C.1500年頃書かれましたが、しかし実は何世紀も前の一連の書籍類から写されたものであるという、文献学や他の分野からの多くの証拠があるのです。これはパピルス自身の中で述べられていることですが、或る一節は第1王朝(B.C.3400年)に遡り、また他の抜粋は第6王朝(B.C.2345〜2181年)の女王と関連があるのです。ただこのような記述は実質的に年代を特定するものとは言えません。と言うのも、エジプトでは(他でも有ることですが)、書籍の価値や権威を高めるためにその本の起源を極力古いものにすると言うのが、よくある手法だからなのです。しかしながら幸いにも、私達はエジプトの古文書の年代について、そのような記述に頼る必要はありません。我々のパピルスについての書式・文法・古文書学上の知識のおかげで、私達は古文書を極めて正確に年代通りに並べることが出来るのです。それによると「エーベルス・パピルス」の引用元になった書籍類は第12王朝か第13王朝(B.C.1900〜1700年頃)に書かれています、ただ取り上げられた事実は更に何世紀も遡るだろうと思われますが。」

ここでも書かれた年代はB.C.1500年頃としていますが、これまで読んだものと明確に違うのは「エーベルス・パピルス」は古い文書の写しだと断言し、それもB.C.1900〜1700年頃のものだと年代まで絞り込んでいることです。原文ではこれに続いて「少なくとも40種類の古文書」から引用していると書いてあります。しかし最後にちらりと付け加えているように、第1王朝に遡ることを否定はしていません。

続く・・・
 

続・続「White Yajur Veda or Vajasaneya Samhita」(備忘録)

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月31日(日)02時47分30秒
返信・引用  編集済
  Ralph T.H. Griffith訳の「The Texts of the White Yajurveda」、「BOOK THE THIRTIES」の「17」と「21」に「leper」が出て来ます。

17 For Abhorrence a Paulkasa; for Colour a goldsmith; for
Balance a merchant; for Repentance a sluggard; for All
Spirits a leper; for Prosperity a watchful man; for Failure
a sleepy man; for Mischief a chatterer; for Misfortune
a shameless man; for Undoing one who cuts up into small
pieces;

21 For Fire a fat man; for Earth a cripple; for Wind a
Chāndāla; for Mid-Air a pole-dancer; for Sky a bald-head;
for the Sun a green-eyed man; for Stars a spotty man;
for the Moon a leper; for Day a white yellow-eyed man;
for Night a black man with yellow eyes.


もう一つ「The Yajur Veda (Taittiriya Sanhita) 著者: Arthur Berriedale Keith」が有ります。「KANDA U」の「.2.10.」に「leper」が出現しています。

「地域別の歴史年表」のB.C.1000〜800年の所を「「ヤジュル・ヴェーダ」や「アタルヴァ・ヴェーダ」に「kilāsa」と記される【注60】」と修正。【注60】は・・・

・サンスクリット語では「ハンセン病」を「kuṣṭha」、「ハンセン病の白斑点」を「kilāsa」と言います。「アタルヴァ・ヴェーダ」のサンスクリット語の原典((AVŚ_1,23.1c) idaṃ rajani rajaya kilāsaṃ palitaṃ ca yat )と英訳( So, Rajani, re-colour thou these ashy spots, this leprosy.)では、後者の方が、使われていることが分かります(参考)。
・Walter Addison Jayne著「The Healing Gods of Ancient Civilization」(ページ画像)に「ヤジュル・ヴェーダ」にも「kilāsa」の記述があると記されています。サンスクリット語の原典は見当たりませんが英訳は2種有ります。Ralph T.H. Griffith訳「The Texts of the White Yajurveda」の「BOOK THE THIRTIETH」(No.17:for All Spirits a leper、No.21:for the Moon a leper)とArthur Berriedale Keith著「The Yajur Veda (Taittiriya Sanhita)」(ページ画像)です。いずれも「leper」は有りますが「leprosy」は有りません。

なお「ハンセン病の最古の記録」には未だ手を入れておりませんが、早晩・・・と・・・^^
 

「切り解く」???

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月31日(日)01時17分52秒
返信・引用
  ナンバークロスワードパズル略してナンクロというパズルはご存知の方も多いと思います。この板でも一度頻出する仮名は「イ、ン、ウ、カ、シ、ツ、ク、キ」だという研究結果を発表したことがあります。一時はパズル作家になろうかと雑誌社に作品を送ったこともあるほどの熱の入れようだったのですが、今はトンとご無沙汰です。ですが連れ合いがズット続けているのです。

昨日こんな事がありました。或るパズルを解き終わって、出て来た解答を言われた順に並べると何か四文字熟語などが出来る、それを解答として雑誌社に送るとテレビとか手拭いとかが当たるというような仕掛けなのです。

連れ合いが「きりとく」って有る?と聞きます。ええっ?無いなあ。辞書を引いてもない。広辞苑、大辞林、新明解、大辞泉はては日本国語大辞典、全部有りません。そもそも解答が間違ってるんじゃないのと確かめますが間違っていない。万策尽きたとき私がお世話になるのは検索です。一昨日も「Richas」が辞書になくて検索で「Hymns Of The Rig Veda」と発見したばかりです。

いきなり目に飛び込んできたのは「デジタル大辞泉」、「きりほどく=結んであるひも・縄などを切ってほどく」。大体あんたが「きりとく」って訊くから・・・などとは申しません。どちらの頭も固くなって来てるなあ・・・と、慨嘆しきりではありました・・・^^
 

大失敗!

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月30日(土)17時57分14秒
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  先程一つどうでも良い投稿をして邪魔風さんの投稿に気付き、おや、と思い自分の投稿を先にしようかと置き換えようとしていたら、邪魔風さんの投稿がどこかへ消えてしまいました。本当に申し訳ありません。時々こんなことを平気でやっているのかも知れないと、まあゾッとします。

邪魔風さんよろしければ、再度ご投稿ください、よろしくお願いします。粗忽者に拍車がかかってきて、どうしようもありません・・・ご免なさい・・・m(_ _)m


にゃんともはや、もうしわけにゃあです・・・
 

検証:エーベルス・パピルス(三)「エーベルス・パピルス」の歴史(1)いつ頃書かれたか 

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月30日(土)04時28分9秒
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  検証:エーベルス・パピルス

(一)Heseptiはハンセン病だったか?
   →No!

「In Egypt, Huspati (Horus-Den), a quasimythical Thinite Icing of the First Dynasty (〜3500 BC), is reported in papyrus dating from /- 1500-1200 BC as having suffered from a disease whose signs are evocative of leprosy.」としているのはLechat氏だけでした。何かの間違いをなさっていると思います。

(二)「エーベルス・パピルス」に「leprosy」の記述は有ったか?
   →Yes!

学者の研究では明確な表現の証拠は未だ見いだせませんが、何らかの言及があったことは複数の学者が触れております。以後の研究で「スシュルタ・サンヒター」における「kușțha」のような確実な証拠を掴みたいと思います。

で本来の目的は達成したのですが、次は・・・

(三)「エーベルス・パピルス」の歴史
  (1)いつ頃書かれたか
  (2)どのように発見されたか
(四)「エーベルス・パピルス」の内容
  (1)古代エジプトのパピルス文書(パピルス全体、医学パピルス)
  (2)使われた文字
  (3)「エーベルス・パピルス」の構成
  (4)「エーベルス・パピルス」の記述内容


を整理しておきます。海外も含めてキチント纏めたものが見当たらないので腹立ち紛れ、ということで・・・。この結果は(一)、(二)は「地域別の歴史年表」に各1行、その各々の注に数行、(三)、(四)は「参考」の部分に数行として反映されることになります。


(1)いつ頃書かれたか

先ずブルクシュ(Brugsch)は「エーベルス・パピルス」が書かれた年代については触れていません。しかしこのパピルスは第一王朝の二番目の王Tetaの時代(B.C.3050〜3049年)に増髪法として重宝されたと書いています。その30年後、カール・フォン・クライン(Carl H. von Klein)は「エーベルス・パピルスの年代」の項を設けてこう書いています。

「このパピルスの書かれた年代は未だ確定していません。色々な説が有るのです。パピルスの外に付いている例のカレンダーはB.C.16世紀の第18王朝に触れこんな碑文を書き付けています。”偉大なるエジプトの王、アメンホテプ1世「永遠なる者」の9番目の年”(アメンホテプ1世は在位B.C.1546〜1526年です)」

続く・・・


アメンホテプ1世
 

斟酌

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月30日(土)01時37分39秒
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これは昨日の朝日新聞夕刊からです。私が平野氏の発言を最初に聞いたのはテレビのニュース番組でだったと思いますが、聞いた途端に「げえっ!」と思いました。凄いことを言ってしまった、と。しかし後にどこかのメディアがフォローしていましたが私も咄嗟にこれって立場上責任をしょっかぶる積もりでの発言だろうと解釈しました。逆に言えばそうとでも解釈しなければとんでもない失言だからです。平野官房長官はこう発言しておくことで今後の政府の、鳩山さんの歩く道の雪掻きをしておいた、そう解釈しました。お役目大変だなあと斟酌した次第です。

いや私は普天間基地は「県外」か「国外」でなければならない派です。先日書いた「そもそも論」が手遅れである限り、仕方がない選択です。2月は「逃げる」、3月は「去る」と言います。直ぐ5月です。小沢逮捕、朝青龍解雇、普天間の行き先・・・忙しいことではあります・・・^^
 

続・「White Yajur Veda or Vajasaneya Samhita」(備忘録)

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月30日(土)00時25分24秒
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  昨日の備忘録の最初の一節から、形容句の部分を省略して下の文章を取り出しました。

Though ranking second in the Indian enumeration of the Vedas and containing much that is of very ancient origin, its compilation in its present form is evidently of later date than that even of the Atharva.

新英和大辞典や高校の時の文法の参考書まで動員して汗まみれ・頭痛鉢巻きで取り組まなければ前に進みません。若い時になぜもっと勉強していなかったのかと、愚痴をこぼしながらも、「 駑馬十駕」とか「読書百遍意自ずから通ず」と唱え自分を励まして戦っております。

「インドのヴェーダ文献としては二番目に数えられ、かなり古い起源を持つ内容も含んでいるのですが、しかし「ヤジュル・ヴェーダ」が現在の形に編集されたのは明らかに「アタルヴァ・ヴェーダ」より後です。」

これを書いているRalph T.H. Griffithという人は「リグ・ヴェーダ」も「アタルヴァ・ヴェーダ」も全巻英訳している超ベテランですから、発言は重いです。

昨日調べた中に、『(「ヤジュル・ヴェーダ」はそのverseやhymnを)「リグ・ヴェーダ」と時々「アタルヴァ・ヴェーダ」から借りてきている』という事実がありました。これだけでどちらが先に書かれたかは断定出来ないのではないかと思い、断定を今日に先延ばしにしていました。先程印刷した文章をトイレで読んでいて、冒頭に書いたような理解に達しました。

どうやらGriffith氏は「アタルヴァ・ヴェーダ」が先だと仰有っています。私は実は今日目覚めるとき床の中で或る結論を準備してしまっていました。紀元前1000年頃の話だ、こちらは何年に書かれ、あちらは何年に書かれたというハッキリした事が記録として出現するまでは、早急に決定することは避けた方が良い、というより無駄なのではないか、と。

世界大百科事典が「ベーダ時代」で書いているように、 前期 (前1500ころ‐前1000ころ)に「リグ・ヴェーダ」が編まれ、後期 (前1000ころ‐前700から前600ころ)に「サーマ・ベーダ」などの 3 ベーダが編まれた・・・そう把握しておけば良いのだ。「ヤジュル・ヴェーダ」と「アタルヴァ・ヴェーダ」の年代争いは新しい文献か記録の発見に委ねて、この課題は終わりにしよう・・・と。

そして、「エーベルス・パピルス」の続きに戻ることにいたします。脱線はほどほどにして線路を本線にもどして行かないといつになったら「らいからハンセン病」の年表が完成するやら・・・先が短いというのに・・・明日私は「後期高齢者」の仲間入りをいたします・・・^^。

急がなければ・・・ね・・・(^^;)
 

「White Yajur Veda or Vajasaneya Samhita」(備忘録)

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月29日(金)03時58分2秒
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  White Yajur Veda or Vajasaneya Samhita

PREFACE.

THE YAJURVEDAderived from the roots yaj, to sacrifice or, worship, and vid, to know,is the Knowledge of Sacrifice or Sacrificial Texts and Formulas as distinguished from the Rigveda or Knowledge of Recited Praise, the Saveda or Knowledge of Chanted Hymns, and the Atharva or Brahmaveda which is the Knowledge of Prayer, Charm, and Spells. Though ranking second in the Indian enumeration of the Vedas and containing much that is of very ancient origin, its compilation in its present form, exhibiting as it does the almost complete development of castes and mixt castes and considerable advance in arts and sciences, trades, handicrafts and occupations, is evidently of later date than that even of the Atharva. The Samhitā or Collection of its hymns, texts, and formulas, constituting the hymn-book and prayer-book of the Adhvaryu priests as distinguished from the Hotar, the Udgar, and the Brahman, the special priests, respectively, of the three other Vedas, owes its origin to the increasing multiformity and complication of the Indian ritual and the recognized insufficiency of the simple and unsystematically arranged Collection of Rigveda Hymns to meet the requirements of the performers of various essentially important rites and ceremonies.

The Yajurveda, owing to a schism among its earliest teachers and their followers, was divided into two distinct Samhitā or Collections called probably from the names of the Rishis or inspired Seers who, ate respectively their reputed compilersthe Taittirïya and the Vājasaneya or Vājasaneyi; the former and older being known also by the title Krishna or Blackprobably from its dark or obscure appearance, the collection of sacrificial texts and formulas being perplexingly intermingled with the Brāhmana or exegetical portion which explains them and teaches their ritual application, and the latter being called Sukla or White, the revised, systematic and clear collection, containing the texts and formulas by themselves with a totally distinct Brmana, the Satapatha, as an appendix. In the two divisions, besides these essential points of difference, are found occasional verbal and orthoepic variations which are generally of little importance. The order of rites and ceremonies is substantially identical, but the White contains a few more texts than the Black.

The Samhitā of the White Yajurveda consists of forty Adhyas or Books containing, with frequent repetitions of the same text, about two thousand verses. A large portion of these are Richas(リグ・ヴェーダのhymnです) or Strophes(節、連です) borrowed frequently with variations from the Rigveda, and sometimes from the Atharva these, of course, are metrical. Nearly equal in quantity are the Yajus texts or sacrificial formulasthe most characteristic portion, from which the Veda derives its namecomposed in measured prose 'which rises now and then,' as Professor Weber observes, 'to a true
rhythmical swing,' and long passages, such as the lists of victims to be tied up and dedicated at the Asvamedha and the Purushamedha, which are necessarily in the simplest prose.

For further information with regard to this Veda the reader should consult Professor Weber's History of Indian Literature (English Translation by John Mann and Theodor Zachariae: Trner's Oriental Series); Professor Max Mler's History of Ancient Sanskrit Literature; Professor J. Eggeling's Introduction, Vol. XII. of the Sacred Books of the East, or, for a briefer account, Mrs. Manning's Ancient and Mediaeval India, Vol. I. pp. 107-109.

My translation follows the fine edition of the White Yajurveda or Vājasaneyi-Sanhitā, in the two recensionsthe Mhyandina and the Kva, with Mahhara's Commentary, the Vedada, or Lamp of Knowledge, written towards the close of the sixteenth century, published under the patronage of the Honourable Court of Directors of the East India Company in 1849 at Berlin by Dr. Albrecht Weber, at that time Docent of the Sanskrit language at that University. This excellent edition consisting of three Parts the latter two of which contain the Satapatha-Brmana in the Mhyandina recension with extracts from the Commentaries of Sana, Harisvin, and Dvivedaganga, and the Srautra-Sra of Kyana with extracts from the Commentaries of Karka and Ykadeva, has not been reprinted and is now practically unobtainable. In India the text of the Mhyandina recension with Mahhara's Commentary has been issued in a cheap form at Calcutta by Pandit Janda Vidyara, B. A., Superintendent of the Free Sanskrit College, of which a second edition appeared in 1892; and a lithographed edition of the text with a Hindi translation of Mahhara's Commentary was published in 1874, at Besma in the North-Western Provinces, by R Giriprasavarman of that place. A cheap edition of the text, in unbound MS. form, has been published at Bombay.

No separate translation of the whole Samhit or Collection of Texts and Formulas has appeared in any European language. It was Professor Weber's intention, as signified in his History of Indian Literature, to bring out a translation giving the ceremonial belonging to each verse, together with a full glossary, but 'this promise has not been fulfilled, owing to the pressure of other labours.' This scholar had previously published a Latin translation, with annotations in the same language, of Books IX. and X. in his Vasaneya-Sanhitae Specimen (Breslau, 1846), and more recently a German version of Book XVI. in Indische Studien II. pp. 14 ff., and of the list of men and women to be dedicated at the Purushamedha in his treatise on Human Sacrifice among Indians of the Vedic Age reprinted in his Indische Streifen I. pp. 76-84. Of Book XL. as an Upanishad there are several translations into English.

Moreover, nearly the whole of the first eighteen Books has been incorporateddissected and explained clause by clausein the first nine Books of the Satapatha-Brāmana; and an admirable translation of this vast work by Professor Julius Eggeling is now nearly completed in the Sacred Books of the East, four volumes (XII, XXVI., XLI., XLIII. of that series) having already appeared, and the concluding volume (XLV) being in the press. From this translationwhich, but for its bulk and costliness would make half of my work superfluousand from Professor Eggeling's annotations, I have derived the greatest assistance, and most gratefully record my obligations.

All that I have attempted to do is to give a faithful translation, to the best of my ability, of the texts and sacrificial formulas of the Veda, with just sufficient commentary, chiefly from Mahhara, to make them intelligible. Much additional information way be found in Professor A. Hillebrandt's Ritual-Litteratur, Vedische Opfer and Zauber (Grundriss der Indo-Arischen Philologie and Altertumskunde), Strassburg: 1897; and further minute details of the various sacrifices, rites and ceremonies are given in the Satapatha-Brāmana as already mentioned, and in various articles, referred to in my notes, by Professor A. Weber, the great authority on the Yajurveda and all that is connected with it.

R. T. H. GRIFFITH.

KOTAGIRI, NILGIRIS
May, 1899.

このページの下の方に大きな表があります。これは極めて興味深い一覧表で、「ヤジュル・ヴェーダ」に有る「verse=詩節・文言」と全く同じものが「リグ・ヴェーダ」や「アタルヴァ・ヴェーダ」に有ることをその場所まで示してくれているのです。

たとえば一番最初の「Rigveda Book 1」の「1.7-9」は・・・

「7 To thee, dispeller of the night, O Agni, day by day with prayer
Bringing thee reverence, we come
8 Ruler of sacrifices, guard of Law eternal, radiant One,
Increasing in thine own abode.
9 Be to us easy of approach, even as a father to his son:
Agni, be with us for our weal.」


それに対応している「19」をクリックすると「ヤジュル・ヴェーダ」のその部分が出てきます(チョット時間がかかります)。「22」の3行目から「24」までが全く同じ文章になっています(勿論翻訳者が同じR.T.H.GRIFFITHだからですが)。

これは何を意味するのでしょう?上の英文の中に太字で示していますが、『「リグ・ヴェーダ」と時々「アタルヴァ・ヴェーダ」から借りてきている』と書いてあります。この一事をもって、「アタルヴァ・ヴェーダ」の方が前の時代に書かれたと断定しても良いのでしょうか?その断定は明日に回しましょう・・・^^
 

ベーダ Veda(世界大百科事典から)(備忘録)

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月29日(金)03時38分32秒
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  古代インドのバラモン教の聖典の総称。インド最古の文献であり,古代インドの宗教,神話はもちろん,社会事情一般を知るうえで不可欠の重要な資料とされる。 〈ベーダ〉という語は,〈知る〉を意味するサンスクリットの動詞語根ビド vid‐から派生した名詞で,もともとは知識一般を意味するが,とくに聖なる知識,宗教的知識を指すようになり,転じてそのような宗教的知識を収めた聖典の名称となった。バラモン教は,前 1500 年前後にインド亜大陸に侵入したインド・アーリヤ民族の民族宗教であるが,祭式を行って神々に供物をささげ,それによって神の恩恵を期待するという祭式主義をその根幹としている。ベーダはこの祭式の実用のために成立し,つねに祭式との密接な関連のもとに発達した文献群で,祭式を実行する祭官の役割分担に応じて, (1)《リグ・ベーダ》,(2)《サーマ・ベーダ》, (3)《ヤジュル・ベーダ》,(4)《アタルバ・ベーダ》の 4 種に分けられる。当初は前 3 者のみが正統の聖典として〈3 ベーダ〉と呼ばれたが,後世になって,通俗信仰と関連しつつ成立したアタルバ・ベーダも第 4 のベーダとして聖典の列に加えられた。(これは書かれた時期には関係しない:リベル注)

 この 4 ベーダのそれぞれは,内容上,次の 4 部門に分類される。

(1)サンヒター マントラmantraすなわち祭式で唱えられる賛歌,歌詞,祭詞,呪文を集録した文献で,〈本集〉と訳される。

(2)ブラーフマナ サンヒターに付随する文献で, ビディvidhi (儀軌) すなわち祭式実行の諸規則を述べる部分と, アルタ・バーダartha‐v´da (釈義) すなわち祭式の由来や意義を説明する部分とを含む。

(3)アーラニヤカ´ralyaka 秘密の祭式や神秘的教義を収める文献で,人里を離れた森林で伝授されるべきものとされた。この名称は,森林を意味する語〈アラニヤ aralya〉に由来する。

(4)ウパニシャッド 梵我一如の思想を代表とするさまざまな哲学的考察を,主として問答形式で展開する文献で, 〈ベーダの終末部〉あるいは転じて〈ベーダの窮極〉という意味で, 〈ベーダーンタved´nta〉とも呼ばれる。

 以上の 4 部門を 4 種のベーダのそれぞれが含むので,たとえば《リグ・ベーダ》は,これに属する 4 部門の総称であるのが本来であるが,狭義の〈ベーダ〉として,たとえば《リグ・ベーダ》が《リグ・ベーダ・サンヒター》を意味するように,それぞれのサンヒターを指して単に〈ベーダ〉ということが多い。

 以上のように,それぞれに 4 部門を含む 4 種のベーダの全体が〈ベーダ〉聖典であるが, 〈ベーダ〉が 4 × 4 = 16 点の文献で構成されているわけではない。各ベーダともに,成立当初から伝承する学派の分裂を繰り返し,そのたびに学派の別立によって異なるサンヒターの伝本が生み出され,祭式規定の解釈の相違により別種のブラーフマナが作られるなど,おびただしい数の文献が続々と生み出された。それらの多くは歴史とともに込滅 (いんめつ) し,現在まで伝えられているのはそのごく小部分にすぎないが,それでもなお複雑な文献組織を呈している。バラモン教においては,〈ベーダ〉は人間の手になるものではなく,神の啓示を聖仙 (リシnoi) が神秘的霊感として感得したものと考えられ, 〈シュルティ⇒ruti (天啓) 〉と呼ばれる。これに対して,聖仙が自ら叙述したものとされる文献群として〈スムリティsmnti (聖伝) 〉があり,さまざまな種類の文献を含むが,〈ベーダ〉に関連したものとしてとくに重要であるのが〈ベーダーンガved´△ga〉である。これは〈ベーダ〉文献の発達に伴い,その理解を助けるための補助学として成立したもので, (1)シクシャー⇒iko´(音声学),(2)カルパ・スートラ(祭式学), (3)ビヤーカラナvy´karala (文法学),(4)ニルクタnirukta (語源学), (5)チャンダスchandas (韻律学),(6)ジョーティシャjyotioa (天文学) の 6 部分より成るが,とくにカルパ・スートラは,バラモン教祭式の実際を知るうえできわめて重要である。

 ベーダの成立年代は,古代インドの事がらの常として,これを確定することは不可能に近い。現在のところ,おおまかな推定として,最古層にあたる《リグ・ベーダ・サンヒター》の成立が前 1200 年を中心とする数百年間,最新層に属する〈古ウパニシャッド〉の成立が前 500 年を中心とする数百年間と考えられている。ベーダは成立当初以来もっぱら口伝によって継承され,文字によって書き記されるようになったのは相当後世になってからのことであるが,その口伝の正確さは驚嘆に値する。ベーダの言語はいわゆるサンスクリット (梵語) に属するが,狭義のサンスクリットすなわち古典サンスクリット Classical Sanskrit と比較してさらに古い語形を呈しているので, 〈ベーダ語〉と呼ぶことが多い。もちろんベーダ語にも新旧の層があり,最古層は《リグ・ベーダ・サンヒター》に認められ,最新層の〈古ウパニシャッド〉の言語は古典サンスクリットに接近する。

 サンスクリット,とくにベーダ語の発見が 19 世紀ヨーロッパにおける比較言語学の興起をもたらしたことはよく知られている。 15 世紀末のインド航路が開かれて以来,インドの事情がしだいにヨーロッパに知られるようになると,ベーダも断片的にではあるが紹介されはじめた。 19 世紀にいたってようやく本格的なベーダ研究が始められ, F.M.ミュラーなど数多くの学者によって原典の出版,翻訳,各種の研究が行われるようになり,ベーダ聖典の輪郭が明らかになった。しかし,今なお不明の部分の方が多いといっても過言ではなく,現在も各国の研究者により多方面からの研究が続けられている。 ⇒ベーダ時代(吉岡 司郎)


なお「万有百科大事典」には「ベーダ」としての立項もなく「インド・パキスタン文学」や「インド哲学」の項の中で取り上げて居ますが、新しく追加すべきものは見当たりませんでした。(2010.1.30追記)
 

ベーダ時代(世界大百科事典 )(備忘録)

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月29日(金)03時32分30秒
返信・引用
  インド,ベーダ聖典の成立した時代で,前期,後期の 2 期に分かれる。

(1) 前期 (前 1500 ころ‐前 1000 ころ)  前 1500 年ころインドに入ったアーリヤ人は, ダーサ,ダスユと呼ばれる黒色,低鼻の先住民を征服しつつ,パンジャーブ地方で牧畜を主とし農業を副とする生活を始めた。彼らは自然を神格化した多数の神々を崇拝し,祭火をたき,賛歌と供物をそれらの神々にささげた。やがて祭式を専門にとり行う司祭者も現れ,彼らの手で賛歌集《リグ・ベーダ》が編まれた (前 1100 から前 1000ころ)。この聖典から知られる時代を前期ベーダ時代と呼ぶ。

 この時代のアーリヤ人は部族,氏族を単位として行動し,ラージャン r´jan と呼ばれる首長がこれを率いた。首長の権力行使は,サバーsabh´,サミティsamiti と呼ばれる部族集会により制限を受けている。彼らは青銅を知っていたが,鉄の使用はまだ始まっていない。最も重要な財産は牛であり,農作物の中心は大麦であった。馬は戦車を引かせるために用いられた。二輪の戦車の機動力が先住民に対する軍事的優位をもたらしたようである。アーリヤ人の進入当時,インダス文明はすでに衰退していたが,先住民の間にはかなり高度な農耕文化が存在していた。先住民のなかにはアーリヤ人部族と対等な関係をもつ者も多く,両民族の間には,早くから人種的・文化的融合がみられた。

(2) 後期 (前 1000 ころ‐前 700 から前 600 ころ)  アーリヤ人の一部は,前 1000 年ころから東方のガンガー (ガンジス) 流域に進出し,やがてこの地で農耕社会を完成させた。鉄の使用も前 800 年ころからしだいに普及し,また水稲栽培も広くみられるようになった。この時代の前半には《サーマ・ベーダ》などの 3 ベーダが編まれ,後半には〈ブラーフマナ (祭儀書) 〉〈アーラニヤカ (森林書) 〉〈ウパニシャッド (奥義書) 〉と呼ばれるべーダ聖典が成立している。二大叙事詩《マハーバーラタ》と《ラーマーヤナ》の原初形の成立もこの時代である。後期ベーダ時代は,こうした文献と考古学の調査に基づき研究されている。

 この時代は政治的にみると,王権が伸張しガンガー川の上流域に部族王制をとる国家が成立した時代である。また宗教的にみると,祭式の重要性が高まり,祭式を独占した司祭階級バラモンが特権的地位を獲得した時代である。一方,こうしたバラモン教の祭式至上主義を批判する者たちによってウパニシャッド哲学が発達させられた。業・輪廻思想が成立したのもこの時代である。

 すでに前期ベーダ時代に,アーリヤ人部族の内部には首長を中心とする有力者,世襲的司祭者,一般部族民という 3 階層への分化がみられた。後期ベーダ時代になるとこれらの階層は排他性を強め,クシャトリヤ,バラモン,バイシャの 3 バルナ (種姓) が成立した。また彼らの下には,征服された先住民を主体とする隷属民が,シュードラ・バルナとして位置づけられた。ここにカースト制度の初期の形態であるバルナ制度が誕生した。後期ベーダ時代における以上のような政治,経済,社会,文化の発達を土台として,つぎの仏教成立時代の繁栄がもたらされた。 (山崎 元一)
 

発見!最古の「leprosy」?

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月28日(木)03時41分5秒
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  昨日紹介した「Healing Gods of Ancient Civilizations」を「leprosy」で検索したらとんでもないものが出てきました。「Yajur veda」です。まあこれをご覧ください。左ページの色が付いているところです。「kilāsa(leprosy) in ]]]17.」と書いてあります。これは本当に飛び上がりました。そして調べましたとも、「Yajur veda」。これは私が最古の出典としている「Atharva Veda」より古い文献です。サンスクリット語の原典が未だweb上に見付からないのですが、英訳は有りました。17に「for All Spirits a leper」と有ります。

「Yajur veda」と「Atharva Veda」の成立年代を特定出来る資料は未だ見付かりません。ただ「リグ・ヴェーダ」、「サーマ・ヴェーダ」、「ヤジュル・ヴェーダ」、「アタルヴァ・ヴェーダ」を4ヴェーダと呼び習わし、そもそもは最初の三つだけを聖典としていたが後に「アタルヴァ・ヴェーダ」も「ヴェーダに列せられ」たと中村元著「インド思想史」(p.17)は記し、「アタルヴァ・ヴェーダ」は「はじめはヴェーダとしての権威を認められなかった」、「(四つのヴェーダの内)最後にできた」と「インド伝統医学入門」(p.17)も述べています。なおwikipedia「Yajurveda」はB.C.1400〜1000年としていますが、出典が記してないので、当てにはなりません。

いずれにしても「最古の記録はアタルヴァ・ヴェーダ」であるとした、私の説は修正を迫られることになります。もう少し年代の資料を集めてから改訂します。

なお上の「Healing Gods of Ancient Civilizations」の右ページに「Atharva Veda」の記述が有りますが「kilāsa」を完全に見落としています。これは著者Walter Addison Jayneのミスです。私が生まれる10年前の話ですが・・・^^
 

エジプト文明の中の「エーベルス・パピルス」」

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月28日(木)02時11分57秒
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  「エーベルス・パピルス」などという文化の端末に耽溺しているとき、時々「世界史」の中での「エジプト文明」を読み返すような作業を入れます。昨日、J.M.ロバーツ著「世界の歴史・歴史の始まりと古代文明」と青柳正規著「興亡の世界史・人類文明の黎明と暮れ方」を開いてみました。

後者は各古代文明の興亡の編年史を踏まえつつ諸文明を比較する、という文明論を目指して執筆された感じでとても面白く読ませてくれます。先ずエジプト文明はアラブによってA.D.640年に滅ぼされるまで何と3000年の長きにわたって続いた文明であり、世界で他に例を見ないと感激されます。

面白いのはメソポタミア文明との比較で、この二つの文明の運命を大きく左右したのはナイル川とティグリス・ユーフラテス川の性格の違いだとします。いずれも大洪水をもたらすのですがティグリス・ユーフラテス川は耕作地を破壊し尽くしてしまうのに対してナイル川は「氾濫というより増水」程度のもので、上流のナイル・シルト(と呼ばれる肥沃な土)を流域にもたらした後、緩やかに水位を下げるものであったそうです。

メソポタミアのシュメール人達は従って「王」を猛威をもたらす大自然に従属する者と位置づけ、一方エジプト人達は「王」を単にナイル川の水位の管理者と見なしたというわけです。つまりエジプトでは王は神であった(厳密には神話にオシリスという神が存在しますが、それは実質上軽視された)わけで、これも他に類例を見ないと青木氏は説かれます。ここにエジプト文明の全ての特殊性が根ざしていると、ピラミッドにしろ太陽暦にしろミイラを生んだ死生観にしろ・・・。そして最後に更にエジプトの文化を特徴付けるものとしてパピルスの発明とファラオ像を初めとする美術工芸品が上げられる・・・と。

以上青木氏の「歴史観」という紹介の仕方をしてきましたが、これは最初に紹介したJ.M.ロバーツの本も同様の捉え方をしていますし、正しいのではないかと今の私は思っています。


上の文章を書きながら私の頭の中に渦を巻いていたのは「文化と文明の違い」という命題です。辞書や上の書物は大体このように捕らえて居ます、具体例から説明するのが一番早いと思います。川の氾濫や干魃という大きな自然災害に対抗して人間は「潅漑」という文化を生み出しました。この文化が農業文明やひいてはメソポタミア文明を生みだしそして支えてきました。この考え方が最も一般的で分かり易いと思います。

ところがここで厄介なのが、司馬遼太郎さんの言う「文明」と「文化」なのです。最初に申し上げておきますが、これは半年ほど前図書館で「アメリカ素描」という本を借りてきたときに再発した病気で、そのさらに一年ほど前に「以下、無用のことながら」という随筆集で読んだ時感染したまま未だに解決しない長患いなのです。

「アメリカ素描」に書かれていることは検索でかなり読めます。たとえば・・・

「人間は群れてしか生存できない。その集団を支えているるものが,文化と文明である。いずれもくらしを秩序づけ、かつ安らがせている。

 文明とは『たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの』をさすのに対し、文化はむしろ不条理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他には及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。」

などと。女性が立て膝をして襖を開け閉めするのは文化であるともおっしゃる。「ジーンズはデトロイトの自動車工の労働服だったという点で特異かつ少数者のものであった(注:これは文化です)のが、アメリカ内部の普遍化作用の中で吸い上げられ、世界に広まったとき、あたらしい文明材になった。「かっこいい!」とソ連の若者でさえそう思う。ジーンズは普遍性のレベルにのぼったのである。」とか「文明は精度を追求するが、文化はこくを追求する」とか「近江の鮒ずし(は文化である)」とか、以上は「以下、無用のことながら」からです。

何となく分かるようで、本当はしっかり分かっていない、というのが今の私の正直な状態です。司馬さんは文化と文明を考え尽くしてこのような「定義」を下されたのでしょう。だから私ももっともっと文化と文明について真剣に考え尽くせば、理解できるようになるはずだと思って、まだ頑張るつもりです。


「日米安全保障条約」というのは、ところでどちらなのでしょう。1951年、調印された時点では「文化」だった、それが60年も経つと普遍化して「文明」になった?ジーンズじゃあるまいし。上の本の中で司馬さんはこう仰有っています「しかし、文明はかならず衰える」。

そもそも「核の傘」って未だ必要なのですか?「普天間」、「辺野古」、「県外」と騒ぐ前に「そもそも論」を思い出すべきなのではないでしょうか?


 

「パピルス」って・・・?

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月27日(水)03時33分8秒
返信・引用  編集済
  エーベルス・パピルスのことを調べるのに右往左往しました。いや実は未だウロチョロしている最中なのです。というのもそもそも「medical papurus(仕方がないから医学パピルスと私は訳していますが)」って何なんだろう?他にどんなパピルスが有るのだろう?一つ医学パピルスの一覧表は学者の作ったものを見付けました。John Francis Nunnという人ですがこの人は信用できそうです。しかし他のパピルスにはどんなものがあるのでしょう?それがハッキリしません。先日もこんな一覧表をご紹介しました。下に年表からも抜き出して並べてみました。年代は書かれたと推定される年代です。

1800 BC: Berlin Mathematical Papyrus,2nd order algebraic equations(代数の方程式)
1800 BC: Moscow Mathematical Papyrus, generalized formula for volume of frustum(円錐台の体積)
1650 BC: Rhind Mathematical Papyrus: geometry(幾何学), cotangent analogue(不明), algebraic equations(代数の方程式), arithmetic(算数) series, geometric series
1600 BC: Edwin Smith papyrus, medical tradition(医学伝承) traces as far back as c. 3000 BC
1550 BC: Ebers Medical Papyrus, traditional empiricism(伝統的医療); world's earliest known documented tumors(実証された腫瘍)
1160 BC: Turin papyrus, world's earliest known geologic and topographic map(地質学と地形図)
--------------------------------------------------------
c.2500 BC: Westcar Papyrus
c.1800 BC: Ipuwer papyrus
c.1800 BC: Papyrus Harris I
c.1400 BC: Tulli Papyrus
c.1300 BC: Brugsch Papyrus
Unknown date: Rollin Papyrus

これは医学だけでなく諸分野に渡っていますが、決してこれが全てではないでしょう。

ちなみに「世界大百科事典」では「パピルス文書」の項に「エジプト語文書には〈トリノ・パピルス〉 (トリノ博物館所蔵) のような王名表, 《ホルスとセトの争い》や《ウェンアメン旅行記》のような文学作品のほか, 〈死者の書〉その他の宗教文書医学書書簡各種契約書碑銘の写しなどがあり」、「エジプト【王朝時代の社会と文化】」の項に「これらの科学的知識はパピルスに記されて神殿の文庫に保管された。算術や幾何学の例題と解答を集めた〈リンド・パピルス〉,病気の症状と治療法を集成した〈エーベルス・パピルス〉,外科手術の診断と治療法の〈エドウィン・スミス・パピルス〉などがある。」と書かれています。

また「万有百科大事典」では「なかでもサリアハリスアナスタシー(文学)、エーベルスエドウィンハリス(薬学)、リンド(数学)、アニ(宗教「死者の書」)などの名のパピルスが有名である。」と・・・

おお、皆さんこれで御足を頂いていらっしゃるとは、少し呆れます。しばらくウロウロしていて遂に感動的な一覧表を発見しました。Wikipediaの「List of ancient Egyptian papyri」です。他にドイツ語だけ有ります。これで完璧なのか・・・ゆっくり検証します。

Tulli」が見当たりませんが、モット気になるのは「Brugsch papyrus」です。これはブルクシュの母国ドイツのサイトにも有りません。wikipedia「Ebers Papyrus」では2行目に「Another important medical papyrus is the Brugsch Papyrus (around 1300 BC).」と書いてあるのですが、でもリンクは有りません。

助けてくれ−・・・・(^^;)

追記:悲鳴なんぞ、みっともない、お止めなさい・・・!はい解答を見付けました。先ずこの書物をご覧ください。前のページの4にも「The Berlin Papyrus」が有って、こちらには「3033」と番号が、右ページのは「3038」、そうです「The Berlin Papyrus」は沢山有って、番号が振ってあるのです、そして或るものは「The Westcar」または「The lesser Berlin Papirus」と、また或るものには「The Greater Berlin」または「The Brugsch Papyrus」と別称が与えられているのです。確かにwikipediaの一覧表もそうなっています。

だがやはりいけません、この表には「Papyrus Berlin 3038」が抜けています。

以上、検証終わり・・・あちらのwikipediaも結局「The Brugsch Papyrus」を見落としていたのです!!!

ただし、「The Healing Gods of Ancient Civilization」を書いたWalter Addison Jayneを信じるならば・・・です・・・あああ何を私は信じればよいのでしょう???

助けてくれ−・・・・(^^;)
 

続続・検証:エーベルス・パピルス(二)「エーベルス・パピルス」に「leprosy」の記述は有ったか?

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月26日(火)03時42分13秒
返信・引用  編集済
  ちょっとJohn Francis Nunnの「Ancient Egyptian Medicine」を発見して、脱線していました。22日にこう書いています・・・

●翌1930年、Cyril P.Bryanがドイツ語から訳した「THE PAPYRUS EBERS」の93ページ(PDFのp.69)(9行目)に「To drive away leprous spots on the skin,・・・」という表現があります。

21日と22日に書いたとおり実は1905年Carl H.von Kleinの「The medical features of the Papyrus Ebers」に「CONTENTS OF THE PAPYRUS」の一つ「Disease of the skin.」として「leprosy」が明記されているのです。Cyril P.Bryanの「THE PAPYRUS EBERS」は1930年発行ですが、以後「エーベルス・パピルス」に「leprosy」らしき記述があるとの文献が続いて現われます。

●1937年にEbbellが61年後にStephen Carpenter他によって「訳されてない言葉も有るけれど、気配りの行き届いた学術的な翻訳です」と評された英訳を行っています。しかし私の調べた限り「leprosy」の語は見当たりません(参考)。

●なお60年後の1997年にJohn Francis Nunn「Ancient Egyptian Medicine」の中で第3章「The pattern of disease」、「Bacterial and viral infections」の「leprosy」の項で、このEbbellの英訳に触れています。

そこでは先ず「医学パピルス(medical papyrus)の中での「leprosy」の存在証拠は曖昧なものである」とことわった上で「Ebbellは"aat net Khonsu"を"tubercular leprosy"と訳した」とし「エーベルス・パピルス」の第874項と877項に基づいた翻訳であるとしています。しかし私がEbbellの英訳を読んだ限りでは何処にもそういう項目が見付からないので、困惑しているのが正直なところです。ドイツ語訳かさもなくば原典が入手できれば、一挙に解決できるのですが・・・そんなわけはありませんね^^。冗談はさて置き「エーベルス・パピルス」に「曖昧」ながら「leprosy」の記述が有るようだ(原典で確認できていませんから)とまでは言っても良いようです。

●少し遡りますが1959年にHarold M. Spinkaは「Leprosy In Ancient Hebraic Times」の中で『インドのDharmendraが「エーベルス・パピルス」を読んで「uchedu」はスーダンから来た黒人奴隷に見られる「leprosy」ではないかと想像したし、Ebbel B.は「uchedu」を膿皮症(pyoderma)と判断した』と記しています。

ここにこの項の締めくくりとして最もふさわしいであろう言葉を引用します・・・

●2008年、F. C. H. Wendelが「History of Egypt」でこう言っています。「Heseptiは文筆に長けた王であった。ベルリンに保存されている医学パピルスや、エーベルス・パピルスの中に記されている「leprosy」の治療法は彼の治世に起源を持つと言われる」と。


以上で「エーベルス・パピルス」に「leprosy」の記述は有ったか? の疑問には答え得たと思っています。なお「「エーベルス・パピルス」の中の「leprosy」―資料庫―」を時々覗いて頂くと、細かいことを記していますからどうぞ。ご意見を頂ければ幸甚この上も有りません。

次には「エーベルス・パピルス」自身の「歴史」と「内容」について正確な知識を整理したいと思います。現在の私の「ハンセン病のリンク集」での表現は次の通りなのです・・・

「エーベルス・パピルス」について

 エーベルス・パピルスは ドイツのエジプト学者・作家である、ゲオルク・モリッツ・エーベルス(Georg Moritz Ebers 1837〜1898)が
(a)古都テーベ(現ルクソール付近)の墓地に埋葬されていたミイラの膝の間に差し込まれていたのを1862年(1873年とも)に発見したとも、
(b)地元のエジプト人から大枚をはたいて購入したとも、
(c)エドウィン・スミスから購入したともいわれています。(所在:ドイツ、ライプチヒ)

書かれたのは、エジプト第18王朝(ツタンカーメンも在位した時代)のB.C.1550年頃とされています。これは象形文字で書かれており、内科的記載が主(エドウィン・スミス・パピルスは外科学的記載が主)ですが、薬物療法の処方に関する記載も有ります。

長さ20.7メートル、幅30.5センチ、文章の行数は2,289行に及ぶ大部のもので、処方の種類も875種に達しています。

さあこれを纏めたのは3〜4年前だと思います。如何に杜撰な仕事をしていたか、それが白日の下に曝されんとしています。どうぞお楽しみに・・・ヽ(´ー`)ノ ワーィ!
 

非道い学者も居たもんだ・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月25日(月)04時37分16秒
返信・引用  編集済
  ucheduで検索していたらこんな長いタイトルの記事を見付けました。「REQUESTS ADDRESSED TO THE ADVISORY COMMITTEE STEMMING FROM HUMAN RIGHTS COUNCIL RESOLUTIONS:ELIMINATION OF DISCRIMINATION AGAINST PERSONSAFFECTED BY LEPROSY AND THEIR FAMILY MEMBERS」坂元茂樹著(2009年)

ここにはハンセン病の歴史が手際よく纏められていて、これは参考にさせて頂こうと思っていたのですが、読んでビックリです。

Around 1500 BC, in the Indian work Rgveda Samhita, there are references to kushtha, a term covering leprosy as well as some other skin afflictions. Around 1300-1100 BC, there is mention of leprosy under the term Uchedu in the Ebers Papyrus and Brugsch Papyrus of Egypt.

ここへ来て頂く方々なら、直ぐお気付きになるかと思いますが、前半の「リグ・ヴェーダ」に関する記述が嘘っぱちです。「ハンセン病とサンスクリット語」の中で私は一応精魂込めて調べ尽くしました。今もう一度「リグ・ヴェーダ」の原典10ページを全てページ内検索し直しました。矢張り「kușțha」は有りません、「kilāsyaḥ」は勿論有りましたが、ハンセン病とは何の関係もありません。学生に書かせて名前だけ・・・という場合も有るとは聞きますが、一応チェックはなさるでしょう。これは非道い、目に余ります。悪事だと思いますこうなると・・・゛(`ヘ´#) 怒…

言うまでもなく「Uchedu」のくだりも眉に唾付けてかからないと・・・
 

PDF化成功!

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月25日(月)01時50分34秒
返信・引用  編集済
  22日に書いたEberusとEdwin Smithの文章を「エーベルス・パピルス」の中の「leprosy」に取り込もうとして失敗!やむを得ず「一太郎」でお茶を濁していたのですがどうにも不本意で、再度挑戦。「Primo」とやら言うフリーソフトで無事成功しました。何しろ昔から憧れて諦めていたことが出来たので、嬉しくて踊り回ってしまったほどです(嘘)。  

奇跡的発見!

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月23日(土)07時12分45秒
返信・引用  編集済
  下の長い文章の取り扱いに困ってPDF化しようとフリーソフトを導入したのは良いが、取り込み方が分からない。で、文章を印刷したりそれをスキャナにかけたり散々苦労したけど上手くいかず、結局一太郎で誤魔化したのですが、さあ終わったとプリントを捨てかけてフト目に入ったのが「wekhedu」でした。

「ウェケドゥ」に似たのが有ったがなあ・・・で思い出したのがブラウン(S.G.Browne)氏の「聖書の中の『らい』」です。最近パピルスを調べるので目を通していました。「地域別の歴史年表」の「B.C.1550年頃=パピルスに記載がある【注7】」→【注7】にはこう書いてあります・・・

●「エーベルス・パピルス(Eber’s Papyrus)【参考4】」に「エジプト第一王朝、第四代の王Hesepti(Huspati、Husapti、Saptiなどとも呼ばれる。別称Horus Denとも)が「Leprosy」を思わせる病気であった」と記されているとルシャットが「The paleoepidemiology of leprosy」で述べています。
●「エベルスのパピルスに出てくるウケドウ(Uchedu<Ukhedu>とチョン(Chon)のはれものは、今日ではらいとと鑑定するにはあまりにも漠然としていると判断されています。もっともこの療法の手引きに書かれている断片的な症状の描写は、すべてらいの診断に全くあてはまらないともいえません。」とブラウンの「聖書の中の『らい』」p.26には記されています。この問題は今後の資料の発見や研究によって、さらに具体的になる可能性も秘めているので、敢えて記載しました。

3週間ほど前に書いたものを読んでいました。これが出発点だったのですね。随分昔だったような気がしていましたが、未だ1ヶ月経っていないのですね。「「エーベルス・パピルス」にはハンセン病に関する記述は無いのです」と大胆な結論を書いています、がその発想はどうやら正しかったようです、発想はですが。

「エーベルス・パピルス」に書いてあるのはひょっとしたら「ハンセン病」かもしれないと思います。しかし、どこかに書いてあった通りそれは極めてtenuous(曖昧な、はっきりしない)なのではないか、そう思っています。「スシュルタ・サンヒター」の記述にも見られたように。紀元前の文献を調べているのですから、それはある程度は覚悟し無ければならないとは思います。それにしてもブルクシュさんが言う「the great medical papyrus」は何処にあるのでしょう、それには「the collection of receipts for curing leprosy」処方箋のコレクションが載っていると彼は言い切っているのです。それを探したい・・・やはり止めておこうかな・・・と迷っています・・・「 図説 ヒエログリフ事典」はアマゾンで中古で1793円です・・・なんて・・・^^
 

続・検証:エーベルス・パピルス(二)「エーベルス・パピルス」に「leprosy」の記述は有ったか?

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月22日(金)04時32分13秒
返信・引用  編集済
  >さて次に出てくるのがCarl H.von Klein「The medical features of the Papyrus Ebers」です。ここに私達はこれまでの調査を一挙に覆す証左を目にしなければなりません。

●それはこのページ(9行目)なのです。「CONTENTS OF THE PAPYRUS」の一つ「Disease of the skin.」として・・・

pains, pustules(膿疱),prurigo(痒疹),swellings(腫脹),tumors with fetid suppuration(悪臭のある化膿した腫瘍),lesions(外傷),fistulas(瘻), leprosy, eczema(湿疹), scabies(疥癬), rashes(発疹),itching(かゆみ),burning(火傷),cankers(口内炎),boils(おでき),carbuncles(癰)and furuncles(ねぶと).

と挙げてあります。これについては後で他の項目と纏めて説明しなければならないので、ここではここまでにしておきます。

●次にその翌年Forlong「Faiths of Man Vol.2」で「leprosy」についての「medicai work」が発見された経緯をブルクシュが書いているとのみ表現しています。Ebersには触れていません。

●それから23年後にWarren R.Dawson「Magician and Leech」の中の「The First Medical Books」の章で「Earlier Documents」の項の冒頭に「Ebers papyrus」を挙げて解説しています。ここでは「leprosy」にかんする記述は有りません。

●翌1930年、Cyril P.Bryanがドイツ語から訳した「THE PAPYRUS EBERS」93ページ(PDFのp.69)(9行目)に「To drive away leprous spots on the skin,・・・」という表現があります。

明日に続く・・・。Stephen Carpenter et.al.著「THE EBERS PAPYRUS」に「the important contribution of John Nunn to the understanding of ancient Egyptian medicine」と書かれているJohn Nunnの著作「Ancient Egyptian Medicine」が見付かったので、ちょっとそちらの作業に入ります・・・。
 

「人類進化年表」から「人類歴史年表」へ衣替え

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月22日(金)00時31分34秒
返信・引用  編集済
  今日、何の気紛れか、いや決して気紛れではなく、これではいけないと確信して「標題」を実行しました。これがそれです。これにはサブタイトルを付けました、カッコヨク「人類の壮大な旅をたどる」という。これは去年から付けたかったのですがこの直線がどうしても引けなくて、延ばしに延ばしていたのです。昨日の昼間何気なく「字間を縮める」とかいう機能を使ったら上手くいったので一気に実行しました。

私の目指しているのは誕生から現在までの人間の歩みを大掴みに認識出来るサイトを作ることです。若い人の頭の中に人類の歴史が大きな流れとして捉えられる、そういう映画があったら良いなあと思います。唐突な例を引けば「シェークスピア(1564〜1616年、これは「人殺しなど色々書いた」と覚えます)」と「フランス革命(1789年)」の因果関係がサラリと説明できる、そういう歴史把握をしてもらえるような、そういう脳味噌の構築のお手伝いが出来るような、そんな映画・・・じゃなくてサイトを作りたいのです、夢は。いやシェークスピアとフランス革命に何らかの因果関係があったかどうか、私は知りません、しかし何とか捻り出そうとすれば捻り出せる、つまりそれだけの広い視野と筋の通った知識を保有している、そういう「大掴みな認識」を蓄積してもらえるような、そういうサイトを作りたい、そういう意味なのですが・・・ヽ(ー_ー )ノ マイッタ〜

生きて、作ってやる(悲壮感が漂う)・・・( ゚Д゚)y─┛~~
 

検証:エーベルス・パピルス(二)「エーベルス・パピルス」に「leprosy」の記述は有ったか?

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月21日(木)01時26分13秒
返信・引用  編集済
  「エーベルス・パピルス」をめぐる疑問を明解に解き明かそうと試みています。そのために「エーベルス・パピルス」の中の「leprosy」というページを作りブルクシュを皮切りに目に付く文献を年代を追って並べ、問題の文字を「太字」や「色文字」で表わしています。全体に目を通してみると何だか訳が分からなくなってきました。英語の文献だから余計敵いません。

そこで対抗手段として問題点をピックアップして一つずつ潰して行く方法を選びました。昨日はルシャットが言っているようにHesepti(Huspati)はハンセン病を想わせる病に罹っていたのかどうかに絞って検証しました。今日は第二弾として果たして『「エーベルス・パピルス」に「leprosy」の記述は有ったのか否か?』に絞って検証してみます。今日は問題を「Ebers」と「leprosy」に絞るのでこの二つを目立つように級数を上げ緑と赤で示しました。

検証に先立って、一言お断りしておきます。昨日「身体検査」云々と申しましたがそれは今の私には不可能事です。そこで文献の或いは学者の真価を知る目安として私は1998年にCarpenter他が執筆した「THE EBERS PAPYRUS」を用いています。これはバード大学が教材に用いているようですが、私奴はその控えめな記述に信頼を寄せた次第です。それは明らかに一つのバイアスですので、正直に最初に記しておきます。


先ず上から順に当たって行きます。

●エーベルスと同時代・同国人のライバルBrugsch(ブルクシュ)はどう記述しているでしょう、昨日書いたことと一部重複します。『エーベルスがテーベで買った「エーベルス・パピルス」には「増髪」の事が書いてある。(中略)メンフィスの共同墓地で発見された「the great medical papyrus」にはleprosy治療の処方箋集が含まれている』と断言しています(昨日書いたとおりこの50年前にベルリンの博物館に納められた「the great medical papyrus」が何者であるかは今後の課題ですが)。

この一文はご覧頂けるようにその後多くの学者が(そうですルシャットも勿論)引用しているもので、又著者の立場を見てもエーベルスを知り尽くしているはずなのです。その点からこの記述は最も信ずるに足るものだと私は思いますが、まあその後を読んでみなければ。

●ブルクシュがこれを書いた4年後にMunro「Leprosy」を書き、その中で「最初にleprosyに言及したのは(これは間違いでしょう)」とブルクシュを引用しますが、ここでは「エーベルス・パピルス」ではなく「a great medical papyrus」に多くの処方箋が出ているとしています。

●その更に4年後ジェラルド・マッシー(Gerald Massey)「A BOOK OF THE BEGINNINGS」の中で取り上げて居ます。エーベルス・パピルスが「染髪」の処方箋を取り上げて居ると記し、それは実は第一王朝の2番目の王tetaの母親の為のものだったと。ここに続いて「leprosy」の文字が登場しますが早まってはいけません、その前に「This is typical.」と入っています。ブルクシュが書いた「As an example」を思い出してください。「古い王朝に遡ることは良くあることで、例えば・・・」と「leprosy」の例を述べています。ここでもエーベルス・パピルスに「leprosy」が記載されていたと記されてはいません。

●同じ1881年にGeorge Rawlinson「History of ancient Egypt」の中で取り上げて居ますが、ブルクシュの引用で「a very ancient papyrus」の中にあると書いています。

●更に4年後、August Hirsch「Handbook of geographical and historical pathology」で触れていますが、これも脚注でブルグシュを引用して単に「the papyrus」としています。ここで一つ注意しなければならないのは、それに続いて「discovered by him」としている点です。ブルクシュも実は「papyrus」を発見しているのでしょうか、「Brugsch papyrus」で検索してみました。いや実は有ることは知っていました(スクロールして中程です)。しかしブルクシュは1827年生まれですから、自分の文章で「the great medical papyrus」と記したものではあり得ません、50年前に発見されたと言っているのですから。

●さて次に出てくるのがCarl H.von Klein「The medical features of the Papyrus Ebers」です。ここに私達はこれまでの調査を一挙に覆す証左を目にしなければなりません。そうです最後に書いたところです。この9ページ(9行目です)でご覧頂けます。頭を抱え込んでしまう前に、今日はここで切り上げるといたします。では・・・。(2010.1.21 4:22脱稿)
 

検証:エーベルス・パピルス(一)Heseptiはハンセン病だったか?

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月20日(水)03時46分23秒
返信・引用  編集済
  > No.4613[元記事へ]

>A BOOK OF THE BEGINNINGS    Gerald Massey(1881年)
>
>  The antiquity of Egypt may be said to have ended long before the classical antiquity of the moderns begins, and except in the memorials of myth and language it was pre-monumental. We know that when Egypt first comes in sight it is old and grey. Among the most ancient of the recipes preserved are prescriptions for dyeing the hair. There are several recipes for hair dye or washes found in the Ebers Papyrus[17], and one of these is ascribed to the lady Skheskh, mother of Teta, the first king on the monuments after Mena.
>
>  This is typical. They were old enough more than 6,000 years ago for
leprosy to be the subject of profound concern. A manuscript of the time of Rameses II says:―
>
>     'This is the beginning of the collection of receipts for curing leprosy. It was discovered in a very ancient papyrus enclosed in a writing-case under the feet
>     (of a statue) of the god Anubis, in the town of Sakhur, at the time of the reign of his majesty the defunct King Sapti,'[18] who was the fifth pharaoh of the first dynasty, in the list of Abydus.

>
> Leprosy was indigenous to Egypt and Africa; it has even been conjectured that the white negroes were produced by it, as the albinos of the black race.
>
> これはグルクシュの5年後に書かれたジェラルド・マッシー(Gerald Massey)の力作です。ただ彼はエジプトについては独学で学んだのでその点は斟酌しなければ、と言うと失礼ですね。詩人であると知る前に全てを読み終わっていたのですが、上のようにメチャクチャ難しいけれども文脈は一糸乱れず、私は本場のイギリス人の文章はさすがだな、などとトンダ勘違いをしていました。
>
> あ、それから[17][18]と注がありますがこれは既に「「Ebers Papyrus」を調べる」でお読みになっているブルクシュの引用です。不思議な(或いは当然と言えば当然すぎる)偶然に嬉しくなりました・・・^^これだから止められない・・・(^^:)


嬉しくなって大事なことを忘れていました。お気付きでしょうか、実はこのところズット頭の片隅でギラギラ存在を誇示していたのが「hair」なのです。今はこんな触れ方をしていますがこれは「軽いジャブ」だとお受け取りください。実は総纏めへの入り口だと私は思っています。「エーベルス・パピルス」の中の「leprosy」に色々な文献を手当たり次第集めました。もうこんな所かと思います、後はこれを俯瞰する作業に入ります。ルシャット氏の文章は正しいのかどうかと言うことです。それに付随して「エーベルス・パピルス」についてこれまでお題目のごとく述べられていた「定説」を修正する作業があります。

突破口として「hair」から入ります。「エーベルス・パピルス」の中の「leprosy」を「hair」でページ内検索してみてください。ブルクシュの6年後にジェラルド・マッシーは上の「A BOOK OF THE BEGINNINGS」を書いています。そしてその中で「最も古い処方箋は染髪の方法で、それはエーベルス・パピルスに何種類も書いてある」と言っています(↑上の赤字)。そしてブルクシュは「エーベルスがテーベで買った一巻の古書が、増毛の手段として尊重された。そして美容師には興味があるかも知れないこの情報より遙かに重要なのは、この話が第1王朝にまで遡ることなのだ」と書いているのです。

ここで声を大にしたいのは、それに続く文章です。「As an example…」と来ます。「第1王朝まで遡る話の一例として…」、「the great medical papyrus」が有り、それは50年ほど前にベルリンの博物館に収められた」と仰有る。そしてこれは「This is the beginning of the collection of receipts for curing leprosy.It was discovered in a very ancient papyrus enclosed in a writing-case, under the feet (of a statue) of the god Anoobis, in the town of Sochem, at the time of the reign of his majesty the defunct king Sapti.」だと。

ブルクシュ氏はこれだけしか書いていないのです。ルシャット氏はそれを引用した(孫引きですが)として「In Egypt, Huspati (Horus-Den), a quasimythical Thinite Icing of the First Dynasty (〜3500 BC), is reported in papyrus dating from /- 1500-1200 BC as having suffered from a disease whose signs are evocative(想起させる)of leprosy.」と書きました。

これまで調べてきた中で「Sapti=Hesepti=Husapti(=Huspati―これはルシャット氏だけ)」王は第1王朝の5番目の王でその時「receipts for curing leprosy」が書かれたという説明は何度も出てきました。しかし「leprosy」に罹患していたような記述は現在の所皆無です。だからルシャット氏の記述は間違いだと私は思います。また「Huspati」という表記も検索してもそれらしいのが出てきません。読めない言語のはあるのですが^^。これも誤記ではないかと思います。「軽いジャブ」のつもりがいきなり結論に飛び移ってしまいました。まあ、こんなものです・・・くたばり損ないのやることは・・・。それからブルクシュ氏が言っている「the great medical papyrus」、は一体何なのか、然るべき名前が付いた「papyrus」なのではないか、これは未調査です。本題と関係はありませんが、調べなければ決着が付かないという心境です・・・。

以上ルシャット氏の表現に関する疑問は、私なりに解決に至りました。怪しい点があれば何なりとご指摘ください。よろしくお願いします・・・m(_ _)m

いやどうでも良い問題だ、いやどうでも良くはないけど、大騒ぎするほどの問題ではない・・・それは良く承知しています。ただルシャット氏の論文を紹介したのは私ですので、ちゃんと間違いは正しておきたい、そう思いました。

さて残る「エーベルス・パピルス」の出自の問題・・・これはWikipediaは論外としてもたとえばDawson氏は「It was found in a tomb at Thebes together with another medical text, the Edwin Smith Papyrus, about 1862」と堂々と書いていますし、一方Carl H. von Klein氏は「The medical features of the Papyrus Ebers」の「DISCOVERY OF THE PAPYRUS」という章で実に詳細に入手の瞬間まで描写していますが、「the Edwin Smith Papyrus」と共に発見されたとは一言も書いていません。この辺はもっと他のものにも当たってみないと簡単には断定できません。本当は書いている学者さんの「身体検査」もしたいのですが、そこまではとても・・・^^。まあ小沢さんの逮捕が先になるかもしれません・・・(^^;)
 

お言葉ですが。

 投稿者:邪魔風  投稿日:2010年 1月19日(火)09時39分46秒
返信・引用
  それは、司法が教科書どおり機能した場合でしょう。
今の検察が、そのようなものでないことに、国民は気がつきつつある。
昔から、あたしは小沢嫌いでしたが、今回の構図は小沢を支持します。というより、検察を支持しない。
 
    (リベル) まあどうもご無沙汰しております。お元気そうで本当に嬉しくなりました・・・♪♪♪

さあどうなることでしょうね、行く末を見守りましょう・・・^^(2010.1.19 16:34)
 

検察は戦う相手なのか、小沢さん???

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月19日(火)02時35分21秒
返信・引用  編集済
  「断固として検察と戦う」と小沢さんは大声を張り上げなさる。国民の誰がこの叫びに賛成するのでしょう。更にいけないのは鈴木宗男さんを応援弁士に招いたことです。鈴木さん、佐藤優氏、三井環氏は検察の失策でしょう、それは認めなければいけない。しかしここで呼んできてはいけない、それは筋違いです。子供の喧嘩に親が出る、チョット違うか、いやモット悪いでしょう。お得意の搦め手戦術でしょうか・・・。

検察や裁判所を含む司法というのは「法」に基づく国家作用です。小沢氏がよく使う「民主主義国家」=「法治国家」を保とうとして国民が定めたのが「司法」なのです。人々の間に生じる色々な紛争を「法」を運営して解決する為に「司法」つまり「検察」も「最高裁」もあるのであって、「戦う相手」ではありません。

これが小沢さんが基本的に踏み違えているところで、だから訳が分からなくなるのです。自分たちが紛争解決のために作り上げた制度を、戦う相手にするという、この基本の所から間違っているから、混乱を招くし一般の賛同・理解が得られないのです。

つまり小沢さんは理性を失っておられるのでしょう。自分に後ろめたいことがあるとき、人は往々にして居丈高に成りエリマキトカゲのエリマキを広げるものだと聞きます。静かに諄々と自分の正しさを説明することが出来ないとき、どうしようもなくなった人は、汚い言葉で言えば「ケツヲマクル」のです。今風に言えば「切れる」のです。

こういう大人の姿を巨大マスコミはガンガン報道します。見せられる子供達がどういう影響を受けるのか、そうでなくても苦しい2月を迎える国民はいかに空しく感じているか、猿芝居は早々に切り上げて頂きたいものです。誠に誠に醜い、見苦しい姿です!自分の息子があんなだったら穴を掘って潜り込んでしまいたくなります私なら・・・^^


お口直しに・・・


こんなこと思い出しました。嫁入りが近い長女の部屋のカーテンレールを直していて、ふとカセットのスイッチを入れたらこの曲でした。始めて聴いたのに手を止めて聞き入ってしまい、
そして涙を落としてしまいました・・・
 

Re: 発見「A BOOK OF THE BEGINNINGS」

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年 1月16日(土)11時47分48秒
返信・引用
  > No.4613[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

 面白そうな本すね。私の持っている似た様な題の本
 明治大正昭和 沖縄事始め・世相史事典 山城善三、作田繁編 月刊沖縄社
 1983年
 5500円と高価ですが800ページ以上の本で、昔の沖縄のことがよくでています。ハンセン病に関しては数か所しかでてきませんが。
 Ichiro
 
    (リベル) あ、Ichiroさんいらっしゃいませ。

いやはや、なんともご返事のしようがありません。あまりいじめないでくださいな・・・^^(2010.1.17 16:41)
 

発見「A BOOK OF THE BEGINNINGS」

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月16日(土)03時18分53秒
返信・引用  編集済
  A BOOK OF THE BEGINNINGS    Gerald Massey(1881年)

The antiquity of Egypt may be said to have ended long before the classical antiquity of the moderns begins, and except in the memorials of myth and language it was pre-monumental. We know that when Egypt first comes in sight it is old and grey. Among the most ancient of the recipes preserved are prescriptions for dyeing the hair. There are several recipes for hair dye or washes found in the Ebers Papyrus[17], and one of these is ascribed to the lady Skheskh, mother of Teta, the first king on the monuments after Mena.

This is typical. They were old enough more than 6,000 years ago for
leprosy to be the subject of profound concern. A manuscript of the time of Rameses II says:―

   'This is the beginning of the collection of receipts for curing leprosy. It was discovered in a very ancient papyrus enclosed in a writing-case under the feet
    (of a statue) of the god Anubis, in the town of Sakhur, at the time of the reign of his majesty the defunct King Sapti,'[18] who was the fifth pharaoh of the first dynasty, in the list of Abydus.


Leprosy was indigenous to Egypt and Africa; it has even been conjectured that the white negroes were produced by it, as the albinos of the black race.

これはグルクシュの5年後に書かれたジェラルド・マッシー(Gerald Massey)の力作です。ただ彼はエジプトについては独学で学んだのでその点は斟酌しなければ、と言うと失礼ですね。詩人であると知る前に全てを読み終わっていたのですが、上のようにメチャクチャ難しいけれども文脈は一糸乱れず、私は本場のイギリス人の文章はさすがだな、などとトンダ勘違いをしていました。

あ、それから[17][18]と注がありますがこれは既に「「Ebers Papyrus」を調べる」でお読みになっているブルクシュの引用です。不思議な(或いは当然と言えば当然すぎる)偶然に嬉しくなりました・・・^^これだから止められない・・・(^^:)


これでほぼ集めるものは集め終わりました。1998年のJohn B. Fergusonの 「THE EBERS PAPYRUS」が訳本を紹介していますが、ここに出てくる英訳は全て集まっていることにこれまた嬉しくなりました。通して読んで、結論を導く日が近付いて参りました、小沢さんの逮捕の方が早いかな・・・早まらず、生きて縄目の恥を受けなされや・・・。


King Tutankhamun
 

孫の成人式

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月14日(木)04時25分39秒
返信・引用  編集済
  長女から電話があって、孫が来年の成人式で着るものを今から考えていると言います。長女と次女は当然同じ着物を着ました。それが古くなっているか、いや現代感覚に沿うか否かを本人に検討させたいから写真を送れと言います。着物は安物だけど帯は高いものだと連れ合いは言います。着物は安月給から買ったけど、帯は親から貰ったかなにかだったのでしょう。

今から25年前長女はその着物を着て成人式に行き、帰ってきたとき突然泣き出しました、大粒の涙をこぼして。訊けばカレーライスのカレーが袖に付いてメチャクチャ大ショックだったのを堪えにこらえていて、母親の顔を見て堰を切ったらしいのです。

先程それを思い出して長女がその時立っていた場所に立ってみました。大きくなりやがって・・・珍しくおセンチになった私でした・・・;;・・・♪♪♪

人生って・・・やはり良いですね・・・
 

Re: これは一体何でしょう・・・:合点、合点・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月14日(木)03時27分49秒
返信・引用  編集済
  > No.4609[元記事へ]

> 今、4日に紹介した英訳の「THE PAPYRUS EBERS」を読んでいるのですが、ドキッとするようなものを見付けてしまいました。PDFのp.8のLIST OF ILLUSTRATIONSのPLATEYをご覧ください。「Hands of an early Syrian Christian (circa 6th century A.D.) from Assouan(アスワンです), sufferring from leprosy.」と書いてあるのです。エエッと見ていて(PDFのP.110です)オヤッと立ち上がりました。この写真はどこかで見たことがある!そうだ自分のHPだ!サイト内検索したら有りました。全く同じ写真です。以前に海外から取り寄せた「EGYPTIAN MUMMIES」と言う本(p.153)に有る写真なのです。
>
> これはしかしA.D.6世紀のものです。勿論「エーベルス・パピルス」に載っているのではなし、「Introduction」や「Foreword」にも全く触れてありません。これらの一連の写真の付録はひょっとしたら本文を読んでいくと(参照ILLUSTRATION・PLATEY)とか書いてあるのかも知れません。残念ながらこのPDFは検索機能が働かないので、全部読まなければ分からないのです。4日に「このPDFの69ページをご覧ください。9行目に「To drive away leprous spot on the skin,…」とあります。」と書いていますが、このページには何も案内がありません、症状も違いますし・・・。これは一体何でしょう・・・?このPDFを検索する方法をご存知の方は、どうかお教えください・・・よろしくお願いします・・・m(_ _)m


もうすぐ或る所に到達します。何をやっているかと申しますと、どうやらこれまで日本の色々なサイトやあちらのWikipediaで紹介されてきた「エーベルス・パピルス」や「エドウィン・スミス・パピルス」の内容はかなりいい加減なものであることがハッキリしてきたので、自力で纏め直そうとしているのです、いや数行で済むことなのですが・・・。一つ例を挙げます。今ご紹介したWikipediaの脚注(3,7,8)に「Rutkow, op.cit.」と言うのが出てきます。これはその上に出ている「Ira M. Rutkow, The History of Surgery in the United States, 1775-1900」のことなのですが、これはしたり、この脚注は全くの嘘(または間違い)です。この本は電子版が有るのです。約20回ほどページをめくると3ページが出てきます。しかし「Edwin Smith」の話は何もありません。「Edwin」で検索しても「Edwin Smith」は無いのです。こういういい加減なことを堂々とやる人間が書いているものは信用できません。

ただいまセッセと関係する本を読んで、メモを集めています。虚実交々の記事や文献を兎に角沢山読んで、自分の頭の中で取捨選択作用というか浄化作用というか、が行われるのを待つ、という戦法を採る他はありません。

「いい加減」と言えば「ハンセン病の歴史」の中で堂々と「「エーベルス・パピルスは ドイツのエジプト学者・作家である、ゲオルク・モリッツ・エーベルス(Georg Moritz Ebers 1837〜1898)が
(a)古都テーベ(現ルクソール付近)の墓地に埋葬されていたミイラの膝の間に差し込まれていたのを1862年(1873年とも)に発見したとも、
(b)地元のエジプト人から大枚をはたいて購入したとも、(c)エドウィン・スミスから購入したともいわれています。(所在:ドイツ、ライプチヒ)」などと書いている私奴も相当いい加減な玉ではあります・・・いや、そこを早く書き直したいのですが、何が真実やらがナカナカ把握できなくて、四苦八苦なのです・・・もう一息・・・(´ヘ`;)ハァ〜ッ

ところで本題に入りますが・・・オイオイこれからかよ!!!

四苦八苦している内に、上の疑問が氷解しました。上の「THE PAPYRUS EBERS」の中の「Introduction」を読み進めている内に行き当たりました。この筆者が私の様な見せびらかしたがり屋で、自分のエジプト見聞記を紛れ込ませているのです。そしてエジプトで見てきたものを、あちらこちらに既出の(「EGYPTIAN MUMMIES」もその一つ)写真を集めて載せたこれまたけしからん人物・・・とまで書いて、チョット待てよ・・・筆者の名前を確かめました、「G. Elliot Smith」。で思い出しました。「EGYPTIAN MUMMIES」の著者は・・・「G. Elliot Smith and Warren R. Dawson 」!!!世の中いい加減な人ばかりでは無い!!!(^^;)
 

脱線に次ぐ脱線:ペトラルカに至る

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月12日(火)14時52分18秒
返信・引用  編集済
  なあに発端は単純なのです。先程からまた「エーベルス・パピルス」に立ち戻って、ブルクシュの文章をもう一度キチント読み始めました。そこでフト「who were to come after」という言い回しに立ち止まってしまって、検索したのが運の尽きでした。「後に続くもの」と言うような意味でキチントした成句があるのではと思ったのですが・・・出てきたのはWikipediaの「Dark Ages」です。そこの「Quotations」にこんなペトラルカの言葉が記されていました。

"Each famous author of antiquity whom I recover places a new offence and another cause of dishonour to the charge of earlier generations, who, not satisfied with their own disgraceful barrenness(不毛), permitted the fruit of other minds, and the writings that their ancestors had produced by toil and application, to perish through insufferable neglect. Although they had nothing of their own to hand down to those who were to come after, they robbed posterity of its ancestral heritage."    Petrarch

どうか一度訳してみてください。難しい単語が少ないにもかかわらず、これはかなりの方が手子摺られると思うのですが、勿論私奴悪戦苦闘しました。何とか一応こじつけ終わって、それから頭に来て全文を検索窓に入れて見ました。何と驚いたことに40件以上全文が出てきました。とても有名な文章なのだと気付かされた次第です。これなどは国立精華大学の入試問題です、アレッ台湾の大学ですね、どうかトライしてみてください、私?・・・あ、ご想像に任せます・・・^^

そうです「暗黒時代」の項に引用されていたことからお分かりの通り、ギリシャ、ローマの文化遺産をなおざりにしたために中世を「暗黒時代」の暗雲が覆ったのだと、ペトラルカは怒っているのです。遅蒔きながら過去の文化的遺物の見直しが大切だなあと反省し始めている私奴は、大いに意を強く致した次第・・・(^^;)


ペトラルカ(1304〜1374年)
 

これは一体何でしょう・・・?

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月12日(火)03時54分8秒
返信・引用  編集済
  今、4日に紹介した英訳の「THE PAPYRUS EBERS」を読んでいるのですが、ドキッとするようなものを見付けてしまいました。PDFのp.8のLIST OF ILLUSTRATIONSのPLATEYをご覧ください。「Hands of an early Syrian Christian (circa 6th century A.D.) from Assouan(アスワンです), sufferring from leprosy.」と書いてあるのです。エエッと見ていて(PDFのP.110です)オヤッと立ち上がりました。この写真はどこかで見たことがある!そうだ自分のHPだ!サイト内検索したら有りました。全く同じ写真です。以前に海外から取り寄せた「EGYPTIAN MUMMIES」と言う本(p.153)に有る写真なのです。

これはしかしA.D.6世紀のものです。勿論「エーベルス・パピルス」に載っているのではなし、「Introduction」や「Foreword」にも全く触れてありません。これらの一連の写真の付録はひょっとしたら本文を読んでいくと(参照ILLUSTRATION・PLATEY)とか書いてあるのかも知れません。残念ながらこのPDFは検索機能が働かないので、全部読まなければ分からないのです。4日に「このPDFの69ページをご覧ください。9行目に「To drive away leprous spot on the skin,…」とあります。」と書いていますが、このページには何も案内がありません、症状も違いますし・・・。これは一体何でしょう・・・?このPDFを検索する方法をご存知の方は、どうかお教えください・・・よろしくお願いします・・・m(_ _)m
 

再・脱線ついでに

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月12日(火)03時10分13秒
返信・引用
  エジプトの、まあエーベルスですが、ことを今色々調べています。と言うか調べざるを得なくなって、お陰様で随分勉強になりました。どうもこの辺もやはり多くの学説が入り乱れる時代で氷河期同様どれを定説として確保するかに時間がかかりました。その結果よしこれでよいだろうというものを把握しましたので、ご報告します。いいえ、食わず嫌いなさらないでください、ここに書くからには絶対に失望させないよう、味付けには工夫した結果ですから・・・^^

手の内を明かせば、実は「エーベルス・パピルス」から派生したものとばかりは言えないものなのです。今全身で取り組んでいるのは実は人類の文明史です。これを自信を持って仕上げて行くにはこの前からチラチラ登場する中国やインドや中南米の古代文明史も個別に自分のものにしていかなければなりません。いずれも定説が無い、と言うより「定説」が多すぎて困るのですが、これについては別に書く機会があるかも知れません、「歴史」或いは「歴史観」という捉え方で。さて本題に戻って・・・

エジプトの古代王朝はどうなっていたのか?

これを分かり易い「表」と「図」でお目に掛けます。なあんだ、たったこれだけのものかとお思いになるかも知れません。きっとそうだと思います、がそれでよいのです。一言だけ口惜しいから付け加えますと、これらはとても沢山の中から選んで(だから整合性があるのですが…)陳列しています・・・。

文明の大きな流れ エジプト王朝図1(世界考古学事典下巻p.1450、1451) ブルクシュの著書の表(右側がマネトーの表記です) Wikipedia(First Dynasty of Egypt)

いろいろ示唆に富むのが最初の図です。エジプトに限って見ても次の王朝図とほぼ合致しています。ここでの「人類の歴史」をおおざっぱに5000年と見ると、半分までエジプトの王朝が続いています。そして日本の縄文時代は1万6500年前ころではないかと最近では言われています(これは2007年発行の高校教科書では未だ確定されていません)。日本の縄文人の歴史はバカにならないことが分かります。中南米の文明についても、黄河だけでなく揚子江の流域でも同じ頃に文明が興っていたことも私の頃は教えてくれませんでした。後者はもっとも中国自身が知らなかったのですからやむを得ないのですが(参考:中国の新石器文化)。

さて当面の話題(私だけのマイブームですね^^)の「Den王=Hesepti」は世界考古学事典では第1王朝の4番目の王になっています。ブルクシュの著書では5番目に「Sapti」と書かれています。実は3番目の王Djerのお妃が統治をしたかしなかったかで4番目の王が誰になるかが変わるのですが、wikipediaによると色々揉めているようです(「The title she held, however, is debated.」などと)、放っておきましょう。放っておいてまあ妥当な線を探るとどうやら5番目の王であるというところに落ち着きそうです。要するに第1王朝のそのあたりの王様であることが分かればよいのです、実は・・・^^

そしてその「Den王=Sapti=Hesepti」が「suffered from a disease whose signs are evocative of leprosy.」とルシャット氏が記述している事実は、未だにどこにも見付からないのです。どうもルシャット氏の誤解ではないか、そんな結論が近付いています・・・^^
 

Re: 懺悔偈

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年 1月11日(月)14時34分52秒
返信・引用  編集済
  > No.4606[元記事へ]

リベルさんへのお返事です。

 最後の所です。実は原本からでなく、意訳した日本語訳からです。最後はそのままにしました。

>"Likewise, there is no beauty or uglyness, nor increase or decrease.  Everything is of RELATIVE existence.  Based on EMPTY philosophy, anything which has form or anything which does not have form, both are empty.  Anything which you see with your eyes, which you hear with your ears, anything you smell with your nose, you taste with your tongue, you feel with your heart, everything is empty.  There are no wise persons, no foolish persons, no elderly persons, no young persons.  Those who want to attain enlightenment are not worried because of empty philosophy.  Because they are broad-minded, they do not fear.  They are peaceful and will attain enlightenment.  Under the full Milky Way, they attain enlightenment being watched, supported and guided by many, many Buddhas.
>"Well" Kanjizai-bosatsu said with strength.  "I will reveal only to you the words of truth with mysterious strength.  It is the superb MANTRA, Sacred Words of Truth. If you recite the MANTRA, You are freed from all evils, and you will attain satisfactory enlightenment.

The sacred words are, Go to the Paradise. Go to the world of Enlightenment. Hail to Enlightenment.
 Gat└ Gat└ Paragat└ Parasamgat└

Bodhi Svaha!

End of The Heart of Prajna Paramita Sutra

  失礼しました。Ichiro
 
    (リベル) あ、ご丁寧に・・・。

どうも有難う御座いました・・・m(_ _)m
 

Re: 懺悔偈

 投稿者:Ichiro  投稿日:2010年 1月11日(月)08時40分51秒
返信・引用
  > No.4604[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

> 昨日の朝日新聞夕刊に「和訳でわかるお経」という記事がありました、どうも大阪版だけのようですが。今、漢字の音読みを唱えないで易しい現代文に訳して唱えることが広まり始めているという記事です。そこに取り上げられている「懺悔偈(ざんげげ)」というのをウィキペディアで見るとこうなっています。もう当然のように「和文」と「現代語訳」が付いているのに驚きました。

 面白い記事ありがとうございました。小生も般若心経を英訳して初めて意味がわかりました。(以前Ichiroの研究メモでだしました)もっとも、般若心経は色々な人が色々な言葉に翻訳されているようですね。

 Ichiro
 
    (リベル) お、Idhiroさんお久し振りです。

般若心経を英訳なさったとか、凄いですね!!!

何か最後の「揭帝揭帝 般羅揭帝 般羅僧揭帝菩提僧莎訶」の部分は解釈が難しいと言うような話は聞いたことがありましたが・・・。(2010.1.10 13:02)
 

懺悔偈

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月10日(日)01時48分22秒
返信・引用
  昨日の朝日新聞夕刊に「和訳でわかるお経」という記事がありました、どうも大阪版だけのようですが。今、漢字の音読みを唱えないで易しい現代文に訳して唱えることが広まり始めているという記事です。そこに取り上げられている「懺悔偈(ざんげげ)」というのをウィキペディアで見るとこうなっています。もう当然のように「和文」と「現代語訳」が付いているのに驚きました。

宝塚の大林寺というお寺(地図で調べましたが行ったことはありませんでした)の和尚さん木下達雄氏が7年前に仲間の僧侶3人と1年かけて訳された苦心作の一部が下の写真で読めます。

「我れ昔より造るところの諸々のおこないは
皆我が避けがたき貪(むさぼり)瞋(いかり)痴(おろかさ)に由るものなり
身と語(ことば)と意(こころ)より生ずるところなり
すべて今ことごとく懺悔したてまつる」

ここでは「三毒=貪瞋痴(ウィキペディアの現代語訳では取り入れていますが)」を上のように「むさぼり」、「いかり」、「おろかさ」と訳します。この訳の的確さと新鮮さに少し感心していたのですが、さらにその三毒が「身」と「ことば」と「こころ」から生じるものだとする経文を承知していなかったので、唸ってしまいました、一々ごもっとも、と。

「貪=欲」は確かに「身体」の発する「情動」によるものです。「怒り」は言葉になる前に拳となって相手に向かって行くこともありますが、確かに「言葉」によって確実性を増しそして増幅されるものです。そして「痴=おろかさ」(たとえば自分の自己顕示欲を思い浮かべましたが)は「情動」とも「怒り」とも違う(脳味噌の部分)「こころ」が生み出しています。少し理解を深めて貰ったことに感謝しました。

この記事は仏教関係者のこんな言葉で締めくくられています、「重要なのは、儀礼にこだわりすぎず、仏教を理解してもらうことだろう」。もうお分かり頂いていると思いますが、私がこの記事をここで取り上げたのも、現代訳の是非を云々するためではありません。

この記事ではたとえば「法華経」の現代語訳(ここで見る意味での)がどうなっているかには触れられていませんが、植木雅俊氏が「ハンセン氏病や、ハンセン氏病の白い斑点が」と訳した「癩癰疽」の部分などはどう訳されるのか興味を引かれるところではあります(参考:法華経の中のハンセン病)。


朝日新聞1月9日夕刊から
 

Re: もう一つの疑問が解けました

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月 9日(土)01時16分34秒
返信・引用  編集済
  > No.4565[元記事へ]

> 昨日自慢話をする自分について書きました。続いて自慢話を書く予定が狂って他のことを書いてしまいましたが、実は「The Catholic Encyclopedia」の記述が一昨日書いた箇所(・・・and for England in the year 950.)以外にも頻出するのを暴露しようとしていたのです。私奴はこんなに発見しましたよと。しかし逆に心配が発生してきました。これまでこの記事に基づいて(出典を確認せずに)書いたものがあるからです。
>
> 636年、「ラザレット」がフランス、イタリーに存在したとの記述があるとしてその注にそっくり「The Catholic Encyclopedia」の記述を引用していたのです。「The Catholic Encyclopediaの「Leprosy」IV. LEPROSY IN THE MIDDLE AGESに「leper-houses=leprosariaが7世紀にはフランスのヴェルダン(Verdun・北東部ロレーヌ地域圏の要塞都市)、メス(Metz・北東部ロレーヌ地域圏の首府)、オランダのマーストリヒト(Maestricht・南東部の河港都市)に存在した」とフィルヒョウが立証したとの記述があります。」と。
>
> 本当にフィルヒョウが立証しているんかいな? で、探しました、「Verdun Metz Maestricht virchow」で検索してみたのです。これが有ったのですね、昨日諦めていたフランス関係の記述が。このPDFの4ページ目の上から4行目からです。
>
> "In einem Testamente, welches, der Diaconus Adalgysus, auch Grimo Genannt, 636, unter der Regierung des Konigs Dagobert zu Verdun hat niedersehreiben lassen, wird nicht bloss ein Xenodochium und ein Armenhaus zu Longuion erwahnt, sondern auch Aussatzige(und zwar so, dass eine Organisation erschlossen werden muss) zu Verdun, Metz und Maastricht."
>
> おおざっぱに訳します。「ダゴベール王統治下の636年に、Diaconus AdalgysusかGrimo Genanntのどちらかが、遺書にこう書き遺しています。ロンギュヨンの宿坊や救貧院だけでなく、ヴェルダン、メス、マーストリヒトでのハンセン病患者(これには一つの制度を設けるべきです)にも言及しておきます、と。」
>
> またまた誤訳かもしれませんが、およそこういう意味でしょう・・・^^。先程の注にはこのフィルヒョウの原典もリンクしておきます、では行って参りまあす・・・。


「ハンセン病のリンク集」の「地域別の歴史年表」を見直していて636年「「ラザレット」がフランス、イタリーに存在したとの記述がある【注39】」の【注39】を読むとこう書いています。

・The Catholic Encyclopediaの「Leprosy」IV. LEPROSY IN THE MIDDLE AGESに「leper-houses=leprosariaが7世紀にはフランスのヴェルダン(Verdun・北東部ロレーヌ地域圏の要塞都市)、メス(Metz・北東部ロレーヌ地域圏の首府)、オランダのマーストリヒト(Maestricht・南東部の河港都市)に存在した」とフィルヒョウが立証したとの記述があります。【参考17】
・フィルヒョウの「Archiv fur Pathologische Anatomie und Physiologie und Klinische Medicin(4ページ目・5行目)」に「ロンギュヨンの宿坊や救貧院だけでなく、ヴェルダン、メス、マーストリヒトでのハンセン病患者(これは、何か制度を設けるべきです)にも言及しておきます」と記されています。
・W.Munroの「Leprosy」では同じくフィルヒョウの調査によるとして、636年には既にイタリー、ヴェルダン、マーストリヒトに「leper houses」が設立されていたと記されています(ページ画像19ページ1行目)。

このフィルヒョウの部分をクリックして驚きました。34ドル出さなければ読ませないと言います。前はPDFが読めたのですがこんな風に変わっています。慌てて「落書き板」を検索したら、原文をしぶとく確保していました。これを「注」の部分に追加しておく他はありません。

何か書籍の電子化の波が押し寄せてきそうな風潮なのに、逆行しているところも有るのでしょうか、油断も隙もありゃしない・・・^^
 

四足動物とポンゴラ氷期と科学研究費補助金と「エーベルス・パピルス」と・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月 8日(金)02時25分56秒
返信・引用  編集済
  昨日の朝日新聞に「最古?の四足動物」という記事がありました。丁度昨日来た「Nature誌」のメルマガも「大昔の四肢動物:最古の陸生脊椎動物体化石よりはるかに古い脊椎動物の足跡の発見」と報じていたので「人類進化年表」と照合してみました。私は昨日もご紹介した丸山氏の著書から引用して、「動物が地上に上陸したのは約4億1600万年前のシルル紀だ」としています。なので今回の報道はいささかセンセーショナルに過ぎると感じましたが発見の事実は追加記入しておきました。

しかく、最近の考古学分野の発見は頻繁であり、考古学的年代の歴史は殆ど毎日のように書き換えられていると言っても、そう過言ではないと感じられます。そう言えば数日前に買った落合淳思著「古代中国の虚像と実像」(講談社現代新書)などは「はじめに」に「教科書は古いので受験生はこの本を読まないでください」みたいな断り書きを入れているほどです。

「人類進化年表」に話を戻しますが、ここに大昔からの氷河期を記入しています。一番古いのは27億年前の「ヒューロニアン氷期」であると、これも良く良く調べた上で書き込んでいたのですが、どうやらこれも時代遅れになってきたようです。29億年前に「ポンゴラ氷期」というのが有ったということが、南アフリカ共和国での発見(「ドロップストーン」を含む「ダイアミクタイト」=氷河を示す地層の発見)で明らかになったのだそうです(田近英一著「地球環境46億年の大変動史」(化学同人)p.147、同「凍った地球」(新潮選書)p.39)。これなどは日本語、英語のウィキペディアにはまだ立項されていませんし、取り上げて居る書物もそう多くは無さそうでP.ウルムシュナイダー著「宇宙生物学入門: 惑星・生命・文明の起源」を見付けてワクワクしているところです。この文章を少し遡って読むと「ドロップストーン」が出てきます、「ダイアミクタイト」は「氷山によって運ばれた岩が微細に積み重なった層」と表現されています。

「ポンゴラ氷期」、「ポンゴラ氷河期」、「ポンゴラ氷河時代」で検索しても4〜11件しかヒットしません、さすがに「pongola glaciation」では2700件ヒットしましたが。こんな事をしていてフト目についたのが「平成17年度科学研究費補助金研究状況報告書」と言う文字です、クリックしてみると、矢張り「丸山茂徳」の文字が・・・。昨日書いたのはこれのことなのです、「「地球史研究」のために1990年代に入って文部省が金を出した、それでかなりの研究が名古屋大や東京工大の手によって進められた」と。

それにしても少ないですね、年間1800万円で、何人もの学者が機材を担いでアフリカで汗水垂らして岩石を掘り出すのですから、どなたかの紙袋に入れた4億円の十分の一でもこういうところへ廻しなさい・・・遙かに大切な仕事をしてくれます、人類にとって・・・。


何故こんな文章を書いたか・・・それとなくお察しになったお方は鋭い!!!そうです「エーベルス・パピルス」からいい加減なところで足を洗いなさいと、自分に言い聞かせているのです、そう豊富な時間に恵まれているわけでは無いのだから・・・モット短く言うとそうです、いつ死ぬか分からないんだから・・・(^^;)


これがダイアミクタイトという氷河堆積物です


これがドロップストーン、上下の地層をひずませています
 

日本はダメですね、つくづくそう思います・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月 7日(木)02時36分57秒
返信・引用  編集済
  >でもとにかくこのBard Collegeの人達の文章はおさらいをするには持ってこいではありました。

ニューヨークでは高校を出たばかりの若者がこういうものに簡単に触れる事が出来る。アメリカという国の特殊性を考慮に入れても、やはり日本は立ち後れていると私は感じるのです。「エーベルス・パピルス」で検索したら1,200件、「ebers papyrus」では44,000件、なんと40倍は大きいでしょう。

何か徹底的に調べようとすると、英語の文献に頼るしかない。手前味噌ですが「スシュルタ・サンヒター」にしても、結局英語の文献を3種類、計10冊買っています。何を専攻するかと言うとき日本人は名誉や富に関係のなさそうな分野から目を背ける伝統があるのかも知れません。お上の科学や学問に対する投資や助成もおそらくそう言う傾向にあって、目先のことしか考えない。少し前に図書館から借りた本(立花隆著「宇宙・地球・生命・脳」・朝日新聞社・1999年 )で立花さんが「地球史研究」のために1990年代に入って文部省が金を出した、それでかなりの研究が名古屋大や東京工大の手によって進められたと言うようなことを書いておられました。その成果の一冊が手元にあります、丸山茂徳・磯崎行雄著「生命と地球の歴史」です。とても貴重な一冊です。

国がチョット金を出せば全国の学者が(とまでは言いませんが)一斉に世界各地へ飛んでいってたちまち貴重な成果を持ち帰ってくるのです。モーツァルトもバッハ(グレン・グールドが弾いています。背中を丸めて特注の低い椅子でです。自身が歌いながら弾いているのが聞こえます^^)も結局金を出してくれる貴族王侯やスポンサーがあって多くの作品を残してくれました。与党の親玉小沢某は藤井さん潰しに地道を挙げるのが精一杯の御仁だから、さあもっと視野の壮大な政治家が・・・いや今の日本を見る限り「百年河清を俟つ」ほかに為す術は無さそうですね・・・(>_<)

ご託を並べている時間があれば外国の文献を当たった方が賢明なのでしょう、さあエーベルス、エーベルス・・・と・・・^^
 

まあ驚いたのなんのって・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月 7日(木)01時34分26秒
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  正月早々大笑いをさせてくれました我が家のマドンナ・・・。いや連れ合いも70歳に一歩手前なのですが、でも一応PCでレシピの検索はしているし、メールは勿論私の知らないジグソーパズルなどもやってのけていますから、まあ常識的な最低線は確保しているのだろうと勝手に勘違いしていたのですが・・・

私は下の写真のスクリーンセーバーを長年使っています。昔熱帯魚に凝っていたときは窓際に大中小、屋外に一個と計4個の水槽に、大は70センチのアロワナから小は0.3ミリのネオンテトラの稚魚まで、あ、将来は2メートルを優に超えるだろうというピラルクの稚魚まで飼っていたほどなのです。アロワナを酸欠で死なせてキッパリ止めましたが、根は好きなのですね。

で、このスクリーンセーバーは実に良くできていて、ヒトデなどもジワジワとガラス面に這い上がってきたりもするのです。正に実写さながらなのです。眺めながら連れ合いと何か話をしていてどうも話が合わない部分が出てきました、何かずれているのです。フト思いついて鎌を掛けてみました、「この映像ってどこから送ってきていると思う?」「さあ、やっぱりアメリカからなんでしょ」とおっしゃる。

そうなんです、案の定これはどこかで実写したものを転送してきているのだと、そう思い込んでいらしたのです。ちょっとストップさせて魚の種類を入れ替えるとそのままの位置で違う魚たちが泳ぎ始めるのを見て、「アラ!」と仰天しておいででした。

新春初笑いのお粗末でした・・・あ、今日は七草がゆです・・・全く関係ないですが・・・(^^;)


Marine Aquarium 3.0(デモはfreeですが、2000円弱払いました)
 

いいえ決して暇だからではありません・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月 6日(水)04時37分37秒
返信・引用  編集済
  一昨日最後に書きましたが、H. Joachimはドイツ語です、なのでPaul Ghaliounguiを調べたのですが、これがまあ分からない!日本語の読み方さえ分かりません。英語のWikipediaでは相当の大物学者と受け取れるのですが。なかば自棄になってEbers Papyrusの一番最後に外部リンクとして紹介してあるPDFへ行ってみました。何故か糖尿病(diabetes mellitus)に関係のある部分だけ扱ってあるのですがまあ、かまっては居られません。兎に角読んでみるとやはり、Carl von Kleinが出てきます。これは一昨日書いたものです。その後にH. Joachimも。フムフムと思っていると有りました。

"Finally, physician and scholar Paul Ghalioungui has produced a very thorough modern translation, which, alas, is quite difficult to obtain."

なんと「alas」と感嘆詞入りで入手困難と嘆いています。なら、騒がないでくれと言いたくもなります。

でもとにかくこのBard Collegeの人達の文章はおさらいをするには持ってこいではありました。ただ「hieroglyphics」と「hieratic」が良く分かりません。調べてみたらこういう事でした。シャンポリオンが解読したロゼッタストーンに書かれていたのは「ヒエログリフ」と「デモティック」と「ギリシャ語」なのですが・・・

先ず「ヒエログリフ」というのが一番最初の象形文字です。

その行書体を「ヒエラティック」と呼びます。

そして草書体を「デモティック」と呼びこれがロゼッタストーンに書かれているものです。私には行書体と同じに見えてしまいますが・・・^^

でも兎に角分かるのは、「エーベルス・パピルス」というのは確かに医学的なそして専門的な書き物には違いないと言うことです。伝記や歴史を書き綴ったものではない、歴とした医学書と言っても良いのでしょう。それだけは大きな収穫でした。いや「ヒエログリフ」というのは不思議な象形文字ですね。「甲骨文字」はいかにも「象形」というのが理解できますが・・・いやもう深入りはしますまい、しますまい・・・(^^;)
 

やはり「エーベルス・パピルス」にハンセン病の記述は有った

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月 4日(月)06時01分4秒
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  大晦日にCarl H. von Klein著「The medical features of the Papyrus Ebers」というのを見付けたと書いています。拡大してご覧頂くと9ページの9行目に「…悪臭と化膿を伴った潰瘍、きず、瘻、leprosy、湿疹、疥癬、発疹…」と有ります。何事も疑ってかかる癖が付いてしまった私は、Carl H. von Klein氏を調べました。見付かったのがなんと1913年のThe New York Timesの訃報です。これには「medical lore」のresearcerであることと、ご子息の不行状が記されていて、「おいおい」と思ってしましましたが、しかしだから信憑性に問題が生じるわけではなし、更に調べました。

どうもこれは本当の「エーベルス・パピルス」のドイツ語訳を英訳したものらしいのを発見しました(もうヒエログリフに取り組む気力はとっくに消え失せたか・・・)。「The Papyrus Ebers Bryan, Cyril P. (Translated from the German version). With an introduction by G. Elliot Smith.」です。いかがでしょうこれは本物だと思うのですが。

このPDFの69ページをご覧ください。9行目に「To drive away leprous spot on the skin,…」とあります。1930年にこれを英訳したのも「introduction」を書いたのも「Anatomy, University College, London」の人ですから、それに「introduction」にはDr.H.Joachimのドイツ語からの翻訳の下りも詳細に書いてありますから・・・。

終わりかけて英語のWikipediaの「Ebers Papyrus」を見ると、H. JoachimとPaul Ghaliounguiの翻訳のことしか触れていないので、少しがっくりしています。又明日ゆっくり出直すといたします・・・^^
 

初笑い。それとも初恥

 投稿者:エリカ  投稿日:2010年 1月 3日(日)19時20分38秒
返信・引用  編集済
  初笑い。それとも初恥

まずは明けましておめでとうございます。
皆様方も今年の抱負はいろいろあると思いますが、わたしは新しい手帳を購入しました。その手帳に手帳大賞大募集(賞金50万円と副賞)と書いた紙がはさんでありました。格言・名言を募集してたので、わたしも一つ偉そうに応募してやろうと思って考えたのですが、賞金50万円ねらって。(笑)。
名言・格言。たとえば例「努力」は足し算。「協力」はかけ算
なかなかでてこないのですが、
頭に浮かんだのが、

収入はケッコウ。支払いもケッコウ

給料が入って、たくさん収入があるのはケッコウなことだ。しかし支払い。お金が出て行くのはケッコウ。ゴメンだという意味。あまり上手じゃないですね。

初笑い。いや初恥かな。
下手な格言は「ケッコウ」かな(笑)
 
    (リベル) 明けましておめでとうございます。

いやおめでたい話題で、楽しませて頂きました。「手帳大賞」とはまた面白いですね。私も50万円欲しい・・・^^

>下手な格言は「ケッコウ」かな(笑)・・・いやいやケッコウ面白うございました・・・^^(2010.1.4 01:50)
 

あけまして・・・

 投稿者:あずき  投稿日:2010年 1月 1日(金)12時41分27秒
返信・引用
  おめでとうございます。
お元気で、研究にお励みくださいませ。
 
    (リベル) あ、おめでとうございます。

今年もどうぞよろしくお願い致します。

「こくりこ日記」も遂に365回に達しましたね。

さあ次はどういう企画が胸の中におありなのでしょう・・・楽しみにお待ちしております・・・(^^)(2010.1.1 15:41)
 

あけましてお目出度うございます

 投稿者:リベル  投稿日:2010年 1月 1日(金)02時17分52秒
返信・引用
  今年もどうぞよろしくお願い致します・・・m(_ _)m  

年末の挨拶!

 投稿者:ルリカケス  投稿日:2009年12月31日(木)11時35分3秒
返信・引用  編集済
  ご無沙汰いたしております。

リベルさんの掲示板にて、学させています。

来春も宜しくお願い申しあげます。

では良い年をお迎え下さいませ。
 
    (リベル) ルリカケスさん、ご丁寧に有難う御座いました。

こちらこそ来年もどうぞよろしくお願い致します・・・m(_ _)m
 

エーベルス・パピルスが越年します

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月31日(木)03時36分48秒
返信・引用
  Carl H. von Klein著「The medical features(医学的特長) of the Papyrus Ebers」というのを見付けました。エーベルスの発見から約30年後に書かれたものです。

「contents」の紹介の中に「leprosy」が有ります。やはり書かれているのでしょうか。「エーベルス・パピルス」の英訳書がありますが、7000円します。そうだ図書館で調べる手がありました。来年の話になります。これほど泥沼に嵌り込もうとは夢にも思っていなかったのに・・・(>_<)

それでは皆様どぞ良いお年をお迎えください・・・m(_ _)m
 

何かがおかしい???

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月30日(水)02時07分45秒
返信・引用  編集済
  そうです数日前のこと「ハンセン病の中世の歴史」がほぼ洗い出されたので、纏める前にルシャット氏の「The paleoepidemiologyof leprosy」で総括的な見方をチェックしようとしていて、ふとこの記述が目にとまったのです。

「In Egypt, Huspati (Horus-Den), a quasimythical Thinite Icing of the First Dynasty (〜3500 BC), is reported in papyrus dating from /- 1500-1200 BC as having suffered from a disease whose signs are evocative of leprosy.」

完全主義が頭を擡げて来てこんな事を纏めました。病はそこからスタートして今や膏肓に入っています。こんなページを作りました。おかげでエジプトの古代王朝のことは随分勉強しました。いまのページの下の方をご覧ください。色んな事が分かって、絶対に面白いです、絶対に。

そこまでは良かったのです。一昨日から少し風邪気味でボットしているので、ブルクシュ(Brugschはこう読むのだと分かりました)の文章の少し前を読んでいました。エーベルス・パピルスがどうやって日の目を見たのかそのあたりの固有名詞がどうにも整理が着かなくなってしまったからです。メンフィスの共同墓地(the necropolis of Memphis)で見付かったのか、古都テーベ(現ルクソール付近)の墓地に埋葬されていたミイラの膝の間に差し込まれていたのを発見したのか、「the town of Sochem」とか「Sakhur」の「Anubius神」の足の間と書いてあるけどそう言う街は見当たらない、そこで「世界考古学事典」の古代エジプト遺跡分布図を調べてみました。テーベとメンフィスは500キロほど離れています。メンフィスの下に「サッカラ=sakkara」と書いてある、これはひょっとしたら「Sakhur」のことかも知れない・・・などと・・・。

それはよいのですが読み進める内にとんでもない疑惑が湧き起こってきたのです。ブルクシュの文章は「As an example we will allude to the great・・・」と始まっているのですが「その一例として」って何の一例なのかと遡って読むと、こう書いてあるのです・・・

"mention is only made of a roll of a very ancient book bought in Thebes by Mr. Ebers・・・"(この前後は上の「こんなぺーじ」に有ります)

これが「エーベルス・パピルス」なのです。エーベルスがテーベで買ったのです。では「hesepti」のことを記したのは・・・ブルクシュ氏は「the great medical papyrus discovered in the necropolis of Memphis」と書いて居るではないですか。エジプトのパピルスと言えば「エーベルス・パピルス」だと思い込んでいたのは、私だけではないのか?疑心暗鬼と化しました。「エーベルス・パピルス ハンセン病」で検索してみてください。GoogleもYahoo!も最初から出てくるのは私の書いたものばかり、他は同一ページには有っても両者の間に関連性がないのです。私は何故そう思い込んだのか?調べましたとも!ブラウン氏が元凶でした。

「聖書の中の『らい』」p.26に書いてあるのです、「エベルスのパピルスに出てくるウケドウ(Uchedu<Ukhedu>)やチョン(Chon)のはれものは、今日ではらいと鑑定するにはあまりにも漠然としていると判断されています。もっともこの療法の手引きに書かれている断片的な症状の描写は、すべてらいの診断に全くあてはまらないともいえません。」と。まだスレッカラシでなかった当時の私が信じ込んでも無理はないとお思いになりませんか?

ここで私は勿論「Eber's Papyrus leprosy」で検索してみました。嬉しいことにと言うべきかEber's Papyrusにleprosyのことが書いてあるという文章はそこここにあるのです。

"The previous oldest was an Egyptian dating to 400-250 BC, though the Ebers Papyrus mentions the disfiguring disease as early as 1,550 BC."

"The presence of leprosy at Balathal 4000 years ago also supports translations of the Eber's papyrus in Egypt and a Sanskrit text in India (the Atharva Veda) that refer to the disease as early as 1550 B.C."

"What is curious is that descriptions of leprosy have been noted in Ebers papyrus, an Egyptian medical document and the Atharva Veda, a Sanskrit holy text, which both refer to the disease as early as 1,550 B.C., a few hundred years after this individual died."

などなどです。しかしスレッカラシになったリベル爺はもう軽々しくは信じないのです。ただ頑固なだけではなく割合合理的な理由があるのです。実はエーベルス(=Georg Ebers・1837〜1898年)はドイツのエジプト学者です。かたやブルクシュ(Brugsch=1827〜1894年)はと言えば、これまた僅か10歳年上のドイツのエジプト学者なのです。ブルクシュもエジプトへ行って発掘研究に携わっていたのですから、同時代・同国人のライバルであるエーベルスやその業績についてこれ以上詳しいお人は無いと言って良いでしょう。その彼が断定していることは信じざるを得ません。

なので「エーベルス・パピルス」にはハンセン病に関する記述は無いのです。今日のところはこのチョット大胆な結論を書き残しておいて、もう少し調べてみることにします。
 

ハンセン病の最古の証拠

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月29日(火)14時17分16秒
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  最古の証拠と行ってもこれは文献ではなく頭骨です。「PLoS ONE」の今年の5月号に出ていたのです。これは大きな見落としでした。インドのラージャスターン地方のBalathal遺跡というところで明らかにハンセン病とされる骨変化(眉間、鼻柱、眼窩、上あごなど)がある頭骨が発掘されたそうです。これは放射性炭素年代測定によってB.C.2000年頃のものであることが分かりました。考古学的証拠として最も古いものであると同時に物証としても最古のものであり、歴史的な大発見です。それを知らないとはいえ今まで見落としていたとは・・・もう穴があったら・・・という心境です。

一つ面白いものを見付けました。同じ事件を報じる「Science Daily」にこう書いてあります・・・

"This finding also supports the hypothesis that the Sanskrit Atharva Veda, composed before the first millennium B.C., is the earliest written reference to the disease ・・・”

そして「PLoS ONE」にも・・・

"The earliest textual references to leprosy are found in proto-historic texts, including the Egyptian Ebers papyrus dated to 1550 B.C. It has been suggested that there are references to the disease in Sanskrit hymns of the Atharva Veda composed before the first millennium B.C."

これはさりげなく書いてありますが、私の「ハンセン病の最古の記録」で主張していることと全く同一です。(小鼻がピクピク動いてる・・・^^)


The Oxford Illustrated Companion to Medicine(6行目から14行目まで)」にも・・・
 

Re: ハンゼン氏病

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月28日(月)14時40分8秒
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  > No.4589[元記事へ]

>  ご無沙汰しております。
> ちょこっと調べ物しておりまして、年表を参考にさせてもらっています。
>
> その中の、1950(昭和25年)五月
>  田中文雄が「愛生」誌に「ライ病」を「ハンゼン氏病」と改称することを主張した。
> のことなんですが、田中文雄がこれを書いたのは、愛生誌の1951(昭和26)年の五月号の「ペンによせて」という一文を指すのでは思います。
> その部分だけ切り取りましたので見て下さいませ。


おお、小箱さんお久し振りです。大変興味を持って読ませて頂きました。

私は先ず「呼称の変遷」の年表の1950年のところに「田中文雄が「ライ病」を「ハンゼン氏病」とするよう主張した【注65】」と書きその【注65】では「田中文雄(鈴木重雄)が「愛生」誌5月号に「ライ病」を「ハンゼン氏病」と改称することを主張しました。」とだけ書いています。また最後の作業として「年表「癩」から「ハンセン病」へ」の完成を残していますが、これにも同じ事を書いています。

今いろんなものをひっくり返して見たのですが、この事実の出典が全く見当たらないのです。「いい加減な仕事をした」と厳しく反省しています。

ご紹介頂いた「愛生」誌の文面をしっかり読ませて頂きましたが、これはその一年前に同じ雑誌に投稿したはずがないことを如実に物語る文章です。これは小箱さんの仰有るとおり田中文雄が始めて書いたことに間違いないと私も信じます。一年後になるのは残念な気もしますが、これは歴然たる事実でしょう。

本当に貴重な事実を有り難う御座いました。「年表 日本のハンセン病史」も含めて三つの年表を訂正し、出典にご紹介頂いた「愛生」の画像を紹介させて頂きます、今夜の作業になりますが。

小箱さん、本当に貴重でかつとてもとても重要な資料を有り難う御座いました。感謝に堪えません・・・m(_ _)m
 

ハンゼン氏病

 投稿者:小箱  投稿日:2009年12月28日(月)02時26分37秒
返信・引用
   ご無沙汰しております。
ちょこっと調べ物しておりまして、年表を参考にさせてもらっています。

その中の、1950(昭和25年)五月
 田中文雄が「愛生」誌に「ライ病」を「ハンゼン氏病」と改称することを主張した。
のことなんですが、田中文雄がこれを書いたのは、愛生誌の1951(昭和26)年の五月号の「ペンによせて」という一文を指すのでは思います。
その部分だけ切り取りましたので見て下さいませ。
 

ラムセス2世の在位期間は?

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月27日(日)04時31分40秒
返信・引用  編集済
  昨日私奴は生意気にもこう書いています・・・

>上の引用文中のエジプト王朝の年代は、いずれも最近の資料によれば正しくないので、念のため・・・

まずルシャット氏がエジプトの第一王朝を(〜3500 BC)としておられます。手前味噌ですが私の人名歴史年表の最初の人物には苦慮しましたので第一王朝のメネス(ナルメル)王がB.C.3100年頃と言うことは頭に叩き込まれていますから、この「B.C.3500年」はおかしいとピンと来ました。正しくは・・・書きません・・・理由は今から書くことからご想像頂けると思います・・・^^つまりその頃の年代の特定は如何に困難かという話なのですが・・・

それは置いておいて「Ramuses IIの在位期間」に行ってみましょう。Munroのところに「(1350 B.C.)」と書いてありますが、これは正しいのでしょうか?手持ちのものを手近なところから調べていきました、行きましたというのも答えが様々だからなのです・・・(「紀元前、年、頃」を省略します)

大辞林          :1292〜1225(この人の在位期間はエジプトの王では2番目に長く66〜67年だそうです)
新英和大辞典       :1295〜1225
世界史B用語集       :1304〜1237*
コンサイス人名辞典    :1290〜1224
世界人名辞典(岩波書店) :1304〜1237*
世界人名辞典(東京堂出版):1300〜1233
世界考古学事典      :1304〜1237*
世界史大年表(山川出版社):1304〜1237*
ウィキペディア      :1314〜1224(出典無し)
Wikipedia         :1279〜1213

いかがですか、てんでんバラバラと言っても言い過ぎではありませんね。でも健気に四つ同じ年代が見られます。これも又数が多いのが正しいとは決して言えません。でもまあ多数決以外に方法は無いかと思っていましたが、思いがけないものを発見しました。

フランスのWikipediaです。これも採用している年代は、英語、ドイツ語、中国語と同じ「1279〜1213」なのですが注がついていてこうあります・・・

1279〜1213----Selon le British Museum,(大英博物館による) A. Dodson, W. Helck, N. Grimal, K. Kitchen, J. Kinnaer, E. Krauss, J. Málek, I. Shaw, J. von Beckerath.

そして親切にもこうつけ加えてあるのです・・・

Autres avis de specialistes(専門家による他の説): -1304〜-1237 (D.B. Redford), -1294〜-1227 (A. Gardiner), -1290〜-1224 (D. Arnold, E. Hornung), -1290〜-1223 (Parker).(一部改訂)

最初に調べた時4個ダブりましたが、これはD.B.Redford氏の説だと分かりました。カナダ生まれののエジプト史の学者さんです。私より一つ年上です。親近感を覚えるので、また多数決のうらみはありますが私のサイトでは「1304〜1237」を採用することにいたします。勿論フランスを真似て丁寧な「注」は付けますとも・・・^^

なんか「歴史」の叙述というのは、特に古代の文献のない時代の歴史は「曖昧」であることが宿命のようですね。「クシュタ」も「白癩」もそうなんだ・・・当然なんだと、納得致しました。ルシャット氏が古代エジプト、インド、中国の歴史を概説した後でこう締めくくっておられます・・・

In which of those areas did leprosy first make its appearance? There is no straight answer. If we trust the legacy of traditions as embodied in later records, leprosy could well have been prevalent in all three regions at the dawn of their respective histories. That the possible presence of the disease was attested to earlier in Egypt is no argument. The chronology of historical events has often more to do with the presence of historians than with the occurrence of the events themselves, as is the case for so many phenomena.

流石に凄い人ですこの方は。「これらの地域の一体何処で最初にハンセン病が現われたのか、明確な答えは有りません。もし後世になってから書き留められた伝承的遺物を信じるなら、ハンセン病はこの三つの地域でそれぞれの歴史の黎明期に存在していたと言えるでしょう。少なくとも古代エジプトでその存在の可能性が証明されたと言う点は議論の余地がありません。ただ、歴史的な出来事を遡って叙述する時その叙述を左右するのは、本当はその出来事そのものよりむしろそれを語る”歴史家”なのではないでしょうか。それは他の色々な事象においてもよくみられることですから。」これは現在のジャーナリズム批判とも感じ得ます。「事実」と「伝えられた事実」が”合同”でないことはしばしばあることです。けだし至言だなあ・・・^^
 

Huspatiについて

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月26日(土)03時47分17秒
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  ルシャットの、The paleoepidemiology of leprosyに書かれた「Huspati」の事実を検証するために・・・

 「In Egypt, Huspati (Horus-Den), a quasimythical Thinite Icing of the First Dynasty (〜3500 BC), is reported in papyrus dating from /- 1500-1200 BC as having suffered from a disease whose signs are evocative of leprosy.」(脚注2=Brugsch. Quoted in Scott, H. H. (ref. 10).脚注10= Scott, H. H. (1943): The influence of the slave trade in the spread of tropical disease. Trans. R. Soc. Med. Hyg. 37; 169-188.【注】残念ながらScottの原典は有料なのでギブアップです。

A History of Egypt under the Pharaohs   Heinrich Karl Brugsch著(1827〜1894年・German Egyptologist born in Berlin. 1875年発行)(Translated by Henry Danby Seymour)

 As an example we will allude to the great medical papyrus discovered in the necropolis of Memphis, which was added to the collection of the museum of Berlin, about fifty years ago. As we have elsewhere shown, this precious document contains a quantity of receipts for the cure of a certain number of maladies of the nature of leprosy, and many other diseases. In a simple, childish exposition of the construction and mechanism of the body, the writing explained the number and use of the numerous 'tubes.' This manuscript was composed in the reign of Ramses II., but there is a passage in it which throws back the origin of one part of the work to the fifth king of the table of Abydos. This is what the text says on this subject. 'This is the beginning of the collection of receipts for curing leprosy. It was discovered in a very ancient papyrus enclosed in a writing-case, under the feet (of a statue) of the god Anoobis, in the town of Sochem, at the time of the reign of his majesty the defunct king SaptiHesepti―編者注). After his death it was brought to the majesty of the defunct king Senta, on account of its wonderful value.'

Leprosy   W. Munro著(1879年)

 The earliest reference I can find to leprosy is in the Histoire d' Egypt by Henri Brugsch, in which, from a great medical papyrus discovered at Memphis, is mentioned a passage which contains a number of receipts for the cure of diseases of the nature of leprosy (du genre de la lepre). "This manuscript," says Brugsch, " was composed during the reign of Rameses II. (1350 B.C.), but there is a passage in it which throws back a part of the work to the fifth king of the table of Abydos." The text (of the papyrus) says, " This is the beginning of a collection of receipts for curing the exanthemata (uχet)." Following the quotation, Brugsch shows that it is as ancient as the reign of Husapti, the fifth king of Egypt, who, according to him, reigned about 4200 B.C.

History of ancient Egypt  Vol.2    George Rawlinson著(London,1881年)

 'This is tbe beginning of the collection of receipts for curing leprosy. It was discovered in a very ancient papyrus, enclosed in a writing-case, under the feet of the god Anubius, in the town of Sochem,at the time of the reign of his majesty of the defunct king Senta, on his account of its wonderful value'.(Brugasch, History of Egypt,Vol.i.p.58,1st ed.)

Faiths of Man Vol.2   J. G. R. Forlong著(「leprosy」で検索P.30)(London,1906年)

 Brugsch relates how a medical work on leprosy was found hidden in a writing-case, buried under a statue of Anubis at Sakhur, in the days of RamesesU; and ethikal(ママ) treatises go back much earlier than this.
【注】これが下に書いたフォーロング氏の著作の一部です。

History of Egypt    F. C. H. Wendel著(2008年)

 Hesepti, the Usaphaides of Manetho, who ruled twenty years, is quite a literary character among these kings. A remedy for leprosy, which was afterward copied in a medical papyrus preserved in Berlin and in the "Papyrus Ebers," is said to date from his reign.


Other Worlds, Other Universes   Brad Steiger, John White 編集(1975年)

  ここから「king Sapti」が「King Housap-ti」であり、「 the fifth king of the First Dynasty」であることが分かります。なお「king Sapti」は「Hesepti」とも称されることは他の調査で確認を終えています。

結局Heinrich Karl Brugsch著「A History of Egypt under the Pharaohs」が全ての出発点であったことが、これで判明しました。問題は引用の多さが事実の正確性を高めるのかどうなのかという話になります。「黄帝内経」や「スシュルタ・サンヒター」が症状を細かく記載していることは確かなのですが、「エーベルス・パピルス」がどう記述しているのか、ヒエログリフを読むのは諦めました。下に「ハンセン病の歴史年表」の「参考」の箇所に記したメモを転記しておきます。

「エーベルス・パピルス」について。

 エーベルス・パピルスは ドイツのエジプト学者・作家である、ゲオルク・モリッツ・エーベルス(Georg Moritz Ebers 1837〜1898)が
(a)古都テーベ(現ルクソール付近)の墓地に埋葬されていたミイラの膝の間に差し込まれていたのを1862年(1873年とも)に発見したとも、
(b)地元のエジプト人から大枚をはたいて購入したとも、(c)エドウィン・スミスから購入したともいわれています。(所在:ドイツ、ライプチヒ)

書かれたのは、エジプト第18王朝(ツタンカーメンも在位した時代)の紀元前1550年頃とされています。これは象形文字で書かれており、内科的記載が主(エドウィン・スミス・パピルスは外科学的記載が主)ですが、薬物療法の処方に関する記載も有ります。

長さ20.7メートル、幅30.5センチ、文章の行数は2,289行に及ぶ大部のもので、処方の種類も875種に達しています。


蛇足:上の引用文中のエジプト王朝の年代は、いずれも最近の資料によれば正しくないので、念のため・・・^^
 

山折哲雄氏も絶賛の古典(備忘録)

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月25日(金)02時24分27秒
返信・引用  編集済
  J.G.R. Forlong 著「比較宗教百科」全3巻
Cyclopaedia of Religions 'Faith of Man'


1,716pp
ISBN 4-931444-04-0
価格¥60,000 (本体セット価格)
底本:1906年初版

推薦文「最大級の古典の復刊を祝して」
宗教学者 山折哲雄

「比較宗教百科」といえば、すぐにも二つの大辞典が思い浮かぶ。一つがへースティングズの「宗教・倫理百科」(Hastings, J. ed.; Encyclopedia of Religion and Ethics, 12 vols., 1908-26)、 もう一つがエリアーデの「宗教百科」(Eliade, M. ed.,; Encyclopedia of Religion, 16 vols., 1987)である。

ヘースティングズ「百科」とエリアーデ「百科」のあいだにはすでに半世紀以上の時間が流れている。だが、ヘースティングズ「百科」が刊行される直前に、もう一つ逸すべからざる野心的な「比較宗教百科」が編集されていたのである。それがJ.G.R. フォーロングのこの三巻本だった。1906年の刊行というから、ヘースティングズ「百科」刊行の二年前ということになる。

このフォーロングという人物のキャリアがまさに破天荒で、面白い。スコットランドに生まれ、陸軍に入ってインドに赴き、技術・工学の分野で大活躍。その間、30年以上にわたってインド、ビルマはもちろん、ギリシャ、エジプトなど世界各地を旅行して、膨大な資料を収集している。大英帝国の爛熟期が生んだ異能の一人だが、ときあたかもあのフレーザーを中心とする民族学、人類学の草創期にあたっていた。その両者に共通する関心はだた一つ、世界の諸民族のあいだにちらばる儀礼、伝承、慣習、信仰をはじめ、天文、 動植物、言語、人種などの知識と情報を網羅的に集めて分類し、多角的、重層的な比較を試みることだった。フォーロングはその仕事に25年以上の歳月をかけ、単独の力でこの「比較宗教百科」を完成させたのである。


見所の一つに、たとえばフレーザーの「金枝篇」にたいする反論なども見出せるが、それよりも何よりも、ヘースティングズ「百科」に与えたであろう刺激と影響は見逃すことが出来ないはずだ。ここに、この領域における未知の大著、最大級の古典の復刊を祝して、いささか推薦の辞をのべる次第である。
 

頑張った鳩山由紀夫!

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月25日(金)00時33分19秒
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  「情報ライブ ミヤネ屋」という午後のワイドニュース番組をご存知の方もいらっしゃると思います。関西発で全国ネットになったとかの番組です。そこで昨日の夕方「今年頑張った人」というような特集をやっていました。麻生さんが入って居るなあ、変なの、と思いながら松井選手が5位と言っているあたりから注目し始めました。

驚いたのは第4位です。何と鳩山由紀夫さんでした。私は連れ合いから涙を隠すのに苦労しました、なんで泣くのと言われそうで。私自身も弱くて優柔不断な人間なので、鳩山さんの苦痛とそれに耐えて頑張っている気持ちを痛いほど分かっていたからです。そうか私だけじゃないんだ「頑張っている」と思ってくれている人が居るんだ、と泣けてきたのです。調査対象は関西人です。関西人は判官贔屓の心情が強いとやら申しますから、そのせいかもしれません。しかしそれで良いのです。

3位が嵐、これは全く知らないグループ。2位が石川遼君。1位はそうですイチローでした。

その後布団の中で記者会見に耳を欹てました。よしそれで良い、真剣に説明したと合格点を出して眠りにつきました。今各ジャーナリズムの報道を読んできました。酷評もあります、が私は応援します。さあ私も頑張らなければ・・・^^
 

ムカツク小沢一郎!

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月23日(水)04時29分1秒
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  1週間ほど前にこう書きました・・・

「追記:今朝TBS系列のワイドニュースで小沢氏の発言を全部文字に書き起こして、検証していました。新聞記者出身のコメンテーターが意見を求められて細かい論評に先立って一言「何度も記者会見を経験してきた身として率直に感想を述べますと、理屈の是非はともかく、とにかくムカツキました」と。(2009.12.15 12:42)」

最近また会見がありました。私はまたムカツキました。なんでムカツクのだろう?理由もなく人を嫌悪してはいけないではないか、そう思って分析を試みました。何故小沢一郎氏はムカツクのか?

(一)人間というのは何か後ろめたいとき、弱みがあるとき、そういうときは得てして居丈高になって強圧的にものを言ったり、何か難しい理屈を縷々並べたりして、矛先を逸らして安全圏に逃げ込もうとするものです。小沢氏はしょっちゅうその手を使います。それは正しさ・強さ・清らかさなどというイメージからほど遠い性質のものです、それにまず吐き気を催すのです。

(二)記者会見というのは記者が新聞社なり放送局なりを代表して質問をしています。そしてその後ろには国民が居るのです。国民が政治家の顔を凝視し、発言に耳を欹てているのです。そんなことは政治家は常識として十分弁えていなさる。福田さんは「あなたとは違うんです」とつい口を滑らしました。麻生さんも最後のぶら下がりで、一記者に対して「分かった?」と捨て台詞を吐いて立ち去りました。この二つはかなり我を忘れての発言だから未だ救われます。

我を忘れず、十分弁えた上で「一記者に対して」という形を利用して「憲法読んだ?」などと詰問して来るのが小沢流です。彼は国民を十分意識しています、その上で記者を利用して言いにくいことを言ってしまう、その遣り口が汚いのです。なぜ小沢さんあなたは、キチンと「国民の皆さん」に向かって口がきけないのですか。それは実は二重に国民をバカにした態度なのですよ。優柔不断とか責め立てられていますが、鳩山さんは真っ直ぐ国民の目を見つめて話をされます。残念ながら鳩山さんの方が遙かに男性的で逞しく感じられますよ、小沢さん・・・。

ムカツク理由を分析したら、ようやく少し気持ちが治まってきました。がどうも悪態をつくというのは気分の良いものではありません。


気分直しと、お耳直し(そんなのありましたっけ?)にSisselでもどうぞ・・・(歌詞
 

人間賛歌♪♪♪

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月22日(火)03時59分10秒
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  先程よくあることですが、妙な夢で起こされました。視野の右の方に長い藤の花がカーテンのように下まで垂れ下がっている美しい場所です。子供だか自分だかが走り回りながらその藤のカーテンをさあっと撫でていくので花が散ります。何度も何度も撫でていくので花が手前の方にばかり偏って積もります。

私だか誰かだかが「もうおよしなさい」と言います。そんなことをすれば藤の花が来年は違う場所から生えてくる(そんなことはないのですが)、だから自然を変えることになるから止めた方が良いと言うのです。「自然を変える」か・・・そう言えば辺野古だって・・・と目が覚めました。

完全に自然の支配下にあった原始時代、以後自然を手なずけ、自然を支配しようとして手ひどいしっぺ返しを喰らって来て、「自然との共生」という表現を使って面目を保とうと努めているのが現在の人類ではないかと思っています。京都やコペンハーゲンで何を相談してももう纏まらないのは必然の流れなのかも知れない、と・・・。


視点を変えて自然と人間の関わり合いという面から見ると面白いものが見えます。それは人間の言語です、具体的には「命名」です。私達は大陸プレートがひしめき合って形成された皺の高い部分を「山脈」、低い部分を「海溝」と名付けましたが自然はそのことを知りません。「オゾン層」とか「CO2」とか「蜂の頭」とか「虎の尾」とか・・・。しかし”命名”の中でも最も規模の壮大なのは・・・私は「暦」だと思うのです。これは本当に規模が違います。「ブラックホール」「ダークマター」「宇宙」などよりもモット壮大です。何しろ宇宙の運行を文字の羅列で把握してしまったのですから。

ここまで書いてあっと思いました。いみじくもパスカルは400年前に喝破していたのです・・・

「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。」

そうです。「人間」はやはり「宇宙」よりそして「自然」より、優っているのです。続く断章348ではこうも言っています。

「空間によって宇宙は私を包み、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ。」

暦といえばたとえばマヤ暦、この歴史はせいぜい3世紀までしか遡りませんがそれ以前にマヤ暦の前身とも言うべきものが存在し、20進法を用いたその暦はなんとB.C.3114年8月13日からの「長期暦」であると言います(増田義郎・山田睦男著「ラテン・アメリカ史」p.41)。人類の頭脳は宇宙をつつんでいるのです・・・ヽ(´ー`)ノ ワーィ!


マヤの天文台(太陽暦の1年をマヤ人は365.2420日と計算していました。現代人がコンピュータで計算した1年は365.2422日です)
 

寅年

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月22日(火)02時16分40秒
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  昨日年賀状作りをしていた時こんな会話がありました。我が家では私の名前・連れ合いの名前・二人の連名と三種類作ります。連れ合いは寅の絵が欲しいというのでキャノンとJPのサイトを教えて、そこから探しなさいと放置していました。

が、どうやらそこには気に入ったイラストが無かったらしくて、検索して勝手に探して来てこれが良いと申します。私も気に入ったので「はいはい」と筆ぐるめという年賀状ソフトで作りました。「なかなか良いジャン(新婚当初7年間横浜に住んでいたせいか)」「お父さんもそれにしたら?」「いや儂は干支は嫌いなんや」「ふーん」「そういえば次の寅年には儂は居らんやろな」・・・

連れ合いは「そんな・・・」とも何とも言わず会話は何事もなく流れていきました。と、書いていると言うことは私は一応こだわっていたのでしょうね。こういうセリフが日常会話に溶け込んでしまう、そんな年齢に入っているのだなあ、とある種の感慨を覚えました。

私は毎日ほぼ同じコースを散歩します。時々図書館や大阪の紀伊国屋へ遠出するときは一言「今日は図書館へ行ってくるわ」などと一応断って出かけます。どうやらこの分では死ぬ時も「ちょっとあの世へ行ってくるわ」と出かけそうな、そんな感じです。もう「死」が日常生活の一部に仲間入りしていやがると、でもとても自然に受け入れていることに気付きました・・・^^


次の機会には会えないだろう寅くんです・・・^^
 

腑に落ちない

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月20日(日)02時52分12秒
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  先日ゴルフ番組を観ていて「エッ!」と思うことがありました。石川遼君と賞金王争いをしていた池田勇太が試合後のインタビューで不用意に漏らした言葉です。その日の出来が今一つだったことを訊かれて「自分自身(この出来の悪さが)腑に落ちない云々」と発言しました。

池田勇太の個性は私は好きで、心中応援しているのですが(いや「心中」と断る必要は何もありませんね)、この言葉には引っかかりました。強引なほど前向きな男性的風貌や言動を好ましく思っていたのですが、これはいけません。振り返って「不調ぶり」が「残念だ」とか「口惜しい」と言うのが普通でしょう、「腑に落ちない」は不遜で傲岸です。自分のしでかしたことを「腑に落ちない」なんて言うのは、どうにも腑に落ちません・・・

この発言を機に君は一人のファンを失ったんだよ、勇太君・・・(>_<)


もう一人腑に落ちないプロゴルファー
 

世界最古のハンセン病患者

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月18日(金)05時25分5秒
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  昨日のAFPBB News で「世界最古のハンセン病患者は1世紀の男性、エルサレムで発見のミイラ」と報じられています。記事には「これまでに確認された中では最古の「ハンセン病患者」だという。 ミイラは、エルサレム(Jerusalem)旧市街近郊の埋葬用の洞くつの中で、布に包まれた状態で発見された。放射性炭素年代測定で、紀元後1〜50年に生きていたことが判明している。」と書いてあります。

こわいことです、こういう発掘がどしどしハンセン病の歴史を文字通り「発掘」していくことでしょう。今回のこの発掘は何も歴史を書き換えるものでは無いと思いますが、まだまだこれから度肝を抜かれるような発掘や発見が顕われることは確かです。私はこっそり思っています、早く今考えている仮説をここに書いて置いた方が良い、恐らく実証される日が近く来るだろうから・・・なんて・・・^^。これは少し、少しです、冗談として、実はこの記事を調べている内に大変なことを発見しました・・・(@_@)

これです。なんと先月の1日にNature誌に発表されていました。中心メンバーは2005年5月にScience誌に"On the Origins of Leprosy" を発表した面々とほぼ同じです。更に進んだ研究結果を発表しています。それによればシルクロードが中近東から中国へのらい菌の移動に一役買っているそうです。私は2008年の冬、こんな事を書いています。それから「癩の由来」の最後の(4)仮説(蛇足)にご注目ください。

さあこれから又やることが増えました。これは行き掛かり上知らぬ顔の半兵衛は決め込めません。こりゃ大変だ・・・来年に廻すか・・・ヽ(ー_ー )ノ マイッタ〜


新しく発表された分布図です。(赤い点線がシルクロードです)
 

ラテン語と格闘しました

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月16日(水)02時15分44秒
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  余談:めぐる盃影さして 投稿者:リベル 投稿日:2007年 8月 9日(木)03時10分26秒

マリア・カラスの「アンドレア・シェニエ」にはまったときは伊和辞典、モーツアルトの「レクイエム」の書きかけて途中で死んだ8曲目「ラクリモサ」を原語で歌いたいと羅和辞典、昨日は或る方に触発されてバッハの「マタイ受難曲」を発注。これはドイツ語だから辞書を持っていました。

「ラクリモサ」なんて、訳せるものではありません。「ジスイズアペン」というようなものでなく、「詩」なのですから。それに語尾変化などは、文法を勉強しないと、とてもとても。だって、たとえば「めぐる盃影さして」を英語に訳せますか?「仰げば尊し我が師の恩」だったら「We thanks so much to our teachers」で良い(良くはありませんが、まあ、たとえば、です)のですが。


こんな事を2年前に書いています。にもかかわらず、とんだ暴挙に打って出ました。合計4〜5時間でしょうか。


Dicit enim sub Bocchori rege Aegyptiorum populum Judaeorum, quod essent lepra, scabie et aliis quibusdam morbis infecti, ad templa confugisse et victum mendicasse.


dicit=(動詞)示す、定める、述べる、語る(dicoの三人称単数)
enim=(接続詞)なぜならば、すなわち、たとえば
sub=(前置詞)下へ、支配下へ、ころに、
Bocchori=ボッコリス王(第24王朝・在位B.C.725〜720年)
rege=王(rex)によって
Aegyptiorum=Aegyptus(エジプト人)の複数・属格(←分かりません)
populum=(動詞)populo(=荒らす、破壊する、滅ぼす)の変化
Judaeorum=Judaeus(ユダヤ人)の複数・属格(←分かりません)
quod=〜の理由で
essent=sum(=英語のbe)の接続法・三人称複数・不完了過去(←分かりません)
lepra=ハンセン病
scabie=疥癬
et=(英語の)and
aliis=(英語の)another
quibusdam=by which、with which
morbis=病気、morbusの複数・与格(←分かりません)
infecti=染める、汚す(inficioの過去完了?)
ad=(英語の)to
templa=聖域、神殿、礼拝堂(templumの複数)
confugisse=逃げ込む、避難する(confugioの不定法完了)
victum=生活する、生きる(victitoの過去完了)
mendicasse=乞食する、托鉢する(mendicoの不定法完了)


日本語や朝鮮語は膠着語で、英仏独語やラテン語は屈折語だと言いますがラテン語はまあ凄いと知りました。英語ならたとえば「king」で済むところをなんと代名詞「I・my・me」なみに「主格rēx=王は・属格rēgis=王の・与格rēgi=王に・対格rēgem=王を・奪格rēge王から」と名詞の語尾が変化するのです。なので大抵の単語は辞書にそのままは出ていないのです。遂に昔買うだけで途中で投げ出した「はじめてのラテン語」という本を引っ張り出してきて基礎勉強をしながら・・・という羽目に陥りました。

こう言えるでしょう(コンテキストによっては「こう言っています」)。ボッコリス王(在位B.C.725〜720年)の頃、エジプト人達は彼等がハンセン病や疥癬など伝染する病気を持っていることを理由に、ユダヤ人達を”聖域”に追い遣り乞食生活することを強いたのです。

”聖域”というのは、映画「ベンハー」に出てくるような隔離された地域を指しているのでしょう、未だ勿論「ラザレット」は有りませんし、この頃から「神殿」に保護したと言う話も聞きませんから。

本当は前後をもっと読破したいのですが、気力が続きません。しかしこれで一つ文献が増えました、ラテン語で書いてあるから「正確な史実である」という訳ではないので、あくまで参考文献ですが。1841年発刊です。この叙述を信じるならばB.C.8世紀にエジプトにラテン語で「lepra」と呼ばれる病気が有った事になります。「Catholic Encyclopedia」や「The paleoepidemiology of leprosy」が触れており、スペインの学者が「Historia de la lepra en Espana」の中で書いていることを考えると、B.C.10世紀にフェニキア人がスペインに運び込んだという説はやや信憑性を増してきます。少なくともB.C.720年頃エジプトには存在したようですから。

「地域別歴史年表」には未だ書き込んでは居ません。しかし遠からず、この年表の「エジプト」と「ヨーロッパ」の欄に何か書き込まれるのでは・・・「Historia de la lepra en Espana」はしかしスペイン語だし・・・「西日辞典」は無いし・・・^^


「ラクリモサ」:この曲を書きながらモーツァルト自身が涙を流したと言われる、美しくも壮絶な鎮魂歌です。(歌詞
 

Re: 「らい者のミサ」と「模擬埋葬」は別の行事ではない

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月15日(火)13時34分36秒
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  > No.4570[元記事へ]

> いま取り掛かっている中世の歴史のところで「らい者のミサ」と「模擬埋葬」という行事を目にします。私自身は「ハンセン病のリンク集」の中で「らい者のミサ(模擬埋葬)」と扱っているのですが、ウィキペディアなどでは「らい者のミサ」を「死のミサ」とし、「模擬埋葬」とは別の行事として扱っています。
>
> 私は変だなあと思い確かめるべく荒井英子著「ハンセン病とキリスト教」(p.155〜159)とスタンレー・スタイン著「もはや一人ではない」(p.223〜228)を入念に読み返してみました。そして結論は、やはり別の行事ではありません。分かり易く書いてしまえば「らい者のミサ」という行事の中の一環として「模擬埋葬」が有るのです。後者のp.224の6〜7行目でそれが良く分かります。「教会での式が終わると、男は墓地へと連れていかれ、目の前で墓穴が埋められるのを見せられる。これは自分が埋葬されたことを意味していた」とあります。いい加減な記述があちらこちらに有るので、なかなか本番に入れなくて困ります、ったく(吐き捨てるように)。
>
> もう一つ、「死のミサ」、「癩者のミサ」、「らい者のミサ」と三つの表現が見られます。どれが良く用いられるのか例によってググってみました。
>
> 死のミサ・・・・286,000
>
> 癩者のミサ・・・389
>
> らい者のミサ・・33,600
>
> です。もっとも「死のミサ」はこの行事の意味のものはごく僅かで、例えば「ミサは27歳で死にました」なんてのが5番目に出てくるので、この数字は当てにはなりません。
>
> 下に転載したものは「leper mass」(実際には「leper mass -relicta」)で検索して探したものですが、今年書かれたものですから19世紀や20世紀の文章と違って「leprosy sufferers」というように言葉遣いは慎重で、ここでは「Mass of Separation=別離のミサ」と表現しています。
>
> 「もはや一人ではない」では「らい者のミサ」となっていますが原文は何だったのかと探してみましたが見当たりません。古本をアメリカから取り寄せると1000円くらいで済むのですが何しろ届くまでに一ヶ月は見ておかないと苛つかなければなりませんから、止め。図書館にも無し。出版社や翻訳者に問い合わせるほどのことでも無し、「leper's mass」か「mass of leper」だろうということにしておきます。
>
> このような経過を経て、私は日本では「らい者のミサ」を使うのが最も適当ではないかとの結論に達しました。「ハンセン病の歴史」本編もそれで統一することにいたします。


今日見付けたのですが、Carole Rawcliffe著「Leprosy in Medieval England」という本が2006年に出ています(ペーパーバックだと約半額で買えます)。この本の書評をI. M. McCleery 氏が書いていますが、その中でこんな表現を用いています(おっと、これは登録制ですが無料で簡単に登録できます)。「the ideas that a leper had to undergo a quasi-funeral ceremony (the leper's‘mass’), and ・・・」。

辞書によれば「quasi-=擬似…, 準….」です。本文内も探したのですが(もし画像が出たら上の「ページ」をクリックしてください)、この用い方は有りませんでした。私は「らい者のミサ」の一部に「模擬埋葬」が有ると主張していますが、上の表現はそれを否定するものではありませんでしょう。むしろ一体としているのですから、私の主張を裏付けると言っても誤りではないと思いますが、いかがでしょうか・・・???
 

要するに・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月15日(火)04時51分13秒
返信・引用
  要するにマネトンが「ヘブライ人の中にはエジプト人が放逐しようとしていたleprosyが蔓延していた。」と言った(これが出エジプトの頃だから歴史が塗り替えられる)その出典は「Hist. Graec Fragm」でありそれは何かというとKarl Mullerと Theodor Mullerが書いた「Fragmenta historicorum graecorum」のことである、と言うことですよね。で、その中のどれが出典かというとどうやらこの辺らしいと言うところまで突き止めた。つまりラテン語の・・・

「Dicit enim sub Bocchori rege Aegyptiorum populum Judaeorum, quod essent lepra, scabie et aliis quibusdam morbis infecti, ad templa confugisse et victum mendicasse.」

ということです。で、それを今から訳そうかどうしようか、しんどいなあとウジウジしているわけです、「羅和辞典」を横目で見ながら。ならサッサと止めて、映画でも観ましょう、明日明日・・・^^
 

蟻の一穴

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月15日(火)02時52分37秒
返信・引用  編集済
  「ダメなものはダメなのよ」っておばあちゃんや親からよく言われました。

朝日新聞も石破茂、小野寺五典、谷垣禎一、安倍晋三、平沼赳夫、福山哲郎、渡辺周、鳩山首相、山岡賢次各氏の賛否両論を紹介しています。昨日テレビで小沢一郎氏が憲法や民主主義を持ち出して民主党の対応を擁護する弁舌をふるっていました。

小沢氏が言葉を連ねれば連ねるほどその言葉がむなしさを増すのを感じました。私はここで良く「decency」という言葉を持ち出しますがまあおばあちゃんの智慧です、良識(ボン・サンス)です。憲法や民主主義も大切でしょうけど、鳩山氏や小沢氏が懸命に論ずれば論ずるほど、その胸の内の深いところではチクチクと良心に突き刺さってくるものを自覚しておられるのが察しられて誠に痛々しい、自分の失敗を隠そうと一生懸命まくしたてる幼さな子さながらです。


ダメなものはダメなのです。いけないことはいけないことなのです。杓子や定規はその目安なのですよ。いくらツベコベ言ったって、ダメなものはダメ。酒もそうドラッグもそう、一杯だけ一回だけの例外が人生を誤らせるのはよくご存知でしょうに・・・いい加減になさい!!!ったくう・・・国民は馬鹿じゃ無い、ことの真相は薄々察知致しておりますぞ・・・^^。

追記:今朝TBS系列のワイドニュースで小沢氏の発言を全部文字に書き起こして、検証していました。新聞記者出身のコメンテーターが意見を求められて細かい論評に先立って一言「何度も記者会見を経験してきた身として率直に感想を述べますと、理屈の是非はともかく、とにかくムカツキました」と。(2009.12.15 12:42)


厳しい表情で記者の質問に答える民主党の小沢幹事長=14日午後、東京・永田町の党本部(産経ニュースより)
 

「Fragmenta historicorum graecorum」

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月14日(月)03時34分24秒
返信・引用  編集済
  「Fragmenta historicorum graecorum」

こちらが新しく見付けたものです。ご覧のように「lepra」とか「leprosos」と言う言葉が見られます。この版ではこのページにしか登場しないのです。OCRで読み取って転載しました、恐らくここに何か書いてある筈です。

DE REBUS AEGYPTIORUM.     1.

 His addam Lysimacham, idem quidem habentem cum praedictis mendacii argumentum, illorum  vero incredibilitatem figmentorum enormitate superantem. Unde constat eum ex magno in nos odio sua confinxisse. Dicit enim sub Bocchori rege Aegyptiorum populum Judaeorum, quod essent lepra, scabie et aliis quibusdam morbis infecti, ad templa confugisse et victum mendicasse. Multis autem hominibus morbo correptis, sterilitatem in Aegypto accidisse. Bocchorim vero, Aegyptiorum regem ,ad Ammonem scitatum oracula de sterilitate misisse: responsum que a deo,repurganda esse templa ab hominibus impuris et impiis ejiciendo eos e templis in loca deserta; ceterum scabiosos ac leprosos mergendos, tanquam eole ut isti viverent aegre ferente; et templa expianda, atque ita fore ut terra fructum ferat. Bocchorim autem ,accepto oraculo, accersitisque sacerdotibus et sacrificlis jussisse ut imipuri collecti milltibus traderentur deportandi in desertum; utque leprosi plumbeis laminis involuti in pelagus dejicerentur. Submersis autem leprosis ac impetiginosis,reliquos congregatos in loca deserta expositos esse ut perirent: cos antem habito concilio de se ipsis consnitasse et noct super-

また明日頑張ります・・・^^


良いですね・・・こんなところ・・・
 

紀元前10世紀のフェニキア人

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月13日(日)05時01分57秒
返信・引用  編集済
  このところ中世の歴史の細かい部分を追求していますが、変に深入りし始めると底なし沼に足を取られるものです、経験上承知しています。そういう視野狭窄の危険を回避する便法としてトイレにルシャット氏の「The paleoepidemiology of leprosy」を置いておいて時々手当たり次第に音読します。こういうのって結構とんでもない発想を生んだり、発見を招いたりするものです、一つの対象に別の角度から光を当てるような効果があるのでしょうか。

今日読んでいたところにヒョイと引っかかりました。「馬鹿な!」と読み飛ばしていた箇所なのですが。「ローマの領域拡大(1世紀〜3世紀でしょうか)に従って現在のフランスやドイツ地方へ広がった。ただ早くも紀元前10世紀にフェニキア人によってスペインに伝染していたという学説もある。(脚注:Contreras, E and Miquel, R. (1973): Historia de la lepra en Espana.)」と言うのです。下の表と地図をご覧ください・・・

     この表の左下です                        この地図は大体紀元前15世紀頃です

フェニキア人が一時代を画していたことは確かですが、私の知識では紀元前10世紀にハンセン病が存在した記録は未だ無いのです。「地域別の歴史年表」の「B.C.380年頃」のところの【注11】でヒポクラテスとフェニキア病のことを追求しています。是非。【参考20】【注13】もお見逃し無く。

実はここで脱線しました。「Catholic Encyclopedia」を読んでいたら・・・

「 Various causes helped to spread the disease beyond Egypt. Foremost among these causes Manetho places the Hebrews, for, according to him, they were a mass of leprosy of which the Egyptians rid their land ("Hist. Graec Fragm.", ed. Didot, II, pp. 578-81). Though this is romance, there is no doubt but at the Exodus the contamination had affected the Hebrews. From Egypt Phoenician sailors also brought leprosy into Syria and the countries with which they had commercial relations, hence the name "Phoenician disease" given it by Hippocrates (Prorrhetics, II)」

「エジプトから拡散したのには色々な原因があります。マネトン(B.C.3世紀の人で「エジプト年代記」を著した)は先ずヘブライ人を挙げます。なぜならば彼等の中にはエジプト人が放逐しようとしていたleprosyが蔓延していたからです("Hist. Graec Fragm.")。これは誇張だとしても出エジプトの頃ヘブライ人が罹患していたことは疑いが有りません。またフェニキアの船乗りもシリアや取引のある国々へleprosyを持ち込みました。それがヒポクラテスが”フェニキア病”と名付けた所以なのです。」

とあるではないですか。「the Exodus=出エジプト」はB.C.13世紀ですから、これは「発見」と言うことになります、フェニキア人がB.C.10世紀にスペインへ持ち込んだ可能性も大きくなります。脱線というのはここから始まったのです。もし「発見」とあらば慎重を期さなければならない。この出典の"Hist. Graec Fragm."というのは一体何なんだ?ここから結局検索、検索と1時間以上、遂に突き止めました。「frag.hist.graec」から「müller, frag. hist. graec.」を探り出し最後に「Fragmenta historicorum graecorum」に辿り着きました。ふーっ・・・

これはしかしラテン語です。なら「lepra」だろうと検索しても有りません。「manethon」は有ったのですが、違うみたいだし・・・。エジプトは「aegyptus」だからこれは・・と思ったら無い。この本じゃないのかなあ???で自棄になって「egypt」と入れたら大量にヒット、見たら「aegypt」は「a」と「e」がくっついた文字(もう出なくなりました、teacupもさん!)でした、よし探し出してやる明日までに・・・年内かも・・・^^

注:種々訂正を加えました。なお「Fragmenta historicorum graecorum」はこちらに別ヴァージョンが有りました。これは「lepra」や「leprosis」を含むページがありました。何かこのぺーじが怪しい・・・「judaeorum」の文字はユダヤに関係があります(judaea=ユダヤ人の国、語尾変化は皆目分かりません)。(12.14 01:57記)
 

ノーマン・デイヴィスという歴史学者

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月12日(土)03時32分14秒
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  ノーマン・デイヴィスという学者はオクスフォード大学のウルフソンカレッジのフェローで、歴史書の執筆で有名です。彼は1996年に「Europe:A History」を出版しました。その第四章「ヨーロッパの誕生(330年頃〜800年)」の中のコラムの一つに「leper」と言うのが有ります。それが下の投稿です。1300ページの大著「ヨーロッパ史」の「誕生」の章にコラムとは言え、今は差別語とされている(新英和大辞典による)「leper」という語を用いて中世の歴史を記述した真意は掴めません。ただ「十字軍が持ち込んだという神話が崩れた」というのは歴史家にしてはピントが外れすぎてはいませんでしょうか?

それはともかく、今私が手掛けているのは「中世のハンセン病」なのですが、その内の特に「らい者のミサ」の正確な記述を探しています。先日書きましたが、興味をお持ちの方は荒井英子著「ハンセン病とキリスト教」(p.155〜159)とスタンレー・スタイン著「もはや一人ではない」(p.223〜228)をお読みください。「ハンセン病とキリスト教」のp.158〜159の「禁止箇条書」の内容が八項目挙げてありますが、下に転載した英文と全く同一であることが分かります、当たり前なのですが。

ここからが本題なのですが、「禁止条項」の今分かっている分を年代順に並べるとこうなります・・・

(一)Edmond Marteneの「De antiquis Ecclesiae ritibus」(1700年刊)によると
I forbid you to ever enter a church, a monastery, a fair, a mill, a market or an assembly of people. I forbid you to leave your house unless dressed in your recognizable garb and also shod. I forbid you to wash your hands or to launder anything or to drink at any stream or fountain, unless using your own barrel or dipper. I forbid you to touch anything you buy or barter for, until it becomes your own. I forbid you to enter any tavern; and if you wish for wine, whether you buy it or it is given to you, have it funneled into your keg. I forbid you to share house with any woman but your wife. I command you, if accosted by anyone while traveling on a road, to set yourself down-wind of them before you answer. I forbid you to enter any narrow passage, lest a passerby bump into you. I forbid you, wherever you go, to touch the rim or the rope of a well without donning your gloves. I forbid you to touch any child or give them anything. I forbid you to drink or eat from any vessel but your own.

(二)Saul Brodyの「Disease of the Soul」(1974年刊)によると
I forbid you to enter the church or monastery, fair, mill, market-place, or company of persons...ever to leave your hourse without your leper's costume...to wash your hands or anything about you in the stream or fountain. I forbid you to enter a tavern...I forbid you, if you go on the road and you meet some person who speaks to you, to fail to put yourself downwind before you answer...I forbid you to go into a narrow lane so that if you should meet anyone he might catch the affliction from you...I forbid you ever to touch children or give them anything. I forbid you to eat or drink from any dishes but your own. I forbid you to eat or drink in company, unless with lepers.

(三)Norman Daviesの「Europe: a history」(1998年刊)によると
lforbid you to enter church, monastery,fair,mill,marketplace or tavern...l forbid you ever to leave your house without your leper's costume,or to walk barefoot...I forbid you to wash or to drink in the stream or fountain...I forbid you to live with anywoman other than your own. lf you meet and talk with some person on the road, I forbid you to answer before you have moved downwind...l forbid you to touch a well,or well cord, withou your gloves. I forbid you ever to touch cildren,or to give them anything...l forbid you eating or drinking, except with lepers.

となります。結局最初のEdmond Marteneの記述が最も詳しく、洩れもないのでこれを採用して本編に使うことにします。「Mass of Separation」で検索するとモット何か発掘できるかもしれないので、もう少し粘ってはみますが・・・。
 

Europe: a history から(備忘録)

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月12日(土)00時16分22秒
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  Europe: a history(279ページをクリック) 著者: Norman Davies1998年発行

LEPER

In 643 King Rothar of Lombardy issued a decree:'if any man become a leper... and is expelled from his city of dwelling, let him not donate his possessions to anyone. For on the very day he is expelled,he is considered dead.'1) This,in itself, is enough to dispel the myth that leprosy came to Europe with the Crusades.
 The ostracism of lepers is attested throughout the Middle Ages. Byzantium, which possessed at least one lazar-house in the fifth century, shared the same attitudes. Leviticus 13 offered ample biblical support. Lepers were forced to live beyond town limits; they had to wear a long robe of disinctive colour marked by the letter L; and they had to signal their approach by bell,clapper,or horn, or by shouting 'Unclean,unclean' The sixth-century Council of Lyons formally placed them under the care of bishops. In fact,they lived from begging. In 1179 the Third Lateran Council formalized the procedures. Suspect lepers were to be examined before a priest or magistrate and, if found infected, were to be ritually separated from the community through an act of symbolic burlal.
 A description of this ceremony,the separatio leprosorum, was written down at St Algin's in Angers. The penitent leper stood in an open grave with a black cloth over his head. The priest said :'Be dead to the world, be reborn in God,'The leper said:'Jesus, my Redeemer...may l be reborn in Thee,' Then the priest read the proscription:

lforbid you to enter church, monastery,fair,mill,marketplace or tavern...l forbid you ever to leave your house without your leper's costume,or to walk barefoot...I forbid you to wash or to drink in the stream or fountain...I forbid you to live with anywoman other than your own. lf you meet and talk with some person on the road, I forbid you to answer before you have moved downwind...l forbid you to touch a well,or well cord, withou your gloves. I forbid you ever to touch cildren,or to give them anything...l forbid you eating or drinking, except with lepers.2)  1)、(2)の脚注(Ibid=同書)

The leper was then led in procession to the place of exile.
Some rulers sanctioned more ferocious methods.ln 1318 Phlip V of France charged the country's lepers of being in league with 'the Saracens', and of poisoning wells. He ordered them all to be burned, together with Jews who gave them counsel and comfort.3 ln 1371,1388, 1394,1402,and l404 the municipality of Paris vainly called for the leprosy laws to be enforced. The ferocity of their reactions derived from the rooted belief that leprosy was a punishment for sexual depravity. The disease carried a heavy moral stigma, which caused the risk of contagion to be grossly exaggerated.
 Even so,leprosy affectted high and low. It struck down Baldwin lV,King of Jerusalem, and Hugh d'Orivalle,Bishop of London(d,1085).Physicians had no clue of it's bacterial cause,and few suggestlons for its relief. Following Avicenna,they stressed its supposed psychological symptoms of craftiness and lust. The leprosarium or lazar-house was a common sight beyond city walls. ln England the leper colony at Hambledown, near Canterbury, grew into a sizeable settlment. At Burton Lazar it was located near the healing waters,later used for brewing.
 Medieval literature used leprosy as a sensational device. ln several versions of Tristan and lsolde,the heroine is saved from burning only to be thrown to the lepers:

    Do sprach der herzoge,lch wil sie
    minen sichen bringen,
    die suln sie alle minnen
    so stirbet sie lesterlichen.
(The Duke spoke;l will bring her to my sick ones. They will all love her,so that she will die dishonourably.)4

 By all accounts leprosy greatly declined in sixteenth-century Europe, its place was taken by syphilis. But prejudices did not change. ln 1933 the OED defined it as 'a loathsome disease', elephantiasis graecorum. And in 1959 a popular American novelist could be criticized for repeating all the old degrading stereotypes.5 Leprosy was the medieval counterpart to AIDS.
 

「らい者のミサ」と「模擬埋葬」は別の行事ではない

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月10日(木)04時06分22秒
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  いま取り掛かっている中世の歴史のところで「らい者のミサ」と「模擬埋葬」という行事を目にします。私自身は「ハンセン病のリンク集」の中で「らい者のミサ(模擬埋葬)」と扱っているのですが、ウィキペディアなどでは「らい者のミサ」を「死のミサ」とし、「模擬埋葬」とは別の行事として扱っています。

私は変だなあと思い確かめるべく荒井英子著「ハンセン病とキリスト教」(p.155〜159)とスタンレー・スタイン著「もはや一人ではない」(p.223〜228)を入念に読み返してみました。そして結論は、やはり別の行事ではありません。分かり易く書いてしまえば「らい者のミサ」という行事の中の一環として「模擬埋葬」が有るのです。後者のp.224の6〜7行目でそれが良く分かります。「教会での式が終わると、男は墓地へと連れていかれ、目の前で墓穴が埋められるのを見せられる。これは自分が埋葬されたことを意味していた」とあります。いい加減な記述があちらこちらに有るので、なかなか本番に入れなくて困ります、ったく(吐き捨てるように)。

もう一つ、「死のミサ」、「癩者のミサ」、「らい者のミサ」と三つの表現が見られます。どれが良く用いられるのか例によってググってみました。

死のミサ・・・・286,000

癩者のミサ・・・389

らい者のミサ・・33,600

です。もっとも「死のミサ」はこの行事の意味のものはごく僅かで、例えば「ミサは27歳で死にました」なんてのが5番目に出てくるので、この数字は当てにはなりません。

下に転載したものは「leper mass」(実際には「leper mass -relicta」)で検索して探したものですが、今年書かれたものですから19世紀や20世紀の文章と違って「leprosy sufferers」というように言葉遣いは慎重で、ここでは「Mass of Separation=別離のミサ」と表現しています。

「もはや一人ではない」では「らい者のミサ」となっていますが原文は何だったのかと探してみましたが見当たりません。古本をアメリカから取り寄せると1000円くらいで済むのですが何しろ届くまでに一ヶ月は見ておかないと苛つかなければなりませんから、止め。図書館にも無し。出版社や翻訳者に問い合わせるほどのことでも無し、「leper's mass」か「mass of leper」だろうということにしておきます。

このような経過を経て、私は日本では「らい者のミサ」を使うのが最も適当ではないかとの結論に達しました。「ハンセン病の歴史」本編もそれで統一することにいたします。
 

Leper mass で検索したら・・・(備忘録)

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月10日(木)02時44分25秒
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  「Kings, Knights & Lepers」Charles Savona-Ventura,George G. Buttigieg著 がヒットしました。これは2009年に書かれています。

During the Medieval period, leprosy sufferers were often ostracized from society and condemned to living in seclusion without recourse to social contact with the community. They were declared legally dead and their goods were confiscated. Their spouse was however expected to honor the sacramental bond and serve the leper until his/her death. Once identified as a leper, a “Mass of Separation” (13th century) was performed by the priest at the site of the leper’s hut. The whole parish accompanied a newly identified leper to his/her new home as the priest performed the mass. A list of garments and utensils were given to the leper, each being blessed before the leper received it - very much like was done at clerical ordinations. During the Mass of Separation, The priest then stated the admonition: “I forbid you to ever enter a church, a monastery, a fair, a mill, a market or an assembly of people. I forbid you to leave your house unless dressed in your recognizable garb and also shod. I forbid you to wash your hands or to launder anything or to drink at any stream or fountain, unless using your own barrel or dipper. I forbid you to touch anything you buy or barter for, until it becomes your own. I forbid you to enter any tavern; and if you wish for wine, whether you buy it or it is given to you, have it funneled into your keg. I forbid you to share house with any woman but your wife. I command you, if accosted by anyone while traveling on a road, to set yourself down-wind of them before you answer. I forbid you to enter any narrow passage, lest a passerby bump into you. I forbid you, wherever you go, to touch the rim or the rope of a well without donning your gloves. I forbid you to touch any child or give them anything. I forbid you to drink or eat from any vessel but your own"(注:Edmond MARTÉNE(1654年〜1739年) De antiquis Ecclesiae ritibus. Antwerp: J. Baptistae de la Bry (1736-1738)).(Translated from Latin by Fr Martinus Cawley.)

追記(2009.12.11 14:19):こんなサイトが有ったので、転載します。

The Mass of Separation

The mass, spoken by a priest, was performed at the site of the leper's hut. The whole parish accompanied a newly identified leper to his/her new home as the priest performed the mass.

I forbid you to ever enter a church, a monastery, a fair, a mill, a market or an assembly of people. I forbid you to leave your house unless dressed in your recognizable garb and also shod. I forbid you to wash your hands or to launder anything or to drink at any stream or fountain, unless using your own barrel or dipper. I forbid you to touch anything you buy or barter for, until it becomes your own. I forbid you to enter any tavern; and if you wish for wine, whether you buy it or it is given to you, have it funneled into your keg. I forbid you to share house with any woman but your wife. I command you, if accosted by anyone while travelling on a road, to set yourself down-wind of them before you answer. I forbid you to enter any narrow passage, lest a passerby bump into you. I forbid you, wherever you go, to touch the rim or the rope of a well without donning your gloves. I forbid you to touch any child or give them anything. I forbid you to drink or eat from any vessel but your own.
----Martene(1654年〜1739年)'s De Antiquis Ecclesiae Ritibus, "Ordo I", qtd. in Martinus Cawley, "The Life of Alice the Leper and the Silver Age of Villers," Cistercian Scholars Quarterly

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A slightly different version of the mass:

I forbid you to enter the church or monastery, fair, mill, market-place, or company of persons...ever to leave your hourse without your leper's costume...to wash your hands or anything about you in the stream or fountain. I forbid you to enter a tavern...I forbid you, if you go on the road and you meet some person who speaks to you, to fail to put yourself downwind before you answer...I forbid you to go into a narrow lane so that if you should meet anyone he might catch the affliction from you...I forbid you ever to touch children or give them anything. I forbid you to eat or drink from any dishes but your own. I forbid you to eat or drink in company, unless with lepers.
----Brody, Disease of the Soul(1974年刊),pp. 66-7, qtd. in Moore, R.I. The Formation of a Persecuting Society: Power and Deviance in Western Europe, 950-1250, Oxford: Blackwell Publishers, 1990.


なおNorman Daviesの「Europe: a history」は1998年発行です。
 

Re: 映画「マディソン郡の橋」

 投稿者:あずき  投稿日:2009年12月 9日(水)15時44分25秒
返信・引用
  > No.4567[元記事へ]

この映画はわたくしも観ました。心に残る映画でした。フランチェスカはキンケイドと別れてからも、ずっと写真雑誌を読んでいましたね。その雑誌に掲載されたキンケイドの胸には、フランチェスの写真を入れたロケット・ペンダントがありました。記憶違いではないと思いますが。。。

> 僕が一生をかけて
> やってきたすべては―
>
> 君に会うためだった

こんなことを言われたら、生涯忘れることはできないでしょうね。
子供たちの二人の死後の対処も賢明だったと思います。

  *   *   *

ここでのりベルさんは、水を得た魚のようです。
やはり、ブログではなく、BBSがよいようですね。
 
    (リベル) >キンケイドの胸には、フランチェスの写真を入れたロケット・ペンダントがありました。記憶違いではないと思いますが。。。

確かに。素晴らしい記憶力ですね。

>こんなことを言われたら、生涯忘れることはできないでしょうね。

正しくその通りだと思います、言ったことも言われたこともありませんが・・・^^

>ここでのりベルさんは、水を得た魚のようです。

仰有るとおりの言葉を「水を得た魚」と、私も呟いていました、何か伸び伸びと手足を伸ばせるようなそんな感じなのです、不思議なものだ、そう思っています・・・(^^;)(2009.12.09 17:46)
 

映画「マディソン郡の橋」

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月 8日(火)03時31分42秒
返信・引用  編集済
  1995年の作品と知って驚きました。私が定年退職した年です。その頃に一度見ていたのですが、全く覚えていませんでした。その頃のクリント・イーストウッドはマカロニ・ウェスタンの役者だとしか知りませんし、メリル・ストリープの顔も知らなかったので、単なる恋愛映画、で終わっていたのです。今回見て仰天しました。メリル・ストリープが農家のおばさんフランチェスカを演じますが、このおばさんが実に逞しい体付きをしていながら、誠にデリケートな主体性をお持ちになっている、そういう役柄を見事に演じていました。

私は恐らくここ10年ほど、こんな感動を感じたことが無かったのです、ドシンとお腹にこたえる凄い感動でした。その内の一つをご紹介しておきます・・・。フランチェスカに「どうせ私なんか行きずりの一人なんでしょう」と問い詰められたとき、キンケイドは窓の外遠くに目をやりながら静にこう話し始めます、何を言い出したのかと訝っていたら・・・

”When I think of why I make pictures, the reason that I can come up with just seems that I've been making my way here. It seems right now that all I've ever done in my life is making my way here to you.”

なぜ僕は写真を撮るか―
考えてみたんだ

僕はずっと
ここへ向かっていたんだ

僕が一生をかけて
やってきたすべては―

君に会うためだった(字幕から)


陳腐な殺し文句ですね、ここにこう書いてしまえば、しかし画面ではそうではありませんでした・・・参ったなあ本当に・・・(>_<)

ええいついでにもうひとつ・・・

”The old dreams were good dreams; they didn't work out, but glad I had them. ”

古い夢は―

いい夢なのだ

実現しなくても

見てよかった(字幕から)


さあ今夜は何を見ようかなあ・・・
 

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