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まあ黙ってご覧ください・・・^^

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月 8日(火)02時10分39秒
返信・引用  編集済
  心底魂消ました。このページです

丁度中世のヨーロッパのラザレット(leper-house)を調べている私にとっては、正に”垂涎”という事柄が、このページだけでも満載です。ハンセン病を離れた話になりますが、右下の「1095:First Crusade was begun by Peter the Hermit.」で先ずエッと思いました。最初の十字軍は1096年だったはずです。日本のウィキペディアでは見当たらない、あちらのWikipediaには「People's Crusade」のところにありました。もう一度日本のウィキペディアをよく読むと「彼らはアミアンのピエールなる自称修道士、隠者ピエールを指導者と仰いで聖地を目指した。」と書いてあります。「ピーター・ザ・ハーミット」と書いてないから分からなかっただけ、思わぬところで勉強になりました。

少し上の方の「1067:First Leper Hospital in Spain―Valencia」も数日前Hirshの本(6ページの真ん中あたり)で確かめたばかりでした。

さらにページを遡っていくと年表の最初のページに行き着きます。左ページの「parton:burton」は今調べた限りでは何のことだか分かりません、右のページはハンセン病の最も古い時代のことがかなり正確に列挙してあります。「かなり」というのは未だ良く検証していないからで、これは後日キチンと調べます。

いや、探せば色々出てくるものだと、つくづく感心したので、ご紹介したくて、つい・・・^^。いやついでにこれを発見するに至った因縁話もご紹介します、実は私の好きな他サイトの粗探しの話になるのですが!いま「The Catholic Encyclopedia」というのを読んでいることは前に書きましたが、そこに出てくる「leper-houseがCanterburyに1096年に建てられた」という記述の裏付けを探して「Canterbury 1096」で検索しました。でヒットしたのがこのサイトです。まじめに書いていると判断して、読んでいくと「The earliest one in England was established at Canterbury in 1096, and the latest at Highgate in 1472.」と書いてあります。で今度は「highgate 1472」で検索したら、先程の大当たりが出たという次第なのです。

何が「粗探し」かと・・・まあお待ちください・・・先程の年表を更に今度は後ろへめくっていくとこんなページが出てきたのです。中世にイギリスで建てられた「Leper-House」の一覧表です。そして良く調べると一番古いのは実は「1066年:Beverley,YorkshireのSt.Giles」と「1066年:LondonのWestminster」であり、一番新しいのは「1538年:Newton Bushellの名無し」であることがわかりました。つまり「The earliest one in England was established at Canterbury in 1096, and the latest at Highgate in 1472.」は間違いだったのです・・・あ〜あ自分の性格が嫌になった・・・(嘘)
 

もう一つの疑問が解けました

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月 6日(日)02時32分0秒
返信・引用  編集済
  昨日自慢話をする自分について書きました。続いて自慢話を書く予定が狂って他のことを書いてしまいましたが、実は「The Catholic Encyclopedia」の記述が一昨日書いた箇所(・・・and for England in the year 950.)以外にも頻出するのを暴露しようとしていたのです。私奴はこんなに発見しましたよと。しかし逆に心配が発生してきました。これまでこの記事に基づいて(出典を確認せずに)書いたものがあるからです。

636年、「ラザレット」がフランス、イタリーに存在したとの記述があるとしてその注にそっくり「The Catholic Encyclopedia」の記述を引用していたのです。「The Catholic Encyclopediaの「Leprosy」IV. LEPROSY IN THE MIDDLE AGESに「leper-houses=leprosariaが7世紀にはフランスのヴェルダン(Verdun・北東部ロレーヌ地域圏の要塞都市)、メス(Metz・北東部ロレーヌ地域圏の首府)、オランダのマーストリヒト(Maestricht・南東部の河港都市)に存在した」とフィルヒョウが立証したとの記述があります。」と。

本当にフィルヒョウが立証しているんかいな? で、探しました、「Verdun Metz Maestricht virchow」で検索してみたのです。これが有ったのですね、昨日諦めていたフランス関係の記述が。このPDFの4ページ目の上から4行目からです。

"In einem Testamente, welches, der Diaconus Adalgysus, auch Grimo Genannt, 636, unter der Regierung des Konigs Dagobert zu Verdun hat niedersehreiben lassen, wird nicht bloss ein Xenodochium und ein Armenhaus zu Longuion erwahnt, sondern auch Aussatzige(und zwar so, dass eine Organisation erschlossen werden muss) zu Verdun, Metz und Maastricht."

おおざっぱに訳します。「ダゴベール王統治下の636年に、Diaconus AdalgysusかGrimo Genanntのどちらかが、遺書にこう書き遺しています。ロンギュヨンの宿坊や救貧院だけでなく、ヴェルダン、メス、マーストリヒトでのハンセン病患者(これには一つの制度を設けるべきです)にも言及しておきます、と。」

またまた誤訳かもしれませんが、およそこういう意味でしょう・・・^^。先程の注にはこのフィルヒョウの原典もリンクしておきます、では行って参りまあす・・・。
 

Rudolf Virchowの「Archiv」

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月 5日(土)14時58分31秒
返信・引用  編集済
  調べました、調べましたとも。
「”Archivs für pathologische Anatomie und Physiologie und für klinische Medicin”(1902年からは”Virchow Archiv”=”ウィルヒョウのアルヒーフ”)」Google検索に依れば日本語ではウィルヒョウが圧倒的で27万件、次いでフィルヨウが4万9千件、「ウ」を「ー」に変えるとガタッと減りましたからまず「ウィルヒョウ」が最も人口に膾炙しているのでしょう。大辞林では「フィルヒョー」、ウィキペディアでは「ウィルヒョー」としていますがこの「著作」については何も書いてありません。今著作と書きましたが実はこれは本来はウィルヒョウが友人のベンノ・ラインハルトと一緒に発行した雑誌名なのです。これは1847年に発刊されて勿論他の医学者も多く投稿しています。

これは目次ですが、右の検索窓に「aussatz」と入れて出てきた内の「Page n47」をクリック、マークの付いた行の14行上に昨日ご紹介した「― Geshcichte」「]Xiii,pp.138,273,]i],p.43,]],pp.166,459」が有ります。(ちなみに色が付いているAussatzhaus bei ScutariのScutariは今のトルコのユスキュダル=江利チエミさんの「ウシュクダラ」でお馴染みです^^)

これで18巻・19巻・20巻が読めると思ったのですがドッコイそうは問屋が卸してくれませんでした。1847年に創刊されて現在も発行されているそうですから、その全てを電子書籍化するのは先ず不可能なのでしょう。しかし、しぶとい私は、19巻を発見しました。その中の43ページがこれです。ただこれはフランク王国のことではなく「特にドイツに於けるハンセン病と病院の歴史について」というお話でした。他の巻は見付かりません、もう探すのは止めました・・・それを読んだからといって新しい事実が発見できるわけでもありませんし、それにもう面倒臭くもなってきたので・・・^^

はい、お疲れ様でした・・・( ゚Д゚)y─┛~~
 

私が出会った無駄話の達人たち

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月 5日(土)02時44分43秒
返信・引用  編集済
  「私が出会った無駄話の達人たち」と題して、昨日の朝日新聞の夕刊に掘文子さんが自著「堀文子粋人に会う」について書いておられました。その中にこんな一節があります・・・

”楽しい雑談というのは意外に難しい。いかに無駄話を面白く膨らませるか、そしていかに相手を思いやる心をもてるかが決め手になります。自慢話や相手を傷つける話はいけません。”

やはりそうかあ・・・と反省しました。私は相手を平気でというか無神経のせいで傷つけていることが多いので、それには一生懸命気をつけます。しかし自慢話は平気でする。今自慢話を書いているな、と自覚していてもなにかと誤魔化しながらしてしまいます。気をつけなければいけないなあ・・・(^^;)

2年前の堀文子さん
 

「The Catholic Encyclopedia」からフィルヒョウの「Archiv」まで

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月 4日(金)03時37分31秒
返信・引用  編集済
  始まりは「ラザレット」でした。ラザレットの中世の各国の数が「The Catholic Encyclopedia」の「Leprosy in the Middle Ages」の項に書いてあります。「The earliest accounts of the founding of leper-houses in Germany is in the eighth and ninth century; in Ireland (Innisfallen), 869; England, 950; Spain, 1007 (Malaga) and 1008 (Valencia); Scotland, 1170 (Aldnestun); the Netherlands, 1147 (Ghent).」と。この中の「Aldnestun」という地名が分からなくて、あちこち探しました。Google Mapで該当する地名がないと言われます。ググって見たら5件しかヒットしません、それも同じ文脈のものばかり。ちなみに・・・と「Handbook of geographical and historical pathology」なるものを覗いてみると、あっと声を上げてしまいました。そうです先程の文章の少し下にこれが引用してあったのです、著者の「Hirsch」で気付いたのです。

しからばとばかりに紐解いてみるとこれまた驚くべきことが・・・。6ページの中程に当然のことながら原文がありました。上の「+」で2度ほど拡大してください。「・・・and for England in the year 950.」とあるではないですか。上の「The Catholic Encyclopedia」ではleper-housesの数として引用していますが、これは大きなミスですね、こんないい加減なことをやってはいけません。

それはそれとして、続く文章は「フランク王国では8世紀・9世紀に建てられたという記録がある」として脚注に「Virchow('Archiv,']Xiii(1860),pp.138,273,]i],p.43,]],pp.166,459)」などと書いてあります。こうなると、エーイ毒喰わばなんとやらで、Virchowの原文を探しに行きました。そして数時間の苦行の結果辿り着いたのがこのページです。

Aussatz(=leprosy), Chaulmoogra(大風子), Lepra.とあって少し下に「― Geshcichte(歴史)」、その次にどこかでお目にかかった文字が・・・「]Xiii,pp.138,273,]i],p.43,]],pp.166,459」。遂に目次を発見しました。今日はここまでにして、明日は独和辞典片手に原文にアタックです。なあにちっともビビッテなんかいません、何しろサンスクリット語だって訳してしまった実績がありますから・・・もっとも完全な誤訳だったですが・・・( ゚Д゚)y─┛~~~~~~~~~~~

勿論実際には吸いません・・・^^
 

「Science」誌の「The Origins of Leprosy」とは・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月 3日(木)14時02分50秒
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  「ハンセン病の歴史」の中で「DNA解析による調査」として紹介しているものについて詳しく解説しておきます。ここでの【注6】から行き着く 【参考3】のところに同じものがあるのですが少し並べ方を変えます。念のために強調しておきますがこの論文は2005年に書かれたものです。「検証会議最終報告書 第10ハンセン病医学・医療の歴史と実態」(PDF 5ページ、5行目)も(一応)紹介しています。

@"On the Origins of Leprosy"(これが「Science」誌、13.May.2005号 p.1040〜1042 の論文の原文です。現在登録制になっているため、勝手に取り込みました。内緒です。)

A田辺三菱製薬による日本語サマリー

B「Science」を発行する米国科学振興協会による日本語紹介文2ページ目

Cパスツール研究所によるPressRelease

DSciDve.Netの紹介文


Bが「ヒト移住の歴史をひも解くハンセン病ゲノム」と題して取り上げて居ることにお気付きだったと思いますが、実はこの観点・視点がこの論文を面白く読む一つのポイントではないかと思います。手前勝手な物言いをしますと、しばらくハンセン病関係を離れて「人類の歴史」の方に没頭していて、それからもう一度読み返してみてそんな感想をしみじみ実感したという次第なのでした・・・(汗)
 

ハンセン病の新大陸上陸が意味する重大な事実

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月 3日(木)01時21分4秒
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  ハンセン病がいつアメリカ大陸へ上陸したかについて、ルシャット氏は「The paleoepidemiologyof leprosy」の中で「Leprosy in the New World」という章を立ててこう書いています・・・

「In conclusion, it can be accepted that the Mongoloid people who migrated across the Bering Strait land bridge some 14,000 years ago did not carry the leprosy bacillus with them. It first came to the Americas with the European invaders, then with the slaves from Africa and, finally, with laborers imported from China.」

下に書いた1535年「ケサーダがコロンビアに持ち込んだ」が「the European invaders」であり、1505年「オバンドが黒人奴隷を導入する」が「the slaves from Africa」なのです。

ケサーダについては私は残念なことに数ヶ月前までは名前すら知りませんでした。「人名歴史年表」にLife誌の「20世紀に最も大きな影響を与えた100の出来事」を取り込んでいて始めて知りました。ケサーダがジャガイモを始めてヨーロッパに持ち帰ったのです。ちなみに「ジャガイモ」はご存知「ジャガタライモ」から来ていますが、これはオランダ人がジャカルタ(ジャガタラ)から16世紀に日本へ持ち込んだのでそう命名されただけで、原産地はアンデスなのだそうです、知りませんでした。

そのケサーダがハンセン病に感染していて随員にも移していたとルシャットは書いています(引用先:Contreras, E and Miquel, R. (1973): Historia de la lepra en Espana. Grafica Hergon, Madrid.)。またwikipediaも「Quesada, afflicted with leprosy…」と記していますが引用元は不明です。

もう一つの1505年「オバンドが黒人奴隷を導入する」のオバンドも同様に最近知ったものです。このサイトの下の方のNo.12をご覧ください(おっと、「ケサーダ」はNo.39です、ごめんなさい)。ここでは「The earliest African slaves arrived in the New World in 1509」とされていますが、私の調べたところでは「1509年」は疑問です。昨日の転載分に書いている「ラテン・アメリカ史」こんなページがあります。これによればスペインで奴隷にされていたアフリカ人が最初に連れてこられたのが1505年、カルロス1世の許可を得てアフリカから直接輸入したのが1518年です。Life誌が正しいかどうかは置いておいて、兎に角、こうして始まった奴隷貿易がハンセン病の搬入に大きな役割を担ったことはルシャット他の学者やDNA解析による調査によっても明らかにされているところです。

さて本題に入るときが来ました。まあ分かったわけです、アメリカへハンセン病が持ち込まれたのは16世紀前半であったことが。ここで二つの似たような図面をご覧ください。「DNA調査に基づくらい菌の分布図」「ホモ・サピエンスの世界拡散・推定図」です。前者のアメリカ大陸には黄色の●が有りません。後者の人類の拡散状況が示すとおり、アジア大陸のモンゴロイドはベーリンジア(氷河時代の末期にはベーリング海峡は未だ陸続きだったのでベーリング地峡と呼ばれています)を通って北アメリカ大陸、南アメリカ大陸へと渡っていったのです。諸説が有りますが15,000年前とも25,000年前とも言われています。

さあ何が言いたいのかもうお分かりだと思います。ハンセン病がいつ頃から有ったのかは誰も答えを出していません。勿論私も出すことは出来ません。しかし、少しだけ分かりました、15,000年前のモンゴロイドはハンセン病に感染していませんでした。東アフリカはいざ知らず、少なくともベーリンジアを渡って行った連中はらい菌を持っていなかったのです。人類が誕生したのが現在では700万年前とされています。約20万年前東アフリカに生まれたホモ・サピエンス(現在の人類)は約10万年前から世界各地へ散らばっていきました(出アフリカまたは第二次出アフリカと称されます)。それから85,000年間彼等はらい菌に出会っていないのではないか?人類が洞窟で狩猟採集生活を始めた13,000年前以後農耕集落の成立から都市国家へと文明が進化する間にどこかでバクテリアやヴィールスが人間を襲い始めるのでしょう。これは疾病の歴史書を読まないと何も手がかりが掴めません・・・さあ大変だ・・・(^o^)
 

ハンセン病の新大陸上陸

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月 2日(水)12時54分10秒
返信・引用  編集済
  ハンセン病の「地域別の歴史年表」というのをご覧ください。先日からやって居るのが「ヨーロッパ」の中世で、これは314年「アンキュラ教会会議で「leprous」な者は祈るよう規定を設けた」に始まってようやく「レプロザリア」の調査は終わりかけています。未だ「癩者のミサ」と「ホスピタル騎士団(Knights Hospitaller)」のことを纏めなければなりませんがとにかくようやく十字軍の頃(1096年)に辿り着きました。

それはさておき、アメリカのところにブランクが続いています。そして突然1505年「オバンドが黒人奴隷を導入する」、1535年「ケサーダがコロンビアに持ち込んだ」と出現するのです。これはコロンブスの1492年の発見以前のインディアンに、ハンセン病が無かったのですから当然なのですが(参考:DNA解析による研究)、英語のwikipediaもこのエポックメーキングな事実に一切触れていないのが誠に不思議です。

これについては、また今夜改めて書きます・・・。ではでは・・・(^^)/~~~
 

地質年代のこと

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月 2日(水)02時24分1秒
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  (2009年10月22日(木)15時14分20秒 「歴史の話」投稿分)

昨日の朝日新聞の夕刊に「地球史の現代「第四紀」80万年古く」という記事がありました。これは全文コピーしておきましょう。


気候変動繰り返した「第四紀」、再定義で80万年古く(2009年10月21日15時56分)

 地質学上の地球の歴史区分である第四紀が新しく定義された。「地球史の現代」とも呼ばれ現在も含む第四紀。始まりは180万年前とされてきたが、80万年古い260万年前に変更することが国際地質科学連合(IUGS)の執行委員会で先ごろ正式に決定した。また、意味も「人類の時代」から「人類が世界に広がった時代」に見直された。背景には気候変動への関心の高まりが見える。

 地質学は、地層の重なりを地球史の物差しとする。第四紀の始まりは、人類最古の化石が発見された年代などから180万年前とされてきた。寒流に生息する生物が増えるのも特徴とされていた。

 ところが、人類の誕生は600万年前とも500万年前ともされるようになり、寒冷化が始まった時期が第四紀の基底とされる地層と一致しないことなどが判明。時代区分を見直し、名前も変えるべきだなど、10年以上前から議論になっていた。

 IUGSは開始をさかのぼらせたうえで、第四紀の名前は残すことを選択した。

 260万年前は、南極圏に加え北極圏で大陸氷床、グリーンランドでも氷床が発達。南北アメリカ大陸がつながって海流のルートが変わり、雨が増え、日射量が減って雪が増えたらしい。寒冷化とともに中央アジアで乾燥が進んで砂漠が広がり、土砂が吹き飛ばされ、中国では黄土高原の堆積(たいせき)が始まる。ヒマラヤ山脈が形成され、北から南へ冷たい空気が抜けなくなったと考えられる。

 また、アフリカで誕生した人類が世界各地へと拡散する「出アフリカ」の第一波も、この時期とされる。気候・環境の変動に対応して、食料の豊かな新たな生活の場を求めて歩き出したのだろうという。第四紀の意味は、単なる「人類の時代」から、「人類が繁栄した時代」「人類が世界へと広がった時代」に変わった。

 260万年前を画期とすることは、今日にまで続く地球環境の変化で第四紀を区切り直すことだ。その背景について日本第四紀学会長の遠藤邦彦日本大教授は「氷期と間氷期を行き来し、気候変動を繰り返した第四紀の研究は、将来を見通すために重要だとの考えが根底にある」と解説する。温暖化が進んだ先にあるのはどのような環境なのかを知る手がかりは、第四紀の歴史のなかにあるはずだという発想だ。

 遠藤教授は「はるか古い時代の歴史が、さらに古くなった。それがどんな意味を持つのか、専門家以外には分かりにくいでしょう。しかし、私たちは今、地球のどんな時代を生きているのだろうか。その定義が新しくなったと考えて下さい」と今回の決定の意味を説明する。

 縄文時代も弥生時代も、古墳時代も、近年の研究で、始まりが更新された。そして今回の第四紀。単に数字だけではなく、どのような時代なのかという定義が問われたことも共通している。環境の変化に敏感にならざるをえない時代状況のなか、歴史を見る新たな視点が求められていることの表れなのだろう。(渡辺延志)」


アレッと思って仲田崇志氏の表ウィキペデイアを調べても変化がありません。IUGSのサイトを調べたら当然のことながら勿論キッチリ直してあります。やはりあちらのWikipediaも流石に修正していました。こういうところ日本はダメだなあと思いながら国際地質科学連合(IUGS)を検索していたら何と「日本第四紀学会」というところが9月18日にチャント書いているのです。そこで国際地質科学連合(IUGS)の「承認書」を探して読んでいたら「monte san nicola」というのが出てきて、勿論何のことやら分からない。

検索したらこんなサイトに出くわしました。これは何と7月28日に書かれているのです。勿論当該学界の方でしたが、更に詳しく「第三紀」が無くなった話まで説明しておられました。

私のサイト「人類進化年表」も勿論大幅に修正しておきました、未だ未だ大丈夫、日本も捨てたものではない。それにしてもジャーナリズムの感覚はこんなので良いのかなあ・・・?朝日新聞だけ、しかも6月末に公表されている「科学ニュース」を4ヶ月遅れで、ウーム・・・(^^;)
 

新世界へ黒人奴隷が最初に来たのはいつだったか?

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月 2日(水)02時21分47秒
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  (2009年10月17日(土)02時30分23秒 「歴史の話」投稿分)

「奴隷」そのものは人類の初期から有ったと言っても大きな間違いではないと思います。隣の洞窟の野郎がどうにも気に入らねえ、と言う段階は未だ良いのです。これがその内にあっちの山裾の連中はとか、向こうの湾の奴等は、と集団が大きくなってくるにつれて話が物騒になって来ます。「ええいやっちまおうじゃないかっ!」と言うことで征服や隷属が発生することになります。子分にして有無を言わさずこき使うようになる、これが「奴隷」の誕生なのですから。

今日はその話は置いておいて、話をアメリカに限定します。歴史上の行き掛かりから、黒人の人種問題を最も大きく抱え込んでいるのがアメリカだからそうしようというのでは、実はないのです。この「人名歴史年表」をご覧ください。「アフリカからアメリカへ奴隷の輸出開始(1509年〜)」と書いています。そこからリンクしているのが残念ながらLife誌の「the Top 100 Events of the last Millennium」のサイトなのです。ここのNo.12までスクロールして頂くと書いてあります「The earliest African slaves arrived in the New World in 1509」と。

こんなややこしいことをしたのは1509年の出典が何処にも見当たらないからなのです。考えてもみてください、コロンブスが新大陸を発見したのが1492年です。その僅か17年後にアフリカから黒人奴隷を調達したなどという早業が信じられますか。と言うような疑念が生じてさあ大変。ネット上ではWikipediaの「Slavery in the colonial United States」が最も詳しいのですが、これとて1526年だと言いますからいけません。まあ兎に角初期のスペインやポルトガルによる発見競争の頃だという見当は付いたので、今度は書物で探しました。サムエル・モリソン著「アメリカの歴史」第二章「ヨーロッパ人のアメリカ発見」のp.69に「黒人奴隷」と言う言葉が初登場します。

スペイン人達は兎に角黄金が欲しいだけなのです。で、先住民=インディアンから収奪する、働かせる、しかしインディアンはあまり労働意欲を持ち合わせないから本国へ奴隷として送るかさもなければ殺してしまいました。非道い話ではあります。こう書いてあります「1492年にはエスパニヨラ(現在のハイチとドミニカ共和国)の先住民の数は、三十万ほどであったと人類学者は推定しているが、それが、50年のうちに、バハマ諸島の先住民もふくめて消滅してしまった。そこでアフリカから黒人奴隷が輸入され、砂糖と綿の農場で働き、また砂金をふるい分ける労働に従った。」これがアフリカから黒人奴隷を輸入する動機であったことはどうやら確実です。しかしこの叙述だけに依れば1492年+50年=1542年の話になってしまいますから、これもいけない。

p.79まで行くと「一方エスパニヨラは、植民地として成功していた。1512年には百万ドル相当の金を輸出するという好成績であった。黒人奴隷が輸入されて働かないインディアンに代えられた。」とありますから、読み方によっては1512年まで遡ったことになりますが、結局正確な記述はこれ以外に見当たりませんでした。そして次に読んだ本で金脈を遂に掘り当てました。

前に紹介した「物語ラテン・アメリカの歴史」(この本ではその辺りの話はサラリと素通りです)の著者増田義郎氏の「ラテン・アメリカ史」(山川出版社、1999年山田睦男氏共著)がそれです。第二章「ヨーロッパ人の侵入」p.61にこう書いてあります。「コロンブスの失政(採金に来たスペイン人と現地人との軋轢によるものです)による混乱を収拾するため、王室は1501年9月、ニコラス・デ・オバンドを総督に任じた。」。この人は教科書は勿論手持ちの人名辞典にも名前がありませんが、実は「黒人奴隷」の実現にはこの男が一役買っているのです。

「ラテン・アメリカ史」のp.64に「カリブ海の労働力不足をアフリカからの奴隷で補おうという発想は、オバンドのサント・ドミンゴ(エスパニヨラの中心地。コロンブスが築き総督府を設置したスペイン初の植民都市です)着任直後からあったが、スペイン王室の許可のもとに、17人の黒人奴隷がエスパニヨラ島に送られてきたのは、1505年になってからだった。」と書いてあります。私は正に鬼の首を取ったかのように躍り上がったのですが、それはチョット早とちりだったのです。その後にこう続きます。「これは、スペインに居住し、スペイン語を話すキリスト教徒の黒人であり、ラディーノと呼ばれた。1510年には250人が到着し、金山に送られた。しかしアフリカから直接奴隷が導入されるのは、カルロス1世の時代になってからである。カルロス1世は、1518年8月18日、インディアス(発見した新大陸をコロンブスはこう名付けました)への渡航・通商などを扱う政府機関、通商院にたいし、400人のアフリカ奴隷をインディアスに輸送する許可を臣下のブレサ公ガレヴォに与えた旨通告した」と。(資料

この記述が100%正確だとすれば(増田義郎さんご免なさい、あまり諸説があるので^^)、Life誌の1509年説の出所はこの辺りではないかと推測できるのですが、しかし、しかしです、釈然としない結果ではあります。

「直接」で有ろうが無かろうが、兎に角アフリカの黒人が奴隷として新大陸の地に足を踏み入れたのは、と言うことであれば1505年であると、でも断言できるわけです。さらにWikipediaの「Nicolas de Ovando」では「1501年説」が有ります(「Ovando ordered the first importation of Spanish-speaking slaves of African descent (Ladinos) into the Americas in 1501. 」)が、これは出典が曖昧ですから無しにしましょう。でもLifeさん、「The earliest African slaves arrived in the New World 」は貴方のお説より4年早いのですよ・・・ざまあみろ・・・(^^)


追記:「人名歴史年表」は出典を明示するため、このように訂正しました。
 

大事件勃発!

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月 2日(水)02時17分23秒
返信・引用  編集済
  (2009年10月15日(木)02時59分18秒「歴史の話」投稿分)

昨日の朝刊を広げて絶句しました。「日本で12万年前の石器が出た!」。心臓が喉から飛び出しそうになりました。ここには最も冷静に記事にしていると思われる読売新聞を。

「島根・砂原遺跡
日本最古、12万年前の石器みつかる
「旧石器」研究 再構築へ

 最初に見つかったナイフ状の石器(29日、松江市で)=永井哲朗撮影 島根県出雲市多伎町の砂原遺跡で、約12万年前の中期旧石器時代の地層から、国内最古の石器20点が見つかり、同遺跡学術発掘調査団(団長=松藤和人・同志社大教授)が29日、発表した。従来よりも数万年さかのぼる。日本の前・中期旧石器時代については、「旧石器捏造事件」で、存在がほぼ否定される事態に陥ったが、今回の発見は、同時代の研究を再構築するうえで貴重な成果となる。

 石器は長さ5・2〜1・5センチで、石英岩や流紋岩など。石を繰り返し、たたきつけるなどして加工したらしい。

 調査地は丘陵地の斜面にあり、今年8月、成瀬敏郎・兵庫教育大名誉教授(自然地理学)がナイフ状の石器1点を発見し、松藤教授らに調査を依頼。周辺を発掘したところ、19点が見つかった。出土地層のすぐ上の火山灰層を分析したところ、成分などから約11万年前に起きた三瓶山(さんべさん)(島根県大田市)の噴火で堆積(たいせき)した火山灰と判明。すぐ下の地層は約12万8000年前にできたとみられることから、石器の年代を判断した。

 2000年に東北旧石器文化研究所(解散)の元副理事長が、約70万年前とした宮城県栗原市の上高森遺跡などで出土石器を捏造した事件が発覚。日本考古学協会は、元副理事長が調査した160か所以上の遺跡について、捏造と判断、旧石器時代の研究は著しく後退した。事件後、岩手県遠野市の金取遺跡(約9万〜8万年前)や長崎県平戸市の入口遺跡(約10万年前)で石器が見つかっているが、年代については異論もある。

 現地説明会はなく、10月4日午前10時半から、出雲市の多伎コミュニティセンターで調査報告会。主な石器は、10月10〜25日、同市の県立古代出雲歴史博物館で展示する。(2009年09月30日  読売新聞)」

私は目下考古学オタク状態で、毎日その辺りの本を読み漁って「人類進化年表」に纏めようとしているところなのですが、私の知識では日本の旧石器時代は3万5000年前頃から、縄文時代は1万2000年前頃からと決定していて、年表にもその様に書いていたところなのです。本当に我が目を疑いました、何かの間違いが発生している・・・そんな気持ちが生じるほどのパニック状態でした。

私は朝には大体頭が朦朧として来ています、疲れ果てて。よし兎に角寝ようと寝て昼前に起きてそれから徹底的に「旧石器時代」「石器時代」から高校の教科書で読み直しました。早速一昨日入手した「世界考古学事典」もフル回転・・ようやく夕方までに整理でき結論が出ました。

日本の旧石器時代は約3万5000年前からとするのは、間違いではありませんでした。縄文時代は約1万2000年前からが定説だったのが、現在では「放射性炭素年代測定」という手法の導入で1万6500年前と訂正されつつあることは先日ご紹介したとおりです。これは弥生時代の開始期が400〜500年遡るという話と共に目下、私は静観中なのです(参考)。

今私がやっていることは、中学・高校生に「人類の進化の課程」を成る可く分かり易く、解きほぐして解説することです。最新の情報をチェックすることは重要ですが学界や教育界がお墨付きを与えるまでは、無用の混乱を避けるため沈黙しておくというスタイルを守ります。年表にはこんな情報も有るよという注は付けておきましたが。以下がその注です。

「3万5000年前、日本列島に人類が現われた=沖縄本島の山下町第一洞穴人」の注として・・・

「沖縄県那覇市山下町第一洞穴で1968年に発見されました。約3万2000年前とされる6〜7歳の子供の大腿骨と脛骨で、日本では最古級の現生人類の人骨とされています。

現生人類の人骨は他に静岡県の浜北人(約1.8万年前)と沖縄県の港川人(約1.2万年前)が出土しています。

ここで注意しなければならないのは人類の存在を示唆する石器の出土状況です。1949年に相沢忠洋が群馬県みどり市笠懸町岩宿(いわじゅく)で関東ローム層中から発見した石器は少なくとも約3万年前(岩宿I石器文化)と約2万年前(岩宿II石器文化)の2種類有ります。

その後1983年に岩手県遠野市で発見された金取遺跡(かねどり)は約9万年前のものとされています。また2003年12月に、長崎県平戸市入口遺跡で発見された石器は約10万年前、さらに2009年9月島根県出雲市の砂原遺跡(すなばら)から発見された石器は約12万年前のものとされていますが、これらは果たして人類の定住を証明するものなのか検証が待たれています。」


これにて一件落着!・・・でいいのかな・・・再点検、再点検・・・(^^;)(以上は10月1日に記したものです。)


最初に見つかったナイフ状の石器(29日、松江市で)
 

なんだかなあ・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2009年12月 2日(水)02時02分43秒
返信・引用  編集済
  この標題が私奴の心境を最も良く表わしていると思って・・・。とにかく気恥ずかしい と申しますか、何と申しますか・・・なんだかなあ・・・なのです。

実は「歴史の話をいたしましょう・・・」というBBSを別に作っていたのですが、そして検索による訪問者が結構いらしたのですが、それは止めます。幾つかの記録はこちらへ転記します。もう一つ「笑弁嘆語」というまあ日常雑感を書く場所も作っていたのですが、それも止めます。なにかブログというのはもう4〜5回やり始めては挫折しているのです。どうも私のようなガサツな人間には向かないって言うか、走り書きや放言を書き殴って、口を拭って知らぬ顔をするのには何か抵抗感があっていけません。 そんなわけで、10月8日に終了宣言をしたはずのここを、また知らん顔をして再開致します。お目にとまれば読んでやってください。例の調子で自己主張の強いゴタクを並べるだけなので、適当にあしらっておいてくださいませ・・・m(_ _)m
 

The Lombard laws(備忘録)

 投稿者:リベル  投稿日:2009年11月17日(火)08時21分17秒
返信・引用  編集済
  荒井英子著「ハンセン病とキリスト教」(p.159)(「西洋に於ける癩の歴史」からの孫引き)にこうあります。ロンバルド人の王「ロタリの法令」(六三四年)に・・・

「許嫁の婦人が癩をやむ時は婚約は解消しうるものとし、癩者から市民権を剥奪」するという規定がある、と。

その原典が「Googleブックス」に有りました。

The Lombard laws  Katherine Fischer Drew訳 です。(「Rothari's Edict」をクリックしてください)

Chapter 176 [Concerning lepers.]

On lepers. If anyone is afflicted with leprosy and the truth of the matter is recognized by the judge or by the people and the leper expelled from the district (civitas=市民・都市) or from his house so that he lives alone, he shall not have the right to alienate his property or give it to anyone. Because on the day that he is expelled from his home, it is as if he had died. Nevertheless, while he lives he should be nourished on the income from that which remains.

Chapter 180[Concerning the girl who become a leper after her betrothal(婚約).]

Concerning the girl who become a leper after her betrothal. If it happens that after a girl or woman has been betrothed she becomes leprous or blind in both eyes, then her betrothed husband shall receive back his property and he shall not be required to take her to wife against his will. And he shall not be guilty in this・・・

Chapter 230[Concerning bondsmen(奴隷) who are lepers.]

On bondsmen who are lepers. If anyone buys a bondsman and afterwards he turns out to be a leper or mad, then the seller, if he is accuseed, shall offer oath alone that he did not know of this infirmity when he sold the bondsman. [And if he can so swear], he shall not be further liable.

荒井氏の執筆当時(1996年)には「Googleブックス」は勿論インターネットも有りませんでした。思えば今は本当に便利になったものです・・・(感慨無量!)
 

The third council of orleans(備忘録)

 投稿者:リベル  投稿日:2009年11月17日(火)01時56分31秒
返信・引用  編集済
  「Medieval leprosy reconsider」にこんな文章があります。

Outside of Rome, few references to leprosy survive from the Western provinces until 539 when the bishops of Gaul met in a synod at Orleans. Here the bishops approved a number of canons to regulate Christian life in the new political world of German dominance. One of these canons stated that Christian piety required that the bishop of each city provide lepers with food and clothing from the resources of the local church. At a later synod held in Lyons in 583, the bishops reaffirmed that they themselves should assist lepers but added that leprosy victims should receive aid only in the cities where they had permanent residence and should not wander from place to place. The synod of Lyons thus enacted the first restrictive regulation against lepers found in our research of primary sources.

私は「ハンセン病の歴史の年表」の「511年〜583年」のところに「オルレアンなどの宗教会議で癩患者に関する規定を設けた」と書いています。そして「注」に(「ハンセン病とキリスト教」(p.160)による「西洋に於ける癩の歴史」からの孫引き)と断って「511年、549年のオルレアン(フランス北部)、583年のリヨン(フランス南東部)で開かれた宗教会議で「癩患者の扶養の義務は該当教区の司教に於いて負担すべきこと」、「教区内の信者も相当の寄進をすべきこと」を定めました」と記しました。

上の文章はどうもそこのところと同じことを言っている・・・そう思って調べたところ「a synod at Orleans=オルレアンの宗教会議」と分かっても、文献が出てこない。結局「3d Synod of Orleans, 538.」というのが見付かりましたが、これが誠に興味深いのです。検索結果を読んでみると殆どがユダヤ人に対する外出禁止などの規制の話で、なんと538年に宗教会議で決められたこの規制が、ナチによってそのまま改竄・利用されていたのです。「The Roots of Anti-Semitism(反ユダヤ主義のルーツ)」のようなサイトが沢山有って驚きます。ナチの悪賢さが垣間見えて腹が立ってきますが・・・。ここまでやっていたのですね、ったく・・・。

で、結局そうこうしている内に、標題の英訳を見付けました。これなら一応、一応ですが「Wikipedia」にも記されています。ただ荒井英子氏の解釈では539年(正しくは538年です)のオルレアンも583年のリヨンも同様に「癩者」を規制する決議としていますが、これは実は間違っているようです。簡単に言えば、オルレアンの時点では「食べ物や衣服を教会の負担で供給する」という「供与」の規定だったのが、リヨンでは「町に永住していてあちこち移動しないこと」という「規制」の規定になっていることです。この筆者はそういうキリスト教の姿勢の変化を訴えたかったのでしょう。「the first restrictive regulation against lepers」と決めつけています。


これは大切なことで、見逃してはいけませんですよ、荒井さん・・・^^
 

コンスタンティヌス大帝から聖バジル(備忘録)

 投稿者:リベル  投稿日:2009年11月15日(日)01時43分29秒
返信・引用  編集済
  「The Hospitaller Order Of Saint Lazarus」C.Savona-Ventura著
http://www.stlazarusmalta.org/pdf_files/booklet.pdf p.7〜8)

While leprosy had been introduced into Europe by at least the first century BC, increasing contact with the scourge of leprosy by European pilgrims occurred after the fourth century AD when the conversion(キリスト教の公認) of the Byzantine Emperor Constantine the Great [emperor AD 306-337] and his mother’s St. Helena influence generated an interest in the Holy Land, and transformed Jerusalem into a magnet of Christian pilgrimage.

The Church continued to look upon lepers as bodily and morally unclean individuals regulating in their regard in the Council of Ancyra(アンキュラ宗教会議) in AD 314; however in the late fourth century the Bishop of Caesarean St. Basil the Great established a leprosarium in the maritime city of Ptolemais [now Acre] to care for these unfortunates. These services were gradually expanded by further establishments set up in Jerusalem, Bethlehem and Nazareth.

ブラウン著「聖書の中の『らい』」(p.46)に「372年、カイザリアに聖バジルがらい病院を建てた」と記されており、その前のくだりには「らい患者のために建てられた病院の最も古い記録は、四世紀初めコンスタンティヌスの支配するローマに建ったものです」と書いてあるのです。これを裏付ける決定打となる資料を探しているのですが、見当たらないのですね、これが・・・(^^;)
 

続・Dialogue on the life of St. John Chrysostom(備忘録)

 投稿者:リベル  投稿日:2009年11月13日(金)03時42分33秒
返信・引用
  A History of Medicine: Byzantine and Islamic medicine 著者: Plinio Prioreschi、2001年

The institution, established with a gift from the emperor Valens comprising the income from several villages, was run by the monastic community. In addition, with the support of wealthy citizens, he(Saint Basil) may have established a leprosarium as well, where not only lepers but also others sufferng from various infirmities could find shelter and support.
Toward the end of the same century,John Chrysostom, bishop of Constantinople(398-404), opened, in the capital, institutions similar to that of Saint Basil, that is , hospitals.  ...The hospitals founded by Saint Basil was supported, as we have mentioned, by a gift from the emperor, wheras the ones established by Saint John Chrysostom may have the bishop's expense account.

こう書いてあります。やはり「Saint Basil」が「leprosarium」建設の先駆者で、Saint John Chrysostom が数十年後に追いかけて沢山建設したと、解釈しても良いのではないでしょうか。試みに「st.basil leprosarium」で検索してみてください。かなりの論文がこれをバックアップしてくれます・・・^^
 

Dialogue on the life of St. John Chrysostom(備忘録)

 投稿者:リベル  投稿日:2009年11月12日(木)03時14分50秒
返信・引用  編集済
  最初のラザレットはヨハネス・クリュソストモス(347〜407年)によってコンスタンチノープルの住宅地に建てられました。

証拠(一)Dialogue on the life of St. John Chrysostom 著者: Palladius (Bishop of Aspuna),Robert T. Meyer編集

There has recently come to light, however, some new evidence which would seem to challenge the reliability of Palladius. A newly discovered manuscript, which unfortunately lacks both the biginning and end, proves to be a life of St. John Chrysostom. This anonymous vita gives us certain additional information about the charges which were brought against Chrysostom at the Synod of the Oak. One of the charges was that he had built a leprosarium within the confines of
the residential district of Constantinople.Another・・・

証拠(二)「Medieval leprosy reconsider」

どなたかお読みになっていたら、(24)の後の部分です。

なお、荒井英子著「ハンセン病とキリスト教」(p.161)とブラウン著「聖書の中の『らい』」(p.46)に372年に聖バジルがカイザリアに癩者のための病院を建てたと記されていますが、両著とも、ラザレットは別の項で取り上げて居るので聖バジルの「病院」は「ラザレット」ではなかったのでしょう、どういう基準で峻別されたのかはもう少し調べてみますが。

この記事では、バジルの「leprosarium」となっていますが・・・?
 

下に追記を・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2009年11月 3日(火)04時07分54秒
返信・引用
  10月29日の投稿に『』でくくって追記をしておきました。この追記がないとあの表を作った目的が分からなくなります・・・プッ・・・^^  

廃屋で落書きを・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2009年10月31日(土)01時56分16秒
返信・引用  編集済
  ブラウンの「聖書の中の『らい』」(p.29)にミスが有ります。どこがおかしいか探してみてください、明々白々なミスが見付かります。

「ヨーロッパにおける最初のらいの記録は、原文は失われたので後代の引用によって知られています。アレクサンドリアの医師エラシストラトス(Erasistoratos,B.C.300〜250)の弟子ストラトン(Straton)の記録を、エペソのルフス(Ruphus,98ー117)が引用しています。」

実は下にも書いたように中世ヨーロッパの歴史を纏めようと、取り敢えず賦活剤として長年目を通さずにいた「Medieval leprosy reconsider」を読んでみました。標題通り中世のらいを再考していて、多くの学者が誤謬を犯しているのではないかというかなり挑戦的な小論文で、そう言う意味では啓発的であり面白くもあるのですが、この中の一文が気になりました。

「Sheldon Watts、Guenter Risse、Saul Brody各氏はギリシャの医師アレタイオスがleprosyを正確に記述した最初の人であるとしている(参考)」

この表のヨーロッパのところをご覧ください。B.C.3世紀に「ストラトンが「象皮病」として最初の正確な記述」、150年頃に「アレタイオスが(ヨーロッパで最初の)正確な記述」と記入しています。そしてそれぞれの「注」に両論併記と断っています。

これを思い出してブラウンの「聖書の中の『らい』」をもう一度よく読んでみたのです。そして当時はよく調べなかった「エラシストラトス、ストラトン、ルフス」を丹念に調べてみました。先ず変なのはお気付きの通りルフスの生年・没年です。98年から117年では19歳で死ななければなりません。そこであれこれ検索を重ねて辿り着いたのが「Rufus of Ephesus」。なるほど「エペソのルフス」でした。

ここの「Life」のところになんと有りました。「he lived in the time of Trajan(第13代ローマ皇帝・トラヤヌス) (98-117), which is probably correct」。98-117というのはトラヤヌスの在位期間だったのです。ブラウン氏、それを何か早とちりなさったのでしょうか、お陰で私は3時間ほど回り道を喰わされたというわけでした・・・(^^;)


ティーグラウンドに立つローマ皇帝トラヤヌス。グリップから先が折れています。ボールはしっかりお持ちですが・・・^^
 

一つ報告を・・・

 投稿者:リベル  投稿日:2009年10月29日(木)02時47分22秒
返信・引用  編集済
  ペンディングのままのテーマが三つ有って、夜も眠れません、は嘘ですが・・・。

兎に角先ず一つ片付けました。「スシュルタ・サンヒター」の中の「kușțha」の訳語の表です。20行が未完でした。「病理篇」に次いで二番目に多用されている部分と、最も少ない部分が残っていました。作業が辛くて・・・^^。

『収穫はしかし有りました。この「kușțha」の表を完成してみてはっきり言えることが見えてきました。1907年にBhishagratnaによって訳された「THE SUSHRUTA SAMHITA」の中のkușțhaの訳語は実に多彩です。正確に言えば乱雑です。大地原氏の「スシュルタ本集」の訳語も乱雑ですが、それにも増して統一性を欠きます。やはり1999年Sharma訳の「Susruta-Samhita with English Translation of Text and Dalhana's Commentary along with Critical Notes」が最も整合性を保っています。kușțhaが「leprosy」と「skin diseases」の二つの意味で用いられていることを承知の上で、極力原文に忠実に訳しています。こちらには梵語の原文が記載されているために、訳し方がハッキリ読み取れて、それだけで一つの論文が出来かねません、私はもう御免被りますが・・・。

一つだけ面白いページをご紹介しておきます。このページです。第1篇「総説篇」・第38章「薬物の分類」・第54節です。これは「スシュルタ・サンヒター」の中で「癩病」と「皮膚病」が原文で併記されている唯一の部分です。下から5行目にピンクのマーカーと緑色のボールペンでアンダーラインを引きました(大地原氏の訳)。

他にも「tvagāmaya」「tvagdoṣa」が単独で出てくるページは4ページだけ有ります(「kușțha」の訳語の表の中の茶色の文字)。いずれも「皮膚病」と梵語辞典には書いてあります。スシュルタさんもキッカリ区別しようとすれば出来たのではないか・・・と又昔の話を蒸し返しそうになるのでこの辺で逃げ出します・・・スタコラサッサ・・・^^』(『』内は2009年11月3日追記)


何とかやっつけました。最後の方はサンスクリット語と英語の中からまるで雲を掴むような作業でこれは参りました。後残る二つのテーマは「ヨーロッパの中世における歴史」と「らい」から「ハンセン病」への移行を成田稔氏が纏めておられるのを年表にする作業です。「人類進化年表」の合間を縫って、死ぬまでには完成してやるぞおっ・・・と喚いてもこれを読んでくださっている方は一日に10人ほどになりました。まだアクセス解析を付けたままだったので、開けてビックリ未だ来てくださっている方が有って、なのでこれを書く気になりました・・・(^^;)


残念ながら未だこんなには・・・
 

秋の空

 投稿者:リベル  投稿日:2009年10月17日(土)23時39分21秒
返信・引用  編集済
  たまには写真を飾りましょうか・・・^^

 

お疲れ様でした

 投稿者:小箱  投稿日:2009年10月13日(火)03時22分19秒
返信・引用
  長い間 有り難う御座いました。
日本でハンセン病らしきもの記載があってから1400年
1400年の歴史が終焉に向かっています。その終焉を見守った掲示板だったと思います。
お疲れ様でした。
 
    (リベル) 小箱さんこんばんは。長い間お世話になりました・・・m(_ _)m

>1400年の歴史が終焉に向かっています。その終焉を見守った掲示板だったと思います。

或る意味では「終焉」とも言えるでしょうけど、各療養所の将来構想に関しては不安材料が山積していますし、偏見や差別心の根絶は前途遼遠です。私は入所者の方々の平均年齢80.2歳(5月1日現在)より6歳若いのですが、ダメなことに気力・体力面で責任を伴う作業が不安になりフェードアウトすることを決意しました。「終焉を見守」ることかなわず、内心忸怩たる思いに責められています。

小箱さん本当にいろいろお世話になりました、感謝に堪えません。どうかお元気でお過ごしください・・・m(_ _)m(10.14 02:08)
 

お名残り惜しい

 投稿者:Ichiro  投稿日:2009年10月 9日(金)08時46分48秒
返信・引用
  本日で終了ですか。お名残り惜しいです。

 私に掲示板を作って頂いて感謝しています。大変勉強になりました。

 Ichiro拝
 
    (リベル) Ichiroさんこんにちは。

ほんとうにお名残惜しいですね。そうそう、IchiroさんにもBlogを作って差し上げましょうか?いや、もうご自分で作る実力がお有りですね・・・(^^;)(10.9 11:51)
 

まだ間に合うかしら?

 投稿者:あずき  投稿日:2009年10月 9日(金)01時17分58秒
返信・引用
  蛤のふたみに別れ行く秋ぞ  
    (リベル) あずきさんこんばんは。

  心から雪うつくしや西の雲

初めて出会いましたが爽やかな俳句ですね。チョットまだ早いですか・・・(^^;)(10.9 07:31)
 

塚も動け我泣声は秋の風

 投稿者:リベル  投稿日:2009年10月 8日(木)02時35分24秒
返信・引用  編集済
  世界的な免疫学者である多田富雄氏の「寡黙なる巨人」4月にご紹介しました。多田氏の著書からその苦闘の日々をわがことのように苦痛を伴いながら読んだものですが、それがあのMを襲っていた、10年も前のことだった、「もうズイブ前に死んだはずだよ」という冷酷な声も耳にしました。

私はMと年賀状の交換をしていなかったのです、私が嫌われていたから。一昨夜のことはまさに寝耳に水だったのです。彼はほとんど聞き取れない話し方で一生懸命話してくれました。その声と語り口は恐らく一生記憶から消えないと思います。彼の心境は恐らく明鏡止水、些かも苦痛を感じては居ないと・・・本当にそうなのだろうか、とも思います。寮の運動場で遠投を競い合った思い出が、胸を締め付けるように襲ってきて、無常だなあとつくづく感じます。

外は台風の真っ只中、風が何も知らずに吹き荒れています、何も知らずに。


それはそうと、この掲示板を閉鎖することにしました。長い間お付き合い頂いたこと、本当に感謝致します、有り難う御座いました・・・m(_ _)m


(付記:宣伝広告類で汚されないよう、「管理者の承認後掲載」という形にしてみました。様子を見て「パスワード方式」にするかもしれません。備忘録としての必要性も無くなった時点で消去します。)
 

痛恨の極み

 投稿者:リベル  投稿日:2009年10月 7日(水)01時38分16秒
返信・引用  編集済
  昨日の夕方から昔の友に電話を掛けまくりました、年に一度やることです。しかし昨日は違いました。何の拍子か寮の後輩に初めて電話したのです。皆んな元気でした、が、一人例外があったのです。

Mと言う男です。私は生涯に三人「こいつにはかなわない」という男が居ます。その内の二人は若くして亡くなりました、私は人に惚れ込むまいと思ったほどです、惚れ込むと死んでしまうから。最後の一人のMに夕べ電話しました。最後に会ったのは20年程前だったと思います、分かれるとき私に「Oさんは悪(わる)で出世すると思っていたのに…」と言いました、それ程私のことを知っていた男でした。

奥さんがお出になりました。「かくかくしかじかのOです」と言ったところ「主人は今チョット身体を悪くして人様とお話しできる状態ではないので…」と仰有るのでそれでは短いメッセージをお伝えくださいとメッセージを話し始めました。少しして突然彼が割り込んで話し始めました、最初から聞いていたのです、で私の話の中味を聞いて受話器を取ったというか切り替えたのでしょう。

脳梗塞で亡くなったと私の同期のものは聞いていたと、その後分かりましたが、話せるまでになっていました。話すだけで涙が出るほど嬉しいのに・・・彼は懸命に喋ってくれました、そういう男なのです。

私は死ぬまでに彼に確かめたいことが二つ有ったのです。一つは合宿所での話です。

合宿所には風呂がありません、近所の銭湯へ団体で通っていました。そこに勤めている女性がチョット若者には魅力がありました。私は特に魅力を感じて居らず実は理由がないのですが、彼女のお尻を触りました。「理由がないのですが」というのも変な言い方ですが、人間には時に、したくないことをしなければならないことも有ります。私には「劣情」のカケラもありませんでした。どうにも説明が付かないのですが、信じて頂けなくとも真実は今で言う「アイドル」視を止めさせたい、というような気持ちでした。私は女性のお尻を触っても全く快感を得ませんから。

でも全ての痴漢は私と同じ罪を着せられるでしょう、彼にも耐えられなかったのです。2時間ほどの隅田川での練習が終わって皆んなが艇庫へ入って行く時二人が最後になりました。いや二人が意識してそうしたのです。私が彼の背中に「オイ、M」と呼び掛けました。漕いでいる時彼は私の真後ろにいて、わざとオールを私の背中にぶつける仕草を繰り返したからです。彼は振り向きざま「オールを置け」と先輩の私に言いました。もしオールを置いていたらどちらかが死んでいたかもしれないと今でも思います。少なくとも某大学の運動部での不祥事とか何とかに発展していたでしょう。私はただ意気地がないためオールを置かなかったのですが。

あの時、俺は触りたくて触ったのではない、それを彼に告げたかったのですが彼は全く覚えていないと一生懸命、回らぬ舌で私に言いました。

もう一つ彼に聞きたかったことは、何故その頃非難を浴びていた「日本窒素」へ入ったのかという疑念です。正義の固まりのような彼は間違いなく自分を顧みず入社したはずです。それも尋ねました。

これも彼は否定しました。あまりどこにでもある理由を振りかざすので、「今私は嘘をついているんだよ」というメッセージかと思ったほどでしたが、とにかく彼は否定しました。

Mという男は「純」の固まりだと当時は思っていました。しかし私も今は「純」でなくなっているのですね。彼がタドタドしく答えた二つは、やはり「嘘」だと思います。私はあの男に全幅の信頼を置いています、だからこそこの二つの答えは「嘘」だと言い切れるのです。


いまこれを書いていて、私が彼を如何に愛しているか、それが良く分かりました、良く分かりました・・・。
 

今朝の天声人語

 投稿者:あずき  投稿日:2009年10月 5日(月)14時42分55秒
返信・引用
  http://www.asahi.com/paper/column.html

リベルさんはすでにご存知かもしれませんね。
今のリベルさんにぴったりの話題です。
 
    (リベル) あずきさん、こんにちは。

読みましたとも、読みましたとも。

あ、詩の話がと思って読み始めたら・・・。

で、痛感したのは私はもう自分は入れ込んで居るなあという感懐でした。天人氏の感想が素人っぽく新鮮に感じられました。と言うことは・・・ネ・・・(^^;)(10.5 17:00)
 

リファンピシを最初に使った人はだれでしょう

 投稿者:Ichiro  投稿日:2009年10月 5日(月)09時14分10秒
返信・引用  編集済
  リファンピシンをハンセン病に最初に使った人はだれでしょう。

日本の教科書 ハンセン病医学 1997
              総説現代ハンセン病医学 2007 を調べても書いてありません。

調べましたら
1: Lepr Rev. 1965 Jul;36(3):123-31. Rifamycin SV in the treatment of lepromatous leprosy.Opromolla DV, Lima Lde S, Caprara G.でした。

●結論:日本の教科書画く人しっかりしてください。
●後記:有難うございました。
 
    (リベル) Ichiroさんこんにちは。

この話題は「Ichiroの研究メモ」ならともかく、このBBSには専門的過ぎていけません。

リファンピシンというのは熊本地裁判決にも何度も出てきますが、歴史上は1971年に多剤併用療法の中心的薬剤として脚光を浴びた薬です。

なお、Opromolla氏についての詳細はこちらでどうぞ・・・。(10.5 17:17)
 

右顧左眄

 投稿者:リベル  投稿日:2009年10月 3日(土)01時46分58秒
返信・引用  編集済
  今正直言って迷っていることが有ります。あずきさんの新ブログを拝見していて、あまり感じが良いので私も真似たくなりました。そして一つ又作ってしまいました。

笑弁嘆語
―ショウベンタンゴの中には新旧・硬軟、雑多な物が無秩序に入っています。でも農薬に無縁の美味しい野菜を育てていますよ―

コロシアムの風景は夜は星空で、たまに流れ星が見られるというサービス付きです。

そして迷っていると申しますのは、ここを閉鎖しようかなと・・・迷っているのです。ただブログの場合は来て頂いた方が、ご自分からスレッドを立てることが出来ないので「参加性」の面でどちらかといえばやや閉鎖的になります。しばらく迷いながら右顧左眄していようかなと思っています。その内にくたばっちまうさ・・・などとも思いながら・・・(^^;)


夜のコロシアム
 

Re: お邪魔します。

 投稿者:邪魔風  投稿日:2009年10月 2日(金)19時17分26秒
返信・引用
  > No.4534[元記事へ]

あずきさんへのお返事。

>
> 野菜クズ、魚のあらや骨、貝殻など土に埋めていたそうです。エコなお話でした。

要するにそれが「貝塚」じゃないですか。新旧あるにしても。
 
    (リベル) 風が付いて居るぞ、これは北風さん久々のご登場なのではありませんか。ご無沙汰していてご免なさい。

早速大辞林を・・・「古代人が食べた貝の殻などが堆積(たいせき)したもの。ヨーロッパでは中石器時代以後,日本では縄文時代から弥生時代中期までのものが見られる。土器・石器・人骨・獣骨などがまじって発掘される。」

新明解も「古代人が食べ捨てた貝の殻などが、地中にうずまって出来た遺跡。」と来ますからやはり現代人の食べた貝では貝塚は出来ないのではないでしょうか、なんて理詰めの不粋なお答えは致しません。

いまこんなものと睨めっこしています。ヨーロッパの中石器時代と一口に言ってもご覧のように多くの文化があって、頭痛の種なのです。下の欄外に読めますでしょうか小さい字で書いてあります。「考古学上の推定年代にはさまざまな説があって、世界的にこのような年表をつくることは本来危険であるが・・・」。「危険」が男を駆り立てるのですね、因果なことに・・・(^^;)(10.2 23:55)
 

納豆ご飯にお奨めです

 投稿者:リベル  投稿日:2009年10月 2日(金)17時26分59秒
返信・引用  編集済
  私は10代の終わり頃から大学のボート部で合宿生活を重ねました。詳しくは忘れたのですが確か一ヶ月半ほどでレースを迎えました。合宿生活というのは私大以外はかなり切り詰めたもので、例えば朝食は納豆と沢庵と具の殆ど無い味噌汁だけで飯だけは食べ放題という代物でした。レース前一週間からは納豆が卵に変わります、生卵はダメという奴は特別に卵焼きにします。

そういうわけで私の東京での食生活の記憶は合宿飯が圧倒的なのです。今我が家は玄米ご飯です、もう1年以上でしょうかそれが健康に良いとかで全く無抵抗にそれに移行しました。大体食べ盛りを食糧難の時代に過ごしましたから、飯であれば何でも良いというのが魂に染み込んでいますから。

夕食(私は朝食、昼飯を食べないので唯一の食事なのです)で晩酌の後は「松茸ご飯」以外は(嘘。もう何年も食べていません)卵掛け・納豆ご飯です。晩酌のお通しに小田原の親戚からの山葵漬けをつまみます。いつ頃からか残した山葵漬けを納豆ご飯に混ぜるようになりました。

実はこれが美味いのです。最近では出てきた山葵漬けにはハナから手を付けません、もう「納豆ご飯」用にとっておくのです。これが旨い、実に美味い。もう、何とも言えません、絶句とまではどうかな・・・。でも騙されたと思って一度お試しください、ご損はないはずです、私の近親者に漬物屋をやっている物は有りませんからどうぞご心配なく・・・(^^)


ああ、美味しそう・・・^^
 

お邪魔します。

 投稿者:あずき  投稿日:2009年10月 2日(金)17時18分48秒
返信・引用
  すみませぬ。茶茶を入れるつもりではありませんが、こういうお話を聞く度に思い出すお話があります。どの本に書かれていたのかさえ忘れているのですが。

少女が庭で土を掘って遊んでいました。深く掘っていくとたくさんの貝殻があったそうです。それで「お母さん、これは貝塚でしょ。」と大喜びした少女に、お母さんは大変返事に困ったそうです。お母さんは永年、使い古しの油、野菜クズ、魚のあらや骨、貝殻など土に埋めていたそうです。エコなお話でした。

秋のプレゼント♪
 
    (リベル) おやあずきさんいらっしゃいませ。これはどうしたことか・・・思うに殆ど同時投稿だったのでしょう、気付かないでいま受信メールの方で知って飛んでできました。

これは返事にお困りでしょう。本当のことを言うと夢を壊してしまう、かと言って嘘を言うわけにも行かず・・・あずきママならどうなさったでしょう?

このアカトンボの写真は、本当に良いですね。棒に結びつけてあるリボンが妙に気になって、それが味わいを増しているのかも・・・(^^;)(10.2 23:28)
 

またもや大事件!

 投稿者:リベル  投稿日:2009年10月 2日(金)04時58分35秒
返信・引用  編集済
  数時間前の朝日新聞のオンライン版です。「この成果で、最古の人類の生活などをめぐる教科書の記述が書き換えられる可能性がある。」というのはオーバーではないと思います。同じ朝日新聞の記者である落合直之氏の「われら以外の人類」と言う本を既に読んでいましたがその中に「アルディピテクス・ラミダス」のことが詳しく書いてあります。この記事に出てくるティム・ホワイト氏にも会っておられる著者曰く「さらに、グループの慎重さを反映して、ホワイトは二足歩行に対し、はっきりしたことはいわないのです。その報告が待たれます」と。この本は2005年発行です。そして今日その報告がなされているのです・・・!

諏訪元氏が1992年、一本の大臼歯を発見してから17年、遂に今日「サイエンス誌」に全貌が発表されたわけです。ご覧の誌面では最後に「更に詳しくは今日の午後」と記されています。今のところこんな付録(PDF2本)も付いていますから興味のある方はどうぞ。

その付録から画像を頂戴してこんなページを作りました。少し辛気くさいのですが、良く眺めると実に、実に面白いのですが・・・この妙味をキチンとお伝えできない表現力の無さが、本当に焦れったくてなりません・・・。


昨日に続いて今日も・・・考古学の世界も正に日進月歩だという思いを、新たにさせられたニュースでした・・・。
 

大事件勃発!

 投稿者:リベル  投稿日:2009年10月 1日(木)02時45分34秒
返信・引用  編集済
  昨日の朝刊を広げて絶句しました。「日本で12万年前の石器が出た!」。心臓が喉から飛び出しそうになりました。ここには最も冷静に記事にしていると思われる読売新聞を。

私は目下考古学オタク状態で、毎日その辺りの本を読み漁って「人類進化年表」に纏めようとしているところなのですが、私の知識では日本の旧石器時代は3万5000年前頃から、縄文時代は1万2000年前頃からと決定していて、年表にもその様に書いていたところなのです。本当に我が目を疑いました、何かの間違いが発生している・・・そんな気持ちが生じるほどのパニック状態でした。

私は朝には大体頭が朦朧として来ています、疲れ果てて。よし兎に角寝ようと寝て昼前に起きてそれから徹底的に「旧石器時代」「石器時代」から高校の教科書で読み直しました。早速一昨日入手した「世界考古学事典」もフル回転・・ようやく夕方までに整理でき結論が出ました。

日本の旧石器時代は約3万5000年前からとするのは、間違いではありませんでした。縄文時代は約1万2000年前からが定説だったのが、現在では「放射性炭素年代測定」という手法の導入で1万6500年前と訂正されつつあることは先日ご紹介したとおりです。これは弥生時代の開始期が400〜500年遡るという話と共に目下、私は静観中なのです(参考)。

今私がやっていることは、中学・高校生に「人類の進化の課程」を成る可く分かり易く、解きほぐして解説することです。最新の情報をチェックすることは重要ですが学界や教育界がお墨付きを与えるまでは、無用の混乱を避けるため沈黙しておくというスタイルを守ります。年表にはこんな情報も有るよという注は付けておきましたが。以下がその注です。

「3万5000年前、日本列島に人類が現われた=沖縄本島の山下町第一洞穴人」の注として・・・

「沖縄県那覇市山下町第一洞穴で1968年に発見されました。約3万2000年前とされる6〜7歳の子供の大腿骨と脛骨で、日本では最古級の現生人類の人骨とされています。

現生人類の人骨は他に静岡県の浜北人(約1.8万年前)と沖縄県の港川人(約1.2万年前)が出土しています。

ここで注意しなければならないのは人類の存在を示唆する石器の出土状況です。1949年に相沢忠洋が群馬県みどり市笠懸町岩宿(いわじゅく)で関東ローム層中から発見した石器は少なくとも約3万年前(岩宿I石器文化)と約2万年前(岩宿II石器文化)の2種類有ります。

その後1983年に岩手県遠野市で発見された金取遺跡(かねどり)は約9万年前のものとされています。また2003年12月に、長崎県平戸市入口遺跡で発見された石器は約10万年前、さらに2009年9月島根県出雲市の砂原遺跡(すなばら)から発見された石器は約12万年前のものとされていますが、これらは果たして人類の定住を証明するものなのか検証が待たれています。」


これにて一件落着!・・・でいいのかな・・・再点検、再点検・・・(^^;)
 

朝青龍・汗

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月30日(水)01時12分25秒
返信・引用  編集済
  昨日書きましたがたまたま今「モンゴル」の世界制覇時代の歴史を調べています。1192(おなじみイイクニ)年の鎌倉幕府成立から14年後の1206年に鉄木真(テムジン)はクリルタイ(族長会議)で選ばれて「汗=ハン」になります。時に彼は51歳。三男のオゴタイ・ハンを経て孫のフビライ・ハンの世代1279年まで即位から73年でユーラシア大陸の大半を制覇します。

危なかったのは1241年のワールシュタットの戦いです。孫の一人バトゥ(抜都)はポーランド・ドイツの連合軍を破ります。更にハンガリーに進入、別の隊がヴェネチアに迫った時にオゴタイ・ハンの死去が伝えられ、全軍が一旦引き上げたのです。ヨーロッパにとってはオゴタイ様々だったでしょう。それが無ければ今のヨーロッパの人々はモンゴロイドかその混血に彩られていたかもしれません。1274年、1281年の日本もこれは神風によって救われましたが、陸続きだったらどうだったか、ゾッとします。

「史観」とか「歴史観」とか言いますがこのモンゴル族の勢いを例えば貝塚茂樹氏は「中国の歴史」(岩波新書・1969年)でこう分析します。

「それまで四隣の諸民族から圧迫され、仲間で抗争していた蒙古民族が何故に成吉思汗のもとで突然立ち上がって世界的な大帝国を建設しえたかは、歴史の大きな謎である。適者生存の遊牧社会において最も信頼できる勇者を集会によって推薦し、それに指導権を惜しみなくあたえる蒙古民族の民主集中主義が生み出したといえるであろう。」

宝島社の「日本史も分かる世界地図」(2007年)を監修している武光誠氏はこう言います。

「モンゴル帝国のあくなき征服活動には、むきだしの欲望と闘争心、鉄壁の団結力と肉親の愛憎があらわに透けて見える。宗教的な狂信や権威の仮面とは無縁の、人間くささがある。だからこそ成し遂げられた偉業だったのである。」

貝塚氏のも、どうでも良いというかステレオタイプな解説です。武光さんは、イスラム帝国やヒットラーやアレキサンドル大王やナポレオンなどの征服欲と対比させて仰有っているのかもしれません。チョットここで私の悪い癖を出して深読みしますと、この文章を書くときの武光氏の脳裏には「朝青龍」が紛れもなく有った、のではないでしょうか。それが「歴史観」を歪めているのではないかと・・・私の悪い癖です。

朝青龍(おや一発変換で出るのか^^)がまたもやガッツポーズをしたと言うので賛否両論が有ります。「横綱の風格」という言葉が毎度出てきますが私はこれは風格を論じても仕方がない人格を論じなければ、と思っています。たかがマイナーな一スポーツのチャンピオンでしょう。野球の長島氏、王氏、イチロー選手だけを拝見していても皆さん謙虚です。つまり抑制が効く。他のスポーツを例に挙げるまでもなく一流の人士は自己抑制が出来る。押尾某、沢尻某はそれができない。朝青龍もつまり一流の人士ではないのです。なので横綱の資格は有りません。モンゴルへ帰って国会議員でもやって威張っているのがお似合いだと私は思います。

人格形成が出来ていない人に「風格」だけを求めても、それは無理な相談だと、いつになく息巻いてしまった私でした。こういうのを「抑制」がきかないと申します・・・(^^;)


どうでえ貴様達っ!
 

自民党の危機

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月29日(火)11時54分47秒
返信・引用  編集済
  谷垣氏が総裁になられました。順当な選択なのだと思いました。桝添、石原、石破、小池など前から意欲を示していた方々が顔をお出しにならなかったのは、サッパリ合点が行きませんが、いや合点!かな・・・^^

それにしても谷垣さんの「みんなでやろうぜ」には思わず吹き出しました。今たまたまチンギスハンの話を読んでいます。当時の族長会議「クリルタイ」で選出されて「汗」になりました。この時に叫んだのなら未だ分かる。

今の日本は民主主義国家であり、その中でも主義や思想を同じくする人が集まって政党を作る。その政党の新総裁の掛声が「みんなでやろうぜ」ではお粗末すぎます。みんなでやるのは当たり前、自民党再生のために何をやるかが焦眉の急の筈。自民党とは、いかにみんながバラバラに違う方を向いている集団であるかを、図らずも、恥ずかしくもなく大声で露呈してしまいました。まあ河野さんが「全員野球はやらない」などと言ったからなのでしょうけどそれにしてもねえ・・・。

谷垣禎一氏の親父さんの専一氏は私の出身地福知山の度量衡屋さんの息子で何度もその家の前は通りました。ウィキペディアでは「造り酒屋」と書いてありますが、調べる気にはなりません。NHKを受けたときは口をきいて頂いたのですが、面接で「松川事件」は政府の陰謀だと(文藝春秋には書いてあると)口を滑らせて落第して、でも議員会館までお礼に伺ったという因縁は実は御座いますが。

しかし「みんなでやろうぜ」はいけない。小学校や中学校のホームルームとは訳が違うのです。本当に笑わせていただきました・・・(*^ー`) フ〜ッ
 

病膏肓に入る・・・か?

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月28日(月)01時36分26秒
返信・引用
  「世界考古学事典」(平凡社・1979年)が今日届きました。勿論図書館でよく目を通して品定めをしてから古書店に発注しました。定価16,800円が送料込みで6,090円。もうパソコン貯金が底をついてしまいました。やや、そんなことはどうでも良い、丁度30年前の本ですが全く新品です。

気になったことが一つだけ有りました。藤村某の「旧石器捏造事件」の影響です。彼の活躍したのは1974年からのようなので先ず大丈夫と見ましたが、影響は皆無でした。でも出版当時はさぞ平凡社さんも切歯扼腕だったろうと、可笑しくなりましたが・・・。いや最新の発掘成果が取り入れられなくて・・・^^

その周辺のことを読んでいて心を動かされたこと二つをご紹介します。一つは藤村事件の影響で立派な学者が自殺をしていたと知ったことです。賀川光夫氏です。さぞ無念だったろうと、藤村氏の罪深さを思います。賀川光夫氏は「世界考古学事典」の執筆者のお一人でもあります。

もう一つは日本考古学協会が約2年後に出した総括報告です。これは長いですが興味のある方は恐らく満足なさるだろう一文だと思います。興味のないお方は「8.課題」の「(4)対極者」と「(5)行政関係の課題」だけでもお読みください。「対極者」とは変わった表現ですが、兎に角懸命に否定的な意見を投げかけ続けた人達が居た、学界はそれを無視したという点です。その対極者の一人である馬場悠男氏は今盛んに活躍しておられます、彼の関係する本三冊に現在お世話になっています。

「行政関係の課題」ではやんわりと宮城県や文化庁の初動動作を批判してあります。これはモットはっきり指摘するべきだと痛感します。前に書いたことがありますが「高松塚古墳」と「キトラ古墳」の鮮やかな色彩を黴で無惨に破壊させたのは完全に文化庁の怠慢のせいです。


なんてことを思いました。

ヨーロッパの旧石器時代の文化圏(オーリニャック文化とか)の分類の出所だとか、北・中南米の考古学上の疑問点がサラリと明らかになって(当たり前ですね)、それだけでも投資した価値はありました。まだまだこき使う予定で御座いますが・・・(^^)
 

リベルさんのニュースから:ブラジルにサリドマイド副作用

 投稿者:Ichiro  投稿日:2009年 9月27日(日)07時18分19秒
返信・引用
  http://www.nikkeyshimbun.com.br/090915-22brasil.html

 日本であったら大変なニュースですが、ブラジルでした。サリドマイドには御承知のように催奇性があり、3件発生したというニュースです。現在はハンセン病と多発性骨髄腫などに使われています。ニュースを読みますと、なんかの手違いか、なにかのようです。日本でハンセン病に罹患している方はご高齢でありますので、間違っても副作用は発生しないと思われます。
 
    (リベル) Ichiroさんこんばんは。

「リベルさんのニュース」と言われると困ってしまいます。私は単にGoogleの「ハンセン病」のニュースをご紹介しているに過ぎず、何も手を加えていませんので・・・(^^;)(9.28 00:43)
 

「官僚的」→「お役所的」

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月25日(金)18時01分32秒
返信・引用  編集済
  私の尊敬する叔父は鉄道官僚でした。私が東京本社から関西支社へ移ったとき当時関西にいた叔父に挨拶に行きました。「なんで関西へ移ったんだい」と訊かれて「東京はえらく官僚的になってきて・・・」と言った途端に叔父が眉を曇らせたのに気付いて「お役所的になってきて・・・」と言い直しました。その瞬間まで私は実は叔父が「官僚」であるという認識が皆無だったからです。「良い叔父さん」としか思っていなかったのです。

今日の夕刊各紙やテレビでJR西日本の山崎前社長のとんでもないイカサマが槍玉に上がっています。これは言語道断の一言に尽きます。何をか言わんやです。

こんなニュースを若者に聞かせたくない見せたくない。私は「西日本」に住んでいることさえ、恥ずかしくなります。一体何をやらかしてくれるのか!官僚体質を引きずりっ放しではないですか。「西日本」だけでなく「日本」に居るのが「日本人」であることが恥ずかしくなる。

全く非道いことをやるものですね・・・絶句!


当日のNHKニュースです。死者はその後107人と判明します。
「真摯な謝罪」なんてJR西日本の幹部の頭の中には皆無なのでしょうか?そんなはずはないと信じたい・・・
 

再・あまり進歩していない!

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月22日(火)23時56分47秒
返信・引用  編集済
  つい先程、すんごいものを見付けてしばし呆然と成っていました。これです。今文明の始まる時代の年表に手を染めていて、エーゲ文明・クレタ文明・ミケーネ文明ってどう違うんだ、百科事典の定義を見てやれと「万有百科大事典」を引っ張り出してきました。ハラリと落ちてきた紙切れを見て正に茫然自失状態、ポカアーンと見惚れてから食い入るように見入りました。

これを作った記憶は勿論全く有りません。良く見ると弥生時代をB.C.2世紀からにしていますから随分昔ではないか(今はB.C.3世紀が定説=教科書になっていますが、2001〜2003年の国立歴史民俗博物館の研究によりB.C.10〜9世紀へと歴史が書き換えられようとしています)と思われます。あ、平成が入っていないから、と言うことは21年以上昔に作っていたことになります。未だインターネットを知らない会社員の頃からやはりこういうことに強い興味を持っていたんだなあと、正直言って感慨無量でした。B.C.500年以降は一行を100年として昨日ご紹介した「縮尺」を実践しようとしています。これだとミリ単位の計算が可能ですから、今作成中の年表より精度は高くなります。ホームページビルダーの「Table」作成能力では小数点以下の%は出せませんから。字は下手くそでもイッソ手書きにするか、小さな文字も可能になるしなどと考えたりもしました。

それにしても何か大変に進んだことをやっている積もりで、本人は鼻高々だったのですがとんでもない、全く進歩していなかったのでした・・・嗚呼・・・(^^;)


さっ、気を取り直して「エーゲ文明」「エーゲ文明」・・・(´ヘ`;)ハァ〜ッ


追記:丁度良い機会だから書いておきます。「縄文時代」、これも教科書では長年12,000年前からとされていたのですが、最近の研究から実は16,500年前ではないかと言われます。こちらで10月14日から展示会が有りますので関東方面の方で興味がおありの方はどうぞ・・・。これが正確だと日本が土器に関しては「世界で最も古い出土」と言うことになります。前に藤村事件なんて有りましたから、今度は慎重でしょう・・・^^
 

Wikipedia英文アカウントの取り方が変わった

 投稿者:Ichiro  投稿日:2009年 9月22日(火)11時33分47秒
返信・引用  編集済
  リベルさん、あずきさん Ichiroです。

 壮大なお話をされているところですが、小生の方はチマチマしたお話で申し訳ありません。以前からWikipedia英文のアカウントがとれずに、閉口していましたが、どうも制度が変わったようで、偶々小生の名前はローマ字であったので、アカウントが取れました。英文の方も書いたりしようかと考えています。

 Ichiro

 ●追加:以前はパスワードを難しくせよということでしたが、今は日本語と同じパスワードで簡単なやつです。
 
    (リベル) Ichiroさん、こんにちは。

私も英文のアカウントを持っています。ただ投稿はしたことがありません。英文の方も良く読んでいるとかなりいい加減な記事が多く先行国でもこの種の「百科事典」の運営のネックになっているようです。投稿には出典を(ページ数まで含んで)表示すると言うような何らかの規制を設けないと信用の確保・存続は難しいと思っています。

今首を突っ込んでいる「考古学」「地質学」も普通以上に異説が横行する世界ですので、複数の出典で確認する作業が必須になります。しかも日本でも「学閥」が厳然と残っているようで、同じ派閥でない本を探さなければなりません。これには関西弁で申し上げると「往生しまっせ、ほんま」・・・(^^;)(9.22 12:07)
 

Re: あまり進歩していない!

 投稿者:あずき  投稿日:2009年 9月21日(月)14時19分2秒
返信・引用  編集済
  > No.4523[元記事へ]

> 1492年のコロンブス以降進んだ文化に接した人々や文物の流入が始まったのですから、もう暫く(できれば100年^^)待ってあげないと悪いんじゃないかなあと、私なんぞは思うんで御座います・・・(^^;)

金関寿夫著「魔法としての言葉―アメリカ・インディアンの口承詩」のなかに、書かれていたことですが、アメリカ先住民のマドック族の暦の数え方は、一月が親指、五月が小指ですので、ピアノのドレミファソに例えれば、六月から十二月まではドレドファレファソと数えることになるのです。人間の指が五本ではなくて、六本あったらよかったのにとはかんがえないのだなぁ、と妙な感慨を覚えた記憶があります。

アメリカ大陸(その前は何と呼ばれていたのでしょうか?)を侵略した人間たちがアメリカ先住民の「言語」「宗教」「土地」を徹底的に奪い、彼等の歴史を根こそぎにしたからではないでしょうか?そっちが大きな問題ではないでしょうか?ナマイキ申し上げてすみませぬ。
 
    (リベル) あずきさんこんばんは。

昨日は神戸へ出かけていて魚料理を食べ過ぎ、焼酎を飲み過ぎてしまい先ほどまでぐっすりでした。返事が遅くなってご免なさい。

「アメリカ大陸」仰有られてみればそうですね、しばらくは絶句していました。結局あの大陸を客観的に見ることがコロンブス以前は無かったのですから、そうかやはり名前も無かったのですね。

例えばマヤ文明を襲ったスペイン人エルナン・コルテスは1519年にアステカ王を捕らえたそうですからコロンブスから27年後という電光石火の早業だったのですね。仰有るとおり彼等の収奪と破壊は文字通り言語を絶する徹底さで何がラテン民族をあんなに駆り立てたのか不可解でなりません。正に地面を嘗めるように破壊し尽くしていますね。

今日は図書館行きです。「アメリカ大陸古代文明事典」と「世界考古学事典」を覗いてきます。いやはや段々荷物が増えて参りました・・・トホホ・・・嬉しい悲鳴(^^)(9.22 05:11)
 

あまり進歩していない!

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月21日(月)06時08分20秒
返信・引用  編集済
  三年前の9月25日にこんなことを書いています。

「地球が出来たのは46億年前、人類が生まれたのが700万年前と一般に言われます。地球カレンダーはその悠久の歴史を一年間にたとえたものです。これによれば、現在の人類が誕生したのは、なんと12月31日の午後11時37分なのですね。」

この辺りを研究し始めて2ヶ月近くなります。最近面白いことを考えて取り組みました。ほぼ完成したのでご披露します。「縮尺:人類史年表」と名付けましたが、味噌は実際の年月の長さに忠実に、時間を縮めて年表にした所です。明治・大正・昭和・平成と足しても今のところ鎌倉時代より3年短いなんて発見もあって面白いのです。考古学特有の言葉が頻出するのでそれは全部どこかへリンクさせて説明を付けようと思っていますが、未だ先になるでしょう。それよりも最後の二本の年表が不完全なのでそちらを完成させなければ。

問題は下から二本目の年表なのです。この部分が困る。何が困るかと申しますと次々に遺跡の発掘がなされてその度に謂わば「歴史が書き換えられる」からなのです。だから一冊の本を参考にしていては追っつかないのです。今回の「人類進化年表」作成の直接の引き金になったのは河合信和著の「人類進化99の謎」なのですが、この河合さんがこんなサイトを開いておられるのがとても有り難いのです、一々「Science」だの「Nature」だのの新聞記事を気にする必要が無くて。

話を元に戻しますが、この「縮尺」的発想はあちらこちらに実は見られるものではあるのです。ただ何となく「帯に短く云々」で食い足りなくて、「ええいっ、自分で作ってしまえ!」となりました。なので基本的な発想は既存のものですが、絶対に他では味わえない満足感を感じて頂けるものに育つ筈です。これはあちらのWikipediaで見付けた類似品です。注釈を付けたとおり間違いも見られますが、一つ面白いのは・・・

1年を1ミリに置き換えて年表を作ると地球誕生が46億年前ですから、なんと4,600キロの年表になるというお話です。4,600キロというとサンフランシスコを出発して真っ直ぐ東へ向かうと、丁度アメリカ大陸を横断してしまいますから相当な距離です。1年が1ミリと言うことは1,000年が1メートルですから、四大文明が生まれた5,000年前と言っても僅か5メートルなのですね。ウーム。

いやそれで思い出しましたが数日前にも書いたアメリカの話、色々読んでいるとこの「四大文明」と言うのがそもそも時代遅れになって来そうなのです。先日ご紹介した「世界の歴史」が「古代文明発祥の地」と題した図を載せています↓。これでは「七大文明」ではないですか、勿論この本の目次にも索引にも「四大文明」という言葉は有りません。

林健太郎氏が著書「世界の歩み」の冒頭でこう書いておられます。「この長い人類の歴史は、おおざっぱに言って野蛮ないし未開の段階と文明の段階に分けられる。この両者の区別は定義すればいろいろむずかしいことになるであろうが、・・・」(p.4)として文字の使用と国家の発生の二つを挙げておられます。

四大文明の方は一番遅い甲骨文字ですら紀元前1,300年頃とされています。それに反しアメリカでは文字が出来なかった。マヤ文字がようやく出来たのが紀元2世紀とウィキペディアはしていますが、サムエル・モリソンというアメリカ人が1965年に書いた「アメリカの歴史」ではマヤ暦の絵文字以外は解読されていないと文字文化の乏しさを嘆いています。

それで「古代文明発祥の地」から除外されているのだとしたら、それは違うだろうと私は弁護したくなるのです。今もアメリカの各地で遺跡の発掘が進められています。ヘロドトスや司馬遷が紀元前から歴史書を著していたヨーロッパや中国と事情は全く違って、1492年のコロンブス以降進んだ文化に接した人々や文物の流入が始まったのですから、もう暫く(できれば100年^^)待ってあげないと悪いんじゃないかなあと、私なんぞは思うんで御座います・・・(^^;)


「世界の歴史」から「古代文明発祥の地」
「四大文明」とキッチリ肩を並べていますでしょう・・・。
 

アンチ官僚内閣出航!

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月17日(木)04時01分13秒
返信・引用  編集済
  いきなりお堅い話で恐縮ですが民主党の「マニフェスト」のページから「鳩山政権の政権構想 5原則 」を引用します。

原則1 官僚丸投げの政治から、政権党が責任を持つ政治家主導の政治へ。
原則2 政府と与党を使い分ける二元体制から、内閣の下の政策決定に一元化へ。
原則3 各省の縦割りの省益から、官邸主導の国益へ。
原則4 タテ型の利権社会から、ヨコ型の絆(きずな)の社会へ。
原則5 中央集権から、地域主権へ。

「原則3」は極めて興味深い一行だとお思いになりませんか?

「省益」って一体何なんでしょう?実体は何ですか?例えば厚労省の「益」って実体はどういう利益なんでしょう。利益と言うからには何かか誰かが得をするということでしょう。くどい話を省くと「省益」というのは「官僚の私腹が肥える」ことなんでしょ。天下りによる莫大な生涯給与 、例えば製薬会社からの(どういう形か色々あるらしい)利益供与に始まって数え上げれば・・・。そういう利益を「国益」に廻そうという一行は、まあ、皮肉がキツイと言うか、素晴らしい文章だと思うのです。追記:「省益」を大辞林で引いてみました。いわく「各省庁の利益。国益を第一に考えるのではなく,所属省庁の利害を優先する官僚の傾向を評する語。」(9.21 02:34)

当たり前のことを当たり前に戻そう、そう言っているのです。定例閣議の前日の定例事務次官会議を無くするそうです。そんなものが政治を牛耳っていたことさえ知らされていなかった国民は馬鹿なのでしょうか、知らせなかった官僚と自民党が賢こかったのでしょうか。

大阪府の橋下知事が原口総務大臣に電話で「霞ヶ関に対し、むちゃくちゃやってください」とまあ穏やかならぬ発言をしたそうです。橋下さんも初めから官僚に対して腹を立てていたわけではないのです。あの人は単純で(褒めているのです)真っ直ぐな人だから、初めから人を色眼鏡で見ることはしないでしょう。それが府への負担金(しかも内訳の記入無し)の押しつけなどから徐々に官僚の手口の汚さが分かってきた、今や蛇蝎のごとく嫌っているのが、先ほどの言葉に顕われています。

私も初めは官僚がこれほどだとは思いもしなかったのです。ゴルバチョフが「官僚の腐敗」を口にしたときも全く理解できませんでした。おかしいんじゃないかと思い始めたのは「検証会議」の発足当時のゴタゴタを知った時あたりからです。例えばこのような毎日新聞の記事を読みました。この辺からの厚労省の意地の悪さややり口の汚さはご存知の通りです(詳しくはこちらです)。さらに決定的にパンチを頂戴したのはそうして始まった検証会議の第一回議事録でした。これは短縮版ですがそれでもめちゃくちゃ長いので、(・・・この辺りから、もめ始めます・・・)と赤字で書いた所からだけでもどうぞ・・・^^

なにか馬鹿馬鹿しくなって、そのせいかえらく疲れました。今日はこれで・・・


お口直しに・・・
 

補・氷河期

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月16日(水)03時21分23秒
返信・引用  編集済
  昨日先史時代の年表をお見せしましたが小さくて分かりにくかったので、巨大にしておきました。左ページ右ページ

この年表は山川出版社発行の「世界史年表・地図」を無断でスキャンしたもので、著作権侵害が怖くて(ほんまかいな・・・影の声)公表はしていません。自分が資料として使っているだけなのです。なのでくれぐれもここだけの話にしておいてくださるよう、お願い致します・・・^^

さて話は変わりますが、私、又悪い癖が頭を擡げて来たのです。何というか「日の当たらない部分」に焦点を合わせたい、でもなくてライトを当てたいと言うのでしょうか、兎に角日当たりの良いところへ引き出してやりたい。「アーユル・ヴェーダ」とか「スシュルタ・サンヒター」とか「白癩」なんて皆んなそういう気持ちが後押ししていたのかなあと、気付きました。と申しますのは・・・

上の表、左ページをご覧ください。先ず目に付くのは左端のアメリカ大陸の色が白いところではないでしょうか。そりゃそうさ、なんかついこの間「建国200年記念」とか言ってたんだから。とまあ正直私も見捨てていたのですが、今回人類の文明の曙を調べ始めて、チョイト異な事に気付いたのです。こんな年表を作っているのですが、フト気になってアメリカの「古代文明」と私奴が何となく思い込んでいた「マヤ文明」や「インカ文明」がどうなっているのかと百科事典を引いてみたのです。

「インカ帝国の歴史」南アメリカの中央アンデス地方には、前2000年ごろ初期神殿が出現し、以後チャビン文化(これは上の表の下の方に出ています)、モティーカ文化、ナスカ文化(これも)、ティアワナコ文化などがあいついで栄えた云々」

「マヤの起源」・・・マヤ語族の祖先は北アメリカ・インディアンの小さな部族であり、それが南進して前3000年紀半ばに西部グァテマラ高地に定着し云々」

今私が専ら参考にしている「世界の歴史」はイギリスのJ.M.ロバーツという学者さんが書いているのですが、年表には「B.C.1200年」にメソアメリカとペルーが初登場するだけでオシマイ、という完全な継子扱いなのです。私は決してアメリカの肩を持つわけでも何でもないのです。ただ、確かに「新大陸」であり、ヨーロッパと違って、アメリカ人は自国の歴史を十分点検する時間と余裕が少なかっただろう、それはあの国のハンディです、それは認めてあげたい。

「世界の歴史」の中の年表にはイラク、イラン、中国、インド、エジプトばかりギッシリ並んでいます。上の年表の扱いと言い、ケシカランのではないかと思っていた私を決定打が見舞います。それが同じ「世界の歴史」に出ていた下の図なのです。何だチャント知っているのに知らんぷりしやがってと、私は遂に立ち上がった・・・とまあそんなわけで、しばらくはアメリカの歴史に明け暮れるのではなかろうかと、心配です・・・じゃなくて、気もそぞろなのです・・・(^^;)


農耕と牧畜の開始(南アメリカは色が薄いのでご注意ください。北岸と西岸のようですが、これから研究しますので・・・)
 

一口に氷河期と言いますが(備忘録)

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月15日(火)17時24分16秒
返信・引用  編集済
  今私が人類史に血道を上げていることは申し上げたとおりなのですが、ここで後悔するのはやはり基礎勉強の不足です。「旧石器時代」と言うと何だか日本の専売特許で藤村某の捏造事件が思い出される程度なのですが、知ってビックリこの言葉は歴としたヨーロッパ製なのです。あちらでは「アブビル文化」に始まって「アシュール文化」「ムスティエ文化」「オーリニャック文化」「ソリュートレ文化」等々とも別称されるようですが、ウィキペディアにも「オーリニャック文化」以外は有りませんから困ってしまいます。これはまた今夜以後の宿題なのですが、さて「氷河期」って何だ?「就職氷河期」は分かっても、こちらは雲をつかむ状態が長引いていました。ようやく分かり易く人様に説明できる程度まで理解できましたのでご披露してご意見を待ちたいと思います・・・では・・・

「氷河期は地球が誕生してから5回あったとされています(参考)。最も大きかったのは約8億年前から6億年前の「スターテイアン氷期+マリノアン氷期」で、これは殆ど地球を覆い尽くしたので「スノーボール・アース」とも呼ばれているほどです。最も最近の5回目の氷河期参考)は約200万年前に始まり17回〜19回の氷期(氷河に覆われる時期)があったとされています。200万年前のものが「 ヒーバー氷期」、100万年前のものが「ドナウ氷期」と呼ばれています。その後約65万年前からの4回には「ギュンツ氷期」・「ミンデル氷期」・「リス氷期」・「ヴュルム氷期」と名前が付けられており、実は現在は約1万年前に終わった「ヴュルム氷期」と次の「氷期=名前は未だ無い」の「間氷期」であるとする学説もあります。」

この年表続き=右側)の左端上辺りに小さい字で書いてあるのですが「ヴュルム氷期」は読めるでしょうか。少し右の「オーリニャック文化」などは読めますが・・・この表自身がまた大変な表だと思うのですが、それは又日を変えて・・・(^^;)表の下、欄外の注記をお読みください・・・面白いでしょう・・・。


こんな説明で分かりますか?途轍もなく昔の話を成る可く身近に引き寄せようとすると、こんな具合になってしまって・・・(言い訳がましい・・・いや、言い訳です^^)


これは何処でしょう?
 

イチローさん、凄い!!!

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月14日(月)23時55分59秒
返信・引用  編集済
  1世紀を一跨ぎしたわけですね。108年前の大リーグ記録を塗り替えてしまいました。文字通り一朝一夕にしては成らなかった記録です。1年間に164試合、そこで200安打を記録したのは例えば一昨年で8人、去年は僅か3人、それを9年間兎に角続けたということはいかに大変なことか。まだ若干35歳です彼は・・・。

ちなみに朝日新聞14日夕刊の一面に顔を並べている人の年齢は・・・

一回り上の47歳が小川和弘・個室ビデオ店放火犯で無罪を主張しています。ウィリー・キーラー(当時29歳)が8年連続を記録した1901年、「みだれ髪」を上梓した時の与謝野晶子さんが23歳。足尾鉱毒事件で直訴したときの田中正造さんが60歳。防衛相有力の亀井静香さんが現在72歳、消費者相か、福島瑞穂さんが53歳。人生は百人百様です、ほんとうに・・・。


イチロー!!!\(^O^)/ヤッター!!!


こちらも忘れてはいけません!([HQ]を押してください)
「胸がすく」という言葉は正にこの一瞬のために有るのではないかと・・・
 

手記

 投稿者:あずき  投稿日:2009年 9月13日(日)15時56分33秒
返信・引用
  リベルさん。父母の手記を読んで頂きまして蟻賀十茣蓙伊馬下。(←マネ。)
音楽の力とはすごいものですね。
 
    (リベル) あずきさん、こんにちは。

この手記には本当に泣きました。季節や風景の描写もなく感情を篭めず正に淡々と語られた事実のみが「かたまり」となって胸に迫ります。こういうのが名文だと思いました。

言葉の力とはすごいものですね。(←マネ、でなく実感です。)(9.14 12:50)
 

Re: 苗字

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月13日(日)01時06分31秒
返信・引用  編集済
  > No.4515[元記事へ]

> リベルさんけふはどこまでいったやら・・・

あずきさん、こんばんは・・・なにかお久し振りだと思ったら、約一週間何も書いていなかったのですね。こんなことに現を抜かしていて・・・もう夢中で・・・m(_ _)m

このテーマについては今年出た本で「地学のツボ」と言うのが有るのを数日前に見付けました。読み易く面白そうです、お奨めです。この本の著者は「役に立つから」と叫んでいますが私は違うのです、面白いのです兎に角。こんなにも知らないことが有るんだなあ、それもごく身近に。子供達に知らせてやりたい「知ることの歓び」を、みたいなノリで作っています。

「はやかわ」さんであることはこちらで覚えていました。我ながらなかなかの記憶力です(鼻先がピクリと動く)。小鳩さんの本名が鷲津さんですか、これは見事に一本取られました。

画像が変なのは承知していました。理由が分からないので放置していますが・・・×印を右クリックして「画像の表示」で出ると思います、お田飯管犀(ママ)・・・^^


追記:この前泣いてしまったなあと思いながら、又ご母堂の「哈尓浜」を今までかかって読んでしまいました。今日は「歌声」のところで滂沱たる涙、でした。映画「ショーシャンクの空に」の一シーンを思い起こさせて頂きました、ショーシャンクの空に「フィガロの結婚」が流れ渡ったシーンです。名文だなあとつくずく思いました、生意気ですが・・・。(9.13 01:29)


綺麗な鸚鵡街真下・・・
 

苗字

 投稿者:あずき  投稿日:2009年 9月12日(土)22時39分52秒
返信・引用  編集済
  リベルさんけふはどこまでいったやら・・・

平民苗字許可令は、1870年(明治3年)
平民苗字必称義務令は、1875年(明治8年)

すべての国民が苗字をもった歴史は短いです。それから先まで行っているのですか?
この平民が苗字を決める時、決め手となったのは「地形」のように思います。
ちなみに身近には「たかた」、旧姓は「はやかわ」、母方の苗字は「さんどう」です。

鳥の苗字ですか?小鳩くるみ♪(本名は鷲津名都江、マザーグースの翻訳など。)

>綺麗な鸚鵡街真下(ママ)・・・←この画像が見えませぬ。
 

「オウム」を漢字で書けますか

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月12日(土)02時36分43秒
返信・引用  編集済
  焼酎を飲みながら「鳩山」をめぐって苗字談義に花を咲かせました。大体「鳥」の付く苗字は「白鳥」「駒鳥」「千鳥」「鳥山」などと多いけど、「燕」や「雀」となるとこれは無いんじゃないか?「中村扇雀」「柳亭燕枝」などと名前の方は置いといてだ。と、まあいうような調子で辞書や検索なしで挑戦してみました。

松竹梅や桜、桃など「木」は沢山あるのです。例えば「松合」「松井」「松浦」「松江」「松尾」「松川」「松木」・・・お気付きですかアイウエオ順に追っかけているのです、どうぞお試しください。「ク、ケ、コ」が無い・・・^^。「松久保」「松健」「松越」・・・松健はいけませんね。「松阪」「松下」「松末」「松瀬」「まつそ?」・・・楽しいでしょう?

「鳥類」はなかなか有りません、これも名前で「源氏鶏太」は有りますが「鶏」の付く苗字は思い当たりません。烏山、鷺宮、鶯谷などと地名があるのは大抵「姓」もあるでしょう。無理なく出てくるのは「鴨下」「鵜飼」「鶴岡」「鷲尾」・・・「鷹田」←これなんかは既に「変換」に依存しました、実は・・・その何度目かに出ました。「しぎた」「とびた」「かりた」など全滅で・・・。

実はもうこの辺で出尽くしてしまって終わったのです、苗字談義は。なかなか無いものですね。「苗字」は色々なサイトが有るようですからそちらを少し探訪してみます。

アイウエオ順でやっていて、あ、「おうむた」が有る、と躍り上がったのですが「大牟田」で、これは「おおむた」でした。大体「おうむ」の漢字は「鸚鵡」ですから(勿論私は書けますとも・・・嘘・・・変換で出ました)それだけでもチョット格好いい「姓」ですよね・・・うーむ、では苗字のサイトを訪問してきます・・・行って参りまあす・・・(^^)/~~~


綺麗な鸚鵡街真下(ママ)・・・
 

今朝の・・・

 投稿者:あずき  投稿日:2009年 9月 5日(土)11時59分37秒
返信・引用
  「天声人語」です。昨日の不愉快さを雪ぐお話です。

http://www.haizara.net/~shimirin/blog/akiko/blosxom.cgi/nikki/20090905112313.htm
 
    (リベル) 確かに。オーバーでなく暫く読み呆けました、繰り返し読みました。

生意気を承知で言いますと、実はここ数日でしょうか「天声人語」の執筆者が変わったのではないかと訝って、調べたほどなのです。私などから見てもテーマ、展開、文章など只脱帽有るのみという文章が日々続いています。

昔は何か全て「脱帽」ものだったような気がします。実は内緒でレギュラーが夏休みで、ピンチヒッターが執筆しているのかも・・・なんて考えるのも一興ですね・・・(^^;)

那珂太郎さんの「音の歳時記」をフルで読ませて頂きました。有り難う御座いました、本当に・・・これには恐れ入りました、意地悪な私ですが流石に黙りこくって終いました・・・(9.5 17:09)
 

バッドルーザー

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月 4日(金)08時24分13秒
返信・引用  編集済
  今日の朝日新聞の「天声人語」が書いています。「露骨な苛立ちを記者団にぶつける日本の首相は、悲しいが「良き敗者」の像からずいぶん遠い」

これでは権力を笠に着た「イジメ」、「イタブリ」でしょう。こういう底意地の悪い人って居ますね上司とか先輩とかに、これは残念ながら麻生さんの心の貧しさを如実に描き出してしまっていて、むしろ痛々しい。なんだ、やはりこの程度の人だったんだ・・・そう思わせないで欲しかった・・・実に情けない・・・(悲)

自民党の急造総裁=首相は阿倍・福田・麻生と三代続いて世襲議員でした。そして皆さん言い合わせたように去り際がよろしくない。施政方針演説後の政権放り出しに始まって「貴方とは違うんです」に次いで麻生さんの「ブッチギレ」。「政権交代」はやはり必然的な流れではないでしょうか。

一度「思い上がり」の循環を断ち切った方が良い、これが国民の良識の発露なんだと痛感します。民主党もこれまでの与党のようにグータラしては居られません。4年後には厳しい審判が有るのですから。そういう意味からも、今回の選挙結果は日本にとってプラスだと、つくづく思った次第です。

立つ鳥跡を濁さず」って、子供の頃から教わりましたが、我々庶民は・・・(^^;)
念のためですが気の短い方はご覧にならないでください、貴方の拳とディスプレーのためにも・・・^^
これはいけません・・・゛(`ヘ´#) 怒…


こういう「ugly」な面(「メン」と「ツラ」どちらに読んで頂いても結構です)、子供達には絶対に見せたくない・・・!!!
 

ジャガイモのルーツ

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月 4日(金)02時12分44秒
返信・引用  編集済
  「ジャガイモ」は「ジャガタライモ」の略です。大辞林では「ジャガタラ」を「日本では江戸時代以降,広くジャワ島の意に解し,オランダ船で舶載した同島の品物にジャガタラの名を冠して呼んだ」と解説しています。なのでインドネシア辺りが原産地かと思っていたら、これがどうもそうではないようで、同じく大辞林で「ジャガイモ」を引くと「南米アンデス中南部山地の原産とされる・・・和名はジャガタラから渡来したため」と書いてあるのです。

実は・・・この表の39番目をご覧ください。「南米でスペイン人探検家がジャガイモを知る」と書いてあるのです。そこでウィキペデイアなどでその歴史的事実を探しても、しかし一向に見当たらないのです。で原本の「Life Millennium: The 100 Most Important Events and People of the Past 1000 Years 」を読んでみると確かにスペインの探検家のGonzalo Jimenez de Quesadaという人が1537年にペルーで出くわしたと書いてあります。しかし英語やスペイン語ののWikipediaでpotatoやpatataやbatata(アメリカ・インディアン)を探してもこれが無いのです。

2003年に購入していた「エンカルタ総合大百科」にそれらしいのが見つかりました。「ペルーのアンデス山地が原産のジャガイモは、インカの重要な食用作物だった。16世紀にインカを侵略したスペイン人によってヨーロッパにもちこまれた。当初は観賞用であったが、しだいに食用の価値がみとめられ、17世紀にはほぼ全ヨーロッパで栽培されるようになった。18世紀初めに北アメリカにも渡来し、1719年にニューハンプシャー州で栽培がはじまったとされる。」ついでに「世界大百科事典」も・・・

「この野生種は南北両アメリカ大陸を通じ広く分布している。最も多くの近縁野生種がみられ,また種内の変異が多様な地域はペルー南部からボリビア北部にかけての中央アンデス中南部高地,とくにチチカカ湖周辺部である。これらの点からジャガイモ属が最初に栽培化されたのは 500 年ころの中央アンデス中南部高地とみなされ, ジャガイモもこの地域で起源したものであろう。ペルーやチリの遺跡からジャガイモをかたどった土器が発掘されていることからも, ジャガイモの栽培がすでに盛んになっていたことを示している。ここから 16 世紀にヨーロッパに伝えられ,やがて寒冷地を中心に広く世界中に伝えられた。」

どうやらペルー辺りが原産地だったことは間違いないようですが、先のQuesada(ケサーダと読むのでしょうか)の裏付けが取れないのが奇妙なことなのです。探したらこんな記事がありました。 Lincolnshire Echo というイギリスの地方紙が2007年の12月にこんな記事を書いています・・・

"The word "potato" derives from the American Indian word batata. A potato is about 80 per cent water and 20 per cent solid. There are two schools of thought(二説)on who brought potatoes to Europe - one says that Gonzalo Jimenez de Quesada was the first to introduce the potato to Europe. The other says that Sir Walter Raleigh(確かにジャガイモのエピソードが有りますね)introduced it.

Potatoes are believed to have first become ... "

これ以上読もうとしたら「free trial」と言いながらカード情報を要求してきたので、止めましたが・・・^^

どうやらケサーダというスペイン人が472年前にペルーで見付けた植物を私達は食べているようです・・・。


ジャガイモ(野菜ソムリエUesanのブログから)
 

全地球史解読計画

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月 3日(木)00時43分51秒
返信・引用  編集済
  「全地球史解読計画」という大プロジェクトが1995年から1999年まで東工大の丸山茂徳氏を中心に活動したそうです。私が今虜になっている「生命と地球の歴史」は何を隠そうその集大成のようなものだと分かりました。昨日図書館で借りてきた立花隆著「宇宙・地球・生命・脳」を読んで初めてそのことを知りました。丸山さんは謙虚だからチョットそれらしくはあったのですが読み取れなかった。そうだと気付いたら矢張りその頃、ということは10年ほど前、シア・コルボーンとの対談が魅力で買った「サイエンス・ミレニアム」にプロジェクトのメンバーである熊沢峰夫氏との対談が有りました。全く同じ内容が出ているのですが記憶にない、と言うことは読んでいないのだと思います、まるで興味がなかったから・・・。

昨日図書館へ行ったとき「お父さんが話してくれた宇宙の歴史」というのを借りようとしたら「これは児童書ですよ・・・(いいのですか)」と怪訝な目を向けられました。素直に「はい」とだけ言ってお借りしたのですが小学高学年向きに池内了氏がお書きになっている啓蒙書です。流石に「プレート・テクトニクス(一口にプレート理論。テクトニクス=構造地質学。トにアクセントを置いてください、あ、どうでも良いか・・・)」は出ていませんが「パンゲア大陸」は当たり前のように出てくるので驚きます。こういう本こそ子供達に読まれなければいけない、日本の科学が世界に後れを取ります・・・!そこでも解説しているのですが・・・

私達は日本がユーラシア・プレートの東の端に乗っかっていて、そこへ太平洋プレートが潜り込んでくるから地震が起きるということは知っています。世界にはこのプレートが14〜15枚有ってまあ 犇き合って地震を起こしているのですが、結論を急ぎますと今日興奮したのは実は下の二枚の図なのです。上側はこのプレートの現状を示しています(ウィキペディアから)。下側は1964年から1990年まで、なんと26年間にわたって、深度100キロ以下で起こったマグニチュード4以上の浅発地震をトレースした図です(「宇宙・地球・生命・脳」p.160から)。


何故興奮したか、二つの図をよくよく眺めてご覧ください・・・。
こういうことがあるから人間を止められない・・・(^^)
現在のプレートの配置図
地震頻発箇所(オレンジ色の点)

如何ですか、お気づきになりましたか・・・?興奮したことは他にもあるのですが、又機会が有れば・・・。そうそう御約束した「スケール」作り、難渋しています。
今から挑戦再開・・・〆(.. )メモメモ…
 

赤いバラ

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 9月 1日(火)01時58分7秒
返信・引用  編集済
  昨日江田五月氏がホームページでこう書いておられます。

「私にとって政権交代は、父子2代の半世紀以上にわたる悲願だった。交代自体の意義も大きいが、交代で何が実現できるかも、もちろん大切だ。今回の政権交代は、明治維新と戦後改革に匹敵する歴史的な意味を持つといわれるが、私はその程度では満足できない。国民が政権選択により、あらゆる場面で政権運営に関わり「参加民主主義」を実体化させよう。」

率直なご感想だと思います。私は自分の受け止め方を連れあいに話して、少し軽蔑の眼差しを受けました。

自民党の人物の方が民主党の人物より人間的に全て上質だという錯覚が蔓延していると思う。それが一掃されるだけでも大きな意義がある。その錯覚は単にこの約50年間、自民党が与党であっただけの理由で生まれたのだから。と言って・・・。

昨日遅くまで選挙速報を見ていてつくづく思いました。赤いバラの有る無しが当落を現しているんだけど、なんかバラの付いていない人間はダメ人間だ、みたいな錯覚を起こさせるから、このやり方は厭だなと。

青森三区の大島氏と田名部氏(比例で当選)の差は僅か367票です。場合によっては私一人がその人に投票したか否かで、バラの有る無しが決まるのです。無い方はウッカリするとだからダメな人間であるかのように、見られかねない。これは大変危険なことです。やむを得ない制度ですが、それを承知していないと私のような錯覚を生みかねません。

そんなことを思いながらやりかけの「人名歴史年表」に向かってゾッとしました。ここで私は「バラ付け」をしているのです。8月28日に書いたように【歴史上重要な人物と出来事の表示】をしようとしています。出来事はよいのですが、重要な人物の場合「芸術」の欄を縦に見ていくと、ホメロス、ダンテ、ダヴィンチ、ミケランジェロ、シェークスピア、オースチン、ベートーベン、ピカソの8人が当選しているのです。何故トルストイでなくオースチンなんだ?と私に言われても困るのです。A&EやLife誌選抜の有識者(?)が清き一票を投じられた結果なのですから。

私は直ちにこの企画を取りやめることを決意した次第です。「重要な出来事」は残します、更に増やしていきます、が「人」にバラを付けるのは止めます(その結果です)。いやA&EやLife誌やハート氏の選定は良いのです、意義があることだと認めます。しかしそれは選ばれた100人の表をフムフムなるほどと鼻毛を抜きながら読んで納得している分には良いのですが、私のようにそして選挙速報のように人物の一覧表にバラを付けて行くのは良くありません。バラのない人はダメな人のように見えることと、もう一つそれは本当はA&EやLifeの誰かの「1票」が決定したものに過ぎないからです。「一斑を見て全豹を卜す」・・・チト違うか・・・全然違うなあ、これなんか面白いかも・・・

”It is the last straw that breaks the camel's back.”

これも違うか・・・でも流用できそうな・・・(^^;)


ではただいまから作業に入ります・・・(^_^)/~
 

耐える

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月30日(日)01時18分47秒
返信・引用  編集済
  もう一年も前になるでしょうか、突然高血圧症に陥りました。高いときは上が200を越えました。或る日本屋で浜六郎という人の「高血圧は薬で下げるな」という本に目が止まって読みました。思った通りこの病にも製薬会社の思惑が大きく深く関わっていることを知りました、何とWHOの決定まで覆す力を持っているのですね、やはり。憤然とした私は何と馬鹿なことをしたことか、掛かり付けの穏和な医師に向かって「薬を止めます」と告げてしまったのです。流石に所謂「血相が変わり」ました。カルテに震える手で「浜六郎」と書いておられるのを見て、与えた衝撃の大きさに気付いたのですがもう遅い。絞り出すような声で「それはダメです・・・危険です・・・」と仰有ったのを素直に聞くことにしました。

しかし、実は私の決意は勿論変わっては居ないのです。よし体脂肪を減らす、塩分を控える。それによって血圧を下げてやる、と心に決めました。分かり易いのは塩分です。何にでも醤油か塩をタップリ掛けていたのをスッパリ止めました。刺身と握りだけは少し醤油を使いますが。薄味好みの連れ合いの味付けに従順になりました。生野菜は文字通り生野菜、塩の一振りも絶対に無し、いや負け惜しみでなくその方が美味しい野菜も確かにあります。あ、どうしてもダメなのが野菜の場合は「モロヘイア」だけ。胡麻と塩で生を食すると実に上手いのですが、この塩を止めて酢で食べようとしたのですが、こいつはいけなくて目下例外扱いです。

塩を断ってから3ヶ月程でしょうか、目に見えた効果が現れ始めました。夜の寝苦しさや目覚めの悪さが無くなってきました。2〜3日おきに測る血圧も170とか160とかいう数字は全く現われなくなって、高くても140台になり、見かけは慎重を装いながらこれで既に二度薬を減らしています。三種類が二種類になり、その内の一種類も半量になっています。もう半年もすれば結局薬不要と認めてもらえるでしょう・・・(ニヤニヤ)

こんなことを書き始めたのは昨日の夕刊で角川春樹さんが13日間の断食のことを書いていたからです。私も経験が有ります。石原都知事がやっているのは「果物ジュース」を飲むのですが、私のは一切無し、水だけはがぶ飲みせよ、という床板の抜けたところもある生駒山の中腹の古い断食道場でした。2週間の入門で最初と最後の各3日間と5日間はウォーミングアップとクールダウンです。間の5日間だけは「水」だけ。しかし私はここでも逆らうのです。どうしても「1週間は何も食べなかった」という勲章が欲しいからです。なので断食6日目と7日目は文字通り喉から手が出るほどの重湯と梅干しを六食トイレに捨てました。

断食の最も大きな効果は消化器の浄化です。普通の状態では消化器は襞の中にギッシリと不純物を埋め込んで多少の刺激物にも耐えられるように鈍麻しているのです。何も食べないで水だけでも排泄行為は有ります。襞の中の不純物が綺麗に洗い流されて、それこそ「赤ちゃんの消化器」状態になるのです。尾籠な話に及びますが「宿便」というコールタールのような刺激臭を放つ便で、水洗でない生駒のトイレは相当なものでした。

角川氏は「断食を終えて塩をなめたら手足の先の神経にまでピリリと来て」と表現していますが、決してオーバーではありません。私が衝撃を受けたのはそんなことではなく、己の意地汚さにでした、或いは人間のと言いますか。コップ一杯の重湯と小さな梅干し一個です。変なものを食べると何しろ「赤ちゃんの胃袋」ですからビックリしてしまうのです。私の前の部屋の人は一応数日経って場長の許可も得て下山してきつねうどんを食べたのですが、覿面にひどい腹痛に見舞われて一騒動でした。

意地汚いというのは、その食事を能う限り長時間掛けて味わおうとするのです。まず箸の先に3ミリ四方程の梅干しの皮をくっつけます、それを徐ろに食するのです、正に「食する」のです。人間飢えたくはありません。今情景を思い出すと正に噴飯ものですが・・・^^

このときの忘れられないエピソードを一つお話しします。入場して間もなくですが毎夜寝入り端に下の階から異様な音が聞こえるのに気付きました。呻るような、泣くようなそれは不気味な声が暫く続いて消えていきます。「ええっ、意外に苦しいものなのかなあ?」と不安でなりませんでした。数日後毎朝の集会の折、その音源の隣人らしき人が勇を鼓して訊きました、やはり私だけではなく皆さん気になっていたのです。と、本人は何だろうと視線を泳がせていましたが「ああ」と大きな声を出しました。「ごめんなさい」眠るときに両耳にイヤフォンを入れたままお気に入りの歌を口ずさみながら寝るのが習慣なのだそうです。道理で調子っぱずれの歌ともお経ともつかぬ呻き声が漏れてきたわけなのです。一同納得してドト笑い崩れたものです・・・。

肉体的にも精神的にも耐えねばならないことがありました。でもまあ先日も書いたフランクル氏の明日をも知れぬ恐怖に比べれば、これしきのこと、書くには及ばなかった・・・です。


生駒の聖天さん、よく散歩に行きました
 

アメーバたちのスナック

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月29日(土)00時14分24秒
返信・引用  編集済
  そこでは十数色の単色のアメーバたちが細胞膜一枚で肌を接してひしめき合っています。マスターやママや常連や一見さんやと、入り乱れてはいるのですがなにやら整然とおだやかにまとまって、一人一人が静かに楽しんでいる・・・そんなスナックに夢の中で居ました。

赤い細長いのが何やらトンガッタ発言をするとあっちの端から白い触手がスルスルと伸びてきてチョンとつつきます。隣の黒が赤の肩を抱くようにするといつの間にか元の秩序に戻って静かな会話や笑い声が満ちています。黄土色がさっきから何か悲しみに暮れて黙りこくっているのですが誰も声を掛けようとはしません。しかしそれぞれ別の会話をしながら心の片隅で黄土色の苦しみを理解しようと努力し、それぞれの触手でスキンシップを試みているのです。

やがて黄土君が元気を取り戻してきた頃、縞のスーツの一見さんが現われます。誰もだからといって顔色を変えるでもなくグラスを満たしてあげて、さりげない暖かさがスーツの肩をなだらかにしていきます。あっちの方から「最近のタイガースはさあ・・」などと桜色の触手が伸びて来て、縞のスーツはその内には隣の黄土君を鼓舞し始めたり・・・。

私は桃源郷に居る気持ちで息をしていました。これは安っぽい「思い遣り」というのが有るとすれば、それとはまた違って「相互理解」と言いますか、押しつけがましさがありません。細胞膜の接触を通して相手の心の動きを察知して現在最適だと思われる接し方をする、これは暖かみがない接し方とは言えないと思います。最も効果の高い接し方が最も暖かい接し方でしょうから。夢ならば醒めないでくれと思いましたが、醒めました。家族というのもこうであれば良いなあと思いながら・・・。

連れ合いはすれ違いで眠る時間です。何となくいつもと違うなあと訝しげに首を傾げながら「おやすみなさい」と二階へ上がって行きました・・・いやこちらの勝手な思い過ごしに違い有りません・・・(^^;)


無理にイメージを探すなら・・・
 

「人名歴史年表」に大改訂!

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月28日(金)11時58分58秒
返信・引用  編集済
  これまで「人名歴史年表」は殆ど人名の陳列で、他に「戦争と革命」は太枠を付けて目立つようにしていました。「ルネサンス」、「産業革命」ほか少し気付くものは赤枠・赤地にしていたのですが、根拠は無く恣意的な部分改訂に止まっていたのですが、今回資料がそろったので大改訂に踏み切りました。数日間は「人類進化年表」の作業はお休みです・・・。


【歴史上重要な人物と出来事の表示】

@人類の歴史に大きな影響をもたらした人物や出来事を目立つように表示して歴史の動きを幾らかでも示すように試みました

A人物と出来事の選択は以下の資料に基づいています

(一)A&E's Biography of the Millennium」アメリカのA&Eネットワークが360人のジャーナリスト、科学者、神学者、歴史学者他の学者を集めて、20世紀中で最も影響力の大きかった100人を選定したものです

(二)Life Millennium: The 100 Most Important Events and People of the Past 1000 Years 」Life社が編集した20世紀の最も重要な人物100人と出来事100件のリストです。Life社が集めた20人の作家と10人の調査員が、多数のベテランを擁して数百の項目を選び、議論を尽くして選定したと記されています(p.8)。なお、このリストには「Event」と「People」の二つがあり、それぞれをを和訳したサイト(「重大事件」と「重要人物」―「立徳の自由と教養への道」より)が有りますので参考になさってください

(三)マイケル.H.ハート著「歴史を創った100人」ハート氏はアメリカの天体物理学者で、この本は50万部のベストセラーになり、15カ国語に訳されています。これを表にしたリスト「歴史的影響力ランキング(「立徳の自由と教養への道」より)」も参考になさってください。なおこれは20世紀だけではなく有史以来を扱っています。

B選定は編者の私的な判断を避けるため、(一)を中心に(二)、(三)の両方または一方と重複選定されている人物のみを採用しました

     例:モーツァルトは(一)のみ選定していて(二)、(三)が選定していないので、採用していません。(他に25例有ります)
          ジョージ・ワシントンは(一)の他に(三)が選定しているので採用しました

この場合(二)は「Event」、「People」のどちらかに取り上げられていれば採用しました
また(三)は(一)、(二)と異なり、ハート氏個人の意見なので、(三)のみが選定している人物16例は採用していません

C(二)の「Event」と「People」は重複しているものが多いので、重複しない「Event」を採用記入することにしています

D20世紀以前については(三)のリストから、「小学・中学 学習人物事典(旺文社)」と「小中学の教科書に出る学習人物事典(学研)」を参考にしながら選定しました

E以上の「重要な人物」と「重要な出来事」は、表の枠を赤色で太く、表の中を赤地で表示します


これから数日間、作業に入りますのでどうぞお楽しみください・・・なんて言ってますが、何も面白いことは有りません。どうかご放念ください・・・(^^;)
 

貞明皇后はハンセン病患者に会ったか

 投稿者:Ichiro  投稿日:2009年 8月25日(火)10時33分13秒
返信・引用  編集済
  貞明皇后はハンセン病患者に会ったか

 会った可能性はある。
 懐古50年 林芳信 昭和54年 201頁

 著者の「多摩東陵に献木の次第」に書かれている。赤松5本、もっこく4本、紅葉12本を献納した話の最初である。

 昭和28年5月発行の「多磨」第34巻5号に多磨全生園の鈴木寅雄氏が「貞明皇后三年祭にあたって、貞明皇后の御仁慈、わけても昭和23年6月8日埼玉県の蚕糸業御視察のため全生園正面をご通過の際、当時の在園者役員および代表の方々が道路側に整列してお迎え申し上げた感激について記されている。
 その終りにお手洗いと石灯籠を献納という話がでたが、献木ということになった。お金をあつめて、松ヶ丘 6980円 東北 5710円 栗生 12030円、多磨 23879円、駿河 3000円 長島 26440円 大島 6500円 菊池 17000円 星塚 23217円 深敬園 1000円 神山復生病院 1473円 待労院 1050円 を寄贈された。

●原本にあたっていないので、具体的な話はよくわからない。挨拶を受けられたのか?
 つれづれの の 和歌があるが、自分が会いにいけばいいという批判があるので。●昭和天皇の場合、菊池恵楓園の外で、園長その他と挨拶を交わした写真があり、また、大島青松園の近くまで船でいかれた。当時はそんなものか。
 

金がねえなら、結婚しない方がいい

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月25日(火)03時02分11秒
返信・引用  編集済
  麻生首相が言ったそうです。

「金がねえなら結婚しない方がいい」

誠に単純明快です。しかし単純明快なだけでは首相は勤まらない、民の竈を見ようともしないでは。第一「神田川」が成立しなくなるではないですか、あ「同棲」がありますか。現実問題としては「言える」言葉だろうと思います、親が我が子を諫めるときなど。しかし国家元首が講演で口にするとそれは途端に一般論に変貌します。

人間には様々な生き方があって良いはずです。「よし、もう少し貯金が貯まったら結婚しようよ」とか「チャントした職が決まったら」という慎重さも「人間」だろうけど、一文無しで親の反対を押し切って駆け落ちするのもまた「人間」でしょう。漫画オタクにそこまで口を出して欲しくはねえ!おっと、こちらまで言葉遣いが悪くなりました、「金がねえなら」なんて言葉はチャントした大人が使う言葉ではありません。友人間ならともかく仮にも「講演」で、です。そうお思いになりませんか、このお人には「コペルニクス的転回」が必要なのではないでしょうか・・・(T_T)

コペルニクスと言えば112番目の元素が「コペルシニウム」で決まりそうだというニュースが昨日の夕刊に出ていました。今「大辞林」を引くと「現在109種類の元素が確認されている。」と間違ったことが書いてあります。広辞苑は先見の明有ってかノータッチですが。これまでは111番目の「レントゲニウム」が有って112番目には「ウンウンビウム」以下「ウンウンなんとか」がウンウン言いながら正式認証を待っているようです。

私が目下ウンウン言っているのは、21日に書いた私が「鉛筆」役を仰せつかったと自認している「スケール」作りなのです。1万2000年前に何があったかを年表にするのが、難しいのです。ちなみに何があったかを分かっているだけ列挙してみますと・・・

最後の氷河期が終わった

●人類がベーリング陸橋(ベーリンジア)を渡ってアメリカ大陸へ行き南アメリカ大陸の南端まで到達した

●農耕が始まった(西アジア・前期ナツーフ文明・テル・アブ・フレイラ

●日本で縄文時代が始まった(16,500年前という他説もある。ウィキペディア、「詳説 日本史B」p.8)

●貴重な種、ホモ・フローレシエンシスが絶滅した


ウーン・・・参りました・・・ウンウン・・・ヽ(ー_ー )ノ マイッタ〜


勝手にアンコール!!!
 

Re: 私は鉛筆 あずきさん、エリカさんへ

 投稿者:エリカ  投稿日:2009年 8月24日(月)11時27分25秒
返信・引用  編集済
  > No.4502[元記事へ]

わたしの頭の悪さか、国語力のなさのためかちょっと誤解があったように思います。
わたしの趣旨が伝わらなくて皆さんにご迷惑をかけたかなと思います。
わたしが言いたかったのは、主観的な考えかもしれませんが。

>ある教会の友は「わたしは奉仕をしているときもいつもそこに自我があることを感じる」と告白しています。またある友は「与えるだけというのはできないものである。誰でも人に何かをしてあげるとき、何らかの代償を求めているのではないだろうか」と告白しています。
わたしは上記は正直で、謙虚で、「真実な」は発言だと受け取っています。
使途パウロは「わたしの内には善が住んでいない」また「わたしは罪びとのかしらである」と告白しています。わたしは偉大な聖人といわれるような人のこのような苦慮の叫びを耳にすることがあります。自分の内面をみると、そこには嫉妬、妬み・・・など、どろどろしたものを見せ付けられ、それは「人間」の「真実な叫び」だと思うのですが。
もちろん生まれつき優れた本質を備えておられる人もいますが。
彼らもわたしたちと同じように「弱さ」があるんだなあと思います。そして自我との闘い、もだえ、祈り、それらを乗り越えてきたとき、魂は精錬され、いっそう、輝き、潔さをましていくんだなと思うのですが。

「涙とともに種をまくものは、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行くものは束をかかえ、喜び叫びながら帰ってくる(詩篇126-5)

神に仕えるということは犠牲、艱難、汗、涙・・・。が伴なうこともあります。それだけに収穫の喜びは大きいのだという意味で申し上げました。
死に急ぐ人々を救出するために「白浜いのちの電話」を開設し、江見氏は日夜献身的な奉仕をして来られました。電話がかかると冬の寒い真夜中であっても飛んでいかれたことがしるされています。人々から賞賛をあびるどころか、人々の中傷もあり、悲しみ、挫折感、又投げ出したいと思ったこともあったことかと思います。しかしそのために多くの死に場所を求めさまよっていた人々が絶望の淵から救われました。それはおおいなる収穫であり、神の祝福ではないでしょうか。

何年前だったか、愛生園を訪れた時、それは氏が園の牧師を退任するときに残された言葉が長島愛生園の教会堂に(聖書の一節ですが)掲げられていました。

「みよわたしはおおいなることをする。そしてそれは実現する」(イザヤ)だったでしょうか。よく覚えていないのですが。退任するときに神からのビジョンを与えられたということかなと思いました。そして
マザーテレサの言葉のようにおおいなることをなさるのは神でありわたしはその道具であるという意味かなと思いました。わたしは回復者の故松本馨さん、江見牧師などすばらしい方々との出会いを体験したことは幸せなことで、神の導きかなと思っています。
 
    (リベル) >わたしの頭の悪さか、国語力のなさのためか・・・

そんなこと、とんでもありません、良く分かるご説明を頂いています。私の方こそ読む人の立場に立ってお話しできていないと気付き、心から反省しています。

私はキリスト教については何も知らず、ましてや「奉仕」や「人に何かしてあげる」ことを実践した経験も全くありません。そういう私が口幅ったく信者の方々を批判するような表現をしたことは、お詫びしなければなりません。

私はマザー・テレサという人は、抜きん出た人だと思います。死を直前に迎えた人、全身膿に塗れた人であっても、抱き起こさずには居られない「人間」なのでしょう。「あ、可哀そう」とか「何かしなければ」と突き動かされる心の段階はこの人には恐らく無いのではないでしょうか。全く「私心」というものが介在しない、ただ「行動」があるだけなのです。「何かをなさるのは「神」です。私は「鉛筆」に過ぎません。」という言葉はまさにそういう「在り方」を表現しているのだと思います。

私が先日申し上げたことは、ただその一つだけなのです。

「誤解」や「迷惑」を生んだのは何を隠そう今申し上げたとおり私奴の方なのです。エリカさんの心を痛めさせたのであれば、心からお詫びします・・・m(_ _)m(8.25 01:07)
 

Re: 私は鉛筆 あずきさん、エリカさんへ

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月23日(日)02時56分53秒
返信・引用  編集済
  おお、返事が遅くなっています。ご免なさい、何だか頭の中に「プレートテクトニクス」「パンゲア大陸」「エディアカラ生物群」「バージェス頁岩動物群(これでも刺激の少ないものを選んでいる積もり^^)」などが泳ぎ回っていて、どうにも手に負えなくなっていたのです。さきほどゆえ有ってV.E.フランクルの「夜と霧」の池田池田香代子さん訳の改訂版、永らく読まずに放っておいたのを繙きました。考古学も面白いですが「肺腑を剔られる」ようなお話はやはりこちらの方ですね。


あずきさんのお話はその通りだと思います。

寛容と思いやりに溢れる愛に満ちた家庭、そこにはギスギスした神経や刺々しい会話は影も形もありません。そう言う家庭に育った子供はおのずから愛情深い心を育まれるでしょう。そして外界に接したとき、その違和感を解決するのに用いる手段は「愛する」ことしかないのではないでしょうか。フランクルを手にしたのは、このことを考えていたときです。彼は収容所の中で、抗わず、逃げず、神経を押し殺すこともしませんでした。将来を見つめ楽しいことを語り合い歌を歌い心に太陽を持ち続けて、そして生き延びられたのです。彼は余程愛に満ちた少年時代を送ったのではないかと、フト思って・・・(脱線)。

色々な形の「愛」が有ると思います。ステージママの「愛情」は本当の愛か?溺愛されて育った子供が本当の愛の何たるかを知らず、グレて愛とは無縁の人生を送ることもあり得るでしょう。あずきさんが「子供は愛されることによって、愛するということを知る」と書いておられますが、その言葉が一人歩きをしてはいけない、仰有りたいことは最初に上に書いたような意味なのだろうと思って、こんなことをつけ加えました・・・m(_ _)m

それからマザー・テレサの「愛されることを望んではいけない、愛することを望みなさい。」という言葉は、死にかけた人や飢えた子供たちにかける言葉では無いのではないでしょうか。愛を失って悩む失意の人や、神から見放されたと思い込んでいる人に、「愛されるのを待っていてもいつまでも振り返られることは無い。自ら外へ愛を放つことが、愛を得る道なのですよ」と語りかけているのだと私は解釈しているのですが・・・釈迦に説法?・・・(汗)。


エリカさん、拝読しました。

信仰厚いクリスチャンのお話が例に挙げられています。私が「あれっ」と思ったのは例えば「奉仕をしているとき」や「何かをしてあげるとき」という言葉です。マザー・テレサが自分を「鉛筆だ」と言ったのは、自分は「神」のなさることを人間に伝えるツールに過ぎないと言っているのですね。なので「奉仕」でもなく「してあげる」のでもないのではないか、私はそう思います。そう言う言葉には既に「自分が〜をする、〜を行う」という意識が先行していますから。

「詩編」の言葉は「代償が有る」ことを教えているのではなく、「結果」を普遍的事実として記しているのですね。新共同訳では「喜びの歌と共に刈り入れる。」とサラリと訳してありますよ。


それにしても、マザー・テレサという人は凄いですね。ここに書かれただけでも三人に三様のことを考えさせています。それというのもその言葉が、彼女の無償の行為に裏打ちされているからなのでしょう。

お二人とマザー・テレサに、こんな充実した時間を過ごさせて頂いたことを感謝します!!!

さあ、また骸骨の化石の話を聞いてこなくちゃ、兎に角彼等を相手にしているときだけなのですから、一日の内で私が若さを誇れるのは・・・ワーイ \(^o^)/…


2億年前頃分裂を始めたパンゲア大陸です。
そうなんです、今はこんなことに現を抜かしているのです。
2億2,500万年間の変化が4秒間に凝縮されています!
 

Re: 私は鉛筆

 投稿者:エリカ  投稿日:2009年 8月22日(土)11時55分1秒
返信・引用  編集済
  > No.4497[元記事へ]

マザーテレサはすごい人だなと思います。

>「お書きになるのは神です。私は鉛筆に過ぎません。」

わたしはある聖書の言葉の一節がが浮かんできました。それは洗礼者ヨハネの言葉でした。
わたしは荒野で叫ぶ「声」である
「わたしは声にすぎないのだ。」という意味だと思います。

>それにしても「鉛筆」は昔初めて聞いたときもグサッと来ましたが、改めて考えさせられました。身を粉にして患者を治療しているのは神なのだ、私はただ手を動かしているだけなのだ。だから私自身は偉くもなければ大した人間でもない・・・という徹底的に謙虚な姿勢、姿勢と言うより「心」・・・自分はどうか・・・そう考えると誠に忸怩たる思いが湧いてくるのです。

人間の本質からして鉛筆(道具)または声になることはできないと思うんです。わたしは信仰厚いクリスチャンでさえ例外ではないと思うんです。
ある教会の友は「わたしは奉仕をしているときもいつもそこに自我があることを感じる」と告白しています。またある友は「与えるだけというのはできないものである。誰でも人に何かをしてあげるとき、何らかの代償を求めているのではないだろうか」と告白しています。

>身を粉にして患者を治療しているのは神なのだ、私はただ手を動かしているだけなのだ。だから私自身は偉くもなければ大した人間でもない・・・

わたしはどのような聖者と呼ばれるような人でも神(完全無欠)ではないと思っています。

わたしは8年ほど前になるでしょうか。長島愛生園で牧師をしておられた江見太郎氏に会いました。現在は退任されていますが。氏は若い頃和歌山県白浜を訪れました。白浜は、熱海とならぶ日本屈指の温泉地で、観光地として知られています。しかし一方では三段壁からの投身自殺者が後をたたず自殺の名所という悲しむべき一面をもっています。江見牧師は死に急ぐ人々を救出するために「白浜いのちの電話」を開設し、日夜献身的な奉仕をして来られました。しかしそれにもかかわらず、人々の賞賛を浴びるどころか人々からの誹謗、中傷もあり、投げ出したいと思ったこともあったことが記されています。しかし絶望の淵をさまよっていた多くの自殺志願者が「いのちの電話」によって救われ、生きる希望が与えられました。
そこにはどれほどの葛藤、自我との格闘、涙、祈り・・・などがあったことかと思います。
そして「彼(彼女)が絶望から生きる勇気が与えられたことを感謝します」という謙虚な神への感謝の祈りがあったことでしょう。

「涙とともに種をまくものは、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行くものは束をかかえ、喜び叫びながら帰ってくる(詩篇126-5)
 

Re: 私は鉛筆

 投稿者:あずき  投稿日:2009年 8月22日(土)01時58分48秒
返信・引用
  > No.4497[元記事へ]

> 今ウィキペディアでいわゆる「語録」に目を通しましたが、不満でした。私が前から知っており、映画の中でもう一度強く惹かれた言葉が二つとも出ていなかったからです。

> 「お書きになるのは神です。私は鉛筆に過ぎません。」

この言葉には、彼女の考え方、生き方がよくわかります。

> 「愛されることを望んではいけない、愛することを望みなさい。」

ウィキペディアの「語録」のなかに「子ども達が愛することと、祈ることを学ぶのに最もふさわしい場が家庭であり、家庭で父母の姿から学ぶのです。」という言葉がありました。こういう言葉には、今でもわたくしは苦しみます。決してよき母親ではなかったですから、子供がなんとか普通に育っただけでも安心しましたが、母として子供に充分な愛を注げたのかは今でも自信がありません。
以前わたくしが「愛されることがまず大事」と、本宅で書いたことがあって、リベルさんを戸惑わせたことがありました。子供は愛されることによって、愛するということを知るのではないか?というのが、わたくしの考え方です。深夜に失礼しました。
 

映画「いつか眠りにつく前に」

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月21日(金)07時00分36秒
返信・引用
  映画「いつか眠りにつく前に」を観ました。名優ヴァネッサ・レッドグレーヴが死の床で娘に話します。娘が自分の結婚に自信が持てなくなって悩んでいることを母親は知っていました、そして・・・

”There's no such thing as a mistake. You get nervous, but you sing anyways.”

”人生に過ちなんてないのよ

 たとえ不安でも・・・

 立派に歌えるのよ。”(字幕)

意気地なしの私などには、覚えておいた方が良い一行だなあと、メモしました・・・^^


ヴァネッサ・レッドグレーヴ
 

「人類進化年表」の前書き

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月21日(金)03時10分47秒
返信・引用  編集済
  こんな前書きを添えました。

「 この年表は人類がどのようにしてこの地球上に生活するようになったのか、それを振り返って調べようと作ってみたものです。なので余り専門的なサイトではありません、中学・高校生が面白い、と興味を持って読めることを目標にしています。たとえば地質年代の表示でも、あまり細かい分類には触れず、また英語を記してはいません。一歩踏み込んで知りたい方のためには他の専門的なサイトでお調べ頂けるように案内を付けております。
 またどうしても「猿人」、「ストロマトライト」など特別な用語も現われますので、これらは【注1】というように注を付けて理解しやすいようにしています。注をよく読んで理解を深めて頂くようお勧めします。さらに深く知りたい方は「参考文献」に紹介した書籍をお読みください。「考古学」は古い学問だと思っていたらそうではなく、最近の数十年で続々と新しい発見がなされているのです。知れば知るほど面白い分野だと思います、どうかごゆっくりお楽しみください。」

如何ですか?読んでみるかとお思いの方はこちらからどうぞ・・・。

今、「神」が面白い「スケール」(?)をお作りになっています。私が「鉛筆」です。出来上がったらここで発表します。あと数日だと思うのですが、何しろ日本初、いや世界最初の「スケール」を「神」はお作りになっています、どうかお楽しみに・・・(^^;)


ストロマトライト。現在では35億年前から生きていたことが分かっています。
 

私は鉛筆

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月21日(金)03時09分34秒
返信・引用
  オリビア・ハッセーの「マザー・テレサ」を観ました。映画作りの技術に関しては私なりの不満はありますが、でもひたすらで「神」と「愛」について考えさせる爽やかな映画でした。

今ウィキペディアでいわゆる「語録」に目を通しましたが、不満でした。私が前から知っており、映画の中でもう一度強く惹かれた言葉が二つとも出ていなかったからです。

「お書きになるのは神です。私は鉛筆に過ぎません。」

「愛されることを望んではいけない、愛することを望みなさい。」

この二つです。最初に書いた映画作りの技術に関する不満というのは、これらの台詞が出てきたとき、それについて十分考え得る”余裕の時間”を設けていなかったことではないかと、気付きました。良くできた映画というのはそのあたりまで行き届いた心配りをしていると思います、意識してか否かは問わず。

それにしても「鉛筆」は昔初めて聞いたときもグサッと来ましたが、改めて考えさせられました。身を粉にして患者を治療しているのは神なのだ、私はただ手を動かしているだけなのだ。だから私自身は偉くもなければ大した人間でもない・・・という徹底的に謙虚な姿勢、姿勢と言うより「心」・・・自分はどうか・・・そう考えると誠に忸怩たる思いが湧いてくるのです。


マザー・テレサ
 

第1回国際らい会議における日本代表は?

 投稿者:Ichiro  投稿日:2009年 8月21日(金)02時57分14秒
返信・引用  編集済
  第1回国際らい会議における日本からの代表出席者はどなたであったか

 林 芳信 「回顧五十年」林 芳信

 約4ページの小論文であるが、参考になる。
 1)はじめに
 2)土肥慶蔵、北里柴三郎の両氏を記載するもの
 3)北里柴三郎出席の記載なきもの
 4)高木友枝市の会議参列および当時北里博士在日本の裏付け論文
 5)北里博士の出席を思わせる光田健輔先生の講演記録
 6)むすび

 とあり、むすびには、 以上あげた各種の文献によると第1回国際らい会議に出席された日本代表は土肥慶蔵、高木友枝氏の両氏と判断される。そして北里柴三郎氏は第1回会議には論文を寄せられ、明治42年の第2会会議には出席されている。

 追加:間違いの根本までさかのぼられている。5、によると”またらい会議に論文をよせられた北里博士が列席して討議に預かられた。土肥博士は勿論、山根警察医長も仏国衛生博覧会に列席せられた日本がらい病の一等国であるこをを痛切に感じられて、皆筆に口に予防法の必要なことを陳べられた、云々とあり(中略)
 何らかの間違いで北里博士、の「、」が「が」となり、列席して討議に預かられたの「、」が入ったものと思われる。

 Ichiroコメント:第2回と第3回は写真があるが、第1回も写真があったら、もっとはっきりするが.....
 

Re: ハンナ・リデルさんの写真(Ichiroさんへ)

 投稿者:Ichiro  投稿日:2009年 8月19日(水)07時09分7秒
返信・引用
  > No.4491[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

> なかなか鮮明なのが有りません。私が「ハンセン病のリンク集」で使っているのは「ハンセン病資料館」(以前藤楓協会のHP?から頂戴しました)というパンフレットに有るものです。他に2点見付けましたが・・・私はアップする方法を知りませんので、ウィキペディアの「ノート」かなにかで相談なさってください・・・。
>
> 最初のが上にご紹介した写真です。

有難うございます。小生も知りませんが勉強します。リデル・ライト両女史記念館にいって原図など相談してみます。

 Ichiro
 
    (リベル) Ichiroさん、こんにちは。

>リデル・ライト両女史記念館にいって原図など相談してみます。

そうなさると良いと思います。なお「資料館」にお尋ねになってみられたら如何でしょう。成田館長をご存知だったら良い写真が出るかもしれませんね・・・。(8.19 10:56)
 

暑いスポットでの厚い地層に纏わる熱い論争

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月19日(水)04時05分41秒
返信・引用  編集済
  西オーストラリアにノースポールという土地があります。ここは涼しい季節でも日中は40℃、熱い季節には55℃にも達するのでここで作業する人達が自暴自棄になって「北極=north pole」と名付けたそうです。ここは実は考古学者にとっては最古の生命の化石の産地として有名なのです。日本も東京工大、山口、香川、東京、名古屋各大学からチームを編成して七年間にわたる地質調査・発掘作業をやり持ち帰った岩石の資料だけでも何と20トンになったとやら。

何をそんなに懸命になったのか?これは実は考古学上最大の問題の一つである「地球最古の生命(約35億年前)の実体は何か」に関する従来の定説を覆すという大変な目的のためだったのです。

これまでは「最古の生命体」は、この同じ土地(「チャート」という硬い堆積岩)から発掘された「ストラトマイト」と言う「光合成生物」であり、それは従って浅い海に生きていた生命体だとされていました。そこに一石を投じたのが1983年カリフォルニア大のオーラミックらが発見した「フィラメント状バクテリア」(下の写真、10ミクロンは0.01ミリなので全体で0.1ミリという小ささです)だったのです。下の2ページはまさにその山場ですが、お察しの通り我が日本チームはその「チャート層」の徹底究明を行いました。

そして結論を急げば、厚さ50メートルのチャート層の下に厚さ800メートルの枕状溶岩があり、その中を貫いて熱水を吹き上げる噴出孔が有ることが分かりました。最古の生命は「浅い海」の「ストラトマイト」ではなく「海底の熱水噴出孔」で生きていた「バクテリア」であったことが判明したのです。日本チームが長年世界の考古学界を支配していた「定説」を覆したのです。

如何ですか、これは「生命と地球の歴史」という岩波新書の一部ですが、35億年前という舞台の壮大さと、現在の考古学界の命がけの真理追究の大ドラマ・・・まるで感動巨編映画を観ているような興奮に陥ってしまいました。


「乗りかかった船」だなんてぼやいてましたが走り始めると目まぐるしく変わる景色の新鮮さに感動・興奮の連続で、もう止められません・・・ワーイ \(^o^)/…

付記:この壁紙は苦心の自作ですが、正体はお分かり頂けるでしょうか。ネタは「8月5日(水)04時28分2秒」にあります・・・?


35億年前の生命体の化石と「生命と地球の歴史」の一部です
 

ハンナ・リデルさんの写真(Ichiroさんへ)

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月19日(水)02時26分47秒
返信・引用  編集済
  なかなか鮮明なのが有りません。私が「ハンセン病のリンク集」で使っているのは「ハンセン病資料館」(以前藤楓協会のHP?から頂戴しました)というパンフレットに有るものです。他に2点見付けましたが・・・私はアップする方法を知りませんので、ウィキペディアの「ノート」かなにかで相談なさってください・・・。

最初のが上にご紹介した写真です。
 

Wikipediaハンナ・リデルを立ち上げた

 投稿者:Ichiro  投稿日:2009年 8月18日(火)23時59分35秒
返信・引用
  Wikipediaはご存じの通り、皆さんで作り上げる百科事典ですが、一人で作るものではありません。しかし、最初に立ち上げることが必要です。立ち上げてみても、各種検索機能には採用されませんので(採用されているのかどうか、よくわからないが、最初には出てこない)そのまま放置ということになります。
 それで、皆さんにお願いですが、いろいろ書き込みなどしてほしいのです。

 そのページの出し方ですが、Wikipediaのどれでもいいのですが、左の方に検索のボックスがあり、そこにハンナ・リデルと入力すると出ます。

 宜しくお願いします。

 Ichiro
 
    (リベル) Ichiroさんこんばんは。

拝見しました。皆さんこちらです。お気に入りに登録して頂ければ・・・。

8月15日から殆どIchiroさんお一人で取り組んで居られます。良いページになりそうですね。そうそうリデルさんの写真はどこに良いのが有るのでしょう。少し探してみます。(8.19 02:05)
 

「ギャグ」って何なのだろう?

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月18日(火)17時53分10秒
返信・引用  編集済
  今世界横断中の間寛平さんがアメリカで祝福に集まった人々の前で「アメマー」とやって唱和して貰っていました。私はこのシーンを見て恥ずかしさで背筋が寒くなりました。

これはいけません。そもそも「ギャグ」って何なのか?大辞林では・・・

観客を笑わせるために筋と関係なく挿入される即興風な台詞や動作。 「−をとばす」

広辞苑では・・・

@演劇・映画などで、本筋の間に挟んで客を笑わせる場当たりの文句やしぐさ。いれぜりふ。A広く、受けことば・冗談。

新明解では・・・

〔映画・演劇などで〕見物人を笑わせるためにやってみせる、本筋とは関係の無いしぐさやせりふ。

となっています。ということは本来「即興風」や「場当たり」の台詞や仕草であるはずです。持ちネタとして頻発するのは「ギャグ」ではなく「パフォーマンス」とでも言うべきだと思います。少なくとも私はかなり昔からこの「ギャグ」という言葉の使われ方に腑に落ちないものを感じていました。間違った使われ方が始まっていると。広辞苑のAが僅かにそれを感じ取った語釈なのではないでしょうか。

竹下登元首相の孫の「DAIGO」さんがこれまた「ウィッシュ」とやらいう訳の分からない言葉を発します。「アメマー」との共通点は本人は観客に受けていると思い込んでいるのだけれど、実は全くそうではない点です。

最近の芸能界ではこういうのを「ギャグ」と一纏めにして言っていますがこれはいけないのではないでしょうか。小島よしおさんが褌一丁で「オッパッピー」とかやりますが、これも違います、「ギャグ」ではない「パフォーマンス」でしょう。

それらの存在を否定しようと言うのではないのです、観客の笑いを取るための懸命の努力なのですから。ただ少なくとも「ギャグ」と表現するのはやめて欲しい、これまで即席で素晴らしい「ギャグ」を飛ばしてきた優れた人達に対して失礼です。

でもここで私がいくら叫んでも、この風潮というか、間違った使い方はいつまでも無くならないことでしょうね、「そんなの関係ねー」とばかりに・・・。年寄りは嘆きつつ死を待っていれば良いんだよ???  そうかなあ・・・?

ときたま場違いな「親父ギャグ」を呟いて誰も分かってくれなくて、止せばよいのに「今ギャグを言ったつもりなんだけど・・・」と言って場を白けさせる爺さんも、しかしまあ早めに退場するべきなのでしょうね・・・(^^)


初代林家三平さん
 

Re: 靖国神社参拝ってなんですか?

 投稿者:Ichiro  投稿日:2009年 8月16日(日)08時30分14秒
返信・引用  編集済
  > No.4487[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

 今年はアンマリ問題になってないな、と思ったら、外圧がありませんねぇ
 日本はつくづく外圧によわいなぁ と思います。外国も くたびれたか、国内問題にかかりっきりか
 一度だけ お参りしました。なに博物館に興味がありました。ゼロセンがありました。
 鹿児島にいき、知覧をみて、また、ハンセン病学会のついでに、鹿屋の自衛隊博物館にいきました。すぐ思ったのは海軍と陸軍は仲悪かったのだなあと。鹿屋では知覧は無視、知覧では鹿屋は無視。全くヘンな国です。

 Ichiro

 ●蛇足:兵隊さんって知りませんねぇ 鹿屋や海軍だから、航空母艦からでる飛行機の最低滑走路の距離を聞いたのですが、上官を探していました。なに、宮古島の城辺(ぐすくべ)で、ゼロ戦が落ちて300メーターの滑走路を作って飛ばし、その人が戦後日本航空に入社して、記念碑を作っていました。航空母艦は動きますから、風に来る方に向かうんだそうです。何メートルか忘れましたが、300メートル位かな。
 
    (リベル) Ichiroさん、こんばんは。

私は軍隊経験が有りませんので余り実感はないのですが、聞くところによると陸・海・空各軍というのはこちらから見れば同じ兵隊さんなんだけどお互い同士は結構仲が悪いようですね。アメリカ映画などでも反目のひどさが窺えますがまあ、いずれにしろ仲良く国を守って頂きたいものです。攻めるのは止しにして・・・(^^)(8.17 01:54)
 

靖国神社参拝ってなんですか?

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月15日(土)18時04分28秒
返信・引用  編集済
  境内が気持ち良いので古本屋街を回った序でによく伺いましたがまあ言わば「お宮さん」の一つでしょう。戦没者の霊が祀られているからどうのとか、結局私なんぞ良く分からない侭で「なにを言ってんだか」と思い続けて来ました。麻生さんが参拝をしない、現閣僚では野田さんだけだとかなにかどうでも良い報道が流れて来ます。亡くなられた身近な方がいらっしゃれば参拝は当然でしょう。何か「遺族会」の票とか政治がらみの訳の分からないことが話を歪めています。

仕方がないことなのでしょうけど画面や情報を押しつけられる我々は堪ったものではありません。いい加減マスコミも節度を考える時期に来ているのではないでしょうか。

勿論中国や韓国の異論を押し切って参拝を強行した小泉さんなどには、「なにしてんねん」と言いたくなります。個人の信念は曲げてはいけません、でも、それが国益に影響しかねない場合「チョット待てよ」と言うのが「大きな人間」の考え方でしょう。

「小さな人間」がネットの片隅で喚き立てたからと言ってどうなるものでも無いでしょうけど・・・。


良いじゃないですか、お詣りしようがしまいが・・・ね・・・?
 

Re: 酒井法子さんの場合

 投稿者:あずき  投稿日:2009年 8月 9日(日)17時07分17秒
返信・引用  編集済
  > No.4485[元記事へ]

彼女のテレビドラマ「星の金貨」を熱心に追いかけて観ていました。「竹野内豊」のファンだったということもありまして。。。10年以上前のことですね。

>男の卑屈さ・汚さがなんとも腹立たしくて

わたくしも同じ思いです。俗な言い方をすれば2人は「できちゃった婚」でしたね。そこから彼女は何かが見えなくなっていたように思います。あるいは「心を尽くして暮してゆけば、幸せになれる。」ということを信じたのかしら?とも思いますが、ダメなおのこは「心を尽くして」も所詮ダメなのです。土壇場に立たされた時、咄嗟の行動は人間の本質ですから。

* 長崎忌の式典の麻生総理の挨拶のお粗末さ、しかも居眠りまでして。
 
    (リベル) あずきさん、こんばんは。

夕べは子供や孫が現れて、チョット過ごしたので寝坊してしまいました・・・^^

>土壇場に立たされた時、咄嗟の行動は人間の本質ですから

極限状態でその人の本性が顕われるって言いますよね、その通りだと思います。

幸い麻生首相の醜態は視ずに済みましたがそうだったのですか、どうにもいけませんね、あの方は・・・(>_<)(8.10 02:56)
 

酒井法子さんの場合

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月 9日(日)02時21分34秒
返信・引用  編集済
  酒井法子容疑者と言わなければいけないのかな。ケシカランのは夫の高相某だと思うのです。明け方街で不審尋問を受けて「妻は有名人だ」と言って逃れようとしたところから、この野郎と思っては居ました。結局酒井さんが泣き崩れたのは夫が酒井さんを利用して、自分を守ることしか考えていないと気付いた時なのではないでしょうか。

私は善い人ぶるわけでもなく、ドラマの見過ぎでもないのですがしかし思います。こういう場合はたとえ妻も怪しいと思っていても或いは知っていても、一切口を噤んで墓場までって言うか刑務所まで持って行くのが「男ってもん」だろうと思うのです。もし本当に愛しているのならです。それが大体酒井さんを呼びつけることからして不思議です。何とかして逃れたいという一念だったのではないか、利用できる者は誰でも利用してしまえ、そんな気持ちが見えて愛情のカケラもないと知ったとき酒井さんは怒りと絶望で泣き崩れたのだと思います。

酒井さんが誤認逮捕かどうか分りませんしそれはどっちでもよいのです、男の卑屈さ・汚さがなんとも腹立たしくて、黙っては居られなくて・・・。


幸せでありたかったろうに・・・頑張って・・・
 

「原爆症認定集団訴訟」確認書に署名

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月 7日(金)01時22分31秒
返信・引用  編集済
  ハンセン病の「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」は1998年7月31日に、星塚敬愛園・菊池恵楓園の入所者13名を原告として提訴されました。そして3年後の2001年5月11日に熊本地裁で勝訴の判決を勝ち取ります。古賀克重弁護士のサイトの1998年3月7日のこの一行は、私に忘れることの出来ない一撃を喰わせて呉れました。

「初めて療養所を訪問。後に原告となる女性の証言に圧倒される。帰りの船の中で、徳田、八尋、武藤弁護士と「訴訟を起こそう!」と、話になる。」

この戦いは三年間で決着を得たのですが、今回の原爆訴訟はもっと非道かった。公僕というのは困っている国民のためにお金を「使う」方法を考える優秀な人材の筈です。それが「使わない」ために脳味噌を絞るのだから堪りません、遂に六年余かかってしまいました。これは意地悪な私の感想ですが、麻生さんが「現在の状況」だからなされた対応ではないでしょうか。選挙前の人気取りが目的だろうと言っているのです。「原告の方々が高齢になっていること」を署名後の会談で第一の理由に挙げています。こういうのを「語るに落ちた」というのでしょう、皆さんの余命が少なくなったので国庫の支出負担額も少なくて済む、という本音がポロリです。怒りを通り越してポカンと口を開けっ放し・・・(^O^)

手前味噌になりますが、弁護士をやっている私の次女は、「ハンセン病訴訟」の後「原爆訴訟」に携わり、オーバーでなく殆ど不眠不休で東奔西走しておりました。他に「中国残留孤児」の訴訟でも頑張っています。私も負けては居られない、老骨に鞭打って「人類進化年表」の「宇宙篇」に取り掛からなければ、オイオイ未だ中途半端なやり残しが有るだろう!オットそうでした、それも仕上げておかないと・・・。

今日バスの中で中学生の男の子に席を譲られて思わずその子の目を凝視してしまうほど驚きました。「そんなに老けて見えますか」という言葉は呑み込んで、「あ、次で降りるので・・。本当に有り難う・・・。」いや本人は若い気でいるんだろうけど何てったってもう74.5歳だもんなあ、もう隠しようがないですよね・・・(^^;)

二日晴れたと思ったら又雨です。実質的には「夏」が来ないまま「立秋」に入るではないですか・・・ったくもう・・・゛(`ヘ´#) 怒…


こんな夏が欲しいのですが・・・良く見ると大文字が・・・
 

椛島知事さんが踊りの輪に

 投稿者:Ichiro  投稿日:2009年 8月 6日(木)07時45分44秒
返信・引用  編集済
  昨日、菊池恵楓園で盆踊りがあり、椛島県知事さんが恵楓音頭の踊りに加わりました。親しみを感じるいいことであります。

 一番新しいらい予防法は、療養所の中では厚生省、入所前、入所後、また留守宅は県が担当で仕事をしていましたので、らい予防法が廃止になった時に、県知事がお詫びの行脚にでかけました。宮古南静園では、たしかその時に県知事の訪問がありました。他はありません。

 東京都青島知事は辞める直前に訪問されました。なんだかセレモニー的ですね。石原知事はこられたことがあるかな。

 情報がわかったら教えてください。

 Ichiro

  ●恵楓音頭:入所者が作った音頭で65番ある。始まったら30分もつづく。音頭の内容は昭和初期から戦後にいたる入所者の所感も入る音頭で、踊り方は3種類ある。恵楓園の盆踊りのクライマックスで踊られる。現在では主に職員、近隣の方々が踊るが、車いすにのった入所者も参加される。音頭は菊池恵楓園の自治会のHPに載っている。

http://keifuenjichikai.blog17.fc2.com/blog-category-13.html
 

Re: 「人類進化年表」スタート!

 投稿者:Ichiro  投稿日:2009年 8月 5日(水)14時05分41秒
返信・引用
  > No.4481[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

  すごいですねぇ。400万年前でなく、700万年前ですか。
 話は変わりますが、ドレスデンの衛生博物館の売店にはボノボがキスをしている絵ハガキがありました。ええと人類の定義は何でしょう。

 Ichiro
 
    (リベル) Ichiroさん、こんにちは。

700万年も「現在のところ」ということらしく、化石の発掘技術(GPS他)や年代測定の精度の向上やらで、明日にでも歴史は書き換えられる可能性が有るようです。

「人類」の定義は極めて明確です。チンパンジーと違って「直立二足歩行」と「犬歯の縮小」が見られることです。私も目下勉強中なのですが、目標は中学生がつい読んでしまうような分かり易くアトラクティヴな表現に整えて行くことなのです。これが結構大変で、と言うのも自分が100%理解しないと「噛み砕く」ことが出来ないんですよね・・・自分の尻に鞭を入れなければ・・・(^^;)(8.5 17:10)
 

「人類進化年表」スタート!

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月 5日(水)04時28分2秒
返信・引用  編集済
  遂に思い切って着手しました。7月30日に「こんなもの」と紹介した「人類進化年表」が留まるところを知らず、地質年代を遡って地球の誕生からやっていたら、どうしても宇宙の誕生即ち137億年前の「ビッグバン」へ遡らざるを得なくなってしまいました。何と申しますか「乗りかかった船」とでも・・・。

「地球の歴史」は未だ消化不良の部分がありますので(なんてったって数時間しかかけていませんから、未だ)、注を付けて中学生でも興味深く読めるように、これから加工していきます。

「発掘化石集」はあちらの「ウィキペディア」のコピーです。これの日本語版は未だ出来ていません。良く比べるとこの分野での日本の教育行為(行為ですね、もう)・啓蒙活動が著しく停滞していることが分って、本当に腹が立ってきます。一肌脱ぎたくもなるって心境です・・・勿論及ばずながらヨチヨチトですが、こうなりゃやってやろうじゃねえか・・・ナ・ン・テ・・・(^^;)


これが現在では最も古い人類の化石です。「サヘラントロプス・チャデンシス」700万年前のものです。
 

光田健輔と文化勲章

 投稿者:Ichiro  投稿日:2009年 8月 3日(月)18時18分9秒
返信・引用  編集済
  らいと梅干と憲兵 野島泰治 昭和46年という本に光田健輔と文化勲章推薦の話が載っていました。

 ●257頁 ナイショばなし
 >昭和18年の秋のある日の午後であった。厚生省がまだ港区の白金台町の公衆衛生院の建物を借りていた時代である。全国ライ療養所所長会議が東京で開催された翌日、私が当時ライの主務課で会った厚生省の医務課にゆくと、秘書課長がぜひ私に会いたいという。「実は今度光田反応にたいして、光田先生に文化勲章を奏請しようと思うのだが、あなたの光田反応にたしする遠慮のない意見を聞かせてほしい」ということであった。
 光田反応にたいして文化勲章を奏請されることには反対である。光田氏反応は光田先生の輝かしい数多くのライ業績中のほんのわずかの一点である。(中略)私は先人未到のライ病理の解明をされたことこそ文化勲章に値するものと考える。

  >昭和26年11月3日光田先生は授与の光栄に浴されたことは誰知らぬものはあるまい。その主なご功績は光田氏反応でなかったことも勿論であるが、別に私の供述が関係があったわけではないことも勿論である。

 ●野島先生は昭和24年末光田先生の末女久子さん(女医)が敬愛園長大西基四夫氏を結婚された時に仲人であった。
 
    (リベル) Ichiroさんこんばんは。

私は光田健輔については良く知りません。学問的な業績に於いては立派なものが有ったのかも知れません。しかし私は「三園長証言」で光田という名を初めて知りました。以後彼を大嫌いになりました。「人を嫌う」ということは、良くないことだと思うのですがこの年になると一旦染み付いた嫌悪感はもう拭う術がありません、困ったことですが・・・。(8.4 03:25)
 

リルケ

 投稿者:あずき  投稿日:2009年 8月 3日(月)10時27分51秒
返信・引用  編集済
  おはようございます。
リベルさんが「卒倒?」なさったとおっしゃる部分はもしやここ↓のことですか?

http://www.haizara.net/~shimirin/blog/akiko/blosxom.cgi/book/20090720230857.htm

リルケの「マルテの手記」に書かれていることは、フロベエルが「修道僧サン・ジュリアン」について書いたことのようです。「ガスパラ・スタンパ」という女性詩人について検索なさった時、偶然わたくしの書いた拙いリルケのお話にぶつかった、ということですね?検索おそるべし(^^)。
 
    (リベル) あずきさんごめんなさい、返事が遅くなってしまいました。

いや違うのです。お書きになっていることの内容に卒倒したのではないのです。「人名歴史年表」に「リルケ」を入れていなかったことに気付いて、それから「達磨」も入れていなかったので、余りのいい加減さに自己嫌悪の余り卒倒した、というお粗末でした・・・(^^;)(8.4 03:14)
 

Re:Re:卒倒三題 Ichiroさんへ

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月 3日(月)01時55分10秒
返信・引用  編集済
  卒倒といえばもう一つ。昨日新聞を読んでいて「だるま」と言う言葉が目に飛び込んできました。職業意識に似た感覚でハテこれは「人名歴史年表」に入っていただろうかと、いやどうも入れていない気がするとチェックしたらやはりそうでした、入っていません。もうそれこそ卒倒しそうになりました。そして本当に遂に卒倒したのは「達磨」さんはインド人だと知ったときです。

いや、勿論ウィキペディアだけでは信用しません。5種類の人名辞典で調べました。何と国語辞典にもチャント書いてありました。知らぬは亭主ばかりなり」おっと違いましたね(笑)。私の常識の欠如以外の何ものでもありません。皆さんはご存じだったのでしょうね・・・いや参りました、卒倒してしまいました・・・(^^;)


「人名歴史年表」は人名辞典ではないので網羅性を重視していません。高校の歴史教科書は11社から出ている、つまり例えば「世界史B」の教科書は11冊あるのですが、それが全部取り上げていることを必須条件として作り始めました。今調べたらやはり1冊にしか「達磨」さんは出ていませんでした。


実は先程もう一度卒倒していたのです。ご存知あずきさんが「ふくろう日記」でよくお取り上げになっている「リルケ」の話題に登場するイタリアの詩人「ガスパラ・スタンパ」を調べていました。そこで気が付いたのがハテ「リルケ」はどうだったのだろう???なんと、これも書いていなかったのです。またまた卒倒してしまいました。

作成の際原本にしたのは2004年刊の「世界史B用語集」で、もうセロテープやセメダインで補修しまくって、手垢まみれで表紙が擦り切れたものです。これには「リルケ」さんは全く出ていないのです。明日2009年版を買ってきます。書店にあるのは知っていたのですが、ネグって居ました。なあに卒倒しても転倒しても七転び八起き達磨さんに負けては居られませんから・・・(>_<)


達磨さんとリルケとガスパラ・スタンパ(1523-1554年)
 

Re: 卒倒三題

 投稿者:Ichiro  投稿日:2009年 8月 2日(日)17時32分48秒
返信・引用
  > No.4476[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

  素晴らしい観察ありがとうございました。

 卒倒とは、小生はあまり使いません。老健に長くいますと、転倒といいますが、意味が違いますね。
 Fagetは病気(心の病気かどうか不明)になって、転倒して死亡されたようです。
 また、いろいろな人の話でも 転倒でなくなる人の話を聞きます。
 ちょっと変な感想でごめんなさい。
 Ichiro
 

卒倒三題

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 8月 2日(日)00時47分50秒
返信・引用  編集済
  1)朝日新聞の1日の夕刊に「規矩ある生と出会う」と題する久木綾子さんのインタビューが出ていました。89歳で「見残しの塔 周防国五重塔縁起」を書いて作家デビューなさったという。若いときから小説を書いていたのが「穏やかで波風を立てない夫が唯一口にした不平めいたことです。聞いてあげなくちゃ、と思いました。」と中止なさって以来45年間書かず、ご主人が亡くなられた後、70歳で瑠璃光寺の五重塔を見て「あの世が透き通って見えた」ので取材14年、執筆4年、書き上げられたという、その間建築を知るため1年間大工の棟梁に弟子入りしたとも。このお話には恐れ入りましたし又元気づけられましたが、卒倒はしませんでした。

卒倒しそうになったのは高校生の頃でしょうか幸田露伴の「五重塔」を読んだときです、以後宮大工という仕事を特別な目で見ています、憧れの目で。規矩というのは「コンパス」と「ものさし」のことだそうです。論語で「七十にして心の欲するところに従いて 矩を越えず」の「矩」です。「規矩準縄」の「準」は「水盛り=細長い角材の上に溝を掘って水を入れ,傾斜の度を測る(大辞林)。今風に言えば水準器でしょう」、「縄」は「墨縄=木・石の表面に直線を引く道具。一方に墨つぼ、一方に墨糸を巻いた車を置き、引き出した糸の先にある小さな錐を何かの一端に固定させ、糸をぴんと張ってはじくようにすると、直線が引ける(新明解)」。コンサイスカタカナ語辞典が面白いです。

[出典] 〈孟子・離婁(りろう)上〉

手本。標準。法則。「規」はコンパス。「矩」は曲尺(かねじゃく)、直角に曲がった物差し。「準」は水盛り・水準器。「縄」は墨縄(すみなわ)、直線を引く道具。

[原文] 「聖人既(すで)に目の力を竭(つく)し、之(これ)に継(つ)ぐに規矩準縄を以(もっ)てし、以て方員(ほうえん)平直を為(つく)る〔上古の聖人は自分の目の力を十分に用い尽くした上で、さらに規・矩・準・縄を工夫して用いたので、正方形・円形・平面・直線を作ることができたのである〕」なるほどフムフムですね・・・折角だから「円形・正方形」の順にして欲しかった・・・(^^)


2)大工さんで思い出しましたが「大矩(おおがね)」と言うのが有ります。これを知ったときも卒倒しそうになりました。例えば30センチ、40センチ、50センチの長さの三枚の板を釘で留めて三角形を作ると「直角」が出来る、というのです。これは何を隠そうあの「ピタゴラスの定理」の現場発想版なのですね、3の2乗+4の2乗=5の2乗です。恐れ入りました。


3)私は大体一ヶ月に一回床屋へ行きます。ただ家を出るときは決めて居らずその日の天候や気分次第でヒョイと飛び込むのです。歩きに出る前に必ず歯を磨いて髭を剃ります。従って当然髭の剃りたて状態で床屋へ入ることになります。大型の床屋なのでその度に人は変わるのですが大抵変な顔をされます。一昨日は相当なお年の床屋さんでした。私の右頬に剃り傷が有るのに気付いて、「あ、傷が有りますね」と仰有るので「あ、私は家を出てから床屋さんへ行くか行かないかを決めるので、いつも髭は剃って・・・」と説明をし始めると、言葉を遮って「フフン」と鼻で笑いました、と後で感じました。後で感じたというのは変な言い方ですが、何か腑に落ちないものが残る遣り取りだったので心の片隅に残っていたのですが、夜になってからフト或ることに気付いて「あっ」と卒倒しそうになりました。

わざと傷を付けておいてから床屋へ行って、剃って貰いながら「あ痛てっ!」とか言って治療費を寄こせと難癖を付ける手合いが居ます。あのお年寄りはそれを防止するために私の傷を予め指摘しておいたのです、その手は食わないよ、と。私が感じた不自然さはそれだったのです。つまり甚だしい名誉毀損ですよねこれって・・・。珍しく腹が立ちました、心底。


大矩と墨縄と水盛り(原理図)
 

こんにちは

 投稿者:あずき  投稿日:2009年 7月31日(金)14時24分11秒
返信・引用
  >こんなものを作りながら消夏しています

人名辞典から、人類の初めまで遡ろうという試みですね。膨大な計画ですね♪
某所でも書きましたが、胎児時代から、生まれて二足歩行に至るまでの期間は、まさにそのうん万年の歴史を一気に幼児は通過するのですね。「あんよ」が始まった我が孫をみていますと、それを実感します。
 
    (リベル) >人名辞典から、人類の初めまで遡ろうという試みですね。

有り難う御座います・・・が反面厄介なことに手を染めたかなという不安もあるのです。というのは私の性格が性格ですから46億年前の「地球の誕生」、いや137億年前の「ビッグバン」にまで遡りたくなってしまって。

Newtonムックの「地球と生命」なども買って読んで壮大な宇宙の運行と歴史に圧倒されて、改めて己の小ささを知りそれが逆にパスカルの「葦」を思い出させて、意外に奮起したりしています・・・もう大変・・・(^^)

そうなんですね人間の赤ちゃんはその壮大な歴史を一気に駆け抜けてしまうのですね。人間は逞しい、そして頼もしいですね・・・ワーイ \(^o^)/…(8.1 04:57)
 

サチ・パーカー

 投稿者:あずき  投稿日:2009年 7月30日(木)21時45分33秒
返信・引用  編集済
  http://nishimajo.com/h_index.html#top

なんと。この日本映画「西の魔女が死んだ」に出演していました。
この映画は観ませんでしたが、原作は読みました。ステキなお話です。

http://www.haizara.net/~shimirin/blog/akiko/blosxom.cgi/book/20060818140702.htm

なんどもお邪魔いたしました。適当に読みとばしてください。すみませぬ。
 
    (リベル) あずきさん、こんばんは。

シャーリー・マクレーンが親日家で、同じく親日家で「青い目の蝶々さん」をプロデュースしたスティーヴ・パーカー氏との間に生まれたSachiko・Parkerさんが「西の魔女が死んだ」でおばあさん役をしていたのですね。

その原作の話を3年前の丁度今頃「ふくろう日記」に書いておられた・・・奇縁と申さば正しく奇縁ですね・・・。

今年の夏は涼しくて雨上がりの真夜中には長袖を羽織ったりします。ボツボツ秋の気配か・・・と思ったら未だ梅雨が明けていないのですね。こんなものを作りながら消夏しています・・・(^^;)(7.31 03:19)
 

Re: 風邪気味のジャック・レモン

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 7月30日(木)17時28分18秒
返信・引用  編集済
  > No.4472[元記事へ]

> 数日前、おばあちゃん役のシャーリー・マクレーンを録画で観ましたが、一緒に観た娘は「サチ・パーカーのお母さん」と言い、わたくしは「ウォーレン・ベイティのおねえさん」と言いました。お互いに知らない俳優でした。時代はめぐる。。。

本当に時代はめぐりますね・・・。そうなんです、私の意識にあるシャーリー・マクレーンは中年女性かそれ以上なのです。彼女の実年齢は私より一つ上なのだし・・・。何歳の時か分かりませんがこんな写真を見付けました。


年を取っていますが、魅力満点ですね・・・。
 

Re: 風邪気味のジャック・レモン

 投稿者:あずき  投稿日:2009年 7月30日(木)15時29分39秒
返信・引用  編集済
  > No.4471[元記事へ]

> 「そうかビリー・ワイルダーの芸の細かさだな、鼻に掛けたのを花にも掛けたか・・・」と呟いて・・・「馬鹿だなあ俺は、向こうは英語じゃないか」と自嘲して、待てよ・・・「nose」に掛けたから「rose」にも掛けたんじゃないか・・・良いんだよそれで・・・と、どこまでもあ他愛のないお話でした・・・(^^;)

こういうお話になると、すぐに現われるあずきです(^^)。
媚薬=love drug  点鼻薬=nose drop(勿論こじつけですが、似ています。)

数日前、おばあちゃん役のシャーリー・マクレーンを録画で観ましたが、一緒に観た娘は「サチ・パーカーのお母さん」と言い、わたくしは「ウォーレン・ベイティのおねえさん」と言いました。お互いに知らない俳優でした。時代はめぐる。。。

新装開店のお祝いに。
 

風邪気味のジャック・レモン

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 7月30日(木)05時25分57秒
返信・引用  編集済
  三谷幸喜さんが朝日新聞のエッセイで「36時間」や「アパートの鍵貸します」を無茶苦茶に褒めるので「ツタヤ」でDVDを借りて「アパートの鍵貸します」を見ました。エレベーターガールのシャーリー・マクレーンに貰ったバラの花を背広のボタン穴に差して、風邪気味のジャック・レモンは鼻薬を差します。両方の鼻孔に差して、胸のバラにもシュッと掛けました。

「そうかビリー・ワイルダーの芸の細かさだな、鼻に掛けたのを花にも掛けたか・・・」と呟いて・・・「馬鹿だなあ俺は、向こうは英語じゃないか」と自嘲して、待てよ・・・「nose」に掛けたから「rose」にも掛けたんじゃないか・・・良いんだよそれで・・・と、どこまでもあ他愛のないお話でした・・・(^^;)

それにしても何十年も前に一度見てよく知っている積もりで居た「アパートの鍵貸します」、本当に面白かった・・・ウーム。シャーリー・マクレーンがあんなに可愛いとは知りませんでした、と言うか忘れていました。感激の余りと言うか、余勢を駆ってと言うか思い切った模様替えをやりましたが、相変わりませずどうぞよろしくお願い申し上げます・・・_(_^_)_


鼻薬とジャック・レモンとシャーリー・マクレーン
 

人生の嵐

 投稿者:エリカ  投稿日:2009年 7月29日(水)13時14分5秒
返信・引用
  北帰行の歌が載ってましたが、わたしも好きです。
わたしは懐メロが好きなんですね。オバンくさいのですが。両親がよく懐メロの番組みてたので、子供ながら聞いてました。

>社会生活で何度も叩き潰されて、激痛を味わってきたからです。だから人様を傷つけることはするまい言うまい
と記されていましたが。

懐メロでよく歌われる歌で、「ここに幸あれ」という歌があります。

嵐も吹けば雨も降る。
女の道よ なぜ険し
君を頼りに 私は生きる
ここに幸あれ 青い空♪

険しいのは男の道も同じだと思いますが。誰かが
「人生は重い荷物をせおって長い道のりを歩むようなものだ」と誰かが言いました。徳川家康だったでしょうか?。

嵐もふけば雨もふる
わたしたちは人生の嵐の中に立たされることがありますよね。不安の嵐、絶望の嵐、怒りの嵐。この歌はそんな嵐の中を闘いぬいてきたような明るさと勝利感のようなものを感じます。
 
    (リベル) エリカさんこんにちは。

徳川家康でした、今調べました。「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し。いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし。こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基。いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知てまくる事をしらざれば害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり。」

>この歌はそんな嵐の中を闘いぬいてきたような明るさと勝利感のようなものを感じます。

ただ私の場合は「明るさと勝利感」とはほど遠く、人生ってそうなんだなあという感懐が有るのみなのです・・・(^^)(7.29 17:29)
 

Re: おもしろい♪

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 7月29日(水)01時33分58秒
返信・引用  編集済
  > No.4468[元記事へ]

> 画像が3枚はいるのですね。ちょっと実験させてくださいね。お邪魔虫(^^)。

ウーム・・・カ行の果実で攻めてきましたね・・・?

しからば「カイツブリ」の三連発と行きますか、こんな風におんぶすることを知りませんでした(真ん中のは2羽おんぶですね)。訝しんだ時はあったのです、何だろうと。最後のは近況です、雛は3羽と信じていたのにこれまた不思議なことです・・・^^


近況の拡大画像です・・・みんな元気元気・・・
 

おもしろい♪

 投稿者:あずき  投稿日:2009年 7月28日(火)21時28分53秒
返信・引用  編集済
  画像が3枚はいるのですね。ちょっと実験させてくださいね。お邪魔虫(^^)。  

藤本事件に通底する法務官僚の人権意識

 投稿者:北風  投稿日:2009年 7月27日(月)09時38分56秒
返信・引用
  昨日の朝日新聞の2面だったかで、「冤罪」を防ぐために取調べ過程をビデオで取るなどの「取調べの可視化」についての記事があった。
その中で、検察庁の公判部長とか言う人物が可視化に反対して、要旨次のようなことを言っている。(手元に掲載紙が無いので記憶で書いているが、昨日のことなのでそう間違いは無いだろう)

かつて、極刑に値するような重要事件の被疑者の取調べに当たった。
黙秘していた被疑者だが、取調官が自分の生い立ちを語るなど被疑者と親身に接した結果、被疑者も自分のことを語り始め、幼少のころ母親に捨てられたことで世をすね、それが犯罪の遠因だったようだった。
それで、母親はそのころ「重篤」な病気にかかり、それが知れると「村八分」にされかねないので、後ろ髪をひかれる思いで幼子を置いて家を出たことを教えた。
被疑者は泣き崩れて、その後自供に転じた。
調書には、被疑者の要望でそのことは触れず、裁判でも取り上げられることは無かった。

そういうことが可視化によって不可能になるので、可視化には反対ということであった。

病名は書いてないが、病気にかかった結果「村八分」を恐れて出奔しなければならないような病気は、ほかに無い。

その被疑者自体が「予防法」の犠牲者の一人といえなくも無い。法務官僚であれば「予防法」のもたらした「犯罪性」に自覚があってしかるべきだがまったくその気配は無いどころか、いたずらに興味本位の事例として挙げただけで、まったく不適切といわざるをえない。

取調べの手法としては、「飴と鞭」の「飴」に過ぎず、「大岡越前」以来の古典的手法でまさにその手法が、冤罪事件を作り出してきた自覚も無い。

また事実であれば、情状酌量の要件になるはずなのに、被疑者の「要望」を理由に(当然、その意味もわかっていよう)被疑者の有利な材料を握りつぶしている。

これらの問題をはらんだ発言が、発言者はともかく新聞記者も問題と感じず、紙面に現れている。

弁護団は黙視するのかな。
 
    (リベル) 北風さん、こんにちは。

昨日の朝日新聞読みました。それからこの投稿も「ハンセン病の闘いの歴史に学びともに考えるBBS」で拝読しましたよ。

記事の方は「取り調べの全面可視化」を捜査側から見た見解でしたね。検察側の言い分も誠にもっともだと思います、これは難しいところだと思っていました。実際に証拠採用する場合に問題の焦点に関係が無く当事者の利益を損なう恐れがある場合は、例の「ピー」を入れればよいと私は思っています。

北風さんの仰有ることは筋が通っていますね、こういう問題の捉え方は大切なのについ忘れがちです。反省しなければいけないですね。(7.27 11:58)
 

Re: 負けた者は北へ逃げる

 投稿者:Ichiro  投稿日:2009年 7月27日(月)03時05分5秒
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  > No.4465[元記事へ]

リベルさんへのお返事。

 沖縄における北南

 これは私独自の説であるが、宮古島にある島尻集落は宮古島の北にあり、その外は沖縄本島にせよ、沖縄本島の離島にせよ、島尻集落は皆島の南にある。島尻郡などである。反対は国頭郡である。ということで、沖縄本島への人々は日本内地の方からきており、宮古八重山方面は東南アジアから人々がきているという証拠であると、勝手に発表している。あまり信用しないで聞いてほしい。尻の方が頭の後であるからである。(笑)

 Ichiro
 
    (リベル) Ichiroさんこんばんは。

要するにこういう事でござんしょ。島には頭とお尻がある、そして宮古八重山方面はお尻が北にあり、沖縄本島などは逆である。それは日本から南下してきた人と東南アジアから北上してきた人とのものの考え方の違いから来ているのだ、と。それがIchiro説だと。

最近何かで見ましたが、現在日本人は東を除くすべての方角からやって来た民族の混合体であるとやら。国立科学博物館のサイトでも扱っています。面白いしかし結論が出ないテーマのようですね・・・(^^;)(7.27 4:13)
 

Re: 負けた者は北へ逃げる

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 7月27日(月)02時37分3秒
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  > No.4464[元記事へ]

> それで、思わず思い出した言葉は「南下」でした。
> 「北上」に対して「南下」があるわけですが、この場合は単純に「進む」や「移動」という意味のようですね。

あっ、気づきませんでした・・・〆(.. )メモメモ…
しからば東は「東征」と言う、はてでは西は「西征」って有っただろうか、張騫などはそうは言わないのかと辞書を引くと・・・いや「北征」も「南征」も有るのですね。がそれでは話が逸れてしまいます、何故「北下」、「南上」とは言わないのか?わずかに「新明解」が「「北進」 の意の漢語的表現」、「「南方へ進出・移動する」 意の漢語的表現」としていて、中国産の言葉らしいとのヒントは呉れるのですが・・・。「南船北馬」は関係ないし、黄河も揚子江も東西に流れているし、まさか地図で北が上だからでもないだろうし・・・と、これはしばらく時間を頂かないと、いや頂いてもダメかも・・・(^^;)追記:「北上 南下」で検索すると諸説が出てきます。「東上」、「西下」を忘れていたことも気付かせてくれました、が・・・ではでは・・・(^^;)


> 和歌のなぞなぞは解けませぬ。「蝉丸」の和歌かしら?とも思いましたが、それもどうやら違うようで、お手上げです。教えてくださいませ。お礼にどーぞ(^^)。

「空」と「蝉」と「さやけき山川」なのですがこれは凄いコジツケなのです。

うつせみは数なき身なり 山川のさやけき見つつ 道をたづねな

宇都世美波加受奈吉身奈利夜麻加波乃佐夜氣吉見都〃美知乎多豆祢奈 大安寺の大伴家持の歌碑


種明かしをしますと、最初は兎に角写真が複数枚アップできるという機能の実験でした。で、夏の風物を「クマゼミ」、「かき氷」、「砂浜」と並べた↓のですが、フト三題噺が出来ないか、「蝉氷」を使えば何か出来そうだと一時間以上あれこれやってダメで、では「空蝉」ならと大伴家持の爽やかな歌を見付けて逆に「さやけき山川」(そんな写真など有りませんよね)の写真をくっつけたという、大作(?)なのでした・・・お騒がせしてごめんなさい・・・_(_^_)_


昨日最初にアップした三枚・・・^^
 

Re: 負けた者は北へ逃げる

 投稿者:あずき  投稿日:2009年 7月27日(月)00時18分50秒
返信・引用
  > No.4459[元記事へ]

> 私と連れ合いも「エエッ、本当だ、なんで敗北って言うんだろう?」と考え込んでしまいましたが、勿論分かりませんでした。国語辞書はさすがに最近親切で、「広辞苑」も「大辞林」も「新明解」も「北は逃げる意味」と書いてくれています。

それで、思わず思い出した言葉は「南下」でした。
「北上」に対して「南下」があるわけですが、この場合は単純に「進む」や「移動」という意味のようですね。

和歌のなぞなぞは解けませぬ。「蝉丸」の和歌かしら?とも思いましたが、それもどうやら違うようで、お手上げです。教えてくださいませ。お礼にどーぞ(^^)。
 

全体主義

 投稿者:リベル  投稿日:2009年 7月26日(日)18時11分19秒
返信・引用  編集済
  「全体主義」って何か?中学生に分かるように説明できるかなあ、と思ったらできないですね、これが・・・。

今日耳で「たかじんのそこまで言って委員会」というのを聞きながら思いました。そもそもは勝谷誠彦という御仁が「20年後には日本は全体主義国家になる」と予言したことに端を発しました。その中で「クールな全体主義」と言う表現に金美齢さんが異を唱えました。「全体主義って大体クールなのかしら?」。それから「過去の日本に全体主義は一度もなかった」と言う発言に三宅久之氏が「そんなことはない」と怒鳴り始めました。

聞いていてそう言えば分かった気で居る「全体主義」って一体何だろう、説明をしろと言われると困ってしまうのですが、大辞林にはこう書いてあります・・・

「個人は全体を構成する部分であるとし,個人の一切の活動は,全体の成長・発展のために行われなければならないという思想または体制。国家・民族を優先し,個人の自由・権利は無視される。 → 個人主義」

だから三宅さんの言うとおり戦時中の「天皇陛下のため」、「お国のため」と言うのは「全体主義」以外の何ものでもないでしょう。勝谷氏は「そう言えば東條さんはカリスマ性が無かったですね」と言って胡麻化そうとしましたが、それは言い逃れでしょう。勝谷氏が三宅氏に頭が上がらないのは何故か分かりませんが、反権力を標榜するなら、たまには正面から議論せんかい、と言いたくなります、だらしない。「クール」については「敢えて反語的な形容をしましたが・・・」とまあ納得できる話をしていました。


そこで思ったのですが、今得られる新しい知識を元にして、昔を振り返ってあの時代は「どうであった、何主義であった」と定義することの愚かしさと、それを元にして未来について予言を試みることの馬鹿馬鹿しさです。こういうのを「歴史認識」という言葉で一括りにしてよいのかどうか分かりませんが、人類の歩んできた道を深刻に振り返ることなくテレビで喚ぎ立てる人達をもっと冷静な目で、見なければいけないなと痛感させられました。


「お母さん!」と叫んで死んだことは伏せられていて「天皇陛下万歳」と叫んでお亡くなりになりました、なんて「全体主義」以外の何だというのでしょう。帰りのバスの中で権力や武力によって大量に人間が殺された悲惨な歴史的事件を10挙げようとしましたが「アウシュビッツ」、「ヴェトナム戦争」、「アパルトヘイト」、「原爆」と指を折りながら今現在進行している北朝鮮やアフリカの難民や、餓死寸前の幼児の映像が浮かんできて・・・指なんか折るなと・・・思いました。マッタクです・・・。


原爆の図「火」より (部分)
 

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