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邦訳に見る「kustha」と「kilasa」

 投稿者:リベル  投稿日:2008年 7月 1日(火)00時26分54秒
返信・引用  編集済
  この二語を含む日本の文献は、植木雅俊訳「法華経」、辻直四郎訳「アタルヴァ・ヴェーダ讃歌」、大地原誠玄訳「スシュルタ本集」の三冊です(他にご存知の方がいらっしゃいましたら、是非お教え下さい)。これからそのそれぞれについて、「kuṣṭha」と「kilāsa」がどのように訳されているか、その相違点とそれが生じる理由を考えたいと思います。この話はとても長くなるので何回にも分けて書いていきます。退屈な話なので、興味のない方はどうか無視してください。

その前に、この二語を「梵和辞典」「梵英辞典」はどのように定義しているかを調べておきます。なのでこの文章は5部構成になる予定です。

1)梵語辞典では
2)「法華経」では
3)「アタルヴァ・ヴェーダ讃歌」では
4)「スシュルタ本集」では
5)結論


1)梵語辞典では・・・ここまで書いて気付きました。本になった「梵英辞典」というか「Sanskrit-English Dictionary」の定番があるはず、それを探しました。神戸の市立図書館にありました。Monier-Williamsという人のが一番良いようです。植木雅俊氏も「モニエルの辞典」と称してそれを使っておられます(上の「梵英辞典」にそのオンライン版があります)。今日行ってきます・・・。

続きはまたいずれ・・・(^_^)/~
 

余談:高校野球始まる

 投稿者:リベル  投稿日:2008年 7月 1日(火)00時05分13秒
返信・引用  編集済
  数日前から横に置いてある新聞を整理しようとして手が止まりました。思いがけない言葉を、ここにご披露したくてというか自分に叩き込むために、取ってあったのでした。兵庫大会の開幕式での川西緑台高校主将の選手宣誓です。

「野球が出来る環境にあることに感謝し、仲間を信じ、最後まであきらめることなく全力で戦い抜く」

出来過ぎているから、どうせ親御さんが口添えしたのだろうと思ってはいけない、素直に良いこと言うなあと感動します。健康面・経済面で野球がしたくても出来ない人も居る。近くは「岩手・宮城内陸地震」少し離れて「四川大地震」、さらに飢餓や戦火に虐げられている多くの民族、そういう人々のことをいつも意識の中に忘れずに保って生きて行くのはなかなか出来ないことだと思います。仲間を信じることも、最後まであきらめないことも、全力で戦い抜くこともいずれも大切なことですが・・・。
 

こんにちは。

 投稿者:あずき  投稿日:2008年 6月30日(月)12時23分37秒
返信・引用  編集済
  > 人間の価値とは何を禁じるかでは決まらない。何を否定し―拒み、排除するかでもありません。むしろ何を受入れるかで決まるのでは?何を創造し誰を歓迎するかで・・・

よい言葉ですね。ありがとうございました。
このことをわたくしにしっかりと教えてくれたのは、二人の子供だったと思います。

それから、「○ミリでも…」とおっしゃったのは、瀬戸内寂聴さんではなくて、もしかしたら画家の堀文子さんでは??

http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2007/0916/index.html
 
    (リベル) そうでした、有難うございました。あずきさんのサイトで教えて頂いたのです。いけませんねいい加減な記憶では・・・(^^)(6.30 12:33)

読み落としたわけではないのですが、気になっていました。二人のお子さんの子育てを通じて、拒絶や排除ではなく何をどう受入れるかが有効で大切であることを学ばれたのでしょう。良いお子様が巣立たれたことだと、羨ましく思います。今日の鳰たちです。(6.30 23:36)
 

余談:映画「CHOCOLAT」から

 投稿者:リベル  投稿日:2008年 6月30日(月)06時07分36秒
返信・引用  編集済
  「CHOCOLAT」という映画を観ました。クライマックスでの若い牧師さんの語りに心が引かれました。

「 Do I want to speak of the miracle of our Lord's divine transformation? Not really, no. I don't want to talk about his divinity. I'd rather talk about his humanity. I mean, you know, how he lived his life, here on Earth. His ”kindness”, his ”tolerance”... Listen, here's what I think. I think that we can't go around... measuring our goodness by what we don't do. By what we deny ourselves, what we resist, and who we exclude. I think... we've got to measure goodness by what we ”embrace”, what we create... and who we include. 」

字幕を書き写しました。

「私は神(イエス)の奇跡的な復活を語りたいのでしょうか?違います。神のそうした神性について語るよりも―人間性を語りましょう。彼がどのように地上で暮らしたか。そのやさしさや寛容についてを。私はこう思います。人間の価値とは何を禁じるかでは決まらない。何を否定し―拒み、排除するかでもありません。むしろ何を受入れるかで決まるのでは?何を創造し誰を歓迎するかで・・・」

大分前に書いた変な夢のことを思い出しました。「受容」と「献身」はやはり正しいのではないかと思っています。
 

わっ

 投稿者:ドン・キショット  投稿日:2008年 6月29日(日)22時39分17秒
返信・引用  編集済
  >(リベル) ドン・キショットさん、長文のご投稿大変だったでしょう。有難うございました。特に相田二郎氏の「「癩」への恐怖を神仏の罰への恐怖(畏怖)と一体化させつつ、「癩者」への差別観念を社会のすみずみにまでていねいに植えつけ、繁殖させてゆくことになったのだと私は考えておきたいのである」という基底にある考え方には全く同感なのです。
・・・・・・・・・・・・
わっ、すみません。またまた略しすぎて言葉足らずだったみたいです。
リベルさんが共感されている上記部分は、横井清氏ご本人の見解だと思うのですが。
でも、相田二郎氏の『日本の古文書』上下を発注されたとのこと、羨ましいです!
私は常日頃金欠之病に悩まされていますから、図書館派。でも、やっぱり欲しい、どうしても欲しいというのは、古書屋さんでお世話になっておりまして、けっして、回し者ではありません。(^^)
「古文書」までオツムも手もまわりませんので、リベルさんを頼りにしています。(よろしくお願いいたします。)
それにしても、仏教がどうの現報がどうのと言うには、やはり鎌倉旧仏教から一向一揆あたりまでは多少なりとも覗いておきたいと思い、岩波書店の日本思想大系のいくつかを仕入れてはいるのですが、いっかなすすみませんで、牛歩です。

ときどき、ふっと惹きつけられることばに出会います。
たとえば、『興正菩薩御教誡聴聞集』(叡尊)の「一、修行用心事」の中に、
「縦ヒ我ヲコロシ打ツモノアリトモ、痛キ計ヲ忍テ、悪ム心アルベカラズ。タトヘバ少キ子ノ手ヲノベテ母ヲ打ニ、コレヲヨロコブガ如シ。」
などと出てきますと、すごいものだなぁ、とやはり唸ってしまいます。
この絶対的非暴力の思想は、今の世にも次の世にも生かされなければならないものですね。
 
    (リベル) わっ、すみません。またまた早とちりで、取り違えていたことは、さきほどトイレで起き抜けの新鮮な頭で読み直していてありゃまぁと思いました。最近こういうことをよくやるのでお許し下さい。

絶対的非暴力などの教えは、今の私の最大の関心事で、「「自分」から自由になる沈黙入門」を読んでいることを前に書きましたが、この本の著者の若い坊さんもやはり同じ精神を説きます。瀬戸内寂聴さんでしたか、死ぬまでに1ミリでも2ミリでも上質な人間になるように努力することが楽しいと仰有っていましたが、その心構えが「生きること」を楽にしてくれると実感しています。

「悪ム心アルベカラズ」。正しくないことを否定はしなければなりませんが、「否定」が「反感」や「憎悪」の感情に育つのは一人一人の心の持ちようのせいだと、「沈黙入門」はそのメカニズムを教えてくれます。私のように出来の悪い人間にはなかなかためになる本です(^^)(6.29 23:24)
 

追加させてください

 投稿者:ドン・キショット  投稿日:2008年 6月29日(日)14時15分50秒
返信・引用
  *キショット注:細川涼一『死と境界の中世史』(洋泉社、1997年)によれば、「西大寺叡尊の自伝『感身学正記』延応元年(一二三九)九月八日条」に、叡尊の弟子・忍性(のち鎌倉極楽寺開山)は、母の十三回忌に当たるこの年、大和国の非人宿七宿に文殊菩薩図像七幅を安置する非人施行を開始しようとしたことが書かれている。

**キショット注:一二六九年三月二十五日に叡尊が良般若寺の文殊菩薩の完成を記念して、奈良坂で非人施行を行ったこと、その際に作成された「願文」のことは、細川涼一氏の前掲書にも書かれているが、黒田日出男氏前掲書によれば「願文」に、「或有受盲聾報之者、或有嬰疥癩病之者、謂彼前業、則誹謗大乗之罪、雖歴泥梨、猶未尽、見其現報」、また、「或有受盲聾報之者、或有嬰疥癩病之者、謂彼前業、則誹謗大乗之罪、雖歴泥梨、猶未尽、見其現報」とあり、少なくとも、叡尊の生きた中世(13世紀)には「現報」観は定着・浸透していたとみなしていいと思います。
 

あらら

 投稿者:ドン・キショット  投稿日:2008年 6月29日(日)13時13分28秒
返信・引用
  ↓の投稿中に[*キショット注][**キショット注]を書いたはず(というか、そのつもりだったのに)、今見たら、抜けてます(?) ご勘弁を。同じ文章をもう一度書けそうにないので、また出直しまする〜。  
    (リベル) やはりそうでしたか。もしかして前の投稿にあったのか?と血眼になって探したのですが・・・。

この前説明したように一番下の左「自分の投稿の編集・削除」をクリックすれば簡単に出来ますよ、お試し有れ・・・(^^)(6.29 13:29)
 

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