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2000年10月27日、フランクフルト(Frankfurt)で、ドレスデン(Dresden)行きの飛行機に乗り換えた。昨年に続き、2度目のドイツ訪問である。 フランクフルト・マイン空港の拡張整備が終わったのか、昨年に比べ、国内線の乗換えゲートがかなり遠かった。夕刻、ドレスデン・クロッチェ(Klotzsche)空港に着き、そこからバスで市街地へと向かった。
翌日28日は、まず、エルベ(Elbe)川沿いのブリュールのテラス(Bruehlsche Terrasse)を散策した。それから、エルベ川に架かる橋を渡り、河畔から旧市街地を眺めた。 エルベ川の水量は思ったほど多くなく、また、水も澄んではいなかった。対岸から見る旧市街地の建物も暗く黒ずんで見えた。それは、建物に使っている石材のせいなのか、燃料として使った石炭の影響なのかわからなかった。
旧市街地に戻り、レジデンツ城(Residenzschloss)の壁画(君主の行列)を見たあと、アルベルティーヌム(Albertinum)で、印象派のドガやゴーギャンの絵画を楽しんだ。
しかし、この日、最も感動したのは、6年前から再建が始まっているフラウエン教会(Frauenkirche)である。半世紀前、連合軍の空襲により破壊された教会の瓦礫を拾い集め、足りない部位は新たに石材を切り、積み上げていくのである。
教会周辺には、その石材の部位が所狭しと保管されていた。教会の地下部分は見学ができたので、少しばかりの再建募金をしてきた。
また、ドレスデン駅前と市庁舎近くでは、大規模な再開発工事が進められており、掘削工事の最中であった。ドレスデンは、東西ドイツ統一後、ようやく戦後の復興が始まったかの印象を受けた。
10月29日は日曜日で、今日から冬時間。日本との時差はマイナス8時間である。
ドレスデンの2日目は、再び旧市街地へ行き、ツヴィンガー宮殿(Zwinger)とアルテ・マイスター(Alte Meister)絵画館を見学した。
午後からは、路面電車でドイツ保健博物館(Deutsches Hygiene Museum)に行った。この博物館は旧東ドイツ時代からの建物で、展示物は健康と保健がテーマである。また、近くには、VW(フォルクスワーゲン)のガラス張りの新社屋が建設中であった。
その隣には、広大な公園(Groesser Garten)が広がっており、園内にはミニ列車も走っていた。ちょうど日曜日とあって、子供連れの姿も多く見られた。この付近は旧市街地から少し離れており、観光客の姿は全く見かけず、地元の人々がジョギングや散歩を楽しんでいた。 公園の端までとても歩いて行ける距離ではなかったので、途中のベンチに座り、暮れ行くドレスデンの晩秋を肌で感じていた。
10月30日、ドレスデンの3日目の朝、朝食を食べにレストランに入ると、日本人らしき一人の女性に出会った。日本語で聞くのも失礼かと思い、「Guten morgen! Woher kommen Sie?」と尋ねると、一瞬考えた後「Aus Japan」と答えが返ってきた。 同じテーブルで朝食を取り、久しぶりに日本語で話した。聞くと、2日前、フランクフルトから列車でドレスデンに入り、昨日はケーニヒシュタイン(Koenigstein)要塞へ行ってきたとのこと。これで今日の予定が決まった。午前中に、彼女が行ったと言うケーニヒシュタインへ行くことにした。
ドレスデン駅のコインロッカーに荷物を預け、列車に乗った。エルベ川に沿って遡ること30分ほどでケーニヒシュタイン駅に着いた。道沿いに下って行くと、バス停に、屋根のない展望バスが待っていた。そこから要塞の麓まではバスに乗り、要塞へはエレベータで上ることができた。 要塞は切り立った断崖絶壁の上に建ち、岩肌に風が吹き付けていた。要塞からの展望は、360度見渡す限りの自然で、晩秋のザクセン地方の景色を満喫することができた。ここからエルベ川を10数キロさかのぼると、そこはもうチェコとの国境である。
10月30日午後、ケーニヒシュタイン(Koenigstein)からドレスデン(Dresden)に引き返す列車に乗り込んだ。ドレスデンから磁器の街マイセン(Meissen)までは30分ほどなので、そのまま降りずにマイセンへ行くことにした。
マイセン駅を出て、エルベ川沿いに10分ほど歩くと、大聖堂(Dom)のドームが見えてきた。橋を渡り、市庁舎前のマルクト広場を通り抜け、石畳の坂を登っていくと、そこには大聖堂がそびえたっていた。
その奥が14世紀に建てられたというアルブレヒト城(Albrechtsburg)である。場内を見学したが、サマータイムも終わり、観光客は少なかった。
磁器工場に見学に行く時間がなかったので、ブルク通りのマイセン磁器の直営店に入り、思案の末、手ごろなものを買った。
マイセン焼を片手に駅に戻り、カフェでコーヒーを飲みながら列車の時間待ちをした。荷物をドレスデンの駅に預けたままなので、一旦ドレスデンに戻り、再び列車でライプツィヒ(Leipzig)へと向かった。ライプツィヒに到着した頃には、既に日は暮れていた。
ライプツィヒ(Leipzig)での1日目は、クヴェトリングルク(Quedlinburg)へ行くことにしたので、ライプツィヒの町を歩いたのは、2日目の11月1日になった。この日は、ワイマール(Weimar)まで行く予定だったので、ライプツィヒ中央駅に荷物を預け、市内を散策をすることにした。 駅のコインロッカーは、キーのないレシート方式の新型が設置されていた。
駅を出て、季節には草花が咲きそろっていたであろうザクセン広場を通りぬけると、マルクト広場に面して旧市庁舎(Altes Rathaus)が建っていた。この建物は、現在、ライプツィヒ歴史博物館(Stadtgeschichtliches Museum Leipzig)になっており、まずここを訪れた。
それから、トーマス教会(Thomaskirche)へ向かい、バッハ博物館(Bach Museum)では、ヘッドホンでバッハの音楽を聴くことができた。
さらに南へ歩くと、現市庁舎(Neues Rathaus)がある。ちょうど庁舎前でテレビドラマの収録をしており、現地の人に混じり、しばし見学をした。
そこからは、ライプツィヒ大学(Universitaet Leipzig)の高層ビルが見えるので、それを目印に大学のキャンパスを見に行った。しかし、大学は道路にはさまれ、その一歩先は商店が店を連ねており、緑のキャンパスというイメージではなかった。
最後に、旧ドイツ民主化運動の起点となったニコライ教会(Nikolaikirche)を訪れた。1989年11月、この教会から出発した自由と人権の保障を求める月曜日デモが、その後のベルリンの壁崩壊へとつながって行ったのである。
この街は、1年ほど前、ある雑誌の旅行記で知った。ブロッケン山の魔女伝説で有名なハルツ地方にあり、旧東ドイツ時代には忘れ去られていた街と紹介されていた。
ドイツ統一により、戦災を受けなかった古い街並みがようやく知られるようになり、ユネスコの世界文化遺産にも登録された。この素朴な街を、機会があれば訪れてみたいと思っていた。
10月31日、ライプツィヒ駅で往復切符を買い、列車に乗った。LeipzigからHalleまで行き、そこで列車を乗り換え、Sanderslebenで降りた。本来なら列車で行けるはずなのだが、サマータイムが終わり、運休して線路補修をしていたようで、代替バスが運行していた。
バスは、見知らぬ田舎町や田畑の中を走り抜けて行った。途中、荷車を引いた馬車に出会い、一瞬タイムスリップを感じた。
そうかと思えば、自動車販売店のSUBARUの看板が目にとまった。窓越しに見ると、私が通勤で乗っているのと同じ車種が展示してある。ドイツではTOYOTAとHONDAはよく目にしたが、田舎町でSUBARUを見たときは、少々驚いた。クヴェトリンブルクまで、片道2時間の旅であった。
駅前にバスが着き、旧市街地をめざして10分ほど歩いた。気温は肌寒く、コートを着ていて良かった。お昼前だと言うのに観光客はまばらで、まして東洋人は自分一人だった。
マルクト広場の周囲は、木組みの建物が取り囲み、路地を少し入ったところに木組みの家博物館(Fachwerkmuseum)があった。古い民家をそのまま博物館にしており、建築の専門家でなくとも楽しめた。
マルクト広場に戻り、周辺の路地を散策した。所々、崩れかけた家もあるが、あちこちで古い街並みを残して行こうと修復工事が行われていた。
それから、1000年の歴史をもつ城山に登った。小高い丘の上には、城博物館(Schlossmuseum)があり、入ってみた。ここからは町全体が見渡せたが、町の郊外に観覧車が見えたのは、少し興ざめがした。
土産には、やはりハルツ地方の名物である魔女の人形を買った。魔女と言っても、ふくよかな顔をした老婆が、ほうきにまたがっている人形である。
11月2日の朝、ワイマール中央駅前からバスに乗り、ゲーテ広場で降りた。少し歩くと、ゲーテ(Geothe)とシラー(Schiller)の像が立つ国民劇場(Nationaltheater)の前に出た。観光客が像の前で写真をとっていた。
シラー通りを歩くと、商店の店頭に“日本語話せます”という掲示があった。日本人がよく旅行するイタリアのフィレンツェなどで目することはあったが、旧東ドイツの町までとは思わなかった。街並みの雰囲気に合わず、違和感を覚えた。昨年が、ゲーテ生誕250周年、シラー生誕240周年で様々なイベントが催されたようで、その名残かもしれなかった。
シラーの家(Schillerhaus)はシラー通りにあり、まずここを見学した。それから、ゲーテの家(Goethes Wohnhaus)を見学した。ゲーテが晩年過ごしたという書斎や寝室を見学し、200年前の暮らしに思いをはせた。ゲーテの家の前からは、ウィーンのアルベルティーナ広場にあるような観光客用の馬車が走っていた。
市庁舎の前のマルクト広場に戻ると、これも観光客向けであろうか市が開かれていた。ワイマール憲法を発した歴史的な街は、今や観光の街へと変貌していた。
11月2日の午後、列車でワイマールからアイゼナハへと向かった。アイゼナハは、旧東ドイツにあって最も旧西ドイツに近かった工業都市である。
アイゼナハ中央駅を出て、まず自動車博物館(Automobilbaumuseum)に向かった。
自動車工場入り口の建物1階が博物館になっており、かつて生産したクラッシックカーが8台くらい展示されていた。ちょっと期待はずれな博物館であった。
そこから住宅街を抜け、商店が連なる繁華街カール通り(Karlstr.)を抜けてマルクト広場をめざして歩いた。
市庁舎前を過ぎると、近くには、500年前にルターが住んだという木組みのルターの家(Lutherhaus)が、資料館として公開されていた。
そこから坂道を少しの登ると、300年前にバッハ一族が住んでいたというバッハの家(Bachhaus)がある。
ここでは、展示してある古いチェンバレンなどの楽器を、次々と見学者のために実際に弾いて聴かせてくれた。これには感激した。
11月3日の昼、ICでフランクフルトに到着した。駅前から市電に乗り、レーマー(Roemer)広場へと向かった。広場の中央には、正義の女神の噴水が位置し、旧市庁舎(レーマー)の向かいには、再建された昔ながらの木組みの建物が建っていた。
レーマー広場からショッピング街のハウプトヴァッヘ(Hauptwache)へ行き、デパート・カウフホーフ(Kaufhof)で買い物をした。
それから、CD付きドイツ語テキストが欲しかったので、近くの本屋に入って行った。そこは一面、ハリーポッターのシリーズ本が積み上げてあり、世界いずこもハリーポッターブームであった。
11月4日土曜日、今日、フランクフルト・マイン空港から帰国するが、午後の便なので午前中少し時間があった。そこで、毎土曜日、博物館が建ち並ぶマイン(Main)川左岸で開かれる蚤の市に出かけることにした。
レーマー広場からアイゼルナー橋(Eiserner Steg)を渡ると、そこから道沿いに延々とテントが張られ、実に様々なものが売られていた。もちろん使い古したものばかりだが、洋服、生活用品、電気製品のほか、なぜかアフリカの民芸品も多数あった。
見ているだけで時間が過ぎてしまい、結局何も買わず、フランクフルト中央駅から空港へと向かった。