更新記録とTopPage画像の推移(V) |
本日は
です
PC絵画 『HP年賀』 と 『長堀川の正月』 二題
(ロールオーバー画像)
★ 2008年01月01日
新年 おめでとうございます。
TopPage画像に、『HP年賀』 を掲載しました。
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TopPage
更新記録 (V) ページ
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☆ 上の画像 『長堀川の正月』 について。
弐拾六
弐拾七
大正13年発行・・・『大阪市パノラマ地図』・・・の一部長堀橋界隈
写真は、大正初期の鳩峰さんの出生地、長堀橋から末吉橋までの長堀川です。
川の北側電車路から撮った 「島之内鰻谷東之丁の、住友本邸」、 左に見える
橋は長堀川と東横堀川の、T字交差した長堀川に架かる東端の 「安綿橋」 で、
今は長堀川の埋め立てにより有りません。左の鳥瞰地図の末吉橋の下の方に
緑の木立に囲まれた住友本邸 (上の写真の洋館) が描かれています。
左の鳥瞰地図にある、長堀橋と清水町との間の、八階建て鉄筋の高島屋に、
小さい頃、よく祖母と共に八階食堂で食事をしたり、遊んだ事を思い出します。
左下には、鳩峰さんの通った丸に文のマークの、大宝小学校(現 南小学校)
1831年(天保2年)に京都にて初代飯田新七が古着・木綿商を開いたのが始まり。飯田の養父である儀兵衛の出生地が近江国高島郡(今の滋賀県高島市)から取って、屋号を「高島屋」と定めたものが今日までそのまま用いられている。海外の博覧会に豪華な刺繍を施した着物を出品し、数々の賞を受賞したことで、その後宮内省御用達の名を冠することになる。
1898年(明治31年)、心斎橋に進出。1922年(大正11年)、長堀橋に移転。南海が難波駅にターミナルデパートを開設するに当たり、現在地に大阪店を移転。
☆「高島屋」 に関して・・・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 より
☆「島之内界隈の鳥瞰地図」 左上が、『北』 の方角。
画像サイズが大きいので、『お気に入り』を消して、更に『F11』キーを押して、縦横の幅を広げてご覧下さい。
この地図には、まだ御堂筋がなく、心斎橋筋に 「大丸」 が描かれ、「四ツ橋」 もわかり、大丸前を南に戎橋筋を行けば、難波の駅に
でます。 蒸気機関車や電車も見え、さらに 「湊町駅」 も大きく描かれています。
弐拾八
水彩画 『 鶴 』 二題
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★ 2008年01月07日
TopPage画像に、水彩画の 『 鶴 』 を掲載しました。
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TopPage
★ 2008年01月15日
『梅花 ・漢詩を添えて』 と 水彩画 『紅白梅』 二題
(ロールオーバー画像)
参拾
パソコン絵画 『雪の金閣寺』 と 『風神・雷神』 二題
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★ 2008年01月25日
TopPage画像に、右画像を持ってきました。
当分の間この冬1番の寒波が続く様です。
『ひな人形 と 桃の花』 写真画像 二題
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★ 2008年02月01日
BGM 「Oesten_Dollys_D.mid」 ♪♪
TopPage
ひな祭りの写真画像を編集しました。
昨年の桃の花の写真画像を利用して
『お気に入り』 を消して横幅を広げてご覧下さい.
が見えます。末吉橋、板屋橋、長堀橋、清水町、八幡筋、と書かれたところは、市電の停留場で、八幡筋の次は、道頓堀川に架かる日本橋です。 戦前は、長堀川も
綺麗な川でした。 古き時代を思い浮かべながら、川べりで、 パソコン画の 「凧」 を揚げて遊びました。
弐拾九
参拾壱
★ 2008年02月03日
『更新記録とTopPage画像の推移(V)』 と『サイトマップ』の
ページの画面を、「お気に入り」を消した「全面表示」のサイズに
編集し直しました。 『トップページ』他も順次変更します。
★ 2008年02月10日
『トップページ』を「全面表示」サイズに変更して、
右画像を更新しました。
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『PC写仏 観世音菩薩』 二題
★ 2008年02月24日
パソコン絵画の 『 山水 』 二題 に更新しました。
参拾弐
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水彩画 の 『 山桜とキビタキ 』 二題
★ 2008年03月01日
早く春が来てほしいものですね。
BGM 「Ivanovici_donau_mi.mid」♪♪
TopPage
『枝垂れ桜』 写真画像 二題
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★ 2008年03月11日
ようやく春本番、暖かい日々が続くようです。
桜の宮公園、源八橋のさくらと、
大阪城公園の櫻を更新しました
参拾参
★ 2008年03月24日
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『 牡 丹 』 写真画像 二題
本日当HP開設以来弐年が経過しました。
有難う御座います。 まだまだ継続して参りますので
宜しくお願い申し上げます。
参拾四
参拾五
八軒家船着場(はっけんやふなつきば)は、熊野古道の出発点で、京洛から淀川を下ってきた船(三十石船)が着岸した船着場である。石山本願寺や大坂城が建設される以前から、渡辺津として栄えた港湾都市のあった場所でもある
☆「八軒家船着場」 に関して・・・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 より
『安政年間の八軒家浜の様子』
八軒家の名の由来は天明に遡る。
天明二年十一月六日、江戸幕府が九人の定飛脚問屋
に官許の肩書きを許し、後に八軒の定飛脚問屋の株
となり、明治五年三月まで続いた。
天神橋南詰めのこの地を八軒家と呼ぶのはこの定飛脚
問屋が店鋪を連ねていたからである。
下線引きの箇所をクリックすれば夫々にリンクされ左上の「戻る」ボタン
を押すともとに戻ります。
★ 2008年04月01日
3月29日に開港式が行われた、京阪天満橋駅前の河川敷。
駅に直結した水上バスなどの船着き場や新たに植えられた
櫻並木の遊歩道が完成しました。
まだ、櫻は満開では有りませんが、週末には
さくらクルーズ船などで、賑やかになるでしょう。
下線引きの箇所をクリックすれば夫々にリンクされ左上の「戻る」ボタン
を押すともとに戻ります。
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『 八軒家浜船着き場 』 写真画像 二題
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『 パソコン写仏 』 二題
★ 2008年04月11日
パソコン写仏の 『大日如来』 を仕上がった画像と
線描きの段階の画像を重ね合わせて編集して
TopPage画像に更新しました
『 パソコン写仏 』 二題
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★ 2008年04月20日
パソコン写仏 『釈迦三尊』 の内、「釈迦如来」と脇侍の
「文殊菩薩」 と 「普賢菩薩」 を 三体に分け、順次
前回の「大日如来」 のロールオーバー形式に編集します。
参拾六
★ 2008年04月29日
端午(たんご)は5月5日に、男子の健やかな成長を祝い、祈る日本の風習。五節句の一つであり、端午の節句とも呼ばれる。そもそもは旧暦5月5日に祝われたが、今日の日本ではグレゴリオ暦(新暦)の5月5日に行われ、旧暦や月遅れの6月5日に少ないながら一部地域では行なわれている。端午の節句にちなみ、5月5日は、国民の祝日「こどもの日」になっている。尚、中国語圏では現在も旧暦5月5日に行うことが一般的である。菖蒲の節句ともいう。
この日を端午とする風習は、3世紀の中国で始まったとされるが明らかではない。中国においては邪気を払い健康を祈願する日とされ、野に出て薬草を摘んだり、蓬で作った人形を飾ったり、菖蒲(しょうぶ)酒を飲んだりする風習があった。蓬や菖蒲は邪気を払う作用があると考えられていた。現代の日本においても菖蒲や蓬を軒に吊るし、菖蒲湯(菖蒲の束を浮かべた風呂)に入る風習が残っている。
日本においては、男性が戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じこもって、田植えの前に穢れを祓い身を清める儀式を行う五月忌み(さつきいみ)という風習があり、これが中国から伝わった端午と結び付けられた。すなわち、端午は元々女性の節句だった。宮中では菖蒲を髪飾りにした人々が武徳殿に集い天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では薬玉を作りお互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については奈良時代に既にその記述が見られる。
鎌倉時代ごろから「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の葉が剣を形を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈るようになった。鎧、兜、刀、武者人形や金太郎を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前に鯉幟(こいのぼり)を立てるのが、典型的な祝い方である。鎧兜には男子の身体を守るという意味合いが込められている。こいのぼりをたてる風習は中国の故事にちなんでおり、男子の立身出世を祈願している(鯉幟の項)。典型的なこいのぼりは、5色の吹き流しと3匹(あるいはそれ以上の)鯉のぼりからなる。吹き流しの5色は五行説に由来する。
端午の日には粽(ちまき)や柏餅(かしわもち)を食べる風習もある。粽を食べるのは、中国戦国時代の楚の愛国詩人屈原の命日である5月5日に彼を慕う人々が彼が身を投げた汨羅江(べきらこう)に粽を投げ入れて供養したこと、また、屈原の亡骸を魚が食らわないよう魚の餌としたものがちまきの由来とされる。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、柏は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。また、中国語圏では現在も屈原を助ける為に船を出した故事にちなみ、龍船節として手漕舟(龍船あるいはドラゴンボート)の競漕が行われます。
☆「端午の節句」 に関して・・・フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』 より
下線引きの箇所をクリックすれば夫々にリンクされ
左上の「戻る」ボタンを押すともとに戻ります。
参拾七
『 パソコン写仏 』 二題
(ロールオーバー画像)
★ 2008年05月06日
TopPage画像に、『 パソコン写仏 』 を掲載しました。
『 パソコン写仏 』 二題
(ロールオーバー画像)
『釈迦三尊』 の内、「釈迦如来」の脇侍 『文殊菩薩』です。
★ 2008年05月18日
TopPage画像に、『 パソコン写仏 』 を掲載しました。
『釈迦三尊』 の内、「釈迦如来」の脇侍
『普賢菩薩』です。
参拾八
★ 2008年06月01日
パソコン写仏の 『 観世音菩薩 』 を仕上がった画像と
線描きの段階の画像を重ね合わせて編集して
TopPage画像に更新しました
『 パソコン写仏 』 二題
(ロールオーバー画像)
参拾九
パソコン絵画 『源氏物語千年紀』 二題
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★ 2008年06月08日
源氏物語千年紀に際して、
光源氏の正妻、『 紫の上 』 を、久しぶりに
パソコンにて、作成しました。
源氏物語千年紀、第2作目を準備中です。
紫の上(むらさきのうえ)は、紫式部の古典『源氏物語』のヒロイン。架空の人物。
始め紫の君、後に光源氏の妻となって紫の上と呼ばれる。なお「若紫」は第5帖の題名であり作中には出てこず、他には『紫日記』に「左衞門のかみあなかしこ此のわたりにわかむらさきやさふらふとうかゝいたまふ」(藤原公任が酔って式部のいるあたりを「私の若紫おいでですか?」といいたまう)とあるのみである。俗には紫の上の幼少期をさす。「紫」の名は古今集の雑歌「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞみる」に因み、光源氏の「永遠の女性」である藤壺の縁者(紫のゆかり)であることを婉曲に表す。また「上」の呼称が示すように、源氏の正妻格として源氏にも周囲にも扱われるが、正式な結婚披露をした北の方ではない。
父は兵部卿宮(後に式部卿宮、桐壺帝の先帝の皇子)、母は按察使大納言の娘。藤壺の姪にあたる。「若紫」の帖に初めて登場し、以後「御法」まで登場する。
正妻による圧力のために父兵部卿宮の訪問は間遠で、生まれてすぐ母は亡くなり、その後は祖母の北山の尼君に育てられた。大伯父僧都によると母親が亡くなって10余年たち、北山に病気療養に来ていた光源氏に垣間見られる。このとき源氏は、幼いながらもその藤壺と生き写しの容姿に一目で惹かれ、藤壺の姪であることを知るや執着をもつようになる。祖母の死後、父に引き取られるはずであった若紫を略取した源氏は、二条院において、周囲には彼女の素性を隠しながら理想の女性に育てる。(「若紫」) 光源氏の最初の正妻である葵の上の没後に、源氏と初床となり以後公に正妻同様に扱われる。(「葵」) 以後は光源氏の須磨退隠時期を除き、常に光源氏の傍らにあった。
紫の上が妻として扱われるようになって初めて、父兵部卿宮にも、行方不明であった娘が源氏のもとにいることが知らされた。兵部卿宮はこれを歓迎したが、源氏が須磨に隠棲したときには右大臣の権勢を恐れて紫の上を支援しなかった。このため源氏は帰京後は兵部卿宮を冷遇する事になる。紫の上には子供がなかったため、源氏は明石の君が生んだ女の子(のちの明石中宮)を紫の上の養女とし、将来の后候補として育てさせた。(「薄雲」) また明石中宮の入内後には、中宮の産んだ女一宮と三の宮(匂宮)を養育している。夕顔の娘玉鬘が六条院に来たときは27〜28歳のころであった。
光源氏に誰よりも愛された最愛の妻であったが、複雑な気持ちで光源氏の女性癖を見続けた。特に六条院に移ってからは、他の女性と源氏の関係にたびたび嫉妬しつつも、源氏にはそれを表さなかった。六条院の春の町の主として「春の上」と呼ばれ、容貌も心ばせも完璧な女性と謳われ本人もそれを誇りに思っていたが、唯一の弱みであった子もなく正妻でもないことに着目して、朱雀院の女三宮の降嫁が決まったときには衝撃を受け、自分の身の不安定さに改めて気付かされる。その心労から37歳の厄年に重病にかかり(「若菜」)、晩年には出家したい心境をもらすこともあったが、最後までそれを許されぬまま光源氏に先立って病没する。(「御法」) 彼女の完璧さを頼りに安堵しきっていた源氏は、彼女が隠してきた苦悩と孤独を痛感し、今までの思い出を灰にするのであった。(「幻」)
☆ 「紫の上」 に関して・・・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 より
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四拾
★ 2008年06月15日
パソコン絵画 『源氏物語千年紀』
四拾壱
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パソコン絵画 『三十六歌仙絵』
★ 2008年06月22日
今回は、 「三十六歌仙絵巻」の 「小野小町」です。
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6月8日掲載の「紫の上」の記事の中にて、下線引きの
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キーワード例えば、「小野小町」と入力、その右の
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前回に引き続き、『 葵の上 』 を掲載します。
詳細は、上記 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
の、中ほど右に有る 「葵の上」 をクリックして
ご覧下さい。
『更新記録とTopPage画像の推移(V)』 のページが長くなって参りましたし、ページ編集上やりずらい処がありますので、
次回更新時より、NewPage 『更新記録とTopPage画像の推移 (W)』 を、準備致します。
次回から、NewPage にて編集してまいりますので宜しくご笑覧下さい。
次回は、『光源氏』 に、その女性たち、加えて特別ゲストとして、「小野小町」にも入って頂きましょう。