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神戸歴史物語
〜神戸史跡めぐり〜

このページでは神戸郷土史について紹介していきたいと思っています。

1.歴史の宝庫「平野」 各時代の出来事と史跡一覧表
2.平野の七不思議を解明する
3.源平合戦の史跡
4.「福原京を歩く」ガイドブック

参考写真


  1. 歴史の宝庫「平野」 各時代の出来事と史跡一覧表
  2. 時代年代出来事と史跡
    弥生時代紀元前300年〜300年高地性集落跡(祇園神社裏山)
    古墳時代300年〜600年前方後円墳(地元豪族の墓、矢部町)
    飛鳥奈良時代 600年頃〜784年 八田部郡の条里断簡図発見(大正10年山根定太郎邸の蔵)
    平安時代 794年〜1192年 平清盛、太政大臣を辞し平野にて隠遁生活→福原遷都→源平合戦 雪の御所の石碑、祇園遺跡、潮音山上迦廃寺、元暦元年の五輪供養塔、湯屋
    鎌倉〜南北朝時代 1192年〜1338年 小平野庄にて赤松円心と北条幕府軍の戦闘、村民は赤松勢に味方し字小屋場に退避。 湊川の合戦で楠正成、楠谷にて戦死。(勝負ヶ池)多多部城の支城,安濃城跡。
    室町〜安土桃山時代 1338年〜1600年 応仁の乱にて畠山氏、矢部町の殿藪にて隠れ住む。宝筐印塔 豊臣秀吉、兵庫津の名主、正直屋に温泉の使用許可(朱印状)を与える。 豊国稲荷神社に秀吉の木像安置。
    江戸時代 1603年〜1867年 畿内で最も大きな山論紛争(山田村と神戸各村の対立、打ち首者九名) 勝海舟、海軍操練所を開設、塾長に坂本竜馬、勝海舟寓居跡。
    明治時代 1867年〜1912年 三田藩最後の藩主九鬼隆義、梅元町と花隈の東側に居を構える。「ハイカラな神戸」生みの親 畿内最大の禅の修験道場「祥福寺」と夏目漱石

  3. 平野の七不思議を解明する
  4. @福原はなぜ吉相の地か。

     平安末期に平清盛が太政大臣を三ヶ月で辞して、 自分は病で重責をまっとう出来ないから、 摂津の国の平野に隠遁すると申して出家し足掛け十余年当地の雪の御所で過ごされました。
    晩年に後白河法皇、高倉上皇、安徳天皇を当地にお迎えして、わずか半年余りの短い期間でしたが都を福原に遷都されました。 昨年十一月、大倉山の西側に隣接する神戸大学付属病院の敷地から平安末期時代の二重の堀が発掘され福原京に関係する遺跡ではないかとマスコミを賑わし、平野周辺は注目を浴びています。 何故清盛が福原に遷都したか三つの理由が考えられます。一番目は雪の御所から一丁(109m)の処に療養に最適な湯屋が存在した事。 二番目は当時平家は中国の宋の国と「対宋貿易」の実権を掌握し窓口港である大輪田の泊と指呼の距離である事。三番目は本日のテーマであります福原が吉相の地であった事が挙げられます。 当時は陰陽五行が盛んで遷都するにも陰陽五行に適った或いは風水に適った地であるかどうかということが非常に重要だったわけです。福原の地形は三方、山に囲まれています。東は大倉山、宇治の山、諏訪山、北は六甲山脈、西は会下山、頓田山、夢野、まるで蟹の甲羅の形に似ています。真ん中にローマ字のYの形状をした川が流れています。右側は天王川、左側は石井川、菊水橋で合流して湊川となります。こういう地形が風水で云えば四神に則った最良の地と云うわけです。そのYの処、風水で云えばミヨンドン(明堂)女性の体で云えば新しい生命を宿すところに雪の御所があるわけです。京都の地形も同様です。鴨川の上流のY地点、右に遡れば高野川、左に遡れば加茂川、ミョンドンの地点に天皇家と深いつながりがあり、葵祭りで有名な下鴨神社、その上流には上加茂神社があります。京都全体でとらえても東側は鴨川、西側は桂川、淀城の付近で合流して淀川となるわけですが、ミヨンドンに相当する地点に平安京が築かれています。風水の本場であります朝鮮半島でも歴代の王朝が都を築く時も然り、 鴨長明が福原京を訪ねた様子を「方丈記」に詳しく記載されています。その書き出しの一文に「内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなか様かはりて優なるかたも侍り。」現代語訳すれば、内裏は三方、山に囲まれた処にある。道教に心血を注いだ斉明天皇が北九州に築かれた仮の御所も福原京に似て新鮮で優美な佇まいであったと想像される。と解釈されます。ここで重要なのは何故斉明天皇の例を引き合いに出したのかなんです。長明の父は下鴨神社の神官でその環境下で育っていますので陰陽学に長けています。長明は福原を視察して四神(北は玄武、東は青龍、西は白虎、南は朱雀) に則った都造りがされていると感じたので、当然歴代の天皇の中で風水、当時は風水と呼ばず道教と言う言葉の中に含めて考えますが、その道教を積極的に推進した斉明天皇であれば北九州の内裏も四神に則った造営をされたに相違ないと確信したからです。もう一つ興味深い記述が「高倉院厳島御幸記」にあります。高倉天皇の一行が厳島神社参詣の帰路、福原の地に立ち寄った有様を「福原の中御覧ぜんとて、御輿にてここかしこ御幸あり、所のさまつくりたる所々、高麗人の配しけるも理とぞ見ゆる」この箇所を神戸市教育委員会の学芸委員の須藤宏先生が「地中から語る清盛の時代」の本の中で、福原の市街の設計を朝鮮半島の人が行なったと記述され、異国風の町並みであったことが知られる。と解釈されていますが、「配しける」というのは造営という意味合いではなく、門や入り口はこの方角に、この建物はこちらの方角にと風水に則った街づくり、そういった配置の仕方を高麗人が指示したと解釈すべきなんです。台湾や韓国に観光された方も多いと思いますが寺院などは道教的色彩が強く柱や瓦はブルー、黄色、赤などけばけばしい色彩を使用しています。だから福原も高麗風の町並みだったのではないんです。発掘調査でそれらしき遺物は出土しておりません。清盛は風水、陰陽五行にのっとった吉相を福原に求めたことを知って頂きたいと思います。

    A楠谷勝負ヶ池は楠木正成終焉の地か。

    「太平記」によれば楠木正成は会下山に本陣を構え、陸から攻撃してくる足利軍を、一方海上から攻撃を迎え撃つのは新田義貞が受け持ったわけですが、足利尊氏本隊は船に乗ってやって来た。先陣の細川軍は駒ヶ林から和田岬にかけて上陸しょうと見せかけてそのまま通過し生田の森の方面に迂回した。新田軍は背後を攻められ挟み撃ちにあっては大変と軍勢を生田の森方面に後退しだした、第二陣の足利本隊は手薄になった敵の間隙を縫って駒ヶ林から和田岬に上陸し作戦は成功し新田軍は早々と京都へ逃げ帰ってしまった。孤立した正成軍は敵に包囲され会下山の本陣を脱却し湊川の上流に沿って北上し一庵に飛び込んだそこで弟正季と七生報国を誓い刺し違えて自決したと描かれているんです。通説では湊川神社の本殿の西隣りが正成終焉の地となっていますが、それでは太平記の記述と異なる、湊川神社の位置は会下山の南にあり又、湊川の下流にあり山陽道沿いにあるので京へ退却するのに堂々と山陽道で退却するであろうかと疑問を抱きます。花隈に福徳寺と云う禅寺があり、その寺の由緒書には南北朝の頃は現在の楠谷町に在り、本尊の観音像は正成が大事に懐に守り本尊としていたものだそうだ。一庵と云うのは福徳寺の前身でその所在地はどこかともうせば楠谷町の水の科学博物館のところです。西摂大観にもその場所は記載されています。 楠谷町にはそれ以外に南北朝の頃の五輪板塔婆があります。昭和十三年の神戸大水害まではそこは塚待とよばれた円墳がありました。村の伝承では正成の一軍がここで討ち死にした所で村の人々が五輪塔を建て法要し弔ったとの言い伝えがあります。また、五の宮町のバス停の北側に宝筺印塔がありますがそこも村の伝承に正成に関係する石塔だとも謂われている。正成は河内の千早赤坂城でも周知の通り山の戦を得意としていますので、湊川を北上し退路を裏山に求めたが願い適わず当地で果てたと考えるのが常識だと思います。

    B安濃城は実在したか。

    神戸の歴史研究家で活躍された故落合重信氏が奥平野村の小字に安濃城(五宮神社の東側一帯)がある。文献にもこの名の城は見たことも聞いたこともないので多分「アンノウシロ」即ち、「庵の後」の当て字であろうと言われた。当初はそれで納得していたが、いろいろ調べていく段階で安濃城は実在していたのではないかと思い始めた。西区にある古刹「大山寺」の古文書に元弘三年後醍醐天皇の皇子護良親王が大山寺の衆徒に対し赤松円心勢が北条勢と二月十五日小平野と兵庫嶋とで合戦するので義兵を挙げ赤松勢に加担せよとの令旨があり又、奥平野村の伝承に村民は赤松勢の食料運搬を手伝い。山田村の境に在る小屋ヶ谷に避難したとの言い伝えがある。五宮神社の字名は山ノ口であり多々部城に通じる入口に当たる。よって安濃城は多々部城の支城で山城だったと考えられます。

    C歯神さん、チヂミさんの由来。

    祇園神社の階段下を東へ五十mほど行った処に勝海舟寓居跡があります。その西隣に元暦元年の銘のある五輪塔二基が安置されており、源平合戦で源氏に破れた平家の公達達の供養塔だと思われますが、私の八十五歳になる叔母が申すには子供の頃、歯が痛くなったら母に連れられお参りした。壇にはお箸が供えられており、そのお箸を持って帰り歯痛が治ったら新しい箸を供えましたと謂う風習が戦前まであったそうです。何故歯神さんと呼ぶのかを調べたところ他愛の無い理由です。平家が破れてはがたらしい、歯がゆいからの由来だそうです。 チヂミさんは五宮町のバス停の北にある宝筺印塔を村人はそう呼んでいました。ここも歯の神で虫歯になったらここに梨を供え「お止まり」と唱えて祈願する。梨は無に通じる。家相でどうしても玄関や門が鬼門や裏鬼門の方角にあたる場合、鬼門の方角に梨を植えたり、南天を植える。南天は難転に通じるからである。何故チヂミさんと呼ばれていたのかと申しますと、先ほども申しましたようにこの宝筺印塔は楠木正成の供養塔だと一時思われていました。湊川神社は明治五年落慶しましたが、其れまで楠公さんは「残念さん」「歯神さん」と呼ばれていました。西出町にも「鎮守稲荷神社があり源平合戦で破れた平経俊の供養塔があり、ここも別名チヂミさんと呼ばれています。それは鎮守から由来します。痛みが鎮まる、チヂむからチヂミと呼ばれるようになったそうで ちょっとナンセンスじみた由来話ですね。

    D豊臣秀吉、片桐且元の木像が何故、豊国稲荷神社に。

    湊山温泉の西側の山の麓に明治時代に移された豊国稲荷神社があります。そのお堂の中に江戸時代に製作された秀吉とその横に賤ヶ岳の七本槍で活躍し名を馳せた片桐且元の木像が安置されています。且元は秀吉没後、秀頼のお守り役になったり家康側との交渉役になったりしています。又、兵庫の切戸町に陣屋を構えました。江戸時代になっては旗本に抜擢され兵庫周辺の村々の知行者となっています。明治時代まで奥平野村の領主でした。その且元が兵庫城後の片桐陣屋の折、陣屋の門の左右に二体の像を安置していました。明治の世になり、伊藤博文が兵庫県初代知事に就任した時、公舎の建物内に像を安置するのは如何のものか、ということで引き取り先を物色中、奥平野村と石井村とが秀吉と深い関わりのある平野の温泉の守り神にしたいと要望し、現在の湊山温泉横に安置奉っていました。その後裏山を所有していた田村市郎氏のご好意により現在地に移転したわけです。戦後いつごろ製作されたものか神戸市に鑑定依頼したところ江戸中期以降とのことです。

    E坂本竜馬は平野に来訪したか。

    先程勝海舟の寓居跡の所在地を紹介しましたね、海舟がここを寓居にしていたのは神戸村の庄屋生島四郎太夫の別荘を使用して下さいとのご好意からで海軍操練所設立以前から設立までの期間なんです。詳しく申しますと、竜馬が千葉周作の弟、千葉繁太郎と江戸の海舟邸を訪ね弟子入りしたのが文久二年の末頃と謂われています。その年の十二月二十九日海舟の平野の宿舎を竜馬、千葉重太郎、近藤長次郎三人が訪ね文久三年の正月迄滞在し、一月八日には再度訪ね望月亀弥太、千屋寅之助、高松太郎達を入門させています。その年の四月二十三日に将軍家持を大阪から神戸まで海舟は案内し海軍操練所の設立許可を得て、翌年元治元年五月開設するわけですがそれまで大阪の三川口の勝塾で門下生を指導していたんです。竜馬は塾長として海舟の片腕となって活躍しますが海舟から数々の薫陶を受け操練所解散後の海援隊の活動、船中八策にしても海舟の理念を引き継いでいます。竜馬は前述以外にも平野に来訪しているかもしれませんが今後の調査課題です。もしかしたら当時から賑やかだった夏の風物詩祇園祭も見学し境内で将来の日本国家について海舟と語り合ったかもしれませんね。

    F三田藩主は何故梅元町に別荘を。

    梅元町字安濃城に明治四年゛最期の藩主九鬼隆義が福沢諭吉のアドバイスにより「脱士帰商」の精神を実行に移し藩士のほとんどを引率して神戸に引っ越して来ました。藩主の住まいは花隈の東側一帯と梅元町です。栄町には志摩三商会を設立。総裁は隆義、社長は白洲退蔵、副社長は小寺泰次郎、職種は薬の販売と不動産業です。地主が投げ出す土地を買い占めたり、旧生田川の埋立地や栄町の土地を買収し土地成金となりました。キリスト教の普及に貢献したり、赤心社を設立し北海道開拓移民に力を注いだりしています。当時神戸の中心部は南に居留地、北は北野の異人館があり、その東側は中宮村、江戸時代から陵墓六烟ともうして六件しか居住が認められませんでした。それに隣接する奥平野村は市内に入る玄関口に当たるわけで人口が増えるつれ富裕層が平野に土地を求め、まるで芦屋の高級住宅地の様相でした。九鬼さんは娘さん三人を夭折し祥福寺の墓地に埋葬しました。現在は三田の菩提寺心月院と和解しそちらに墓が移っています。祥福寺の墓地の北側には洋画界の大御所、小磯良平が子供時代すごした実家岸本家がありました。良平の祖父は三田藩の佑筆でしたので常にお殿様のそばにいなくてはなりません。そんな訳で同じ梅元町に居住されたのでしょうね。岸上家の西隣は五宮神社、そこの記念塔に九鬼家地家局の名で寄進されています。戦前までは地元のひとは九鬼家屋敷跡を三田と呼んでいました。 時間がきましたのでこれで終わらせて頂きます。

  5. 源平合戦の史跡
  6. 史跡の名称 所在地 平家の武将 源氏の武将 備考欄
    神戸市中央区
    旗塚 中央区旗塚通七丁目   源範頼 源範頼の陣所跡、又は灰塚とも呼ばれ将兵の集め塚か。
    箙の梅 生田神社   梶原景季 箙に梅を挿して奮戦。風流武士
    二度の魁石 栄光教会(震災後不明) 菊池三郎高望 梶原景時 合戦で一度は引き揚げたが息子景季を救う為、再度戦場へ。
    河原霊社 三宮神社   河原太郎
    河原次郎
    源頼朝が兄弟の功に報いこの近くに報恩寺を建立、後世,有志が記念に小祠を建立。
    河原兄弟の墓 城ヶ口墓地 真鍋五郎助光 河原太郎
    河原次郎
    生田の合戦で我が身を顧みず逆茂木を乗り越え憤死。
    神戸市兵庫区
    源平合戦の供養塔 兵庫区上祇園町    元暦元年(1184年)の年号を刻んだ五輪塔二基。歯神さん。
    潮音山上迦寺址 平野の祇園神社の隣接地。    七堂伽藍が完備した「潮音山」は清盛が命名し法華三昧に耽った寺、源平合戦で焼失。
    陣場の井戸 氷室神社 平教経 安田義定 夢野方面を守護した教経の陣所跡。「東鑑」では当地で戦死
    通盛、小宰相の局の墓 願成寺 平通盛 佐々木盛綱
    木村源三
    元烏原村に在り、局の乳母の呉葉の墓もある。
    平経俊塚 西出町の鎮守稲荷神社。 平経俊   兄経正と夢野方面を守護。 通称「チヂミさん」
    琵琶塚 清盛塚 平経正(たいらつねただ) 待荘の高家 琵琶の名手で経俊、敦盛の兄、明石の忠度塚に比定。
    平業盛(たいらなりもり) 会下山善光寺 平業盛 泥屋四郎吉安、弟五郎 教盛の末子。夢野方面を守護。 弱冠17歳。
    神戸市長田区
    平知章 明泉寺 平知章   生田の森(大手門)の副将。父知盛を助けこの付近にて討ち死
    源平勇士の碑 村野工業高校西側 平知章、平通盛、 猪股小平六木村源吾重章 「摂津誌」の著者、並河誠所 が建立。
    監物(けんもつ)太郎頼方 四番町 監物太郎頼方   知盛の家臣で平知章と共に討ち死に。
    平盛俊の碑 名倉町二丁目 平盛俊 猪股小平六
    (いのまたこべろく)
    明泉寺付近に陣所
    平盛俊の墓 庄山町三丁目     芭蕉も訪れている。
    平忠度の腕塚 駒ヶ林四丁目 平忠度 岡部六弥太忠澄 一の谷(搦手門)の守護大将。
    平忠度の胴塚 野田町八丁目 平忠度  
    平忠度の足塚 二葉町ダイエー跡 平忠度   伝承地。
    神戸市須磨区
    平敦盛塚 須磨浦公園 平敦盛 熊谷次郎直実 笛の名手、兄に経正、経俊、16歳無冠の太夫。
    平敦盛首塚 須磨寺 平敦盛   「青葉の笛」も保存、直実との決闘の庭もある。
    平重衡捕われの遺跡。 須磨寺駅前 平重衡 庄四郎高家 生田の森(大手門)の副将。西へ落ち延びる途中捕われる。
    神戸市垂水区
    平師(たいらのおさ)盛(もり)塚 奥畑の石水寺。 平師盛 畠山重忠の郎党。 兄の資盛(すけもり)、有盛と三草山で戦い破れ、退却の途、討たれる。
    神戸市北区
    「駒つなぎの松」
    高尾山。
    鵯越墓圓   源義経 義経「駒つなぎの松」の史跡あり、高尾山頂から平家の陣営を確認。
    蛙岩 鵯越墓圓   赤井藤太景俊、
    熊井太郎忠基。
    密者の報告で義経此処より進路を一の谷と鵯越の二説あり。
    明石市
    忠度塚 天文台の南     「西摂大観」に忠度、明石の駒ヶ林に落ち延びるとの記載あるが長田の駒ヶ林の誤りであろう。

  7. 「福原京を歩く」ガイドブック
  8. 旧有馬街道

     明治七年に現在の有馬通が(五郎池、十郎池から天王谷口まで)付け替えられました。又、石井村の戸長、谷勘兵衛氏と有野村村長の田中俊児氏と協力して天王谷口から小部峠を越え北区の道場川原迄の道筋が整備されました。奥平野村内の新道路は明治八年八月に完了しました。新道路開通により、従来の鳥原村(現在の鳥原貯水池)から山田村の古道越えだけに頼らず一層便利になりました。

    祇園神社、潮音山上迦寺

     神仏習合のご時世であった平清盛の頃は祇園神社として独立してはおらず七堂伽藍を完備した天台宗潮音山上迦寺(境内は現在の祇園神社と裏山にかけての一帯)が薬師如来堂に祇園神社の祭神スサノオノミコトを合紀していたと考えられます。清盛が名付け親の潮音山上迦寺で清盛は法華三昧を修していたと伝わっています。源平合戦で上迦寺は灰塵に帰し再建されることはなく、当地に村人の手で往古、上迦寺の僧、徳城坊阿闇梨が広峰神社より勧請した牛頭天王を祭神として牛頭天王社(祇園神社の前身)を建立しました。明治の中頃祇園神社の裏山から上迦寺のものと思われる鳳風の文様のした瓦が発見されています。

    源平合戦の供養塔(歯神さん)

     源義経の鶴越奇襲作戦で平家軍は敗れ、屋島へ落ち延びた元暦元年(1184年)の 年号が刻まれた五輪塔二基が安置されています。南北朝の頃、沙門理白僧正が平清盛 が法華三昧に耽ったと伝わる潮音山上迦寺が源平合戦により焼失したのを憂い、又、 戦場で亡くなった人々の霊を弔う為、清水院観音堂(昭和13年阪神大水害で流失)と 五輪塔二基を建立、五輪塔は別名「歯神さん」と古くから呼び親しまれています。

    塞ノ神広場

     塞ノ神とは邪鬼を追い払う守り神として道祖神と共に峠や村、神社の入口に祀られ ています。往昔、平野の一本松→塞ノ神松→都由ノ森→鳥原村→小部山田村の古道の 道しるべでした。神戸市教育委員会の祇園遺跡発掘調査によれば、この塞ノ神松の地 点から平安末期の苑地遺構や天目茶碗が出土して高貴な人物の邸宅跡だと判明し福原 京の内蓑は平野を中心として存在していたことが益々裏付けられました。

    湊川上温泉

     大衆文学の大御所、吉川英治が「新平家物語」を執筆するにあたり事前調査で平野に来訪。祇園神社の下の天王川の橋の欄干から一望し「湯屋が見えますね」と案内役の詩人宮田砕花に語りかける。「湯屋ってなんですか」と問い返す。「平清盛の舘、雪の御所の北にあったと伝わる温泉ですよ」と答える。又、豊臣秀吉の頃、慶長の大震災で有馬の湯が一時使用不能となり、兵庫津の正直屋寿閑が湯坪温泉の開設の朱印状を秀吉より賜った事跡があり古くからの温泉地帯である。

    御所遺跡

     この場所は元、奥平野村の地主、村田由松の所有地で明治35年水道配管工事で周辺 を掘り起こした折、平安時代末期の土器や礎石が出土しました。北側の古道まで字名 が雪御所ですので清盛の邸宅である雪見の御所跡か、又は新内裏跡の遺構かも知れま せん。

    雪見御所

     ロマンチックで快いひびきを感じさせてくれる名前ではありませんか。1167年平清盛が太政大臣を3ヶ月で辞して平野の「雪見御所」に14年間過ごされ、此の地で政治の陣頭指揮を執っていました。当時の書物や日記によれば「雪見御所」「雪の御所」とどちらも表現されています。清盛は四季に応じた別業(別荘)、春は花見の岡の御所、夏は船見の浦の御所、秋は月見の浜の御所、冬は雪見の原の御所を配していました。その中でも本陣とも申すべき中心地が禅門家即ち「雪見御所」なのです。
    何故清盛は此の地を愛し1180年に福原遷都を断行したのでしょうか。要因としては
    @陰陽道、風水の面から判断して吉相の地である事。
    A病を療養する絶好の温泉が在った。
    B中国の宋と交易する港、輪田の泊りに近かりし事。
    C天王川、石井川の合流地点まで高瀬舟で往来出来、陸と川からの交通に便利。
    D天王川、石井川が防御の面で外敵をふせぐ堀の役割を果てしていた。

    頼盛の山荘跡

     源頼朝の助命を嘆願した池の禅尼を母とした清盛の異母兄弟平頼盛の山荘跡で大変広く敷地内で流鏑馬の行事も行なった記録もある。中山忠親の「山槐記」に頼盛の山荘は清盛の雪見御所から四、五丁に在ると記述され双方の位置関係が確認される。
    神戸大学病院の跡地を発掘調査した折、二重の堀跡や最近では櫓跡らしき遺構も出土し、源平合戦の防備の為の施設か調査中である。1184年の源平合戦のおりは頼盛は京に留まり平家一門に同行していなく、鎌倉時代にも領地は安堵されている。

    宝地院

     薬王山宝地院は浄土宗の寺で安徳天皇を弔う為、弘安二年(1279年)に建立されたと伝わる。治承四年(1180年)六月三日福原遷都の第一夜を安徳天皇が頼盛の山荘に泊まられて行在所となった。荒田八幡神社に「安徳天皇行在所趾」石碑が神戸史談会より寄進されている。当神社は明治以前の神仏習合の時代は宝地院の境内に八幡社として合祀されていた。

    五郎池、十郎池

     曾我兄弟の五郎十郎から名付けられたのではなかろうか。安元二年(1176年)土地の紛争で親を殺された曾我兄弟は苦節十七年で仇討ちを富士の裾野で果たしますが、その後二人とも二十歳の若さで斬殺されます。後世日本人の「判官びいき」なのかいつしか同情がわき歌舞伎にとりあげられたり、「御霊信仰」と五郎を結びつけたりして五郎十郎人気は全国的に広まりました。五郎池は荒田村の溜池、十郎池は坂本村の溜池として利用されていました。明治三十年代に埋め立てが始まり五郎池の跡地には直木氏のマッチ工場が設立され周辺は様変わりしました。



参考写真

源平合戦当時の二重堀跡

福原京
2004年2月に兵庫県教育委員会が神戸大学付属病院用地を発掘調査をしたものです。

勝海舟寓居跡

勝海舟
幕末神戸港に海軍操練所を開いた勝海舟は平野の寓居(平野祇園神社東50b)まで通い、塾長の坂本竜馬もここを訪ねています。



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