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体 験 記
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狭心症で入院手術  2008年

パニック         2008年

検査入院        2000年

阪神大震災      1995年

禁煙の話        1993年





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  2000年10月に検査と言えども初めての入院を体験した私はその時の模様を体験記に纏めて掲載しましたが、その後2003年の手術入院、検査入院とこの度の入院までに4度の入院を経験しました。その間の入院でも体験記を書くべく記録を取っていたのですが、ホームページに掲載する機会を失いました。今回(2008.2.1.)は5度目の入院となり、入院中にベッドの上でPDAに書き込み記録しましたので、それを編集して体験記としました。

2月1日金曜日
  私は予約日の2月1日にトレッドミルと言う心電図検査を受けるため昼から病院に出掛けました。ぎりぎり5分前に到着したので落ち着く間も無く、直ぐに検査が始まりました。この検査は心電計と血圧計を躰に付けてムービングウオークの上を歩きます。初めはゆっくり、その内にだんだん早くなってきて手すりを持って必死に歩いたら、たちまち苦しくなって・・・・・心電計からはき出されるグラフは荒れまくり、看護婦さんと医師が慌てて検査を中止し、私をベッドに寝かせて「大丈夫ですか?」と問いながら医師は何かを口の中の舌の下に吹き付け安静にと言う。「先生それはニトロですか」と問えばそうだと言う。私はこの程度の事は今迄何度もあったのに大げさな、と思いましたが検査医は主治医に電話を掛け臨時に主治医から診察を受けることになりました。
  しばらくして看護婦さんに連れられて診察室へ。私を診察した主治医は心電図を見て吃驚、「心筋梗塞の手前の兆しが見える直ぐ入院や、今日はもう帰られへんで」と言って直ちに入院手続きがなされ、ベッドの番号まで決まってしまった。「先生、今日は車で来ているので車を持って帰りたい」「あかんあかん、運転中に発作が出たらどうすんねん、誰か代わりの人に引き取って貰い」「誰も代わりの人が居ません」。そこで入院の間の駐車場代を交渉して貰ったら1日ぐらいは無料にしても良いが、あとは有料になると返事が来て「そんなら病室へ行って担当医に外出許可を貰ってOK出たら・・・・」「ええ、もうしゃーない認めるわ」と言う事になって先ずは病室へ。
  そこで、病室で入院手続きをしてそれから外出届を出して車を持ち帰りました。そして入院の準備を大急ぎでして夕ご飯を食べてタクシーで改めて入院しました。このような次第で緊急入院となりましたが、昨年10月から今までに何回も起こした発作が心筋梗塞に至っていたら、私はこの世に居なかったかも知れません。

2月2日土曜日
  昨夜は7時半過ぎに病院に到着したので、あとは主治医と担当看護婦さんとお話しして寝るだけでした。今日は土曜日のため特に何も無し、朝から血圧測定だけ。新しい主治医の野嶋先生の聴診器診察があり、先生の手術についての説明が3日日曜日のお昼からと決まったので家内に電話連絡した。そしてカテーテル検査は2月5日と決まった。担当医は中本医師、主治医は野嶋医師、看護担当は森看護師。

2月3日日曜日
  朝、体温測定37.0度、少し高い。鼻が詰まっている。夜中に鼻血が出た。鼻風邪を引いたのかと思ったがそうではなかった。お昼前に家内が到着した。昼食後、中本先生に連絡し、予定通り家内が検査と手術の説明を受けた。5日にカテーテル検査をし、悪い所があればそのままステント挿入治療を受ける事になった。急な割り込み計画のため、午後3時頃からの手術開始になりそうだ。看護婦さんが体温を計りにきた、36,1度だった。家内と一緒に「・・・言っても委員会」を見た。テレビは5年前は14インチのブラウン管だったが今回は14インチの液晶になっていた。音声はイヤホンで聴くのが決まりになっており、先の入院で勝手が分かっているので家からイヤホンを持参した。ステレオのイヤホンなので片耳ずつ2人で聞いた。テレビは専用のプリペイドカードを使用し約3分1円の使用料であった。家内が帰り、今日も日が暮れた。今日は節分。お昼に煮豆、夕食に巻き寿司が出た。これは節分の日の病院の気配りか。

2月4日月曜日
  今日は立春、今日は朝から会社に電話、今週1週間休むむね連絡した。朝からラジオを聞き、4冊ほど持ち込んだ文庫本を読む。休みの日は家ではラジオを聞く習慣があり、暇があれば本を読む習慣のお陰で何もする事のない退屈から逃れる事が出来る。午後3時頃から胸のレントゲン、心電図、それに体重測定があった。夕方の5時には明5日の手術計画が決まり、午後3時前後の予定が決定した。家内に電話して正式な入院手続きもあるので少し早めの1時頃来るように連絡した。テレビは夕方から夜のニュースと「時代劇」限定の番組だけを見てあとは読書と日記書き込み。いよいよ明日の手術を待つだけになった。

2月5日火曜日
  朝食は半分に制限された。昼食は絶食を指定されている。朝から尿検査、体温、血圧測定があった。手術用衣類、点滴の用意がされた。いよいよ今日が手術日だ、開始予定時間は午後3時、少し早まるか遅れるかは前の患者の状況による。もうこうなれば運を天に任せるより仕方がない。カテーテルと言っても手術は手術であり、高度医療の分野に入る。もしもの時の為に念書も取られている、やってみなければ分からない部分がある限り必ず成功するとは限らないのである。当座のあとのことは一応家内に頼んだが、生還しなかった時の事は伝えていないのが心残りだ。願わくば家に帰ってこの日記を読みたい。そして、この日記は午後も明日も打ちたいと願って終わりにします。
  (ここより夜の書き込み) お昼は絶食、12時15分より左腕に点滴開始。生理食塩水。1時20分家内到着。正式入院手続きを完了した。午後3時からの予定だったカテーテル、手術は延びに延びて4時スタートとなった。まず右手首に部分麻酔を掛け、手首の血管からパイプを心臓の冠動脈に挿入し、カテーテル造影剤による撮影で血管の詰まりを見つける作業。そして次にステントパイプを挿入する手術が行われた。血管に18気圧も掛けての手術って凄い、この手術が行われている間、麻酔が掛かっていないので様子が見聞きできる。細いステントをパイプを通して冠動脈の患部に運び、風船で膨らまして固定する。悪い所が2カ所も在ったとか、これも1箇所の処置でよくなった。手術を終わり、最後に記念撮影? をして終了した。2〜3時間掛かると予想された手術は1時間半と意外に短く午後5時30分病室に帰ってきた。それから1時間安静にして夕食が食べられた。担当の中本先生よりの手術結果の説明を受けて家内は安心して帰っていった。

2月6日水曜日
  昨日手術後から着けられた心電計と点滴検知器の電源コードが繋がれたため自由に動けなくなった。仕方なくおとなしく寝たが、カテーテルを通した針あとの出血を止めるための圧迫バンドと手首を固定する副え木固定バンドが痛くてよく眠れなかった。12時間我慢して朝の6時を過ぎてから心電図が取られ、主治医の野嶋先生がバンドと副え木を外してくれた。朝食後に点滴が外されやっと自由の身になった。そして昼前には止血バンドも外され絆創膏1つになった。昼から家内も来て話をしていたら2時ごろ突然エコーを撮るので超音波検査室まで来るよう連絡があり、これは以前には経験無く、初めての事なので何かあるのかと少しドキリとした。超音波検査室へ行った時は暗くてよく判らなかったが終わって顔をみたら、おっ、美人の先生ではないか。その先生が超音波テストプローブを持って心臓の上の胸に手を伸ばしてまさぐり、体をぐいぐい押し付けてきて、まるで抑え込まれたみたいになった。その為美人先生の体温までが伝わってきた。超音波検査室からの帰り道で担当医の中本先生に会ったので、エコーを撮られた理由を尋ねたら「念の為に私が確認したかったから」との事で特に何も無し。話のついでに心臓のビフォアーとアフターを見せてもらった。手術の場所は1カ所、そこが今回の症状の原因となる場所である。心臓が動いて血液がよく流れるようになっていた。もう1箇所、支線の悪い所も流れが良くなっていた。ステントを入れたのは1箇所だけだが2箇所とも流れが良くなっていた。前回5年前に入れたパイプは正常で元気に働いて居た。今回のビフォアー写真では3本の冠動脈の2本目が異常に細くなっていた。血管が違うので症状が全く違ったようです。医師曰く、今回のこの動脈の方が前回の動脈より重要な働きをするので症状もきつく出たのだろうとの事でした。これで2本目のパイプを入れての生還です。そして6日の日が暮れた。

2月7日木曜日
  前例からすれば今日は退院のはずだが何故か今回は明日8日午前に退院と決まった。そこで前原看護師長(看護婦長)が来られたので精算をお願いした。午前中に主治医の野嶋先生、担当医の中本先生が見えた。今までの主治医で前回の手術をして下さった中川先生が見舞いに来て下さった。その時、今後の主治医として野嶋先生が後を引き継いで下さる事に決まったと聞いた。午後2時頃薬剤士が来られて薬を調べて行かれた。薬は今まで飲んでいる4種類に2種類が追加される。ついでにニトロの追加をお願いした。そのあと森看護師が退院の手続き説明に来られ、事務窓口は9時半からで10時以降が良いとの事、退院の準備は早い時点でして下さい、ベッドを早く明けて貰う事がありますと言って行かれた。夕方の定時連絡でその旨家内に電話を入れた。これで全て終了、あとはしんどいが今夜ひと晩辛抱すれば良い。明日は帰れる。明日は一番に退院準備し、朝食後には準備を完了させる予定。これにてベッドの上からのレポートは終了します。

2月8日金曜日
  朝食後、退院準備。支払いを済ませて退院、11時過ぎには帰宅しました。

  その様なわけでカテーテル検査からステントパイプを入れる手術が行われ、8日の朝、やっと家に帰ってきました。今回は検査入院と大差ない経過で退院出来ましたが、これが本当に心筋梗塞での緊急入院だったとしたらもっと大変な事に・・・・・本当に幸運だったと思います。
  今回入院の判断をして下さった主治医の中川先生、手術担当医の中本先生、新しい主治医の野嶋先生、森看護師、前原看護師長、入れ替わり看護して下さった看護師さん、お茶や食事を運んで下さった方々、本当にお世話になり有難う御座いました。
  市立豊中病院では医師の方々や看護師さん達に対する謝礼の金品は一切受け付けて居られないので、本当に元気になって帰る事がお礼なのだと思います。退院に際して何も出来ない、だからせめてものお礼の気持ちとして、このページに体験記を書いて、併せて謝意を表したいと思いました。そして加えてユニセフに、世界の子どもたちのために、些少ですが寄付しまして感謝の気持ちと致しました。

<参考資料>
2月2日土曜日
朝食−食パン(普通パン2個)、イチゴジャム、生パイン、牛乳
昼食−ご飯(170g)、筑前煮、えび団子あんかけ、味付けのり
夕食−ご飯(170g)、牛肉甘辛煮、ミニサラダ、八宝菜風
2月3日日曜日
朝食−バターロール(普通パン2個)、リンゴジャム、みかん、牛乳
昼食−ご飯(170g)、塩焼魚、薬味、煮豆、五色なます
夕食−巻寿司(ご飯170g)、浸し、和菓子
2月4日月曜日
朝食−バターロール(普通パン2個)、マーマレード、パイン缶、牛乳
昼食−ご飯(170g)、ささみ照焼、ミニサラダ、うの花
夕食−ご飯(170g)、いかの照焼、ひじきサラダ、煮付け
2月5日火曜日
朝食−食パン(普通パン2個)、イチゴジャム、皮むきりんご、牛乳[半食指定]
昼食−[絶食]
夕食−ご飯(170g)、豆腐ハンバーグ、サラダ、デザート
2月6日水曜日
朝食−バターロール(普通パン2個)、ブルーベリージャム、バナナ、牛乳
昼食−ご飯(170g)、出し巻き卵、卸し、煮合わせ、清汁
夕食−ご飯(170g)、香り蒸し、炒り豆腐、浸し
2月7日木曜日
朝食−食パン(普通パン2個)、マーマレード、イチゴ、牛乳
昼食−ご飯(170g)、親子煮、湯豆腐、味付のり、
夕食−ご飯(170g)、ミートローフ、添:照煮人参、添:茹れん草、添:粉吹芋、
   スパゲテイサラダ、デザート
2月8日金曜日
朝食−バターロール(普通パン2個)、リンゴジャム、カットキウイ、牛乳



<入院・準備するもの>
病院へ持って行くもの

 診察券  1  替え下着 (パンツ等)  1
 健康保険証  1  < あれば便利な品 >  
 予約票  1  くし  1
 入院書類  1  鏡  1
 印鑑  1  ハサミ  1
 ボールペン  1  メガネ  1
 お金 (少々)  1  時計  1
 テレホンカード (又は携帯電話)  1  ラジオ (イヤホンで聴くのが原則)  1
 バスタオル (短期入院では不要)  1  イヤホン (テレビと兼用)  1
 タオル  2  電気シェーバー (又はひげ剃り器)  1
 歯ブラシ  1  ペンライト  1
 歯磨き  1  電池 (ラジオなどの予備用)  若干
 石けん  1  充電器 (携帯、シェーバーなど)  1
 はし  1  手帳 (又はメモ用紙)  1
 スプーン  1  ローション  1
 湯飲み  1  ヘアートニック (入浴した時)  1
 ポット (又はきゅうす)  1  ヘアークリーム (入浴した時)  1
 コップ (うがい用・湯飲み兼用可)  1  シャンプー  (入浴した時)  1
 お盆  1  本 (文庫本など)  若干
 ティッシュペーパー (箱)  1  うちわ  (夏)  1
 ハンカチ (又はおしぼりタオル)  2  クリーム (かゆみ止めなど)  1
 パジャマ (借りる時は不要)  1  くすり  (病院で貰える品は不要)   日分
 ハンガー  1  その他必要なもの  1
 スリッパ  1    

  病院では携帯電話は使用できませんので公衆電話を使用する事になります。でも内緒で携帯電話を掛けている人を見かけました。入院も長期になりますと入浴する機会がありますのでバスタオルとか入浴用品が必要になります。検査入院のような短期の場合はバスタオルは必要ありません。ハンガーは不要かも知れませんが念のため。今回はスリッパを忘れて行きましたが売店で買いました。

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  検査入院体験記       2000.10.29.    JA3ARI

  私の発症している症状と運動後の心電図で狭心症の疑いと診断されたので更にカテーテル(造影剤注入)による検査を受けることになりました。この検査は 入院して行われるとのことで、もの心が付いてから検査と言えども入院の経験が無い私は躊躇する事となります。
   医師曰く、ほぼ狭心症に間違いないが冠動脈のどの部分に原因があるか分からないから造影剤による検査を受けるべきである。ただこの検査を受けると2千人 に1人程度の確率で障害が発生する。障害は検査用パイプを通す際に通路の血管内にあったコレステロールの固まりが剥がれて他の血管を詰まらせる場合があ る。それがどの部分に流れて行くか分からず、例えば脳に流れて行けば脳の血管を詰まらせ脳血栓を起こしたりする。運が悪ければ死亡する場合もある、死亡し なくても脳障害の後遺症が残る。その他の部分へ流れていった場合も血栓障害を起こし麻痺したりする。そしてもう一つの障害は検査パイプを挿入した口が塞が らなかったり、内出血を起こし腕が腫れ上がって治療に期間を要する状態が発生する。しかし当病院では8百件の検査をしたが1件も発生していない、と。そし て家族の承諾が必要である。入院当日は必ず家族の同伴が必要で検査日当日も家族の待機が必要です。医師のこの様な話を聞くと検査を受けるのが更に躊躇され るのですが、それでもこの造影剤(カテーテル)検査を受けないと何処に原因があるのかハッキリしない。やはりここまで来た以上は避けて通れないと判断しま した。それでなくても入院と聞いて拒否反応を示しているのに、この様な話を聞くと更に私の気持ちは後ろ向きになってしまうのですが、意を決して検査を受け ることにし医師にその旨を伝え入院手続きを依頼しました。

  入院は予約の手違いで1週間遅れとなりましたが10月18日より2泊3日の 入院生活が始まりました。18日は朝の8時40分に家を出てバスで病院に向かい予定通り9時30分に到着し入院手続き(既に書類は書いて来てある)の上、 病室に案内されました。私の部屋は4人部屋で3人に紹介され挨拶しましたが、お3人さんは全て私より年上とお見受けしました。
  10時過ぎまで 待っていますと担当の看護婦さんが現れ、入院の諸事項とこれからの予定を説明され、ついでに(ついででもないか)5本ほど採血して行きました。目のくりく りっとした可愛い娘(こ)でした。しばらくすると今度は担当医師が現れ応接室に案内されました。そこで妻と共に医師から狭心症についての説明を聞かされ、 検査承諾書に署名捺印させられました。この医師は風貌(顔は違うが)、しゃべり方がももちゃん(知っている人にだけ判る・・・日赤奉仕団の役員さん)によ く似た青年医師です。その後11時40分頃、妻は帰りました。11時50分頃、再び担当医師が現れ上半身の聴診打診を入念に行った結果、点滴は左腕から、 造影剤は右腕から注入と決定しました。
  12時過ぎに昼食が出ました、初めての食事です。何と五目寿司でこれは入院祝いか? (偶然だと思いま すが・・・・・) 暫し休息の後、14時頃より心電図とレントゲン撮影を行い14時30分終了、これで本日の予定は全て終了しました。3日間の退屈しのぎ に持って行った小説を読みウオークマンを持ち込みましたのでそれでラジオを聴いて過ごす事にしていましたから(テレビが備え付けてありましたがプリペイド カードを入れる仕組みになっていました)テレビは見ないで過ごしました。(水、木、金は何も見たい番組がありません) 病室のテレビは全てイヤホンで聴く ことになっています、従って音声は聞こえませんが斜め向かいの人のテレビがよく見えます。ウオークマンはTVchも聞こえるので時折は斜め向かいのテレビ にchを合わせて内容を知ることが出来ました。(ずるい) でもそんなに長く見ていると気が引けるので内容を確認する程度にとどめました。16時と17時 に薬を渡され指示通り飲むようにとの事。18時30分、夕食。19時、夕食後のチェック、飲んだ薬のチェック。(要は食事は全部食べたか、薬は全部飲んだ かの確認) その後はFMを聞きながら読書、21時30分、就寝、22時消灯。18日は終わりました。

  10月19日(木)、朝6時点 灯、もう寝ていられないので6時30分洗顔、今日は絶食のため7時に朝の薬を飲む、水分は8時までとなっているのでお茶を一口飲み検査の準備に掛かる。9 時20分検査衣に着替え、点滴開始、この点滴は水分補給の為ですが危急の場合、薬剤注入口として使うために準備されているのだそうです。
  10 時過ぎ車椅子で検査室へ、部屋にはいると何やらすごい設備が設置されている。目に付いたのが21吋ディスプレイが4台、内2台には心臓のパルス、血圧その 他のデータが写し出されていた。データはベッドからの距離では字が細かくて読めなかった。他の2台がX線画像を映し出していた。
  話は前後しま すが部屋に入ると車椅子から寝台に上がり横になった途端、心電図の吸盤が取り付けられ血圧計の腕バンドがアッという間に巻き付けられ、腕には空気圧が掛か り血圧が自動的に測られている、その手早い事さすがだと思った。身体の上に分厚いビニールがかぶせられ、右手首に局部麻酔が打たれた。カテーテルが挿入さ れた模様だが麻酔注射の痛さは感じたが後は何も感じなかった。カテーテルは外径2mm程度のビニールパイプで手元から操作できる様になっていました。そし てX線画像を見ながら血管を選別し目的点まで到達する、X線に反応するパイプです。
  ディスプレイを見ていたら造影剤を注入した際、血管がハッ キリ浮き出るのがよく見えた。X線の角度を変え、幾度も撮影された。よく分からないが最初にニトロが3cc用意され、足りないのか2cc追加の声が聞こえ た。途中から顔を反対側に向けるよう指示がありディスプレイを見ることが出来なくなった。
  一通り血管撮影を終え、次に心臓の動きを撮影され た。この時はどの様な薬を注入されたのか分からないが注入時は胸が熱くなり次に膀胱部が熱くなり右手先が熱くなり次いで左手先が熱くなった。しかし足まで 届かなかったのは何故だろう。そしてこの間隔は1〜2秒のように思え、この速さが動脈流の速さと考えられるならば、想像以上に速く血が循環しているのだな と恐ろしい感じがした。また、検査終了時に右手の二の腕から手の平まで拭かれていたのは血液が飛んだ為だと思われる、分厚いビニールのカバーはそれを防ぐ ため、何しろ動脈に穴を開けるのですから。
  そして検査は11時過ぎに終了しました。車椅子で病室に戻り、安静する事になって居ましたがオシッ コが行きたくなり再三トイレを往復することになります。どうも飲まされた薬に造影剤を早く体外に出すための排尿促進剤が入っていた模様で、説明書きにも 「トイレ以外は安静」と書いてあります。トイレは点滴液をぶら下げて行くので不自由なものでした。その内に点滴液が無くなり血が逆流し出したのでナース コールをして新しい液と交換して貰いました。
  心電図、脈、血圧、体温の測定があり12時30分頃昼食となりました。病院の食事は3日目の朝は パンだったが、それまでは全てご飯で、添付カードには「心高食米」ご飯170gと書かれていました。よく分かりませんが会社の食堂のお弁当のような物で残 さず食べました。何度もトイレに行くものだから点滴液が漏れるトラブルが発生しました。これは私が不用意に引っ張ったための様です。何しろ点滴初体験です から扱いに慣れていません、針穴が大きくなって漏れているのでもう1カ所針穴を開ける事になりました。点滴は水分補給の為と言われていましたので試しに漏 れた液を舐めてみました、ポカリスエットの様なスポーツ飲料の味がしました。そしてこの点滴も13時30分には2本目が終了し、これで点滴は終了しまし た。やれやれ!
  その後、血圧、脈、体温の測定があり、ややしばらくしてのち医師より検査結果の説明を受けました。検査では不具合部分が発見されたものの医師との話し 合いで一応今回は退院する事となりました。
  血圧、脈拍、体温はカテーテル検査前と後に差が無く順調に推移していました。ただ検査中の脈は緊張していたせいか少し早くなっていました、またカテー テルで触られるためかその時は不整脈が発生していました、この脈の波形はディスプレイでよく見えました。
   15時30分にはカテーテルを挿入した右腕の固定用添え木が外されました。順調に快復しております。18時過ぎ夕食、22時の消灯まで読書とラジオで過 ごしました。取り敢えず明日退院できる、今夜だけの辛抱と思えば気持ちは楽です。持ってきた小説も消灯まで保たず最後まで読み終わりました。この小説を読 んでうるうるしている時に看護婦さんが来て困りました、悲しい小説です。寝る前に髭を剃りました、明日は3日目になるのでさすがに髭も伸びています。

   10月20日(金)、朝6時点灯、6時30分洗顔、8時過ぎ朝食、今日は普通パン2個、リンゴジャム2袋、牛乳200cc、オレンジ1個が朝食でありま した。退院日なのでパンを食べ牛乳を飲んでオレンジは持ち帰る事にしました。9時に医師の最終診断を受けました。カテーテル挿入口は腕の上下両側をバンド で止められていましたがそれも外され、見ると傷口は綺麗に塞がっていました。そこへ大きな絆創膏が一つ貼られこれで腕は身軽になりました。入院計算書の出 来るのを待ち、10時過ぎに連絡がありましたので請求書を受け取りに行き、請求書の金額を払い出すべく銀行のATMに行きますと1台しか無いATMが故障 しており、その修理を待ってお金を引き出し、支払いを済ませたのが11時。この様な次第で11時過ぎにやっと退院することが出来ました。お昼前には自宅に 戻り、やれやれ、・・・・・その日は朝から雨でした。3日ぶりのお風呂はシャワーに限定されています。次の日からは普通の生活に戻れます。

  この様にして検査入院は終わりました。この歳にして初めての体験でした。

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  阪神大震災(兵庫県南部地震)体験記       1995. 2. 1.   JA3ARI

  この度の兵庫県南部地震で被災された皆さんには心よりお見舞い申し上げます。

  今回の兵庫県南部地震は大阪で震度4と発表されましたが、大阪管区気象台の位置は大阪の上町大地の岩盤の上にあり、そのため気象台では余り揺れず震度 4と発表されました。
  こんなに被害があったのに、と抗議があり新しく西淀川に地震計が設置されました。その後の余震が西淀川の地震計で震度4であり、それは大した揺れでは なかったので、それに比べると本震は震度6はあったのではないかと思います。北大阪急行、桃山台駅の地震計は震度6を指していた事が後で分かりました。

  我が家では、地震発生直後は、連絡が取れず、難渋いたしましたが、神戸市中央区在住の兄姉を含む親族全員無事が確認されました。ただし神戸の者は避難 所暮らしをしておりました。身内を亡くされた方々の報に接すると胸が痛みます。

  その地震の様子は豊中市では次のようでした。
   私の住まいはマンションの8階で、この度の地震では食器棚が倒れ、そのガラス戸のガラス、そして中の食器はほとんど割れ、人形ケース、額などが落ち、家 の中は靴を履かないと歩けないほどのガラスの海になりました。(隣家は靴を履かれたそうですが、我が家では後のことを考えてスリッパを履きました。)
もちろんテレビや電子レンジも転落し、本箱本立て、納戸、押入、袋戸棚の物は全て飛び出しました。洗面台もホーローが割れるなどの被害が有りました。

  地震は寝込みを襲われた感じで、目が覚め寝床から身を起こしただけで、これは一体何??・・・地震?・・とは分かったが為す術がなく揺れに身を任せて いるだけでした。直ぐに電気が消え真っ暗になりましたので辺りを見極める時間がありません、ガチャガチャと言うガラスの音、そして割れる音、きしむ音、揺 れるだけでなく凄い騒音がしていました。真っ暗な中で、ただ事ではない様子を感じながら時間が過ぎて行きました。そんな状態でしたが、その時の頭の中は、 まさか家の中がひっくり返っているとは夢にも思いませんでした。地震が止みました。それは数十秒の出来事だったのにすごく長かったように感じました。

  各部屋から大声で「大丈夫か?!」と声を掛け合い無事を確かめました。
起きあがって暗闇の中を見渡すと、襖が外れ部屋の中は足の踏み場もない程、物が散乱していました。隣の部屋では倒れた鏡台が襖に突き刺さっていました。懐 中電灯を探しましたが、いつもの場所にあるはずがなく、 しかし、幸運にも見つけることが出来ました。もう1つの懐中電灯を探し、更にもう1つ、合計3個 の懐中電灯を探しだし、それぞれが持って行動する事にしました。トランジスタラジオを見つけました、しかし鳴りません、もう1つ裏蓋の外れたラジオを見つ けました。それには電池がぶら下がっていたのでスイッチを入れるとラジオが地震情報を伝えていました。でもその時はそんなに大した事でも無いような報道ぶ りでした。情報が入ってなかったからでしょう。

  玄関も下駄箱が倒れ直ぐには表に出られない状態でした。息子が下駄箱を起こし、玄関の戸を開け表の様子を見ました。それによると幸いな事にマンション での火災の発生は無く一安心です。

  ぼうぜんとしながら家の中を動けるように少し片付けを始めました。小1時間も経ったでしょうか、突然、洗面所の水漏れ警報機が鳴り出しました。あわて て止めに行きましたが、洗濯機やバケツの水がこぼれ床が水浸しになっていた。それを拭きながら、何で警報機がなったのか分からなかったのです。そしてやっ と気付いたのです。警報機が鳴ったという事は・・・・・アッ、電気が来てる。おーいテレビを起こしてくれ、点けてみてくれ! あっ映った、壊れてない。
うわー、ええっ大変やー、・・・しばし復旧作業中断、テレビを注視。そこには想像もできない映像が映し出されていました。高速道路の倒壊、阪急伊丹駅の倒 壊など、まさか、と目を疑うものでした。

  朝の8時半頃カナダの息子から電話、「大丈夫ーーっ?? こっちでもテレビでやってるでー」「日本語でそのまま映ってるわ」  あの電話の掛かりにく い17日に留学中の息子が3回も電話してきて長電話、あとで高い請求書が来るでー。それにしても電気の早かったこと、そして有り難かったこと。

  机の上に置いてあった腕時計が机の下敷きになっている。信じられない状況は横揺れだけでなく激しい上下動を裏付けています。片付けの後、どうしても出 て来ないカードと薬を探して、もしやと思い、机を上げてみますと、その下に2つとも無傷でありました。我が家はタンスこそ倒れませんでしたが、洋服ダンス の扉は全て開き、蝶番ががたがたになっていました。廊下の扉も蝶番が、がたがたになって閉まりません。他の棟や階ではタンスやピアノが倒れたそうです。

  納戸の物は廊下に放り出され、キッチンの上の袋戸棚の物が落ちてキッチンの前は、それが山になって立ち入る事もできません。開いた冷蔵庫の扉で牛乳 パックが押しつぶされ、卵が落ちてもいないのに冷蔵庫の容器の中で割れていました。倒れていない食器ケースの中も縦揺れのせいか食器が割れて被害甚大、仏 壇は扉が開き中の物は全部飛びだし中には何も残っていないし灰だらけでした。

  3台あるDC電源の内2台落下、モデム、TNC、無線機も落下しましたがパソコン、ワープロ、ディスプレイは辛うじて机の上に留まりました。しかし、 キーボードはカールコードを伸ばして2つとも落下していました。机は20センチ程移動し壁にこすれた跡が残っていました。しばらくして電気が来ましたので 結線を直して取り合えずYDOにアクセスして見ましたが無線機が中ぶらりのままのせいか繋がりません。仕方なく無事な事のしるしとしてビーコンを流す事に しました。

  幸いにも2台のテレビは転落したのに故障せず、比較的早く電気が来たのでテレビをつけて他の被害の状況も見ることが出来ました。そこに映ったテレビの 情景は信じられないもので、阪急伊丹駅の状況を見た時、伊丹にある我が社は倒壊しているのではないかと心配になりました。何回も会社や親戚に電話しました が繋がりません。しかし、昼過ぎには会社にも連絡が取れ、親戚も次々と無事が判明しました。

   水道とガスが止まりましたが、水はポリタンク2つに常備してあり、ガスはキャンプ用コンロが1つに携帯用コンロが1つあり、予備のボンベもありますしイ ンスタントラーメン、カップラーメンなど日頃からストックがあり、米もありますから当面は困る事が無い状態でした。しかし、余震があるというので携帯ガス コンロを使うのはやめました。ですがお昼には電気ポットでお湯を沸かして、コーヒーを飲みパンで昼食を取る余裕がありました。そして昼過ぎには水が、翌日 にはガスも使えるようになりましたので、風呂にも入れるようになりました。

  食器類は皮肉にも値段の高い物が壊れましたが日常使用する 物は残っており食飲に困るような事はありません。ガラスを踏んだ私の足の怪我も僅かで1週間もしないうちに治癒致しました。私も歳ですから老眼が進んでい ますが、おかげでまだ新聞が眼鏡無しで読めるので、老眼鏡は持っていますが仕事ではほとんど眼鏡を掛けずにやってきました。しかし刺さったガラスは裸眼で は見えず、老眼鏡に虫眼鏡を用いてやっと抜きましたが見えない目にもどかしさを感じました。

  この様な状態でしたが、地震直後から直ち に復旧に取りかかり、電子レンジを始めとし修理して使える物は直し、「引っ越しより大変やなー」と言いながら親子3人で懸命の復旧作業を行い、その日の夜 8時頃にはガラス片も片付け、裸足で歩ける様になりました。これは電気が来ていたので電気掃除機が使えたお陰です。電気掃除機が無ければガラス片を吸い取 ることが出来ず、もっと時間が掛かったでしょう。それに水道が使えた事も幸いしました。これで曲がりなりにもその日の内に生活が出来るまでに修復しまし た。夕食のカップラーメンとご飯の美味しかったこと。

  大きな余震が来ると言われているので、タンスの上に置いていたものは、そのまま下に置いています。10〜20センチも動いたタンスや冷蔵庫、本棚、机 などは、休みを利用して順番に元の位置に戻しました。

  状況は、この様で、神戸、芦屋、西宮、伊丹、宝塚の方々に比べれば被害は軽いでしょう。しかし、生まれてこの方経験した事のない大きな地震でした。神 戸や兵庫県南部と共に豊中市は激震災害地に指定されました。
  又、伊丹の勤務先も、建物は大丈夫ですが、内部の被害が大きく、翌日出社して見ますとラックやロッカーが倒れ、書籍や書類が散乱し足の踏み場もなく、 吊り蛍光灯は全部落ち、倒れている机もありました。しかし、一番心配したOA、CADなどのコンピューターはキャスター付きデスクに搭載していましたの で、デスク自体が動き、ディスプレイなどの落下を免れまして全て無事でした。図面を書くプロッターも全てキャスター付きの為、無事でした。普通の事務机の 上に載っていたパソコンは、全てディスプレイが転落していました。事務所ではこのようでしたが工場現場ラインの状況はひどく、その復旧に追われる毎日でし た。ラインの復旧は地震のあった週の1週間掛かりました。次の週はほぼ従業員も出揃ってきましたので正常業務に戻りましたが、家屋全壊、半壊、身内を亡く された従業員も居り、会社では水もガスも出ない従業員にはお弁当、水、ガスコンロを配り、ガスボンベは東京から送って貰って配布、洗濯機を買って会社で洗 濯できるように配慮されました。

  猪名川に架かる桑津橋が1本通行止めになっておりまして、それにつながる陸橋が全面通行止めです。当分は交通が混乱しますので通勤に時間が掛かりま す。この桑津橋、地震の次の日に車で通った時、ガタガタしているなと思ったのですが、その次の日は通行止めになりました。たぶん行政も直ぐに対応できな かったので放置されていたのでは、と思いますが、何でも橋脚が外れ掛かっていたとか、危ない橋を渡ったものです。


  お墓の様子を 1995. 2. 4. JA3ARI

  兵庫県南部地震で揺れてから2週間と5日目ですが、気になっていたお墓を見てきました。豊中市は、伊丹市、尼崎市に隣接している関係で兵庫県同様被害 が出ました。豊中も庄内地区の被害が大きく家屋倒壊も沢山あります。庄内へ行く途中にも壁が崩れ、今にも倒れそうな家があります。

  豊中市だけでなく、吹田市も江坂方面にかけて、屋根にビニールシートを掛けてある家並みがあります。軒並み瓦がずれた為でしょう。わがマンションも3 基あるエレベーターの1基は故障したままで、今乗っているエレベーターも、昇降の途中で何処か擦れている音がします。エレベーターの箱が一部破損していま す。故障の1基は1階より下がった位置で止まったままです。(落ちた) その様なエレベーターに、余震が来たら・・・と思いながら毎日乗っています。

  交通渋滞を心配して見合わせていた、お墓の様子を見に行ってきました。吹田から鳥飼大橋を渡り守口から寝屋川に入った。この中央環状線辺りの渋滞を予 想していましたが、予想を裏切ってスムーズに通れました。車は神戸に集中しているのかと思われた位です。そして、この辺りに来ると家並みは、何も無かった かのようです。この分ではお墓は大丈夫かも知れない、と思いつつ寝屋川市公園墓地に到着しました。

  墓石は大丈夫でした。試しに揺すってみましたが、びくともしません。余震が来ても大丈夫でしょう。折角来たのだから、お掃除をして線香をあげて帰りに 管理の職員さんに話を聞いてみたら、それでも40〜50のお墓が倒れたと言われていました。

  今回の地震では、淀川を夾んで右と左で大きな差がでたようです。余震はまだ続いていますが、伊丹、豊中地区で感じる余震が、もう少し震源地から離れる と、感じられないようです。お墓の様子を確認したので、又一つ心配事が減りました。


  良いお天気で 1995. 2.26. JA3ARI

  この土日の連休は何とか良いお天気でした。阪神・淡路島大震災から既に1カ月が過ぎ、大きな余震の可能性は数%と言われるようになりました。それでも 何カ月か後には大きな余震があるやに伝えられております。
  実際に身体に感じる地震は少なくなりました。しかし、まだまだ身体に感ずる地震が起こっておりますが、大阪の放送局で感じる地震以外は、報道される事 が無くなりました。私の勤務地、伊丹でも実際に感じ、自分だけでなく、他の多くの人が感じた地震なのに報道されない事が多くなりました。聞く所に依ります と、震度は四捨五入で表される、従って震度0.4では震度0なわけで、それでも地震に敏感になっている人には感じられるのですね。
  その様に敏感になっているわりには地震慣れして、震度4位までは、そんなに驚かないようになってきています。しかし、それも地域に差があるようで激震 地の神戸市中央区辺りでは震度1でも避難所で声が上がるそうです。
  宝塚に住まいする友人宅には、まだガスが復旧していません。宝塚で震度7の地域では、家が曲がるのが分かった、表に出てみたら家がバタバタ倒れてい た、との事でした。そのために倒れた家が障害になってガスの復旧工事が出来ないのだそうです。吹田市の家並みも最近は青い屋根が(ビニールシート)だいぶ 少なくなってきました。それでもまだまだ、あちこちに見られます。


  地震特約にご用心 1995. 2.26. JA3ARI

  今週の水曜日には我が家に鑑定員が来ます。それは火災保険に地震特約を付けていたからで、一応申告したのです。しかし、聞く所に依りますと地震特約の マンションでは柱の2〜3本は折れてないと一銭も出ないそうです。
それも最高で火災保険の10%その次が5%その次はゼロ。我が家では地震で家財道具が少なからず損傷しましたが、状況から判断してゼロ回答を予想していま す。そんな10%や5%を貰うより、柱も折れず、前程度の地震がもう一度来ても大丈夫、と鑑定された方がよほど嬉しいからです。(そう鑑定されてます)
  ただ、腑に落ちないのは、それでは何のために地震特約を付けて、その分の保険金を払っていたのか。家財道具が損傷した事実があるのに、一銭も補償され ない保険と言うのは、何だったのか?  地震保険がもてはやされておりますが、実はこんな落とし穴があるのです。この様な保険なら、保険支払金を貯金して いた方が家財道具の一つでも買えたのに・・・・・
今まで10年来保険を掛けてきたのに、まるで詐欺に遭った思いです。
この水曜日の結果には腹を立てる気はありません。そして結果は改めて、ご報告致しましょう。


  地震の調査に来ました 1995. 3. 2. JA3ARI

  さる保険会社ですが、この水曜日に地震特約の調査に来ました。結果は考えていたとおりでした。名刺には地震対策本部と書いてあります。もう一人、建築 士を連れてきて、此処のマンションは前回の地震が2〜3回来ても大丈夫だと言って、地震保険は政府が決めたことで、保険会社は窓口になっているだけだ。今 回の地震でも調べるだけでもばく大な費用が掛かっている。と言われてましたが、建築士を雇う金があるのなら、見舞金くらい出そうなものですが。結局は一銭 も出ませんと言って帰りました。
  3基あるエレベーターの1基が落ちています。エレベーターは1基1000万円掛かるそうで、新規入れ替えと修理でトータル2600万円必要だそうで す。修理積立金でやると言ってます。壁の部分の修理もあり、大変な損害です。とにかく地震保険は、気を付けましょう。


  タンスの上に物を 1995. 3. 4. JA3ARI

  本日、タンスの上に物を載せました。小さなコンテナケースですが、いつまでも下に置いておくのは場所を取って邪魔だし、えいやっ、と前の通りタンスの 上に置きました。ただし被害が少なくなるように配置しましたが落ちれば同じ事です。落ちた額は(日赤の感謝状ですが)ガラスが割れましたので新しいのを 買ってきました。
  さあ、これで大きい余震が来れば、また落ちるでしょう。しかし、落ちるか一生落ちないか、確率は五分と五分。震度5程度であれば、その確率は又1/2 すなわち落ちる確率は1/4になります。この様に自分で納得しないと、いつまでも整理できないので本日決断しました。これで部屋が広くなりました。
  過日、伊丹で揺れても震度は出ない、と、お話ししましたが、先日も伊丹と宝塚と川西で地震がありまして、人によってはお風呂から飛び出した人もあった くらいだったそうですが、報道されませんでした。地震計は神戸海洋気象台と、大阪管区気象台のほかに臨時に北淡町、神戸垂水、西宮、大阪西淀川、猪名川に 設置してあるそうですが、宝塚、川西、伊丹には有りません。従って局地地震は感知されません。伊丹では結構揺れているのですがね、それとも敏感になり過ぎ ているのかも知れませんね。


  地震が残っていた 1995. 3. 5. JA3ARI

  昨日捜し物があって、押入の袋戸棚を開けてみて吃驚しました。
誰や、こんな悪戯をして、と一瞬思った位です。そこには私の青春が詰まっているのです。学生時代の教科書、その時代の本、子供の頃からのアルバム、色々な 写真、映画のパンフレット、世界の国の、国内の放送局のベリカード、アマチュア無線のQSLカード、その他諸々。
それらを綺麗に並べ、あるいは積み立ててあったものが、無茶苦茶になり、乱れ切っているではありませんか。戸を開けて「ワッ!」と思わず声を上げました。
  1月17日の地震以来あれこれと復旧作業をしてきましたが、さすがにここまでは気が回らず、ほぼ作業を終えたと思っていました。お陰で思わぬ仕事が増 え、土曜日は半日を潰してしまいました。地震がまだこんな所に残っていたとは。
でも、この様な思い出の品を地震で無くした人のことを考えると幸せです。

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  禁煙の話         1993. 3.13.     JA3ARI

  かの上岡龍太郎氏は禁煙について「人間、志したものを、途中でやめるなんて、そんな、意志の弱い事で、どうするのだ。」「初志は、一生貫徹しなけれ ば、男ではない。」と、言ってました。自分で吸おうと思って吸い出したからには、途中でやめるなんて卑怯である。そんな意志の弱い事で、どうするのだ、死 ぬまで吸いなさい。と、言うのだ。
  その上岡龍太郎氏の檄に反して意志の弱い私は途中でたばこを吸うのをやめてしまったのです。以下は私の禁煙の経緯です。
   私が煙草を吸い出したのは、18才、大学1回生の時でした。アルバイトで先輩と一緒に仕事をしていると、自然とそうなってしまうのですが、・・・・・・ はじめは、格好よくピースの両切りを吸ってました。1日10本位でした。ある日、タクシーに乗って、いっぱしの大人を装って格好よく、ピースに火を付けま した。その時、運悪く車がバウンドしたのです。吸い始めて、あまり慣れていなかったので、吸い込みの調節が効かず、思いっきり吸ってしまったのです。あの 時は、一瞬、意識が遠くなって行くのが分かりました。両切り煙草を唇で濡らさずに吸うのが、うまい吸い方だと教わりました。それから、ハイライトに替わ り、吸う本数も20本を越えました。その頃から煙草の害が話題に登るようになってきて、チャコールフィルター付きのセブンスターにかえました。火を付ける 道具もマッチからライターへ、ライターはジッポタイプで、親が航空会社に勤めていましたので、よく飛行機のガソリンを貰ってきて入れてました。鉛入りでピ ンク色をしていました。それから、マルマンガスライターが現れ、このライターは故障もしましたが、修理しながら10年以上も使い、マルマンの会社へ持って 行ってあげようか、などと言っていたものです。それからダンヒルのゴールドライターを貰ったので惜しげもなく使っていました。お店で値段を見ると結構高価 なもののようでした。
  禁煙の、第一章は、30年以上も前ですが、仕事でアメリカへ行き、その時は1ドルが360円の頃です。1人旅で降りた空 港で、相手から来た航空便の封筒を持って立っておれ、迎えが行くから、と言うもので、心細く、まさに水盃ものの出張でした。相手の会社は、これから付き合 う会社で、顔も知らない相手ですから、迎えが来なかったら、どうなるのか、と考えると身が縮む思いでした。
  空港に降り立ちますと、誰も迎えに 来ておりません。途方に暮れていますと親切にも声を掛けてくれる人がありましたが、頭に血が昇って何を言っているのか分かりませんでした。たぶん「どうし たのだ?」と聞いてくれていたのでしょう。しばらく経って、迎えの人が来てくれまして、やっと安堵いたしました。
  そのアメリカでは、その会社 の支配人と社長の家にホームステイし、仕事を始めましたが、困った事に、誰も煙草を吸いません。日本を出発した時は、セブンスターを1カートン持って行 き、無くなれば向こうで買えば良いと思っていたのですが、・・・・・・煙草を吸いたいと言えば、灰皿が無いので、食事のお皿を持ってきて、これで吸えとい うのです。このようなわけで、ほとんど吸う機会が無く、我慢にがまんを余儀なくされました。因みに30年前のアメリカでも、煙草を吸っているのは黒人か有 色人種、白人でもプエルトリコや教育程度の低い人、「煙草は危険」とアメリカでは既に書かれていましたしインテリはほとんど吸っていません。要するに教育 程度の高い人ほど煙草を吸っていないのです。このような次第で持って行った煙草は吸えず、殆どを残して持ち帰りました。日本に帰り、煙草の量は元に戻りま したが、その後、会社を替りまして、その会社では社長が胃の手術をして胃を切り取り、煙草をやめましたので社員も吸わなくなり、その環境のなかに転入しま したので比較的に吸わなくなり、吸う本数が減少しておりました。
  第二章は、子供に「お父さんの車は煙草臭い」と言われた事が切っ掛けです。そ れで、煙草が子供に与える害を考え、誰に言われたわけでもありませんが自分で車と家の中を禁煙と決めました。普段、車では渋滞した時などは煙草を吸うチャ ンスなのですが、これをやめました。我慢しました。次に家のなかですが、吸いたくなれば外に出て吸えば良い、くらいに考えていましたので苦にならず(家に 帰っている時間が短いので)この時間以外は遠慮無く吸っていました。それでもその頃は1日15本位に減っていました。
  この間にNHKが煙草の 害を放送しまして、その寿司屋での実験が脳裏に焼き付きました。実験は、寿司屋が出したトロが、横で煙草を吸っている人の煙に汚染される様を顕微鏡で映し だして見せると言うもので、煙に汚染されたトロは煙の粒子で見るも無残に汚くよごれていました。それからは、煙草を吸っている人の横では食事をするのがい やになりました。
  最終章は、ある会社の社長から、我が社を手伝ってくれと言われて、その相談を喫茶店でしている間に、私が予定しているほぼ2 日分の煙草を吸ってしまいました。それで、昼からのその日の分と次の日を禁煙にしました。1日半我慢した時点で「これは、ひょっとして」と考え、胸のポ ケットには煙草7本とライターを持ったまま、1週間我慢しました。禁煙成功です。これは行けるぞと思ったので、残った煙草はもったいないので吸いました。 ハイ
あとはライターだけ胸のポケットに入れ、どうしても欲しくなったら友人のを貰うことにしました。(結局貰う事はなかったのですが・・・・・・)
   私の場合は、何という事もない切っ掛けでやめることになりましたが、意志の弱い私は、会う人会う人に「煙草をやめる」と言いふらしました。他人の目で監 視して貰うことで自制する方法を取ったのです。あとは、喫茶店とか、宴会を煙草なしに、どう過ごすか、が、課題でありました。こういう時には煙草がないと 手持ち無沙汰になってしまう。
  しかし、それも慣れて、煙草をやめて、もう18年位になる。今でも鞄のなか、車のなかには100円ライターを常備しているが、これは救急時の殺菌用と して、お墓でお線香に火を付けるために。ハイ
   NHKの放送では、煙草をやめても肺の中はタールで真っ黒け、それがきれいになるのには20年掛かるそうな。世の男性が煙草をやめようとしているのに、 女性たちの喫煙が逆に増え、青年壮年、中年の女性の喫煙を見ていると、ついその人の少女時代を想像し、今では澄ましているけれど、どうだったのか、と思っ てしまう。擦れ違う車の若い女性がくわえ煙草で運転する様を見て、時代が変わった、とばかりは言ってられない気がするのは私ばかりなのでしょうか。

  煙草は動くアクセサリー  今日も元気だ煙草がうまい

  泉しげちよ は煙草を吸って120歳まで生きた    !!!!!

(この話は1993年に起稿しJA3YDO−RBBSに掲載したものです。今回の再掲に際し年数など現在に合わせ一部修正していますのでお断りしておきま す。)

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  パニック         2008年     JA3ARI

  29年も前の話しですが、赤十字の奉仕活動では先ず救急法を習得する。そして次に水上安全法(水難事故の救急法)を習得することでした。ある夏、伊勢志摩の答志島で水上安全法の講習が行われることになり大阪赤十字機動救助奉仕隊のメンバーと共に出掛けました。
   夕方に着いたので一泊し、翌朝より講義が始まりました。昼食の後、実技が始まる予定でしたが、お昼の休憩を利用してみんなで泳いでおりました。ゴムボー トを伴っていましたので結構沖まで出ていたように思います。このボートには救難用のロープが付いていたのです。ゴムボートに掴まって数名で泳いでいました が、私は少し離れて泳いでいました。
  その時、突然、岸からロープが引かれたのです。アッと言う間もなくボートは数名と共に岸にたぐり寄せられ ました。泳いで追いかけられるスピードではなく、その数倍もの速度で遠ざかって行きました。岸まで50mぐらいでしょうか、私には100mはあったように 感じられました。一緒に泳いでいた人達が突然居なくなって私が1人取り残されたのです。パニックです。
  私はあわてました、本当にパニック状態 になったのです。今までの喧噪が嘘のように辺りは静かです。不気味なくらい物音がない。私は心の中で慌てるなあわてるなと言いながら、その時、今習ったば かりの水上安全法を思い出しました。第一に食事のあと直ぐに泳がない。これに違反して食事のあと直ぐに泳いでいる。お腹が一杯で苦しい。次に落ち着いてパ ニックにならないこと。せめてこれを守ろう、と思いました。溺れる人は水を飲んだりした時にあわてもがくのです。人間の身体は海では浮きます。身体は全部 沈んでも頭の部分だけ残るので、そこに口を持って行けば呼吸できます。もがくと沈む方向に推進力が発生し身体の全部が没します。これでは呼吸が出来ず更に 水を飲む羽目になります。泳げなくても何か掴まるものがあれば掴まってじっとしていることが一番です。
  私は心を落ち着かせて、こう判断しまし た。私は泳げる、何も急ぐことはない、ゆっくり無理をせず泳いで行こう。・・・・・・・そして時間を掛けて岸まで泳ぎ着いたのです。岸に着くと実技が始ま るところでした。講師の先生は私を見て誉めてくれました。そして他の受講者達に何か言われていました。
  しかし何故誰も助けに来てくれなかったのだろう。先生は様子を見ていて敢えて助けなかったのだと思います。他の受講者に実践例を示したかったのでしょ うか。距離は短いとは言え一緒に泳いでいた仲間が一瞬にして遠ざかれば、本当に心細い瞬間です。
  私自身、この体験は非常に貴重で、以後、泳いでいて水を飲んでもあわてることはありません。「ああ、飲んだ!」これでお仕舞いです。あとは何もなかっ たように泳ぎます。
  この貴重な体験は一生忘れることはありません。


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